Monthly Archives: 2月 2014

信長の愛妾“お鍋の方”の伝説

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

 

今年の大河ドラマ『軍師官兵衛』、なかなか好調のようですね。いささか信長役の江口洋介さんや秀吉役の竹中直人さんの露出が多いので、時々誰が主人公だったか解らなくなってしまいそうです(^^)

 

さて今回は、そんな何かと露出の多い(笑)織田信長の側室であった、お鍋の方にまつわるお話を致したいと存じます。

 

“小田は良いとこ お鍋の方が 殿を招いたこともある”

 

お鍋松(昭和40年代)こんなくだりの子守唄が残るという小田(おだ)という町は、近江八幡市の西端にあります。

 

 

かつてここにはお鍋の方の屋敷があり、周囲には堀を巡らし満々と水をたたえ、屋形船も浮かんでいたとか。

 

 

また時折管弦の調べが流れ、天下布武の大事業に昼も夜もなく活躍した風雲児・信長が、時にここで疲労の身を休めて静かな夢を結んだ日もあったと伝えられています。

 

もともとお鍋の方は、神崎・蒲生郡一帯を支配していた近江・高野城主の小倉右京亮実房(おぐらうきょうのすけさねふさ)の妻で、二児の男子をもうけていました。また夫の実房と信長は早くから親しい間柄でした(お鍋の夫は諸説あり一定しません)。

 

高野館遺跡しかし信長が近江へ侵攻し南近江の守護大名・佐々木(六角)氏と対峙した際、六角義賢(ろっかくよしかた)が日野城主・蒲生定秀(がもうさだひで)に命じて実澄を攻めさせたため、実澄は切腹して果て、子息達は人質となります。

 

一方お鍋の方は信長に助けられて岐阜に赴きます。やがて安土城が落成すると、小田の地に移り側室となるのです。

 

信長との間には二男一女をもうけましたが、本能寺の変以降様々な不幸がお鍋の方に降りかかります。

 

まず実澄の二男・松千代が信長とともに本能寺の変で討死。後に豊臣秀吉の庇護を受け、化粧料として近江國愛知郡182石(後に400石に加増)を付与。再び高野の地に居を構えます(これも真偽は不明)。秀吉の正室・ねねに仕え、側近の筆頭の1人として奥向きで重責を担いますが、長男・甚五郎が狂死。信長との間に出来た信高・信吉は関ヶ原の戦いで西軍に属したため改易。これに連座して領地を没収され浪々の身となったお鍋の方のその後は、とても惨めなものであったといわれます。

 

寂しい後半生を京の都で過ごし、世の有為転変(ういてんぺん/この世の中の事物一切は因縁によって仮に存在しているもので常に移り変わっていくはかないものであるということ)を悲しみ、自らの数奇な運命を呪って、慶長17(1612)年に京の地で亡くなります。

 

お鍋松(平成25年)小田の村人はお鍋の方の菩提を弔うため、屋敷跡に墓を建て、そこに一本の松を植えました。

 

 

この松は大きく成長し、いつしかお鍋松と呼ばれるようになりました。

 

 

しかしお鍋の方の憎悪に満ちた妄念は消える様相を呈さず、いつしかそれが“白蛇”となって棲みつき、屋敷跡の堀を掘ったり松を切ったりしようとすると、発熱したり痺れたりするといい、現在でも里人たちは恐れているのだそうです。

 

そのお鍋松は小田町の中心から北東約200mの宅地に隣接した畑にひっそりと佇んでいます。残念ながら本来のお鍋松は松喰い虫の影響で枯れてしまいましたが、後に縁者の手により新たな松が植えられ、その歴史の痕跡を静かに伝えています。

 

 

小田神社もう1つ。この小田町には国の重要文化財に指定されている荘厳な楼門を構える小田神社があります。

 

 

この神社にも信長にまつわるお話が残っています。

 

 

お鍋の方を訪ね度々小田を訪れていた信長は、この楼門の美しさにとても興味を抱いておりました。そして、いつしかこの楼門を安土に移そうと考えるのです。

 

しかしこれを知った氏子たちは、「如何にすれば信長の勘気に触れず思い止まらせることが出来るのか」と悩みに悩みました。

 

小田神社楼門当時の楼門は神輿を担いで余裕で通過出来るだけの高さがありました。

 

 

ある夜氏子たちは密かに夜陰に乗じて楼門の柱を三尺(約1m)ばかり切り縮めてしまいました。

 

