Monthly Archives: 8月 2013

NHK大津放送局共同企画“SLを守れ!米原・蒸気機関車避難壕”(補遺)

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

 

 

取材風景県内の皆様、昨日の番組はご高覧いただけましたでしょうか?

 

今回は“プレゼンター”ということでガッツリとは出演しておりませんでしたが、昨年よりは少し“マシ”にトークが出来ていたように感じています。機会がありましたら映像公開も検討しておりますので、気長にお待ちくださいませ<(_ _)>

 

 

さて今回は、時間の制約の都合、前回の記事でご紹介出来なかった部分を補遺という形でご案内致したく存じます。

 

 

1号壕(北側掘削口)こちらは昨年より公開されている1号壕の北側掘削口です。

 

 

状態としては試掘の域を脱しませんが、試行錯誤を繰り返しながら、予想以上に急ピッチで掘削作業が進められたことが窺えます。

 

 

彼方に薄らと点のような光が見えますでしょうか?これが貫通している証拠です。

 

 

1号壕(内部)そしてこちらは1号壕の内部。先程試掘と申しましたのは、この天井の低さにあります。

 

 

当時配備されていた貨物用蒸気機関車・D51形は、全高約4m・全幅約2mはありますので、この状態からさらに1.5~2倍は拡張する必要があります。

 

 

1号壕は工法がとても荒く、高さも幅もまちまちです。そのような事情もあり、こちらの状態の保全と安全性を確保しての全面公開への道程は、並々ならぬものであったようです。

 

 

1号壕(通気口跡)前回でも少し触れましたが、1号壕の南側掘削口天井付近には両脇に2箇所の通気口跡が残っています。山の頭頂部まで貫通していることが確認されています。

 

 

避難壕として機能した際は、位置関係から見て米原機関区からバック推進で入線したと推定されますので、機関車の煙突がある南側に設けられたのでしょう。

 

 

ただ蒸気機関車を秘匿するには煤煙の問題を解決せねばなりません。通気口を設けなければ壕内で乗務員が窒息、設ければ頭頂部から抜ける煤煙で敵から発見される危険性が高まる・・・最終的にこの矛盾をどのように解決しようとしたのかは未だに謎です。

 

 

2号壕(北側掘削口)試掘の要素が高い1号壕に対し、2号壕は工法も丁寧で、比較的幅もあり、計画的に掘削しようとした形跡が認められます。。

 

 

ちなみに連日30℃越えの猛暑であった今年にあっても、壕内の気温は20℃を保っていたとのことです。

 

 

実は避難壕の存在を知る以前から、この岩脇山には以前から気になる存在がありました。。

 

 

岩屋善光堂それがこちら、岩屋善光堂‘(いわやぜんこうどう)。

 

 

この舞台造の堂を見て、個人的に昔から“近江の清水寺 or 投入堂”などと呼んでおりました(^^)

 

 

 

善光堂縁起によりますと、推古天皇の御代(古墳時代・554~628年)に、信濃國(現在の長野県)に本多善光という大変熱心な仏教信者がおりました。

 

 

岩屋善光堂(石造一光三尊如来像)ある夜、上洛していた善光は難波(現在の大阪府)の堀に燦然と輝く3体の仏像が、「善光善光」と呼んでおられる夢を見ます。

 

 

その夢のお告げに従い堀を探すと、水中に三尊の仏像を発見します。

 

 

これを故郷で祀ろうと、琵琶湖を渡り朝妻港に上陸。東山道を一路信濃へと向う際、この風光明媚なここ岩脇山で休息。仏像を岩上に安置し仮眠します。すると「我 衆生(しゅじょう/世の生けるもの全てのこと)に仏法を弘通(ぐづう/仏教を広めること)し極楽浄土へ導かんためこの岩窟にとどまらん」との御仏の声に目を覚まします。

 

 

