Monthly Archives: 6月 2013

御存知!秀郷出世物語“俵藤太の百足退治”の伝説・後篇

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

 

 

さて引き続き俵藤太の百足退治についてのお話をいたしたいと存じます。

 

 

園城寺(三井寺)山門【提供 滋賀県庁広報課】話題は変わりまして、大津市に天台寺門宗の総本山・園城寺(おんじょうじ)があります。

 

 

通称の三井寺(みいでら)の名前の方が、ご存知の方も多いでしょうね。

 

 

ここの金堂裏にある霊鐘堂に、弁慶の引摺鐘(べんけいのひきずりがね)と呼ばれる銅鐘が奉安されています。

 

 

無銘ですが奈良時代の作と言われ、国の重要文化財に指定されています。弁慶とは皆さんご存知、源義経の忠臣・武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい)のことです。

 

 

その昔、同じ天台宗の寺院であった比叡山・延暦寺と長等山(ながらさん)・園城寺はとても仲が悪く、何かにつけ争いが絶えませんでした。

 

 

武蔵坊弁慶当時延暦寺で乱暴者として名の知れていた弁慶は、園城寺で散々暴れまわった後、あろうことかこの銅鐘を奪い取り、引き摺りながら延暦寺の大講堂まで運び上げます。

 

 

弁慶が早速この鐘を撞きますが、何と「イノー、イノー(関西弁で“帰りたい、帰りたい”)」と響くのです。

 

 

「そんなに園城寺に帰りたいのか!」と怒った弁慶は、園城寺目掛けて鐘を谷底へ投げ捨ててしまいます。

 

 

この銅鐘の乳(ち/梵鐘特有のイボ状の突起)の擦り切れや傷痕・破目(はめ/割れ)は、その際の痕跡であると伝えられています。

 

 

またこの鐘は寺に変事がある際、その前兆として不可思議な現象が生じるのだそうです。

 

 

良くないことが起こる時には鐘が汗を掻いて撞いても鳴らず、また良いことが起こる時には自然に鳴るというお話が残っています。京都にある将軍塚とも似たエピソードですね(^^)

 

 

弁慶の引摺鐘【提供 滋賀県庁広報課】ちなみにこの弁慶の引摺鐘。

 

 

実は俵藤太が龍神から贈られた十種の宝器のうちの1つで、園城寺に寄進したものだと伝えられています。

 

 

ここにこのお話のオチがあるんですねぇ(*^_^*)

 

 

俵藤太こと藤原秀郷は下野國(現在の栃木県)を中心に勢力を伸ばし、その後の関東中央部を支配する武家諸氏の祖となりました。この物語は、その後貴族から徐々に武家が勢力を拡大していく予兆を暗示したものなのかも知れません。

 

 

今回の記事編集に写真をご提供いただきました滋賀県庁広報課様。この場を借りまして厚く御礼申し上げます。

 

 

◎「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」ブログ全表示はこちら!

 

 

にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 滋賀県情報へ
ご愛読いただき誠に有難うございます。ワンクリック応援にご協力をお願いいたします!


御存知!秀郷出世物語“俵藤太の百足退治”の伝説・前篇

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

 

 

今回は“滋賀の伝説&昔話”の中でも最も有名なエピソード、俵藤太の百足退治(たわらのとうたのむかでたいじ)についてのお話をいたしたいと存じます。

 

 

「滋賀県民なら誰もが知っている」・・・と言いたいところですが、昨今は県外から移住されている方も多いので、これを機会に是非知っていただければ嬉しいです(^^)

 

 

今から約1100年前の平安時代中期、延喜18(916)年10月のことです。その昔、栗太郡(くりたぐん/現在の栗東市)の出身で俵藤太(たわらのとうた)という弓術に秀でた武将がおりました。

 

 

瀬田の唐橋ある時、藤太は瀬田川に掛かる瀬田の唐橋(からはし)が渡れないとの噂を聞きつけやってきました。なんと橋の中央には長さ二十丈(約60m)もあろうかという大蛇が横たわっているのです。

 

 

人々は大蛇を怖れて橋を渡れずにいましたが、藤太は臆することなく大蛇を踏みつけて通って行ってしまいました。

 

 

さてその夜のこと。藤太はとある宿に泊っていましたが、そこへ見知らぬ美女(一説には老翁)が訪ねてきて、こう申しました。

 

 

「私は今日橋の上にいた大蛇で、そもそもはこの橋の下に住む龍神なのです。昨今三上山(みかみやま)に百足(ムカデ)が出るようになり、獣や魚を喰い散らし、あろうことか私を家来にしようと狙っています。私の力ではどうすることも出来ず、退治してくれるつわものが現れるのを待っていたのです。どうかお力をお貸しください。」

