「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>
今回は“プレゼンター”ということでガッツリとは出演しておりませんでしたが、昨年よりは少し“マシ”にトークが出来ていたように感じています。機会がありましたら映像公開も検討しておりますので、気長にお待ちくださいませ<(_ _)>
さて今回は、時間の制約の都合、前回の記事でご紹介出来なかった部分を補遺という形でご案内致したく存じます。
状態としては試掘の域を脱しませんが、試行錯誤を繰り返しながら、予想以上に急ピッチで掘削作業が進められたことが窺えます。
彼方に薄らと点のような光が見えますでしょうか?これが貫通している証拠です。
そしてこちらは1号壕の内部。先程試掘と申しましたのは、この天井の低さにあります。
当時配備されていた貨物用蒸気機関車・D51形は、全高約4m・全幅約2mはありますので、この状態からさらに1.5~2倍は拡張する必要があります。
1号壕は工法がとても荒く、高さも幅もまちまちです。そのような事情もあり、こちらの状態の保全と安全性を確保しての全面公開への道程は、並々ならぬものであったようです。
前回でも少し触れましたが、1号壕の南側掘削口天井付近には両脇に2箇所の通気口跡が残っています。山の頭頂部まで貫通していることが確認されています。
避難壕として機能した際は、位置関係から見て米原機関区からバック推進で入線したと推定されますので、機関車の煙突がある南側に設けられたのでしょう。
ただ蒸気機関車を秘匿するには煤煙の問題を解決せねばなりません。通気口を設けなければ壕内で乗務員が窒息、設ければ頭頂部から抜ける煤煙で敵から発見される危険性が高まる・・・最終的にこの矛盾をどのように解決しようとしたのかは未だに謎です。
試掘の要素が高い1号壕に対し、2号壕は工法も丁寧で、比較的幅もあり、計画的に掘削しようとした形跡が認められます。。
ちなみに連日30℃越えの猛暑であった今年にあっても、壕内の気温は20℃を保っていたとのことです。
実は避難壕の存在を知る以前から、この岩脇山には以前から気になる存在がありました。。
この舞台造の堂を見て、個人的に昔から“近江の清水寺 or 投入堂”などと呼んでおりました(^^)
善光堂縁起によりますと、推古天皇の御代(古墳時代・554~628年)に、信濃國(現在の長野県)に本多善光という大変熱心な仏教信者がおりました。
ある夜、上洛していた善光は難波(現在の大阪府)の堀に燦然と輝く3体の仏像が、「善光善光」と呼んでおられる夢を見ます。
その夢のお告げに従い堀を探すと、水中に三尊の仏像を発見します。
これを故郷で祀ろうと、琵琶湖を渡り朝妻港に上陸。東山道を一路信濃へと向う際、この風光明媚なここ岩脇山で休息。仏像を岩上に安置し仮眠します。すると「我 衆生(しゅじょう/世の生けるもの全てのこと)に仏法を弘通(ぐづう/仏教を広めること)し極楽浄土へ導かんためこの岩窟にとどまらん」との御仏の声に目を覚まします。
善光はこのお告げを地元有志に話し、三尊の分身を安置する堂を建て、再び信濃へと旅立ったのです。ちなみに善光堂の名は本多善光の名からつけられたものなのですが、勘の良い方はもうお気付きかも知れません。実は本多善光という人物、あの長野・善光寺を建立したその人なのです。以来、善光寺の分身として信仰を集めています。
善光堂からは駅を中心として米原の中心街が一望できます。避難壕が完成していたら、ここに見張りが置かれたかも知れません。春秋の彼岸と毎月1日には法要が営まれますので、参拝がてらここからの眺望を楽しむのもまた一興です。
最後に、こちらは蒸気機関車避難壕の南側掘削口前にある道。実はかつて、中山道と北國街道をショートカットするために設けられた間道(かんどう/脇道)だったのです。
中山道と北國街道は米原宿で合流していたのですが、東方へ向かう際は、ここを通って番場宿に抜けるのが近道だったようです。
最早この細い道が、近世までは信仰と交通インフラのバイパスとして、近代には戦争に翻弄された人々の血と汗と涙の通い道であったことを窺い知ることは出来ません。しかし郷土のルーツを辿ること、そのルーツを語り継ぐこと、そしてそれらを人生の教訓として活かすことの大切さを、今回の取材で改めて感じた次第です。
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