 

翌日ここを訪れた信長は、それまでの雄大な楼門が一夜にして小さくなった姿を見て、「これこそまさしく神のなすところならん」と大いに畏れ移築を諦めたとされています。

 

それにしても一夜でこの大きな楼門の柱を1m切り縮めるなんて、大型クレーンやチェーンソーも無い当時、いくら何でも“ムリ”でしょ・・・でもそれだけこの神社に対する小田の人々の信仰心が厚いということなのでしょうね。一見してみてもその価値は十二分に感じ取れます。

 

この出来事により、現在でも祭礼の神輿は腰を屈めて楼門を通過し渡御するのだそうです。

 

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とある自転車店の“廃業”

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地元の氏神様参拝のために、少なくとも月に2回は通るいつもの道。いつもと変わらぬ田舎道の光景・・・と思いきや何かが違う(?_?)

 

その原因は直ぐに判明しました。通り沿いにある自転車店の店舗から、看板が取り払われていたのです。

 

閉店のお知らせ店の正面に回ると1枚の貼紙が貼られていました。

 

書面をよくよく読むと、昨年のクリスマスの日をもって廃業されたとのこと。

 

余りにも突然の出来事でしたので、しばらくその場で呆然と立ち尽くしてしまいました。

 

確かに最近は閉まっている日も多く、また自転車の在庫も動きが鈍いようには薄々感じてはいましたが、こんなにも突然にX-DAYが訪れようとは予想だにしませんでした。

 

このブログ趣旨である“滋賀の郷土史”とはスケールが異なるのですが、これも“私にとっての郷土史”として書き留めておきたいと思います。

 

こちらのお店は昭和35年11月に開業され、ナショナル自転車とホンダのオートバイの販売とメンテナンスを生業とされていました。私の住む町内(自治会)にも自転車店はあったのですが、こちらのお店が自宅から近く、また販売を担当されていた社長さんと整備を担当されていた従業員さんのお二人がとても気さくな方だったので、何かあるといつもこちらにご厄介になっていました。

 

特にこちらのお店にお世話になったのは中学生の頃。通学と部活動で毎日10~30kmも自転車をこいでいたので、パンクを始めとしたトラブルは日常茶飯事でした。春夏秋冬、晴れの日も雨の日も雪の日も、暑い日も寒い日も、出してもらったお茶を両手に椅子に座り、世間話をしながら修理が終わるのを待つ。修理代の手持ちがない時は、ツケ払いにも応じていただけました。

 

入学シーズン前になるとニューモデルの自転車が並び、農繁期直前には真新しいホンダ・カブが店頭を賑わしていました。その度に社長さんは軽トラックに自転車やオートバイを積載して忙しく納品へと向かい、従業員さんは黙々とメンテナンスに従事されていたのを、今でも昨日のように想い出されます。

 

そんなお世話になったこのお店で、高校入学を機にナショナルのロードサイクルを購入。自転車のメンテナンスのイロハを懇切丁寧に教えていただきました。大学生になり免許を取得しても、貧乏学生だった小生は自転車を愛用し、こちらに通い詰めていました。

 

このお店にターニングポイントが訪れたのは小生が社会人となって程なくしてからのこと。あれだけ元気が取り柄だった社長さんが急逝。跡継ぎもいらっしゃらなかったので、整備の従業員さんが後を託されました。

 

しかし営業を全く経験されておられなかったことに加え、大規模店やチェーン店の台頭に従業員さんはかなり苦戦されたようで、メンテナンスの多忙さに加え、もともと身体が弱かったことも手伝って、徐々に開店休業の様相を呈するようになりました。ここ10年位は開店している方が珍しかったように思います。

 

そしてついに従業員さんは高齢を理由に決断されたのだと思います。

 

建屋内には自転車もオートバイも、メンテナンス用の機材も何も残ってはいませんでした。ただ、修理の間に待っていた際のあの想い出の椅子だけがポツンと横たわっていました。

 

廃業した自転車店「これも時代の流れ、1つの時代の終焉」と一言で片付けてしまうのは容易いのですが、何か日本人としての大切なモノを失ったようで一抹の寂しさを覚えずにはいられないのです。

 

これで我が家から半径4km圏内からメンテナンスが出来る自転車店が消滅しました。10万人都市といえども、これが現実なのです。

 

さようなら、そして、ありがとう・・・想い出のいっぱい詰まった自転車屋さん。

 

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