岩屋善光堂(眺望)善光はこのお告げを地元有志に話し、三尊の分身を安置する堂を建て、再び信濃へと旅立ったのです。ちなみに善光堂の名は本多善光の名からつけられたものなのですが、勘の良い方はもうお気付きかも知れません。実は本多善光という人物、あの長野・善光寺を建立したその人なのです。以来、善光寺の分身として信仰を集めています。

 

 

善光堂からは駅を中心として米原の中心街が一望できます。避難壕が完成していたら、ここに見張りが置かれたかも知れません。春秋の彼岸と毎月1日には法要が営まれますので、参拝がてらここからの眺望を楽しむのもまた一興です。

 

間道最後に、こちらは蒸気機関車避難壕の南側掘削口前にある道。実はかつて、中山道と北國街道をショートカットするために設けられた間道(かんどう/脇道)だったのです。

 

 

中山道と北國街道は米原宿で合流していたのですが、東方へ向かう際は、ここを通って番場宿に抜けるのが近道だったようです。

 

 

最早この細い道が、近世までは信仰と交通インフラのバイパスとして、近代には戦争に翻弄された人々の血と汗と涙の通い道であったことを窺い知ることは出来ません。しかし郷土のルーツを辿ること、そのルーツを語り継ぐこと、そしてそれらを人生の教訓として活かすことの大切さを、今回の取材で改めて感じた次第です。

 

 

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NHK大津放送局共同企画“SLを守れ!米原・蒸気機関車避難壕”

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

 

 

あの衝撃的な(?)国家的メディアデビューから約1年2ヶ月・・急遽、NHK大津放送局との共同企画が還って参りました!今回も滋賀ローカルのみの放送となりますので、残念ながら県外の皆さんにはお届けが叶いませんが、どうかご容赦ください。県内の皆様、是非ご高覧くださいまし<(_ _)>

 

おうみ発610 「なに!なぜ?おうみ」
2013年8月27日(火) 18:10〜19:00内の約5分枠

※放送の編成の都合により変更される場合あり。

 

蒸気機関車避難壕(1号壕)さて、久し振りに“滋賀ネタ”に戻ります。今回は全国的にも非常に貴重な戦争遺産である、大東亜戦争末期アメリカ軍の戦闘機や爆撃機の攻撃からSL(蒸気機関車)を守るため建設が進められた蒸気機関車避難壕(じょうききかんしゃひなんごう)についてお話いたしたいと存じます。

 

敗色濃厚となった戦中末期。

 

昭和19(1944)年7月にサイパン、昭和20(1945)年3月には硫黄島が陥落し、これらを拠点にアメリカ軍の爆撃機や護衛の戦闘機が日本各地に飛来。都市や軍事施設のみならず、あろうことか「動くもの全て」に対して無差別に攻撃を加えてきました。

 

 

それは鐵道も例外でなく、戦闘機の機銃掃射によって数多くの乗務員や乗客が犠牲になりました。特に滋賀では、昭和20(1945)年7月30日の16時頃。守山駅に停車中の旅客列車にアメリカ海軍の艦載機・F4Fワイルドキャットが急襲。死者11名・負傷者24名という、この戦争で県内最大の被害者数を出すという惨事も起きました。

 

 

当時、鐵道輸送に於ける動力の主力は蒸気機関車でした。当然機関車が攻撃を受けて大破し走行不能。機関士や機関助士が死傷する事態も多く発生しており、鐵道関係者の頭を悩ませていました。

 

 

昭和初期の米原駅構内【湖北の今昔 所載】これは物資輸送の大動脈である“東海道ルート”と“日本海ルート”の合流点にあった米原(まいばら)も例外ではありませんでした。かつて米原は、東京から下関を経て朝鮮半島へ物資を輸送する蒸気機関車の交換ポイントとして、東海道本線に於ける急勾配区間の1つであった大垣~ 関ヶ原間(通称:関ヶ原越え)を通過するための補助機関車を留置する基地として、そして明治の世から中国大陸及びロシアへの玄関口であった福井・敦賀(つるが)港への物資輸送の中継ポイントとして重要な拠点でした。

