Monthly Archives: 7月 2013

高野山巡礼紀行(4)“真言宗総本山・金剛峯寺”篇

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

 

 

今回も引き続き“高野山巡礼紀行”をお届け致したいと存じます。

 

 

こうやくん本日は巡礼紀行2日目。昨日の奥之院に続く高野山二大聖地の1つ、壇上伽藍(だんじょうがらん)と真言宗総本山・金剛峯寺(こんごうぶじ)を訪ねました。

 

 

ちなみにこちらは、高野山マスコットのキャラクター・こうやくん。高野山のあちこちで私たちを迎えてくれます(^^)

 

 

目的地は普賢院からは徒歩で5~10分の距離ですので、私たち一行はそぞろ歩くことと致しました。

 

 

般若湯歩き始めて直ぐに眼に飛び込んできた、酒屋さんの般若湯(はんにゃとう)の文字に少々失笑(^^)

 

 

実は仏教徒が守るべき5つの戒め(五戒)というものがあり、その中にはお酒が含まれているのです。

 

 

特に禅宗では飲酒厳禁とされていましたが、薬効を得るために少しの摂取は問題ないという意識から、「智恵の湧き出る湯」という意味を持った名をつけたのだそうです。 

 

 

高野山は密教ですが、仏教に変わりはありません。ですが、お大師様も「塩酒(おんしゅ)一杯を許す」と酒の効用を認めておられましたので、堂々と看板を上げることが出来たのでしょうね。

 

 

金剛峯寺 正門程なくして金剛峯寺の正門前に到着。まずは主殿(本堂)を目指します。

 

 

金剛峯寺は元来、真言宗の総本山としての高野山全体と同義でした。

 

 

明治2(1869)年、共に豊臣秀吉ゆかりの寺院であった青巖寺と興山寺が合併となり、金剛峯寺と改称されました。

 

 

金剛峯寺 主殿ちなみに青巖寺は秀吉が亡き母(大政所)の菩提を弔うために建立したもので、豊臣秀次が自刃した場所としても知られています。

 

 

現在の金剛峯寺の主殿は江戸次代末期、文久3(1863)年に再建されたものです。

 

 

現在は真言宗の管長が住むこの総本山寺院のことを“金剛峯寺”と称しています。

 

 

高野山は“密教”という性質上、全体的にカメラ撮影を著しく制限する傾向にあるのですが、こちらの主殿は広報的役割を担うことから、比較的寛容です。

 

 

主殿は重要な儀式・法要が執り行われる場所であるため、多くの荘厳な広間が存在します。 

 

 

金剛峯寺 蟠龍庭それを差し置いて私を魅了したのは、この見事な枯山水庭園。

 

 

ここ蟠龍庭(ばんりゅうてい)は昭和59(1984)年、弘法大師御入定1150年・御遠忌大法会の際に造営され、2,340平方メートルの石庭は国内で最大級を誇っています。

 

 

この石庭では、雲海の中で奥手に雄、手前に雌の一対の龍が向かい合い、奥殿を守るように表現されています。龍を表す石は、お大師様ご生誕の地である四国の花崗岩が、雲海を表す白川砂は京都のものが用いられています。

 

 

金剛峯寺 台所もう1つ魅了したのは台所

 

 

ここはこれまで大勢の僧侶の食事を賄ってきた中枢で、釜も大変大きく、柱や梁も煤で真っ黒になっています。水飲場は湧水を水槽に溜め、大きな竈(かまど)は現在も使用されています。

 

 

炭を熾す場所もあり、その上には防火対策として大きな煙突があります。また、食物保存庫としては床下収蔵庫や天井からつり下ろした台があります。釣り下しの台は通気性を向上させ、更に紙を垂らすことによりネズミの侵入を抑止したのだそうです。大釜は二石釜といい、一つの釜で7斗(約98kg)の炊飯が可能。約2,000人分程の御飯が作れました。焚口は後方にあり、床板を外して階段を降ると炊口があるといった構造です。

 

 

なお新別殿大広間では、参拝客にお茶とお菓子を振る舞って頂ける他、高野山にまつわる講話を宗派の僧侶がやさしく解説して下さいます。勿論、素朴な疑問にも気さくに応えて下さいますよ。

 

 

さて次は聖地・壇上伽藍を訪れます。

 

