「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>
さて引き続き俵藤太の百足退治についてのお話をいたしたいと存じます。
話題は変わりまして、大津市に天台寺門宗の総本山・園城寺(おんじょうじ)があります。
通称の三井寺(みいでら)の名前の方が、ご存知の方も多いでしょうね。
ここの金堂裏にある霊鐘堂に、弁慶の引摺鐘(べんけいのひきずりがね)と呼ばれる銅鐘が奉安されています。
無銘ですが奈良時代の作と言われ、国の重要文化財に指定されています。弁慶とは皆さんご存知、源義経の忠臣・武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい)のことです。
その昔、同じ天台宗の寺院であった比叡山・延暦寺と長等山(ながらさん)・園城寺はとても仲が悪く、何かにつけ争いが絶えませんでした。
当時延暦寺で乱暴者として名の知れていた弁慶は、園城寺で散々暴れまわった後、あろうことかこの銅鐘を奪い取り、引き摺りながら延暦寺の大講堂まで運び上げます。
弁慶が早速この鐘を撞きますが、何と「イノー、イノー(関西弁で“帰りたい、帰りたい”)」と響くのです。
「そんなに園城寺に帰りたいのか!」と怒った弁慶は、園城寺目掛けて鐘を谷底へ投げ捨ててしまいます。
この銅鐘の乳(ち/梵鐘特有のイボ状の突起)の擦り切れや傷痕・破目(はめ/割れ)は、その際の痕跡であると伝えられています。
またこの鐘は寺に変事がある際、その前兆として不可思議な現象が生じるのだそうです。
良くないことが起こる時には鐘が汗を掻いて撞いても鳴らず、また良いことが起こる時には自然に鳴るというお話が残っています。京都にある将軍塚とも似たエピソードですね(^^)
実は俵藤太が龍神から贈られた十種の宝器のうちの1つで、園城寺に寄進したものだと伝えられています。
ここにこのお話のオチがあるんですねぇ(*^_^*)
俵藤太こと藤原秀郷は下野國(現在の栃木県)を中心に勢力を伸ばし、その後の関東中央部を支配する武家諸氏の祖となりました。この物語は、その後貴族から徐々に武家が勢力を拡大していく予兆を暗示したものなのかも知れません。
今回の記事編集に写真をご提供いただきました滋賀県庁広報課様。この場を借りまして厚く御礼申し上げます。
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