「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>
今回は世にも珍しい武器(?)を携えたお地蔵さま、矢取地蔵(やとりじぞう) についてのお話をいたしたいと存じます。
湖東三山・金剛輪寺に程近い愛知郡愛荘町岩倉の集落に隣接する岩倉山に、仏心寺(ぶっしんじ)という臨済宗永源寺派の寺院があります。
そもそもこの寺院は、検非違使(けびいし)で、安孫子(あびこ)庄の庄司(しょうじ)も務めていた平諸道(たいらのもろみち)が建立した氏寺(うじでら)であると伝えられています。
ちなみに検非違使とは、平安時代に京都の治安維持と民政を所管した役人のこと。庄司とは別名“荘司”荘官“”とも言い、日本の荘園制に於いて荘園領主から現地管理を委ねられた役人のこと。
氏寺とは有力氏族によって造られるようになった寺院のことをいいます。
時は平安時代。諸道が治める安孫子庄と隣郷との間に「水争い」が勃発します。隣郷の軍勢百人が安孫子庄地先まで押し寄せたため、諸道は手勢6人を率い宇曽川(うそがわ)を挟んで対峙しました。
しかし、応戦したものの所詮は多勢に無勢。また矢も直ぐに射尽くしてしまったため、たちまち窮地に陥ります。万策尽きた諸道は、日頃から信仰する地蔵尊に一心に祈りました。
すると何処からともなく小法師(こぼうし/年若い僧)が現れ、戦場の矢を拾い集めて諸道の兵に配り与えました。
矢を得た諸道は形勢を逆転し、隣郷の軍勢を撃退することに成功します。
翌日、戦勝の御礼にと地蔵尊に参拝したところ、摩訶不思議なことに地蔵尊の顔には敵の射た黒羽の矢が立ち、そこからは血が流れていました。
「さては昨日の戦で矢を拾い味方に渡してくれた小法師は、地蔵尊の御化身であったのか…」とこの奇跡に感謝し、より深く信仰を寄せていったのです。以後、このお地蔵さまを「矢取地蔵」と呼ぶようになったそうです。
このお話は『矢取地蔵縁起絵巻』(町指定有形文化財)として残され、今に伝えられています。また『今昔物語集』巻十七の三にも、“地蔵菩薩、小僧の形に変じて箭(や)を受くる語”としてほぼ同様のお話が所載されています。
この矢取地蔵(正式には仏心寺木造地蔵菩薩立像)と矢取地蔵縁起絵巻は、平成22年の秋に愛荘町立歴史文化博物館の企画展『矢とりの地蔵 秘めたる観音~仏心寺のほとけたち~』で特別公開されました。現在も同博物館で管理されており、また機会が巡って来ないかと思う今日此頃です(^^)
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