 

(旅は続くよ、どこまでも・・・)

 

 

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高野山巡礼紀行(3)“宿坊・普賢院”篇

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

 

 

今回も引き続き“高野山巡礼紀行”をお届け致したいと存じます。

 

 

早朝に出発し、長時間移動の上、高野山の深部まで参りましたので、正直我が一行は“へとへと”でございました(>_<)

 

普賢院山門(鐘楼門)よって今宵のお宿へと足を向けました。

 

 

今晩一宿一飯のお世話になりますのは、高野町の中心街・千手橋(せんじゅばし)に程近い、高野山真言宗・別格本山普賢院”(ふげんいん)でございます。

 

 

「えっ、お寺?」・・・ハイ、ご覧の通り、お寺でございます(^^)

 

 

正確にはこちらのお寺の宿坊(しゅくぼう)にお世話になります。宿坊とは、主に仏教寺院等で僧侶や参拝者のために整備された宿泊施設のことで、僧侶専用の施設は僧房(そうぼう)とも呼ばれています。

 

 

普賢菩薩像【普賢院冊子 所載】まずは普賢院について簡単にご紹介を。

 

 

平安時代末期の大治年間(12世紀)。覚王親王が高野山登山の折、念持仏であった普賢菩薩を力乗上人に授与され開基されました。

 

 

御本尊の普賢菩薩は空海の十大弟子の1人である道雄(どうゆう)の作で、空海が点眼したとされています。

 

 

ちなみに別格本山とは、仏教の各宗派において大本山(または本山)に準じた待遇を受ける特別な位置付けの寺院のことを指します。ですからとても格式高いお寺なのであります。

 

 

大玄関高野山の山内では何と53もの寺院が宿坊を提供しており、高野山の参詣者はもとより、年間を通じ様々な目的で高野山を訪問する人々が利用しています。

 

 これだけの数の宿坊がありますから、高野山には旅館やホテルがほとんど無いのだそうです。その中でも普賢院は、あの俳人・松尾芭蕉高浜虚子とも所縁の深い格別な宿坊なのです。

 

 

さてこちらは宿坊の入口、大玄関。ここの寺務所で宿泊の手続きを行います。中央の樹木はサルスベリの木。決して枯れ木ではございません!

 

 

廊下開花期である初夏に訪問すれば、とても可憐なピンクの花々が堪能できます。

 

 

宿坊といえば、皆さんのイメージに近いのはこの写真のような光景でしょうか?

 

 

「暗い・狭い・寒い」・・・そんなイメージはもうすっかり過去のものです。

 

 

宿坊全体は荘厳さを感じさせるお香の香りで焚き染められ、日頃の喧騒を忘れさせてくれます。部屋付の修行僧の方がちゃんといらっしゃって、お部屋への案内はもとより、宿泊利用への対応もきっちりしてくださいます。

 

 

客室そしてこちらが客室。

 

 

宿坊ですから流石に「オートロック」というワケには参りませんが、そこは日本人の「察しと思い遣りの」精神でクリア(^^)

 

 

勿論、冷暖房・テレビ・金庫も完備!今回私たちの一行は5名でしたが、何とこのようなお部屋を4室貸切でした。お写真はありませんが、大浴場も共同トイレも大変広くてキレイです。流石“修業の場”だけのことはあって、清掃は隅々まで行き届いています。

 

 

精進料理(夕食)宿坊の一番のお愉しみと言えばコレ、精進料理でしょう。

 

 

見た目に豪華さはありませんが、1つ1つ丁寧に調理されているのが解ります。特に自家製の胡麻豆腐は端正ながらも濃厚な味わいでした。

 

 

ちなみに「肉も魚もない」と発言した父に、家族一同“唖然”と致しましたが・・・御膳の右上に紙包みが見えますが、宿泊者全員に普賢院の御守がプレゼントされます(^_^)v

 

 

任意ではありますが、本堂で執り行われる朝6時からの勤行(ごんぎょう)にも参加出来ます。残念ながら本堂内は撮影禁止のためその光景をご紹介することは出来ませんが、とても清々しい心持になれること請け合いです。勤行に参加しますと、お寺の宝物や仏舎利(ぶっしゃり/釈迦の遺骨)も案内して頂けます。

 

 

精進料理(朝食)そしてその後の朝食。

 

ガンモドキ(ひりょうず)の煮浸しとなめこのお浸しは絶品でした。

 

エンゲル係数の高い我が家族は、大量の御飯を頂戴したのは言うに及ばず!