 

 

そのため、路線整備された明治22(1889)年には機関区(当初の名称は機関庫)が設置され、馬力の強い貨物用の蒸気機関車が多数重点配置されていたのです。

 

 

国営鐡道管理運営さてここで話題を変えて、“豆知識のコーナー”と参りましょう。他のブログ記事でも散見されるのですが、この当時の国営鐵道の管理運営は国鉄(日本国有鉄道)だと勘違いされている方がどうやらいらっしゃるようです。実は国鉄が設立されたのは1949(昭和24)年なので、これは誤った情報です。ではどこが管理運営していたのか?・・・それは運輸省鐵道総局なのです。

 

 

ちなみに国営鐵道の所管の変遷を見ますと…

 

1871(明治4)年・工部省鐵道寮/工部省鉄道局 → 1885(明治18)年・内閣鐵道局 → 1890(明治23)年・内務省鐵道庁 → 1892(明治25)年・逓信省鐵道局 → 1897(明治30)年・逓信省鐵道作業局 → 1907(明治40)年・帝國鐵道庁 → 1908(明治41)年・内閣鐵道院 → 1920(大正9)年・鐵道省 → 1943(昭和18)年・運輸通信省鐵道総局 → 1945(昭和20)年・運輸省鐵道総局 → 1949(昭和24)年・日本国有鉄道

 

と、このように幾度にも渡り変わっているのです。現在は国営鐵道という存在は消滅し、7社に分割民営化されたJRの管轄となっていることは皆さん御承知の通りです。

 

 

岩脇山と旧米原機関区話を戻しまして、運輸省鐵道総局の工事担当部局は蒸気機関車をアメリカ軍機の攻撃から守るため、蒸気機関車避難壕の建設を計画します。

 

 

地理的に機関区から程近く、岩盤が強固な山腹であることを条件に検討したところ、米原駅から北方約2kmに位置する岩脇山(いをぎやま)が選定されました。

 

 

掘削作業には労働力として徴用された朝鮮人が動員され、作業現場の近隣にバラック小屋を建設して居住させ、昼夜を問わず突貫工事を展開したと伝聞されています。現在の米原市梅ヶ原にかつて存在した大阪俘虜収容所第10分所に収容されていたアメリカ及びオーストラリア軍の捕虜(当時は入江内湖の干拓事業に従事)や、米原の周辺住民には一切作業に従事させなかったことから、秘匿・機密の色合いが非常に濃厚であったことを窺わさせます。

 

 

トロッコ専用引込線跡作業現場までは東海道線(現在の上り線)から土砂搬出用のトロッコ専用引込線が敷設され、火薬(ダイナマイト)・スコップ・ツルハシ・トロッコを用い、人海戦術でもって敢行されました。

 

蒸気機関車避難壕は2本計画され、1号壕は130mで貫通。2号壕は山の両面から各52mまで掘り進められましたが、ここで終戦を迎えます。

 

 

蒸気機関車避難壕(2号壕)戦後はゴミ捨て場として長きに渡り放置されていました。しかし地元有志で結成された岩脇まちづくり委員会が戦争の悲劇を風化させないために保存することを決定。

 

 

平成20(2008)年10月から10ヶ月を掛け整備し、様々な困難や障害を乗り越え、平成21(2009)年8月には公開に漕ぎ着けました。

 

 

当時はかなりの突貫作業であったようで、湧水は各所から滴り落ち、とても蒸気機関車をすんなり隠せるようなコンディションには見えません。ですが目的を達成するために難工事を強いられたであろうことはひしひしと伝わってきます。

 

 

ダイナマイト雷管挿入準備痕特に貫通しなかった2号壕の岩盤にはダイナマイトの雷管を挿入するために空けたと思われる穴が各所に残っています。

 

