我が故郷の戦争遺産“挺身水泡に帰す、幻の彦根海軍飛行場”前篇

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

 

大東亜戦争の痕跡(戦争遺跡)が残る印象の薄い滋賀ですが、戦争が終結する1945(昭和20)年までは数多くの軍事拠点が存在しました。

 

陸軍関連では、八日市飛行場・大津地区司令部・饗庭野演習場・船木着陸場・大津少年飛行兵学校。海軍関連では、大津飛行場・滋賀飛行場・天虎飛行場・比叡山特別攻撃隊基地・柏木飛行場(未着工)。その他にも3箇所(野洲・東近江・米原)の俘虜(捕虜)収容所が設けられていました。

 

戦後一部は公共施設もしくは自衛隊に引き継がれましたが、その大半は宅地や農地に転用され、現在殆ど当時のよすがを残してはいません。これらにつきましては機会を見つけてお話し出来ればと存じます。

 

今回はその中でも、つい十数年前までその存在について全く語られてこなかった幻の軍事施設、彦根海軍飛行場をご紹介いたします。

 

まずはその位置ですが、「彦根~」と呼称するものの実は現在の多賀町に存在しました。

 

正式に稼働せず終戦を迎えてしまったため、彦根海軍飛行場の他に、滑走路部分の中心点であった地区名から木曽(きそ)飛行場、軍施設が設置されていた地区名から久徳(きゅうとく)飛行場とも呼称されました。

 

飛行場は犬上郡多賀町中川原(なかがわら)~木曽~久徳の、国道306号と芹川(せりかわ)の間に建設が進められていました(当時国道は存在しませんでしたが・・・)。

 

そもそも海軍の飛行場が、この海に隣接せぬこの内陸の地に何故建設しようとしたのか?・・・これを証明する資料は皆無であるため、以降は関係者の証言に基づいた記述となります(鈴木徹太郎氏著 街なかの戦史 女工たちの聖域「紡績工場」でつくられた零戦 丸[潮書房]1999年11月号所載より引用及び加筆)。

 

沖縄が陥落し、アメリカ軍の本土上陸が確実視される昭和20(1945)年6月。海軍施設本部は『新設秘密航空基地施設要領』を発令し、敵上陸部隊が上陸する際に練習機による短距離の特攻作戦を実施することを目的とした簡易飛行場を全国各地に造成することを決定します。これらの飛行場の特徴は、上陸のその日まで敵に察知されることなく特攻機を分散待機させて温存し、滑走路を敵の攻撃から逃れられるよう、敵の写真偵察機に対しての偽装に配慮している点です。これらの簡易飛行場は秘密基地とされ、秘匿名称として『牧場』と呼称されました。こうした性質上、飛行場新設時から特に迷彩に重点を置き、『牧場』内の家屋や立木なども実際の飛行機進出時まで現位置に留める等の注意が払われていました。

 

近江航空での一式陸上攻撃機主要部品製造の光景【昭和顕彰会 提供】但し、彦根飛行場建設の経緯は他のそれと事情が異なりました。彦根で創業し、国内紡績メーカーの大手に成長した『近江絹絲紡績(現・オーミケンシ)』は、昭和18(1943)年1月“近江航空工業株式会社”を設立して軍需産業にも進出し、彦根市内の2箇所の工場(西馬場・外町)で三菱重工業から機械設備の移転と技術者の援助を受けて海軍の軍用機(一式陸上攻撃機の一部)を製造していました。

 

当初近江航空は機体の主要部品の製造のみ行っていましたが、昭和20年には零式艦上戦闘機の組立・完成させるまでに能力を向上させ、機体を艀(はしけ)に載せ、夜陰に紛れ琵琶湖を渡り、対岸の滋賀航空隊(大津市唐崎)に輸送していました。しかしこれでは効率が悪いと、完成機を滑走路に出し各部隊に空輸するという計画が浮上しました。航空本部員らがその候補地の検討にまわった結果、彦根の工場から大道路を通じて最も近距離にある多賀大社の北方、芹川畔の田園地帯が選定されました。

 

対象区域となる久徳・木曽・中川原地区では区長会が幾度も開かれ、建設・土地収用等の話が交わされました。しかしそのような地元の動きとは裏腹に、海軍側は飛行場や軍施設を設置する際の常套句の如く、「長い間皆さんにお預けしておいた土地が、此度軍の飛行場建設のために必要となったので、返上していただくことになった」と有無を言わさず土地を収用していったそうです。

 

昭和20(1945)年6月25日。舞鶴海兵団の第536設営隊の長谷川兵曹長以下30名が着任し、久徳区長・小財八三郎氏を訪ね兵の宿舎を依頼。区長は直ちに役員会を開くと共に公会堂と東光寺をその宿舎に充てるなど、受入体制を村上げて整えました。かくして早速海軍飛行場の建設が開始されます。

 

計画は7月末迄に30m×600mを、8月末迄に60m×1,200mの滑走路を完成させるという超突貫工事でした。その後500名が動員され、兵に加え県内各方面からも続々と勤労奉仕隊の来援を受け完成を急いだそうです。

 

彦根海軍飛行場跡作業は極めて原始的で、鍬(くわ)・スコップ等を用いてモッコを二人で担いで土石を運ぶという人海戦術でした。

 

当時日常的に米軍機が上空に飛来しては機銃掃射を仕掛けてくるので、作業の人々も生きた心地がしなかったそうです。空襲警報が入ると作業を止め、クモの子を散らす様に退避しました。

 

作業現場は平坦地で隠れるところもなく、そのため枝木を挿してこれを擬装したそうですが、全く無意味な防禦に過ぎなかったとか。

 

この飛行場への輸送路として久徳のヤナセ溝沿いの農道を拡張して往来の便を図り、第1格納庫を久徳の市杵島姫神社横の種村秀吉氏所有の畑に、第2格納庫を木曽の西沢与一郎氏所有の竹藪に、第3格納庫を中川原の高橋惣平氏の所有地に、各々バラック様の建物が組立てられました。更に内山の麓の2箇所に防空壕も掘られました。各地から支援隊に加え対岸の滋賀航空隊からも次期作戦待ちの予科練習生が投入され、第1次部隊は7月中旬に到着し作業を始めていました

 

滑走路もほぼ完成し、いよいよ運用を開始しようとしていた昭和20(1945)年8月15日、終戦を迎えます。飛行場建設作業に就いていた隊長以下兵士たちは、久徳区長・小財入三郎氏宅に引揚げて来て玉音放送を聞き、男泣きに泣いたそうです。これで彦根海軍飛行場は一機も機体を離陸させることなく、“歴史の闇”に葬られることになるのです。

 

(“挺身水泡に帰す、幻の彦根海軍飛行場”後篇もお楽しみに・・・)

 

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