 

 

給仕係のお坊さんが厨房に炊飯器を取りに帰られたほどです(^^)

 

 

こちらの寺務所の方々はとても親切で、高野山で感じた色々な興味深い疑問にとても丁寧に応えてくださいました。この疑問に関してはまた回を改めてご紹介いたします。

 

 

摩尼殿普賢院のご厚意で少し他の堂宇も拝観させて頂きました。

 

 

こちらは摩尼殿(まにでん)。ネパールからの仏舎利請来を機に、平成11(1999)年に造営されました。

 

 

地下には光明心殿があり、円筒を回すことで経典を唱えるのと同じ功徳が得られるというチベットの摩尼車(まにぐるま)がずらりと並べられています。

 

 

金剛薩埵像この摩尼殿にはもう1つの御本尊とも言うべき、金剛薩埵像(こんごうさったぞう)が中央に鎮座しています。

 

 

金剛薩埵は密教に於いて大日如来の教えを受けた菩薩で、密教の第二祖とされています。

 

 

金剛(ダイヤモンド)のように堅固な菩提心を持つとされることから、このように呼ばれているのだそうです。

 

 

最後に普賢院を後にする際に通り掛かったのが、ここ四脚(しきゃくもん)です。

 

 

四脚門江戸時代初期、寛永年間に行人方(ぎょうにんがた/寺院内部に於いて施設の管理や花・灯明の準備、炊事・給仕など実務的な業務にあたる僧侶のこと)によって造営されました。

 

 

かつて金剛峯寺の裏山に祀られていた東照宮の四脚門を、明治25(1892)年になって移築したものといわれています。

 

 

唐門(からもん)とも呼ばれる形式で、軸部は丹塗(にぬり)。蟇股(かえるまた)・木鼻等の彫刻には極彩色が施されており、国の重要文化財に指定されています。

 

 

本日も快晴!“佳き巡礼紀行”となりそうです(^_^)v

 

 

追伸 宿泊ご予約時に追加で以下のサービス(有料)も受け付けて頂けます。詳しくは普賢院までお問い合わせください。

■ご年配の方にも安心!洋式トイレ完備の客室

■豪華特別メニュー!精進料理(夕食)

■写経・御祈祷・御先祖供養など

 

高野山真言宗・別格本山 普賢院

和歌山県伊都郡高野町高野山605
【TEL】0736-56-2131(寺務所)
【URL】http://www.fugen-in.com/

 

 

(旅は続くよ、どこまでも・・・)

 

 

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高野山巡礼紀行(2)“聖陵・奥之院”篇

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

 

 

今回も引き続き“高野山巡礼紀行”をお届け致したいと存じます。

 

 

高野山駅自宅から電車を乗り継ぎ乗り継ぎすること約3時間半・・・ようや高野山駅に到着しました。新幹線ならもうとっくに「東京」に到着していますね(^^)

 

現在の駅舎は1928(昭和3)年竣工の木造2階建。洋風建築を基調としつつ寺院を彷彿とさせる佇まいは聖地・高野山の玄関口に相応しい風格を備えています。

 

 

ちなみに建物は国の登録有形文化財に登録されており、また第3回近畿の駅百選にも選定されています。

 

 

さて“玄関口”とは申しましたが、「駅から徒歩で5分」というワケには参りません(>_<)
第一の目的地「奥之院」へは、さらにバスを利用する必要があります。

 

 

南海りんかんバスこちらは南海りんかんバス。高野山駅発の「奥の院前」行に乗車します。よく見ると、カラーリングが「天空」にソックリですね(^^)

 

 

ここから途中の女人堂(にょにんどう)までの約500mの区間は南海りんかんバス専用道となっており、一般車はもとより歩行者も通行禁止となっているのです。

 

 

バスに揺られること約20分。ようやく“天空の宗教都市”こと高野町の中心街に差し掛かります。高野町は宗教施設を中心とし且つ山間部に形成された都市として、国内でも非常に稀な存在なのです。約3,000人の人口規模でありながら、町内には警察署(正確には幹部交番)・消防署・病院を始め、教育機関は幼稚園から大学まで整備されているのですから驚きです。