 

また1号壕の上部には、蒸気機関車の煤煙を逃がすための通気口となる予定であったと思われる穴もあります。

 

 

雷管挿入棒(2010年公開時)さらに掘削時、ダイナマイトを装填する際に用いたであろう雷管挿入棒と思われるものも発見されています。

 

 

こちらは現在、いをぎまちづくり資料館にて展示・保存されています。

 

 

昨年、米原市の「米原地域創造会議支援事業」の一環として、蒸気機関車避難壕を始めとする岩脇山全体の環境整備が岩脇まちづくり委員会によって実施されました。

 

 

いをぎまちづくり資料館その際、軟弱な岩盤や湧水による浸水の影響でこれまで非公開としていた反対側(北側掘削口)が整備され、貫通していた1号壕は通り抜けでの見学が可能となりました。

 

 

またいをぎまちづくり資料館も建設され、休憩所を兼ねて、これまでの岩脇まちづくり委員会の活動内容が克明に記録・展示されています。

 

 

今回の取材は、昨日NHK大津放送局のアナウンサー・高鍬 亮さんに同行して実施したものなのですが、この日偶然にも滋賀県平和祈念館主催の夏休みミュージアム・スクール「へいわの学校・あかり」が現地で行われ、途中この勉強会にも同行させていただきました。

 

 

滋賀県平和祈念館夏休みミュージアム・スクール原則親子での参加ということのようですが、小学生から年配の方まで幅広い年代層の方々が戦争のもたらす理不尽な事象を肌で感じ取っておられたように思います。子供達には「戦争の足跡」と言ってもピンとはこないかも知れませんが、大人になって「同じ過ちを繰り返さない」「平和の礎となった先人達の労苦を無駄にしない」という思いを改めて考える際の経験の糧となってくれればと願わずにはいられません。

 

 

なお蒸気機関車避難壕ですが、安全管理の都合上、平常非公開となっております。見学を希望される方は、岩脇まちづくり委員会の藤本傳一さん(TEL:0749-52-1830)まで直接お問い合わせください。

 

 

藤本会長(右)・廣田副会長(左)最後に今回の取材にご協力いただいた岩脇まちづくり委員会の会長・藤本傳一さん、副会長・廣田 勉さん。番組取材並びに企画統括のNHK大津放送局アナウンサー・高鍬 亮 さん。

 

そして敦賀港に関する歴史をご教授頂いた旧敦賀港駅舎のボランティアスタッフの皆さん。長浜鉄道スクエアさん。この場を借りまして厚く御礼申し上げます。

 

最後にもう1つ豆知識を。

 

D51形793号機長浜鉄道スクエア北陸線電化記念館には、貨物用蒸気機関車D51形793号機(通称:デゴイチ)が保存されています。

 

ちなみにこの機関車は蒸気機関車避難壕の工事が進められていた戦中末期、米原機関区に配置されていました。もしこの壕が完成していたら、ここに避難していたかも知れません。

 

 

蒸気機関車避難壕は全国で計画されましたが、戦後埋め戻される等して現存しているのはこの岩脇山のみとのこと。

 

 

昭和19~20年は増大する軍需・民需輸送と戦況悪化に伴う物資貧窮のジレンマの中で、「戦時型」と呼ばれる部材・構造共に粗雑な蒸気機関車が大量に生産され、各地でトラブルを頻発させていました。そのような中、物流の要衝を支える米原機関区には、戦前に生産され安定した運用実績と良好な機関コンディションを併せ持つ機関車が投入されていました。

 

 

これは飽くまでも私見ですが、「攻撃を受けたら客貨車を犠牲にしてでも機関車を隧道(トンネル)に入れて守れ」という指示を乗務員が受けたとの証言もあることから、状態の良い機関車を保護するのは当時至上命題だったのでしょう。機関車の確保にはなりふり構っていられない、そのためには手段を選ばない、例え苦肉の策であろうとも・・・この壕も戦争の生み出した狂気の沙汰の権化とも言えましょう。