 

 

三上山(近江冨士)三上山とは野洲市にある標高432mの山で、その山容から別称『近江富士』と呼ばれています。

 

 

藤太が百足退治を快諾すると、龍神の化身である女は喜びつつ姿を消しました。

 

 

早速藤太は、弓矢と刀を携え再び瀬田に赴きます。

 

 

三上山を見遣ると、そこは凄まじい稲光と風雨が荒れ狂い、天地は激しく鳴動していました。そして山を七巻半して口ら火を噴く大百足が現れます。

 

 

百足がこちらに近付くと、藤太は矢を放ちました。しかしまるで鋼鉄にでも当ったかのように跳ね返されてしまいます。

 

 

俵藤太の百足退治二射目も同様。

 

とうとう最後の矢となってしまった時、藤太は矢尻に唾を付け、心を鎮め八幡神に祈念し、よくよく狙いを定めて渾身の力で放ちました。

 

すると矢は百足の喉を貫き、見事退治に成功します。その後藤太は百足をズタズタに切り裂き、琵琶湖に流してしまいました。

 

 

翌朝再び美女が藤太のもとに訪れます。

 

 

俵藤太(藤原秀郷)そして大変晴々とした声で礼を述べると、「無尽の米俵」と十種の宝器を送りました。

 

 

この俵藤太こそが後に朝廷の命により平将門(たいらのまさかど)を討伐した、藤原秀郷(ふじわらのひでさと)なのです。

 

 

そのエピソードはこちらでもご紹介しておりますので、是非ご覧ください。

平将門“怨念”伝説 in Shiga

 

 

なおこの瀬田の龍神からアドバイスを受け、将門の弱点を見抜いて討ち果たしたとも伝えられています。

 

 

唐橋の東詰を瀬田川沿いに50m程下ったところに、勢田橋龍宮秀郷社があります。ここには唐橋の守護神である大神霊龍王(おおみたまりゅうおう)と藤原秀郷が祭神として祀られています。

 

 

勢田橋龍宮秀郷社またここは俳優・大川橋蔵の代表作として名高い時代劇『銭形平次』の撮影地としても、知る人ぞ知るスポットです。

 

 

ちなみにこの百足退治の一節が、古典落語『矢橋船』の中で引用されています。「三上山を七巻き半と聞けばすごいが、実は八巻き(鉢巻)にちょっと足りない」・・・なかなかウィットに富んだ洒落ですね。

 

 

さてこの伝説にはもう1つ逸話があるのですが・・・それは次回のお楽しみということで(^^)

 

 

◎「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」ブログ全表示はこちら!

 

 

にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 滋賀県情報へ
ご愛読いただき誠に有難うございます。ワンクリック応援にご協力をお願いいたします!


OLD POWER 炸裂!“老蘇の森”の伝説

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

 

 

今回は、近江八幡市の安土町エリアにあります老蘇の森(おいそのもり)についてのお話をいたしたいと存じます。

 

 

史蹟 老蘇の森近江八幡市と東近江市の境界近く。国道8号と東海道新幹線が並走する両脇に、こんもりと茂った森があります。これが老蘇の森です。

 

 

昔々、今から約2300年前の孝霊天皇(こうれいてんのう/第7代天皇で実在が疑問視されている8人の天皇の一人)の御代のことです。

 

 

かつてこの辺り一帯は湖岸に近い湿地でした。地は裂け、水は湧き、とても人の住める環境にありませんでした。

 

 

当時この地の近くに、石部大連(いしべのおおむらじ)という老人が住んでおりました。

 

 

大連は「この地裂や湧水が無ければ、どれほど平穏に暮らせるだろうか」と考え、一心不乱に神に祈りました。さらにその助けを仰ぎたいと願を込め、地裂の激しい箇所に松・杉・檜などの苗木を植えるのです。

 

 

すると不思議なことにそれらの苗木はたちどころにすくすくと成長し、辺り一面昼でも薄暗い程の大森林となりました。この一帯に住む人々は、大連に大変感謝しました。

 

 

奥石神社参道その後大連は110歳を超えてもなお息災に過ごしておりましたので、人々はこの老人のことを老蘇(老いて蘇る)と呼び、いつしかこの一帯の地名ともなったのです。

 

 

現在でも近江八幡市安土町東老蘇地区には、森を中心として「東沢」「西沢」「北沢」の小字名(こあざめい)が残っているところからも、この一帯が以前は湿地帯であったことを偲ばせます。

 

 