 

 

加えて、人口の約1/3が高野山の宗教施設の関係者で占められているのだそうです。

 

 

奥之院参道さてようやく“中の橋”にある終点「奥の院前」に到着。

 

本来ならば奥之院への参拝は途中の“一の橋”を始点として約2kmの参道を行くべきなのですが、現実問題年老いた両親を同行していることもあって、残念ながら今回は半分のショートカットコースを辿ることにしたのです。

 

 

奥之院は高野山信仰の中心的存在で、空海が入定(にゅうじょう/真言密教の究極的な修行の1つで、生死を超えた宗教的瞑想の境地に入ること)した聖地。弘法大師の御廟までの参道の傍らには、20万基を超える戦国から江戸期に掛けての諸大名の墓碑や慰霊碑の数々が、樹齢千年を超える杉木立の中に鎮座しています。この墓石群がいわば奥之院の一番の見せ場なのでしょうが、あまり不用意に墓碑を撮影するのを快しと致しませんので、今回は敢えて控えさせて頂きました。

 

 

山桜道すがら地元の方に伺ったのですが、この時期これだけ天候と爽やかな気候に恵まれることは極めて稀なことなのだそうです。

 

 

普段の行いが良いお陰ですね(^^)

 

 

下界ではすっかり“葉桜”となったサクラも、標高の高い高野山ではまだまだ堪能することが出来ました。

 

 

さて御廟にも程近い場所で、奥之院を流れる玉川の清流を背にして金仏の地藏菩薩や不動明王、観音菩薩が並んで祀られています。ずぶ濡れになっておられるのが、何とも奇妙ではありますが・・・

 

 

奥之院・水向地蔵

ここは水向地蔵(みずむけじぞう)と言います。

 

 

御供所で水向塔婆を求めてこのお地蔵様に奉納し、水を手向けてご先祖様の冥福を祈ります。

 

 

何も解らず、ただ闇雲に仏様へ水をパシャパシャ掛けておられる参拝者の姿も結構見掛けました。

 

 

霊場に赴きながらそんな非礼はあり得ませんので、十分に注意致しましょう(>_<)

 

 

奥之院・弘法大師御廟ようやく弘法大師御廟(こうぼうだいしごびょう)に差し掛かりました。

 

 

転軸・楊柳・摩尼の三山の千年杉に周囲を囲まれ、奥深く厳かな佇まいを見せています。空海は承和2(835)年3月21日寅の刻。御年62歳で予言通り入定しました。

 

 

入定後、弟子たちは予定通りその場所に御廟を建立し、その後86年を経て延喜21(921)年に醍醐天皇より弘法大師の諡号(しごう)を送られました。

 

 

この御廟で祈念すれば必ずお大師様は応えて下さると言われており、今なお廟前に祈りを捧げる参拝者は絶えません。

 

 

残念ながらご案内はここまで。この先は聖地としての威厳を保持するため、カメラ撮影が厳しく禁じられているのです(もちろん脱帽厳守!)。

 

 

御廟の荘厳な幽玄の世界は、是非ご自身の五感でお感じになってください<(_ _)>

 

 

さて最後に、どうしても“気になる”オブジェクトがございましたのでご紹介致します。

 

 

新明和工業慰霊碑こちらは新明和工業株式会社の慰霊碑。月面着陸に成功したあの“アポロ11号”(正確にはサターンV型ロケット)を模したものだとか。

 

新明和工業は、大東亜戦争中に世界最大の飛行艇・二式飛行艇や局地戦闘機・紫電/紫電改を開発製造した川西航空機を前身とする優れた航空機のメーカーとして知られていました。

 

戦後は民需転換に成功し、天突きダンプ・じん芥車・水中ポンプ・機械式駐車場・理美容機器と、航空機以外にもユニーク且つ多彩な製品を持つ企業として評価されています。

 

 

つい最近、このメーカーの製品がにわかに注目を浴びました。ご存知ですか?