 

 

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高野山巡礼紀行(7)“高野山ふしぎ発見”(後篇)

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

 

 

長らくお届けして参りました“高野山巡礼紀行”も最終章と相成ります。今回は高野山に纏わる「不思議アレコレ」をお届け致したいと存じます。

 

 

旭松こうや豆腐さて、左のこの写真。スーパーや食料品店で見掛けたことはございませんか?

 

 

こちらの商品は、長野・飯田に本店(本社は大阪)を構える旭松食品のこうや豆腐です。

 

 

旭松食品といえば即席みそ汁「生みそずい」が有名ですが、私が幼少の頃はこの高野豆腐が看板商品でした。

 

 

高野豆腐というからには、さぞかし本場・高野山には美味しい高野豆腐があるに違いない・・・そう思っていたのですが、何と衝撃の事実が発覚!

 

 

実は・・・高野山では高野豆腐を名産として製造も販売もしていないのです。

 

 

高野豆腐

今から約800年前の鎌倉時代。ある時、高野山の僧侶たちが精進料理として食していた豆腐が、冬の厳しい寒さで凍ってしまいます。

 

 

翌朝それを溶かして食べてみたところ、食感が面白く美味しいというので食べられるようになったのが、高野豆腐の起源とされています(諸説あり)。

 

 

当時よりその製法から凍り豆腐(こおりとうふ)・凍み豆腐(しみとうふ)と呼ばれていましたが、江戸時代に入り高野山の土産物として珍重され、その後近畿圏を皮切りに全国に広まっていったことからその名が付いたとも言われています。

 

 

明治に入り、軍用糧食として徴用されたこともあり需要は最盛期を迎えますが、同時に近代化された機械製造の事業者が全国に派生。さらに大東亜戦争後の自由競争激化によって、弱小企業が次々と廃業。伝統製法を頑なに守ってきた高野山の事業者も例外ではなく、昭和28(1953)年に最後の製造元であった「カネマス豆腐」の廃業をもって、“高野山の高野豆腐”の歴史は幕を閉じることになったのだそうです

 

 

名前だけが残った“高野豆腐”。日本の食文化継承の一環として、伝統製法で作られた高野豆腐が、元祖・高野山で是非名産として復活してもらいたいものです。ちなみに高野豆腐の現在の全国生産量1位は「長野県」だそうです(^^)

 

 

客室最後にもう1つ。こちらの写真をご覧ください。

 

 

“宿坊・普賢院”篇でもご紹介しました客室です。一般的なお宿と何か違いがあるのにお気付きになられますか?

 

 

写真中央上部に、何やら長方形の紙が梁にペタリと貼られております。

 

 

これは絵絹(えぎぬ)と申します。宝来(ほうらい)、干支紙(えとがみ)とも呼ばれています。

 

 

山間部である高野山は日照時間が短く、稲作には適さない土地柄であったため、稲わらが大変貴重でした。弘法大師(空海)が稲わらを使う注連縄(しめなわ)の代用に、紙や絹を用いて切り絵を飾ったのが起源と伝えられています。

 

 

絵絹(宝来)寺院に限らず広く高野山一帯に行われてきた民間習俗で、絵柄は十二支を始め、壽・福寿・鶴亀・宝珠・七宝などの吉祥模様があります。

 

 

飾る場所は、床の間・仏壇・倉・台所はもとより、正月飾りをつけるところには全て貼り巡らし、毎年末に新しいものと飾り替え、1年の無病息災を祈ります。

 

 

ちなみに神事の注連飾りを寺院で何故用いるのかの疑問が残りますが、これは「神なくして仏は語れず」との教えからくるものなのだとか。高野山では「神仏習合」の精神が、今も脈々と受け継がれているのです。

 

 

今年の干支である「巳」の絵絹を、普賢院さんのご厚意で譲っていただきました。ネット通販でも販売されていますので、興味のある方は是非お求めください。

 

 

初代特急こうやさて7回シリーズで高野山の魅力をお伝えして参りましたが如何でしたでしょうか?