また老蘇の森は古くから和歌の歌枕(うたまくら/和歌に多く詠み込まれる名所旧跡)としても有名で、ホトトギスの名所とされ、想い出または老いの哀しみを森に託して用いられていました。歌への引用では、老蘇を“おいそ”“老曾”“追初”“息磯”とも表記しています。

 

 

主な歌をご紹介いたしますと・・・

 

東路の 思ひ出にせむ 郭公ホトトギス
 おいその森の 夜はのひとこゑ
【大江公資朝臣(後拾遺和歌集)】

 

郭公 なおひとこゑは おもひ出よ
    老曾の森の 夜半のむかしを
【藤原範光(新古今和歌集)】

 

かわらじな わがもとゆいに 置く霜も
 名にし老蘇の 森の下草
【作者不詳(東関紀行)】

 

一声は おもひ出てなけ ほととぎす
 おいその森の 夜半のむかしを
【紀伊守教光(平家物語)】

 

夜半ならば 老蘇の森の 郭公
 今もなかまし 忍び音のころ
【本居宣長(鈴屋集)】

 

があります。ちなみに和歌では「郭公(カッコウ)」をホトトギスと読んでいます。これはホトトギスとカッコウがよく似ていることからくる誤りであるとされています。またしばしば「夜」のシチュエーションとセットで歌に詠まれるのは、稀にホトトギスが夜に鳴くという習性を持つところに由来しています。

 

 

近世までは中山道(東山道)が森の東側を通り、平安時代以降は沿道の観光地としても賑わっていたようです。

 

 

奥石神社本殿最後に1つ、この森の中心には奥石神社(おいそじんじゃ)があります。国道8号を通っていれば上下線共に国土交通省の案内板がありますので直ぐに解ります。

 

 

本題の前に珍百景を1つ。この国交省の看板をよ~く見てみると、ローマ字読みのところに修正シールの痕があります。コレ、設置当初は“oiso”ではなく“okuishi”と表記されていたんです。後で指摘されて訂正したんですね~(^^)

 

 

あっ、タレこんだのは私じゃないですよ(笑)。では本題に戻します。

 

 

この神社は先にご紹介しました石部大連が社壇を築き、今から約2100年前に吉備津彦命(きびつひこのみこと/孝霊天皇の第3皇子)により社殿が造営されたと伝えられています。また繖山(きぬがさやま)にある磐座(いわくら/日本古来の自然崇拝の対象となる巨岩)を遠拝するための祭祀の場が創祀ではとの意見もあります。

 

 

社伝によりますと、日本武尊(やまとたけるのみこと/景行天皇の皇子で古代大和朝廷の日本平定に貢献)が蝦夷征伐に向う際、上総國(かずさのくに/現在の千葉県)で荒海に行く手を阻まれた時のこと。妃であった弟橘媛(おとたちばなひめ)は夫の危機を救うために、荒ぶる海神を鎮めるべく身代りとなり、走水(はしりみず/現在の東京湾口・浦賀水道)の海に身を投げました。その時懐妊していた妃は、波間に消える前に「自分は老蘇の森に留まって女人安産を守る」と言い残したと言われています。

 

 

松平春嶽この伝説から奥石神社は古くから安産の神として広く信仰を集め、鎌倉・室町期には近江源氏・佐々木氏が、江戸期にはこの地を領した旗本の根来(ねごろ)氏が代々に渡り手厚く保護しました。旧縁のある越前福井藩・松平氏も崇敬しています。

 

 

現在の社殿は織田信長の命により、家臣の柴田家久(しばたいえひさ)が造営したものです。

 

 

幕末には幕府政事総裁職を務め、かの坂本龍馬が人生の転機に拝謁した第16代越前福井藩主・松平春嶽(まつだいらしゅんがく)も、息子とともにここへ参籠したと記録されています。

 

 

さてここで豆知識。

 

 

大半の方が「奥石神社」と認識しているのですが、現地に赴きますと何故かこの神社は「鎌宮(かまみや)奥石神社」と表記されています。

 

 

“鎌宮”とは一体何でしょう?

 

 

鎌宮とは?かつてここは鎌宮神社・鎌宮明神と呼ばれていました。「蒲生野宮(かまふのみや)」が訛ったものだとも言われています。

 

 

古くは竃(かま)大明神とされ“火除けの神”として崇められていました。それが竃から“釜”に変わり、いつしか“鎌”となって“狩猟神・農業神”としても信仰されるようになったそうです。

 

 

1915(大正4)年に延喜式(えんぎしき/平安時代中期に編纂された法令の1つ)の記載の旧名に従い、それまでの鎌宮から奥石神社に改称されたのです。いわば“鎌宮”はかつての名称の名残という訳でして、現在でも社紋は「左右一対の鎌」があしらわれています。

 

 

昭和24年7月13日に老蘇の森は国の史跡に指定されました。残念ながらその後の国道8号の拡幅工事や東海道新幹線の建設工事に伴い、森は分断されてしまいます。

 

 

ですが神秘の森の佇まいは現在に至っても保たれ、安産の神の鎮守の森に相応しく奥石神社の境内は清浄な空気に包まれ、いつも近所の子供たちの笑い声で溢れています。

 

 

◎「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」ブログ全表示はこちら!