 

 

新明和US-2救難飛行艇【提供 海上自衛隊】先月21日、ブラインドセーリング・プロジェクトで太平洋横断を目指していた全盲のセーラー・岩本光弘さんとニュースキャスターの辛坊治郎さんが、船体浸水でヨットの放棄を余儀なくされ救命ボートで漂流中のところを、海上自衛隊の第31航空群第71航空隊が救助しました。

 

 

航続距離リギリの位置で、しかも4m近い高浪と風速16~18mの嵐の中、見事な救難活動をやってのけたのです。

 

 

その機体こそが新明和工業が世界に誇る最新鋭飛行艇、US-2救難飛行艇だったのです。あの救難活動の一部始終は国内のみならず海外からも、自衛隊の高度な運用能力とUS-2の優秀な機体性能に熱い眼差しを注いだことでしょうね。

 

 

宇宙開発には馴染みの薄いこの企業がなにゆえ「ロケット?」とも思うのですが、飽くなき挑戦を続けるポリシーがひしひしと感じられるのでもあるのです(^^)

 

 

(旅は続くよ、どこまでも・・・)

 

 

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高野山巡礼紀行(1)“南海電車でいこう”篇

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

 

 

今回は県外に出て、久し振りにて“浪漫回廊探訪外伝”をお届け致したいと存じます。

 

 

これまで小生は国内に点在する「宗教的聖地」と呼ばれる場所を、折に触れ訪ね歩いて参りました。伊勢神宮に始まり、出雲大社・多賀大社・伏見稲荷大社・立山連峰・比叡山延暦寺・東大寺・善光寺・永平寺・東/西本願寺などなど・・・でもよくよく考えてみますと、肝心要の「自身にゆかりの深い場所」に未だ足を踏み入れていないことにはたと気付きました。

 

 

そう、それは高野山なのです。

 

 

高野山・・・空海、別称・弘法大師が祀られている真言密教の総本山、金剛峰寺(こんごうぶじ)が鎮座する聖地。実は小生、本名にお大師さんの一字を頂いているのです。その割に、これまで余り親近感を持って接してはおりませんでした。たまたま私の両親も高野山を訪れた事がありませんでしたので、ここは意を決して親孝行の真似事でもと、家族と共に赴くことと致しました。

 

 

当初はマイカーでの訪問を検討しておりましたが、高野山は滋賀からのアクセスが悪いうえに、訪問予定しておりました時期は渋滞が予想されたため、私の趣味(?)と独断で30年振りに家族での「汽車旅」(正確には「電車旅」ですが・・・)と洒落込むことと致しました(^^)

 

 

なお訪問しましたのは今年のゴールデンウイーク前半でございます。ここでのご紹介が遅れましたのは、ひとえに各種資料整理の遅延が最大の要因でございます。現在との季節感のズレは何卒ご容赦くださいませ<(_ _)>

 

 

特急こうやまずはJRで大阪まで出向きまして、大阪環状線・新今宮駅で南海電鉄・高野線に乗り換えました。

 

 

 

初・南海電車でございます。おまけに“新快速”すらほとんど乗車しない小生が、いきなり「特急」利用です(^^)v

 

 

 

そしてこちらがその“特急こうや”。大阪と高野山を結ぶ観光のアクセスライナー、及び沿線都市間輸送を担うアーバンエクスプレスです。ちなみにJRの高速運転に慣れている我が娘は「ちと遅い・・・」とぼやいておりましたが・・・。

 

 

橋本駅このまま終点の高野山(極楽橋駅)まで乗車しても良かったのですが、「汽車旅」満喫のためある趣向を企画。

 

 

そのため一旦、和歌山県北部の玄関口・橋本駅で下車しました。

 

 

な~んにもアミューズメントの無い駅のホームでぼ~ぜんと立ちつくし、待つこと約40分・・・

 

 

観光列車・天空お目当ては今回の「汽車旅」の大本命、“観光列車・天空”です!

 

 

この列車のチケット、特に観光シーズンに取得するのは至難の業でして・・・今回幸運にも家族全員分ゲット出来ました。

 

 

「南海国際観光」さんに感謝です!