 

当初は4回程度で終える予定でしたが、写真や資料を整理するにつれ色々お伝えしたくなり、気が付けば約2ヶ月に渡る長篇となってしまいました。まだまだお伝え出来なかったことがございますが、そこは是非現地にて実際にご体感なさって戴ければと存じます。

 

 

当ブログ始まって以来の大長篇企画にお付き合い頂きまして誠に有難うございました<(_ _)>

 

 

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高野山巡礼紀行(6)“高野山ふしぎ発見”(前篇)

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

 

 

今回は“高野山巡礼紀行”の締め括りと致しまして、高野山で発見しましたアレコレを2回に分けましてお届け致したいと存じます。

 

 

観光に付き物はやっぱり“お土産”。限られた時間の中で色々と巡ってみたものの、「コレ!」というものには出逢えず・・・「土産モンに美味いものなし」という言葉は、どうやら迷信ではなさそうです(>_<)

 

 

そこでお土産の既成概念に囚われず、「高野山に因んだ高野山ならでは」のアイテムを厳選してご紹介しようと思います。

 

 

大師陀羅尼錠看板(高野山駅)まずはコチラ、高野山駅で見掛けたこの看板。

 

 

大師陀羅尼錠(だいしだらにじょう)と書かれてあります。

 

 

「恐らく高野山由来の伝承薬に違いない」と興味深くその看板を眺めておりますと、母がすかさず「それは“ダラスケ”やわ」と申しました。“ダラスケ”とは何ぞや?

 

 

大師陀羅尼錠とは、空海が高野山を開いた約1200年前より伝承される胃腸薬のこと。ちなみに“ダラスケ”とは陀羅尼助(だらにすけ)が訛ったもので、陀羅尼(お経)を唱えているときに眠気防止のために僧侶が口に含んだ苦味薬を指します。

 

 

また陀羅尼助は和薬の元祖ともいわれ、伝承によると約1300年前に疫病が大流行した際、役行者(役小角/えんのおづぬ)がこの薬を作り、多くの人を助けたとも言われています。陀羅尼助は当時万能薬として修験者たちが全国に持ち歩き、庶民救済の一助に役立ったのだそうです。

 

 

大師陀羅尼錠自然界に育った草根木皮の植物性生薬(黄柏・竜旦・青木)からエキスを抽出し、古来からの製法のまま製造しているとのこと。同様の伝承薬は、奈良県の吉野山・大峰山、長野県の御嶽山、愛媛県の石鎚山、鳥取県の大山などで現在でも製造されています。

 

 

なお大師陀羅尼錠の他に、大師陀羅尼助(だいしだらにすけ)というものもあります。お店の方に訪ねましたら、大師陀羅尼錠は止瀉薬(腹下し・腹痛の薬)なのに対し、大師陀羅尼助は健胃薬(胃の調子を整える薬)の性格が強いのだそうです。

 

 

お腹の弱い妻に大師陀羅尼錠を買い求めました。味は予想通り“苦い”のですが、那智黒飴(和歌山の特産菓子)に似た甘い香りのするのが特徴です。価格も大変リーズナブルですから、一家におひとつ如何ですか?

