「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>
長らくお届けして参りました“高野山巡礼紀行”も最終章と相成ります。今回は高野山に纏わる「不思議アレコレ」をお届け致したいと存じます。
さて、左のこの写真。スーパーや食料品店で見掛けたことはございませんか?
こちらの商品は、長野・飯田に本店(本社は大阪)を構える旭松食品のこうや豆腐です。
旭松食品といえば即席みそ汁「生みそずい」が有名ですが、私が幼少の頃はこの高野豆腐が看板商品でした。
高野豆腐というからには、さぞかし本場・高野山には美味しい高野豆腐があるに違いない・・・そう思っていたのですが、何と衝撃の事実が発覚!
実は・・・高野山では高野豆腐を名産として製造も販売もしていないのです。
今から約800年前の鎌倉時代。ある時、高野山の僧侶たちが精進料理として食していた豆腐が、冬の厳しい寒さで凍ってしまいます。
翌朝それを溶かして食べてみたところ、食感が面白く美味しいというので食べられるようになったのが、高野豆腐の起源とされています(諸説あり)。
当時よりその製法から凍り豆腐(こおりとうふ)・凍み豆腐(しみとうふ)と呼ばれていましたが、江戸時代に入り高野山の土産物として珍重され、その後近畿圏を皮切りに全国に広まっていったことからその名が付いたとも言われています。
明治に入り、軍用糧食として徴用されたこともあり需要は最盛期を迎えますが、同時に近代化された機械製造の事業者が全国に派生。さらに大東亜戦争後の自由競争激化によって、弱小企業が次々と廃業。伝統製法を頑なに守ってきた高野山の事業者も例外ではなく、昭和28(1953)年に最後の製造元であった「カネマス豆腐」の廃業をもって、“高野山の高野豆腐”の歴史は幕を閉じることになったのだそうです。
名前だけが残った“高野豆腐”。日本の食文化継承の一環として、伝統製法で作られた高野豆腐が、元祖・高野山で是非名産として復活してもらいたいものです。ちなみに高野豆腐の現在の全国生産量1位は「長野県」だそうです(^^)
“宿坊・普賢院”篇でもご紹介しました客室です。一般的なお宿と何か違いがあるのにお気付きになられますか?
写真中央上部に、何やら長方形の紙が梁にペタリと貼られております。
これは絵絹(えぎぬ)と申します。宝来(ほうらい)、干支紙(えとがみ)とも呼ばれています。
山間部である高野山は日照時間が短く、稲作には適さない土地柄であったため、稲わらが大変貴重でした。弘法大師(空海)が稲わらを使う注連縄(しめなわ)の代用に、紙や絹を用いて切り絵を飾ったのが起源と伝えられています。
寺院に限らず広く高野山一帯に行われてきた民間習俗で、絵柄は十二支を始め、壽・福寿・鶴亀・宝珠・七宝などの吉祥模様があります。
飾る場所は、床の間・仏壇・倉・台所はもとより、正月飾りをつけるところには全て貼り巡らし、毎年末に新しいものと飾り替え、1年の無病息災を祈ります。
ちなみに神事の注連飾りを寺院で何故用いるのかの疑問が残りますが、これは「神なくして仏は語れず」との教えからくるものなのだとか。高野山では「神仏習合」の精神が、今も脈々と受け継がれているのです。
今年の干支である「巳」の絵絹を、普賢院さんのご厚意で譲っていただきました。ネット通販でも販売されていますので、興味のある方は是非お求めください。
さて7回シリーズで高野山の魅力をお伝えして参りましたが如何でしたでしょうか?
当初は4回程度で終える予定でしたが、写真や資料を整理するにつれ色々お伝えしたくなり、気が付けば約2ヶ月に渡る長篇となってしまいました。まだまだお伝え出来なかったことがございますが、そこは是非現地にて実際にご体感なさって戴ければと存じます。
当ブログ始まって以来の大長篇企画にお付き合い頂きまして誠に有難うございました<(_ _)>
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