 

 

路線総延長64.5kmの大半は平坦な南海高野線ですが、ラストスパート約20kmの橋本~極楽橋間は50‰勾配・制限速度33km/h、半径100m以下の急カーブが連続する山岳路線で、さしもの特急もおいそれと高速運転出来ない難所なのです。

 

 

ちなみに(パーミル)とは鉄道線路の勾配を表す単位のことで、水平距離1,000m当りの高低(m)を指します。例えばこの50‰勾配というのは、1,000m進むと高度が50m上がるということになります。

 

 

天空車内山岳線だけに眺望も絶景で、列車が車輪を軋ませながら力強くゆっくりと高野山系を登坂していく光景は、鐵道ファンならずとも満喫出来ること請け合いです。

 

 

とても古い車輛を改造したとは思えない程内装の凝った“天空”ですが、車内設備や車内販売のラインナップ、そしてイベントにもう少し力を入れれば更に人気が出るのに惜しいなぉ・・・とちょっぴり感じました。

 

 

あと乗換駅の橋本駅での接続の悪さの見直しもね(>_<)

 

 

雄大な高野山の自然と狭隘な山岳線の趣を堪能すること約1時間。終点の極楽橋駅に到着です・・・が、終着駅の余韻に浸る暇もなく直ぐに“乗換ダッシュ”!

 

 

実はこの極楽橋駅。南海高野線の実質的な終点でありながら、この先のケーブルカーへの中継点としての性格が濃く、何とこの駅自体の乗降客は30~40人/日に過ぎないのだとか。

 

 

南海鋼索線ケーブルカー他の乗客と共に急いで駅構内を移動しますと、既にケーブルカーが待機しておりました。ここからは南海鋼索線(通称:高野山ケーブル)に乗換です。

 

 

4輌編成の特急の乗客の大半が乗り換えるのですから、小さなケーブルカーの車内はまさに鮨詰め状態・・・((+_+))

 

 

このコ11・21形ケーブルカーは1964(昭和39)年製で、南海電鉄が保有する現役車輌の中でも最古参に類します。どこかレトロで可愛いスタイルからは想像もつかないほどの“タフな奴”です(^^)

 

 

南海鋼索線国内最長ケーブルカーである地元・比叡山鉄道の「比叡山坂本ケーブル(総延長2,025m・最大勾配333‰)」もなかなかのものですが、この南海鋼索線は総延長800mに対して、最大勾配は何と568.2‰

 

 

ご覧くださいこの凶悪な急傾斜。まるで三角定規を縦に置いたような感じです(>_<)

 

 

さぁ南海電車の旅もいよいよクライマックス!“天空の宗教都市・高野山”の玄関口・高野山駅へラストスパート(^_^)v

 

 

高野山駅の標高は何と867m!気候変化の少ないことをただただ祈るばかりです(>_<)

 

 

(旅は続くよ、どこまでも・・・)

 

 

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これぞ真打!正真正銘“戦国BASARA”

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

 

 

今回は「これぞ真打!正真正銘“戦国BASARA”」についてのお話をいたしたいと存じます。

 

 

今から約3~4年前。世は空前の歴史&歴女ブーム・・・“歴史好き”の私にとってこんな時代がやってくるとは想像もつきませんでした。だって史跡・神社仏閣や発掘調査の説明会なんぞにやって来るのは、十中八九たいてい「ご年配の方々」なんですもん(>_<)

 

 

戦国BASARAこのブームの火付け役の一端を担ったアニメ・戦国BASARA(2009年)。放送は深夜枠でしたが、その人気は衰えることを知らず、翌年には続編“弐(ツー)”も登場。何と放送枠は日曜夕方に“超”大出世!そして果ては「劇場版」や「実写ドラマ」も展開されました(ドラマは大コケだったようですが・・・)。

 

 

作品自体、時代劇の「水戸黄門」「暴れん坊将軍」「龍馬伝」を遥かにしのぐ“史実歪曲”“過度の脚色”っぷり。おまけに「北斗の拳」の“覇道シンドローム”と「ドラゴンボール」の“天下一武道会シンドローム”をふんだんに採り入れていますが、まぁ「歴史&歴女ブーム」を巻き起こしてくれた功績は、素直に評価せねばなりません。

 

 

(しかしまぁ、私が敬愛してやまない“明智光秀”があんな描かれ方をされるなんて・・・トホホ)

 

 

ただ、どなたも全ての戦国武将が「イケメン」だったなんてことをド真剣に信じておられないとは思いますが・・・まぁこれ以上の詮索は当ブログの趣旨ではございませんのでこの程度にしておきます。さてさてアニメのタイトルにもあります「BASARA(ばさら)」という言葉ですが、皆さんその意味をご存知でしょうか?