 

 

こうやまき販売所次はこちら、こうやまき販売所

 

 

高野山に於いて霊木とされる高野槙は、各所でこのように販売される光景を多々見掛けます。

 

 

高野槙は世界三大造園木の1つで、庭園に植栽し、材木としても利用されています。古代には棺材として最上級とされ、弥生時代や古墳時代には木棺として用いられていたことが確認されています。水に強くて朽ちにくいことから、現在でも湯船材や橋梁材として重宝されています。

 

 

名称は高野山真言宗の総本山である高野山に多く自生していることに由来しますが、空海が高野槙の枝葉を供花の代りに御仏前(仏壇・墓前)に供えたことから、高野槙の枝葉を御仏前に供えるのが古くからの風習となっています。

 

 

ではなぜ供花の代りに高野槙を供えたのか?

 

 

高野槙昔、高野山は信仰生活において禁忌十則という戒律があり、更にその中で「禁植有利竹木」という規則がありました。つまり果実の生る木、観賞するための花が咲く木、竹、漆などを高野山の御山に植えることを禁じていたのです。

 

 

そこで御仏前に供える花の代りが必要となり、花より丈夫で枯れにくく、一年中美しい光沢ある緑色の葉を付け、心地よい香りを漂わせ、なお且つ昔から高野山に多数自生している高野槙の枝に白羽の矢が当たったのです。

 

 

現在でも高野山では古くから伝わる風習で、法事・仏事・お盆・お彼岸・正月・墓参などの際には、高野槙は欠かせないものとなっています。

 

 

ただ真言宗のお坊さん曰く、この風習も江戸時代後期からのもので、高野槙の持つ生命力と空海の神通力をコラボレーションさせたとの説もあり、「弘法大師所縁の霊木」と呼ぶには些か無理があるようです。

 

 

でも「高野山由来の縁起物」であることには間違いありませんから、霊験にあやかってお求めになられては如何でしょうか?ちなみに我が家には樹齢30年以上の高野槙が数本、逞しく植生しております(^_^)v

 

 

(次回「高野山ふしぎ発見」後篇に続く・・・)

 

 

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高野山巡礼紀行(5)“胎蔵曼荼羅・壇上伽藍”篇

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

 

 

今回も引き続き“高野山巡礼紀行”をお届け致したいと存じます。

 

 

金剛峯寺を後にし、この旅のクライマックスとも言うべき高野山二大聖地の1つ、壇上伽藍(だんじょうがらん)に足を運びました。

 

 

ここでお断り。、壇上伽藍は奥之院同様、高野山の象徴的な存在のため、写真撮影を厳しく制限されています。よって余りビジュアルでのご紹介が出来ませんので、文面からご想像頂けると幸いです<(_ _)>

 

 

そぞろ歩いておりますと、壇上伽藍への道すがら、眼に留まる箇所がいくつか出て参ります。

 

 

恵宝地蔵尊(赤地蔵)まずはこちら、常喜院(じょうきいん)恵宝地蔵(えほうじぞうそん)。通称・赤地蔵とも呼ばれています。

 

 

全身赤のお姿は高野山の鎮守神・丹生(にう)明神の丹生(水銀朱)に由来しており、血の色でもある朱は“活力と蘇生”“死との対決”“死霊封殺”を意味します。

 

 

福徳・財福を大地の如く内蔵する地蔵尊が、その福徳を衆生(命あるものすべて)に恵み与えてくださいます。なお赤地蔵さんは「赤いお供え物」が大のお好みなのだそうです(^^)

 

 

修業大師像次はこちら、修業大師像

 

 

形態に若干の差異はありますが、全国の空海ゆかりの寺院で最も眼にする機会の多いお大師様のお姿ではないでしょうか。

 

 

「蓑笠に錫杖」はかつて空海が全国修行行脚を行っていた際の定番スタイル。各地に“〇〇大師”“〇〇弘法”と呼ばれるものが点在しているのは、空海が如何に庶民に親しまれていたかの証です。

 

 

さてようやく壇上伽藍に到着です。

 

 

壇上伽藍は「壇場伽藍」とも表記します。高野山の西方、金堂、根本大塔、西塔、御影堂などの立ち並ぶ一画を指し、現在は金剛峯寺が管理しています。

 

