「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>
今回はこれまで信楽線が辿った不死鳥伝説についてお届けしたいと存じます。
信楽線の起点であり、JR草津線への接続点でもある貴生川(きぶかわ)駅。
関西鉄道時代の草津線が全通した明治23(1890)年当時、貴生川駅は未だ設置されていませんでした。
その後、明治33(1900)年近江鉄道が全通し草津線に接続することを契機に、甲賀(水口)地区の玄関口として開業しました。
当時ここを起点とし、陶器の街・信楽を経て、京都府下の関西線・加茂駅への新線計画がにわかに浮上し、関係各地で建設運動を展開。しかし第一次世界大戦後の不況が影響し、その計画は遅々として進みませんでした。
構想から約30年後の昭和8(1933)年5月8日。ようやく貴生川駅~ 信楽駅間 (14.8km) が国鉄信楽線として開業します。
しかし僅かその10年後。激化する第二次世界大戦の煽りを受け、不要不急線として資材供出を命じられ、レールのみならず枕木に至るまで撤去されてしまいます。
敗戦濃厚となっていたこの時期、信楽では陶器製の地雷や手榴弾の開発が進められていました。
結局実戦には投入されず終戦を迎えましたが、信楽線が戦争の片棒を担ぐ任を与えられなかったのがせめてもの救いです。
終戦から2年後の昭和22(1947)年7月25日。沿線住民による枕木材調達と勤労奉仕により、念願の運行再開を実現。戦後の好景気で火鉢や汽車土瓶の需要が、信楽線の最盛期を迎えます。昭和28年(1953)8月の集中豪雨で第一大戸川橋梁を流失し約1年の不通を余儀なくされますが、長スパンのプレストレスト・コンクリート橋として再建され、その後の長距離コンクリート橋の先鞭となりました。
しかしその幸運は長くは続かず、関西線への接続計画の暗礁、モータリゼーションの波と輸送需要の激減が影響し、昭和43(1968)年には国鉄諮問委員会が信楽線の廃止を答申。これに対し地元は利用促進による存続活動を展開し、僅かながらずつも業績向上を実現させました。
しかしその努力の甲斐なく、昭和56(1981)年に国鉄は信楽線を特定地方交通線第1次廃止対象に指定し、廃止は動かぬものとなってしまったのです。
窮地に追い込まれ究極の選択を迫られた地元は第3セクター方式転換に活路を求め、昭和62(1987)年7月13日に信楽高原鐵道が開業。
JR西日本による乗入で京都・大阪からの臨時列車も運行され、順風満帆のスタートを切ったかに思われました。
しかし神は無情にもこの信楽線に、史上最悪の試練を課します。
平成3(1991)年5月14日。当時開催されていた「世界陶芸祭セラミックワールドしがらき’91」への観光客輸送に同社は追われていました。
10時35分、観光客を満載した貴生川行上り普通列車と信楽行JR西日本臨時快速列車「世界陶芸祭しがらき号」が、小野信号場~紫香楽宮跡間で正面衝突し、42名の死者と614名の重軽傷者を出す未曽有の大惨事となったのです。
世に言う信楽高原鐵道列車衝突事故です。
この事故により同社は鉄道事業者としての資質を問われ、また巨額の賠償責任、JR西日本との軋轢、そして会社の存続をも危ぶまれる絶対的危機に直面したのです。
12月8日に運行を再開したものの、事業の改革・改善、安全対策の見直し、JRとの協力関係解消と、失墜した信用を取り戻すには余りにも大きな代償を払う結果となったのです。
取り巻く状況は決して予断を許さぬものの、しかし現在でも頑張っているのです。
この僅か約15kmの山間のローカル線は、このように数多くの試練に直面し、且つこれを乗り越えてきました。
よって今回の災難は、これまでのケースの中で「危機的状況に値しない」というのが小生の印象です。
絶対に今回も乗り切れる筈です。
“信楽線物語”最後となる次回は、私の独断と偏見による“信楽線の魅力”をお届けしたいと存じます。
今回の記事編集に貴重な写真をご提供いただきました鐵道朋友会様。この場を借りまして厚く御礼申し上げます。
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