「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>
今回も引き続き“高野山巡礼紀行”をお届け致したいと存じます。
自宅から電車を乗り継ぎ乗り継ぎすること約3時間半・・・ようやく高野山駅に到着しました。新幹線ならもうとっくに「東京」に到着していますね(^^)
現在の駅舎は1928(昭和3)年竣工の木造2階建。洋風建築を基調としつつ寺院を彷彿とさせる佇まいは聖地・高野山の玄関口に相応しい風格を備えています。
ちなみに建物は国の登録有形文化財に登録されており、また第3回近畿の駅百選にも選定されています。
さて“玄関口”とは申しましたが、「駅から徒歩で5分」というワケには参りません(>_<)
第一の目的地「奥之院」へは、さらにバスを利用する必要があります。
こちらは南海りんかんバス。高野山駅発の「奥の院前」行に乗車します。よく見ると、カラーリングが「天空」にソックリですね(^^)
ここから途中の女人堂(にょにんどう)までの約500mの区間は南海りんかんバス専用道となっており、一般車はもとより歩行者も通行禁止となっているのです。
バスに揺られること約20分。ようやく“天空の宗教都市”こと高野町の中心街に差し掛かります。高野町は宗教施設を中心とし且つ山間部に形成された都市として、国内でも非常に稀な存在なのです。約3,000人の人口規模でありながら、町内には警察署(正確には幹部交番)・消防署・病院を始め、教育機関は幼稚園から大学まで整備されているのですから驚きです。
加えて、人口の約1/3が高野山の宗教施設の関係者で占められているのだそうです。
本来ならば奥之院への参拝は途中の“一の橋”を始点として約2kmの参道を行くべきなのですが、現実問題年老いた両親を同行していることもあって、残念ながら今回は半分のショートカットコースを辿ることにしたのです。
奥之院は高野山信仰の中心的存在で、空海が入定(にゅうじょう/真言密教の究極的な修行の1つで、生死を超えた宗教的瞑想の境地に入ること)した聖地。弘法大師の御廟までの参道の傍らには、20万基を超える戦国から江戸期に掛けての諸大名の墓碑や慰霊碑の数々が、樹齢千年を超える杉木立の中に鎮座しています。この墓石群がいわば奥之院の一番の見せ場なのでしょうが、あまり不用意に墓碑を撮影するのを快しと致しませんので、今回は敢えて控えさせて頂きました。
道すがら地元の方に伺ったのですが、この時期これだけ天候と爽やかな気候に恵まれることは極めて稀なことなのだそうです。
普段の行いが良いお陰ですね(^^)
下界ではすっかり“葉桜”となったサクラも、標高の高い高野山ではまだまだ堪能することが出来ました。
さて御廟にも程近い場所で、奥之院を流れる玉川の清流を背にして金仏の地藏菩薩や不動明王、観音菩薩が並んで祀られています。ずぶ濡れになっておられるのが、何とも奇妙ではありますが・・・
ここは水向地蔵(みずむけじぞう)と言います。
御供所で水向塔婆を求めてこのお地蔵様に奉納し、水を手向けてご先祖様の冥福を祈ります。
何も解らず、ただ闇雲に仏様へ水をパシャパシャ掛けておられる参拝者の姿も結構見掛けました。
霊場に赴きながらそんな非礼はあり得ませんので、十分に注意致しましょう(>_<)
ようやく弘法大師御廟(こうぼうだいしごびょう)に差し掛かりました。
転軸・楊柳・摩尼の三山の千年杉に周囲を囲まれ、奥深く厳かな佇まいを見せています。空海は承和2(835)年3月21日寅の刻。御年62歳で予言通り入定しました。
入定後、弟子たちは予定通りその場所に御廟を建立し、その後86年を経て延喜21(921)年に醍醐天皇より弘法大師の諡号(しごう)を送られました。
この御廟で祈念すれば必ずお大師様は応えて下さると言われており、今なお廟前に祈りを捧げる参拝者は絶えません。
残念ながらご案内はここまで。この先は聖地としての威厳を保持するため、カメラ撮影が厳しく禁じられているのです(もちろん脱帽厳守!)。
御廟の荘厳な幽玄の世界は、是非ご自身の五感でお感じになってください<(_ _)>
さて最後に、どうしても“気になる”オブジェクトがございましたのでご紹介致します。
こちらは新明和工業株式会社の慰霊碑。月面着陸に成功したあの“アポロ11号”(正確にはサターンV型ロケット)を模したものだとか。
新明和工業は、大東亜戦争中に世界最大の飛行艇・二式飛行艇や局地戦闘機・紫電/紫電改を開発製造した川西航空機を前身とする優れた航空機のメーカーとして知られていました。
戦後は民需転換に成功し、天突きダンプ・じん芥車・水中ポンプ・機械式駐車場・理美容機器と、航空機以外にもユニーク且つ多彩な製品を持つ企業として評価されています。
つい最近、このメーカーの製品がにわかに注目を浴びました。ご存知ですか?
先月21日、ブラインドセーリング・プロジェクトで太平洋横断を目指していた全盲のセーラー・岩本光弘さんとニュースキャスターの辛坊治郎さんが、船体浸水でヨットの放棄を余儀なくされ救命ボートで漂流中のところを、海上自衛隊の第31航空群第71航空隊が救助しました。
航続距離ギリギリの位置で、しかも4m近い高浪と風速16~18mの嵐の中、見事な救難活動をやってのけたのです。
その機体こそが新明和工業が世界に誇る最新鋭飛行艇、US-2救難飛行艇だったのです。あの救難活動の一部始終は国内のみならず海外からも、自衛隊の高度な運用能力とUS-2の優秀な機体性能に熱い眼差しを注いだことでしょうね。
宇宙開発には馴染みの薄いこの企業がなにゆえ「ロケット?」とも思うのですが、飽くなき挑戦を続けるポリシーがひしひしと感じられるのでもあるのです(^^)
(旅は続くよ、どこまでも・・・)
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