 

 

“ばさら”は「婆娑羅」とも表記しまして、本来は南北朝時代の文化的な流行や社会的風潮を指す流行語のことなのです。南北朝時代の風潮とはどのようなものだったかと申しますと、鎌倉幕府が崩壊した後、天皇や貴族といった朝廷に類する権威は地に堕ちて軽んじられるようになります。それに伴い華やかで粋な着物で着飾ったり絢爛豪華な立ち居振る舞いをしたりという美意識と、後の戦国時代に於ける「下剋上(下位者が上位者を打倒すること)」の前進的価値観が誕生したのです。

 

 

つまり、厳密に言いますと「戦国BASARA」の“ばさら”だけは、番組の内容的にはほぼ合致しているものの、時代的には250年ほどズレているワケでして・・・作品のイメージを当てはめるなら、漫画「花の慶次~雲のかなたに~」で一躍有名人となった“前田利益”に与えられた異名をとって、戦国KABUKI(かぶき)とした方が良かったような気もせんでもないです。

 

 

あぁまた脱線しかけました。このままだとアニメ批評で終わってしまいそうです。

 

 

佐々木道誉ここからが本題です。滋賀にはかつて“ばさら”にふさわしい人物がいたのです。その人の名は佐々木道誉(ささきどうよ)。正真正銘、婆娑羅大名(ばさらだいみょう)の異名を与えられた人物です。

 

 

えっ?この肖像画のどこが“ばさら”なの?・・・というご指摘、ごもっともです。これは出家後の姿です。ただ頭を丸めているからといって、“改心”したかどうかは定かではありませんが(^^)

 

 

あまり教科書では詳しく紹介されませんが、これでも立派な近江源氏・佐々木氏の当主であり、文武に秀で、特に鎌倉幕府の倒幕/後醍醐天皇の政権擁立(建武の新政)/室町幕府の樹立にあたり足利尊氏を影で支え活躍した、実はスゴい人なのです。

 

 

当時は佐々木高氏(ささきたかうじ)と名乗っておりましたので、尊氏とともに「源氏の威信を取り戻した2人のタカウジ」と、ワタクシ個人的に呼んでおります。

 

 

この道誉という人は実に逸話の多い人でして、皇族や公家相手に全く動じることなく人を喰ったような態度に出るとか、戦(いくさ)で屋敷が敵に取り囲まれているにもかかわらず呑気に花を生けたり宴会の用意をさせたりしたとか、対立相手からの花見の誘いを断ったうえに自分で勝手に大宴会を催すなど枚挙にいとまがございません。

 

 

そんな道誉ですので、尊氏が室町幕府樹立後“ばさら”行為を禁じても、一向に止める気配なんぞ微塵もなかったようです。しかし道誉は尊氏亡き後も幕府の要職にあり続けます。「裏切り行為」が“当たり前”の風潮の世にあって、源氏復権の要(かなめ)として尊氏の才を見出し、どのような状況にあっても尊氏を支え続けた道誉は、「変わり者」とはいえ尊氏にとってまた足利氏にとって最も信頼に足る人物だったのでしょう。

 

 

こんな話をしていますと、あのセリフが耳について離れません。

「幸村~っ!!」
「親方さま~っ!!」
「幸村~っ!!」
「親方さま~っ!!」

“2人のタカウジ”の関係も、アニメにしたらこんな感じになるのでしょうか(^^)

 

 

勝楽寺こちらは犬上郡甲良町正楽寺にある道誉の菩提寺である勝楽寺(しょうらくじ)です。

 

 

この寺の裏山に道誉は勝楽寺城を築き、生涯ここを拠点としました。

 

 

勝楽寺の山門は、かつての勝楽寺城の城門を移築したものだと伝えられています。

 

 

佐々木道誉公墓道誉はこの勝楽寺に41歳から亡くなる78歳まで隠棲し、尊氏やその嫡男で2代将軍・義詮(よしあきら)の配下としてのみならず、相談・指南役としても活躍しました。

 

 

是非「真の“BASARA”」の足跡を訪ねてみてください。

 

 

「真の“BASARA”」はあなたの側にいますか?・・・

 

 

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