 

壇上伽藍 金堂ここは、空海が存命中に堂宇を結んだ場所で、真言密教の道場としての高野山の中核となる部分でもあります。現存する堂塔の大半が江戸後期から昭和初期に再建されたものです。

 

 

この金堂は昭和元(1926)年に焼失後、昭和7(1932)年に再建された鉄筋コンクリート製の建築。

 

 

堂内には高村光雲・作の本尊・阿弥陀如来像を安置しています。昭和元(1926)年の焼失時、堂内には旧本尊・阿弥陀如来像(薬師如来と同体とも)を始めとした7体の仏像が安置されていましたが、堂と共に焼失してしまいました。旧本尊は非公開の完全な秘仏であったため写真も残っておらず、どのような像であったかは永遠のミステリーとなっています。

 

 

壇上伽藍 根本大塔次にこちらは根本大塔

 

 

金堂の右後方にある多宝塔(1階平面が方形、2階平面が円形の二重塔)で、昭和12(1937)年の空海入定1100年を記念して再建された、これも鉄筋コンクリート製の建物です。

 

 

内部正面の梁には昭和天皇宸筆の勅額「弘法」が掲げられており、中央に胎蔵界大日如来像、その四方に金剛界4仏を安置しています。本来別々の密教経典に説かれている「胎蔵界」の仏像と「金剛界」の仏像を一緒に安置するのはとても異例なことなのですが、これは両者が根本的には1つだという空海の思想を表したものであるといい、「根本大塔」とい名称もこれに由来するのだそうです。

 

 

ここで1つの疑問。比叡山・延暦寺のように戦乱に巻き込まれてもいないのに、なぜこうも堂宇が消失しているのか?・・・失火?・・・まさか放火?・・・

 

 

意外にもその原因は落雷なのです。今回の訪問の際のように穏やかな快晴が続くことは、急変著しい高野山の気候ではとても珍しいことなのだそうです。ですので昭和初期の建築では未だ木造全盛であったにも関わらず、当時の技術の粋を結集して、火災に強い鉄筋コンクリート製で再建されたのだそうです。

 

 

高野山霊宝館最後に訪問したのは高野山霊宝館

 

 

財団法人高野山文化財保存会が運営している博物館相当施設で、金剛峯寺を中心とする高野山約100ヶ寺の国宝21件(4686点)、重要文化財142件(13884点)、和歌山県指定文化財13件(2850点)を含む約50000点の文化財を収蔵しています。

 

 

 貴重な文化財に触れる機会を得られることも去ることながら、この文化財に関する資料も多数販売されていますので、とくに「仏像マニア」の方には別の意味での「聖地」と呼べるかも知れません(^^)

 

 

極楽橋駅構内残念ながら今回の“高野山巡礼紀行”はここまで。他にも沢山の見どころや体験コーナーがあるのですが、時間の制約上断念せざるを得ませんでした。

 

 

もしまたの機会を得ることが出来たなら、平安時代の2大宗教家であった空海(弘法大師)の聖地・高野山と最澄(伝教大師)の聖地・比叡山の比較をじっくりと行えればと考えております。

 

 

またの機会が得られれば・・・の話ですが(>_<)

 

 

平成27(2015)年に高野山は開創1200年を迎えます。4月2日~5月21日には記念行事が大々的に執り行われますので、是非、宗教都市・高野山に御参詣ください。

 

 

弘法大師像ちなみに・・・いまさらながらではございますが、この方をよもやご存知ない方はいらっしゃいませんよね?

 

 

そう、日本中世の偉大な宗教家にして真言密教・高野山の開祖、空海(弘法大師)ですよね。

 

 

私の父は旅の最後の最後にこの肖像画を見て、「これ誰や?」とのたまいました。トホホでございます<(TOT)>

 

 

(次回はおまけコーナー「高野山ふしぎ発見」です・・・)

 

 

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