 

 

にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 滋賀県情報へ
ご愛読いただき誠に有難うございます。ワンクリック応援にご協力をお願いいたします!


懐菓子茶寮のお品書き“すあま”

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

 

 

我が家の日常物資調達の拠点(いわゆるスーパー)を変更して早3年。理由は単純・・・何もかもが“高価”だったんです。いくら自宅から近いといっても、いくらそれなりに品揃えしているといっても、いくら懇意にしている店員さんがいるからといっても、いくら系列グループのクレジットカードが手軽に使えるといっても、価格の高騰は即ち家計の圧迫に直結しますから無理もなかったのです。

 

 

以前はクルマで5分の距離のスーパーを利用していました。昔は結構“安さ”と“品揃え”で評判の店だったのですが、いつの間にか某県下店舗展開数No,1のお店と比べても、遥かにお高い有様となったのです。1年間、悩みに悩んだ挙句クルマで15分のスーパーに変更したのです。お陰で20~30%の経費削減を実現!しました。これは大きいです。

 

 

豆腐が旨い!ただ1点困ったことには、いつも私が気に入って購入していた冷や奴専用醤油が他のどのお店でも取り扱いがないのです。

 

 

仕方なく、今でもこれだけは時々ここで「買占め」しております。以前から「もしかして私だけが買っているのでは?」といった売れ行き状況でしたから、たぶんこの「買占め」行為は誰のご迷惑にもなっていないと思いますが(苦笑)。

 

 

大変前置きが長くなり申し訳ございません。さてさて、県内資本のお店ですと然程珍しい商品に巡り会うことはないのですが、県外資本のお店では「ナニコレ?的な珍品」に出逢うことがままあります。

 

 

・・・で、ウチの妻が見付けたものがコレです。今回新たなカテゴリー“懐菓子茶寮(なつかしさりょう)”の栄えある第1号テーマにこのオブジェクトを選びました(^^)

 

 

「紅白カマボコ(@_@;)???」
ご指摘、ごもっともです。私もそう申しました(^^)

 

 

すあま違うんです。コレ、カマボコのようで実はスイーツなんです(なぜか“惣菜コーナー”に置いてありましたが・・・)。

 

 

 

お名前は「すあま」とおっしゃいます。

 

 

ビジュアルはどの角度から見ても、正真正銘紅白カマボコのスライスです。

 

 

ちょっぴり、身辺調査させていただきました。

 

 

【すあま】・・・寿甘、素甘とも表記します。

東日本で一般的な餅菓子の一種で、関東地方では縁起物として祝いの席で配る習慣のある地域もあるのだとか。

 

 

うるち米(普通に御飯としていただくお米のことですね)の粉である上新粉に湯を加えてこねた後に蒸し、砂糖を加えて熱いうちについて作り上げるそうです。

 

 

上新粉の弾力ある食感と、餡などを加えない控えめの甘さが身上・・・とされています。

 

 

紅白饅頭どうやら、こちらで言うところの紅白饅頭のような存在みたいです。

 

 

ちなみにこの“すあま”、スーパーでの価格は50円也。これが安いのか高いのかは何とも申し上げられませんが、大きさにもよるものの紅白饅頭が1個200~400円はしますから、お手軽おメデタアイテムなのかも知れません。

 

 

お味はと申しますと、さして“控えめな甘さ”でもございませんでした。私個人の意見としましては、東日本の皆様に対して大変申し訳ないのですが…リピートはないです(>_<)

 

 

私には馴染みのないお菓子ですが、ご当地ではきっと“懐菓子”なんでしょうね。なお「本当の“すあま”はスーパーなんぞに売ってるようなもんじゃねぇ!」とのご意見の方がいらっしゃいましたら、是非小生に“本場の味”を堪能させてくださいまし(*^_^*)

 

 

ちなみにこちらでのウケが芳しくなかったのか、程なくして店頭から消えてしまいました(T_T)

 

 

◎「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」ブログ全表示はこちら!

 

 

にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 滋賀県情報へ
ご愛読いただき誠に有難うございます。ワンクリック応援にご協力をお願いいたします!