Daily Archives: 2013年3月20日

タイムトリップ“日夏懐景散策紀行”

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

 

 

さて前回「おしよの伝説」取材のために縦横無尽に駆け巡った日夏の街並(彦根市日夏町)をご紹介したいと存じます。

 

 

日夏町はかつて犬上郡日夏村と呼ばれる一行政区画でした。昭和25(1950)年に彦根市へ編入されたのですが、その当時の人口は何と約8,800人。合併当時の彦根市の約18%の人口を要する大きな村でした。昨年国指定史跡に認定され、にわかに注目を浴びている荒神山古墳のある荒神山に、かつてこの周辺を治めていた日夏氏の居城があったとされています。町内に残る数多くの“日夏姓”は、領主にゆかりのある家柄の末裔であるとも言われています。

 

 

またこの日夏は朝鮮人街道(ちょうせんじんかいどう/将軍上洛や朝鮮通信使通行に使用された中山道の脇街道で“彦根道”の別称)が南北に縦断し、古くから交通の要衝でもありました。

 

 

近代に入っても農・商・工業の拠点の一角を担っていましたが、時代の流れとともにかつての市街地は寂れ、町の趨勢は大きく変化してしまいました。

 

 

とはいえ今でもかつての隆盛の一端が垣間見えるのは何よりの“宝”。そんな“宝”の片鱗を探しに歩いてみました。

 

 

ここは日夏の玄関口、中沢交差点。左右の道が“朝鮮人街道”、手前の道が地元の政治家で植林家の大橋利左衛門(おおはしりざえもん)によって整備された日夏街道です。

 

 

日夏街道は、最寄駅である河瀬(かわせ)駅開業から遡ること9年の明治20(1877)年に、鉄道への接続道路として開通しました。

 

 

現在は周辺住民の重要な生活道路として機能しています。

 

 

また写真左側には荒神山が見えます。この山は明治に入り生活に困窮した村民が樹木を乱伐し、短期間でハゲ山同然の状態になっててしまったのだとか。それを前述の利左衛門が村民を説得してアカマツを植林し、現在の状態に戻したのだそうです。何れにしましても利左衛門の努力と先見の明が、今でもこの地域の生活の根幹を支えているのです。

 

 

さて日夏の象徴的存在といえば、この旧日夏村役場です。

 

 

かのヴォーリズ建築事務所の設計により昭和10(1935)年に竣工。

 

 

総工費19,578円30銭(現在の貨幣価値に換算しておよそ2億円)を投じて、産業組合(後の農業協同組合)との合同庁舎として整備されます。

 

 

そして彦根市に編入される昭和25(1950)年までの15年間、村の中枢として機能しました。

 

 

役場としての役目を終えた後は、引き続き地元の自治会館(南側)と農協の支店(北側)として活用されました。

 

 

しかしJA(旧農協)の店舗統廃合により平成13(2001)年に支店が閉鎖され、解体の危機に直面します。

 

 

この存亡の危機に対して「日夏歴史研究会」を始めとする地元有志の方々の熱意と努力が実を結んだ結果、解体の危機を免れ今に至ります。

 

 

現在農協の後にはお洒落なCafeが開業し、自治会館もコミュニティスペース「日夏里館(ひかりかん)」として新たな一歩を踏み出しています。

 

 

豊郷町の旧豊郷小学校校舎同様、随所にヴォーリズ建築の真髄を垣間見ることが出来ます。

 

 

また最近この建物の設計図が発見され、にわかに注目が集まっています。

 

 

この村役場の隣には、かつて日夏村民の子供たちが通っていた日夏小学校がありました。

 

 

昭和43(1968)年に花田(はなだ)・多景(たけ)小学校とともに城陽小学校へ統合され廃校となりました。

 

 

廃校後も校舎の一部が残り、日夏保育園の園舎として活用されていました。

 

 

当時の木造2階建の建物はとても風格がありましたが、園舎が新設されるとともに全て解体されてしまいました。

 

 

現在はかつての小さな門柱と石橋、そして当時からあったであろう数本の樹木が残るのみです。

 

 

宇曽川堤  花の雲
たなびく里に 友垣の
へだてもうけぬ なごやかさ
ああ 誉あれ われらの学校

 

琵琶の浦波 静かにて
鏡とすめる 心もて
研き修めん 知恵と徳
ああ 光あれ われらの希望

 

荒神山の 松の如
青空指して すくすくと
強く正しく 伸びゆかん
ああ 栄あれ われらの前途

 

 

昨年彦根市立時代の校歌の歌詞と楽譜が発見されました。

 

 

地元では当時を懐かしむ卒業生の間でちょっとしたブームとなっているようです。

 

 

もう1つ、かつての隆盛振りを思い起こさせる建物があります。日夏最後の酒造会社・寺村酒造です。

 

 

創業期は判然としませんが江戸時代から続く造り酒屋で、八景菊(はっけいぎく)という銘柄の日本酒を製造しておられました。残念ながら日本酒の需要低迷と杜氏や蔵男の確保の難しさから、昭和60(1985)年で酒造業から撤退されました。

 

 

ただその後も八景菊の名を守るべく東近江市の近江酒造に生産を委託され、現在でも“上撰(旧1級酒・写真左)” “佳撰(旧2級酒・写真右)”の2種を継続して販売しておられます。

 

 

ちなみに味は端麗な甘口で、万人受けするタイプの清酒であると教えていただきました。

 

 

かつての造り酒屋の面影は、今でも多く残っています。

 

 

表に最も特徴的な建物があります。

 

 

この肌色の建物は、酒米を精米するための場所だそうです。

 

 

現在も倉庫として活用されています。

 

 

また裏手には酒蔵の一部や煙突も残っています。

 

 

一番奥にあった酒蔵は一部改装されて、現在美容院として活用されています。この煙突も日夏のどこからでも見える象徴的オブジェとして今でも“歴史の生き証人”としての役目を立派に務めています。

 

 

最後に、この日夏は湧水の村としても知られていました。

 

 

集落のあちこちに水路が張り巡らされ、戦後間もない頃までは琵琶湖から多くの魚が遡上してきていたそうです。

 

 

 

しかし高度成長期に生活雑排水や農業汚濁水の流入で死の川に変貌してしまいました。

 

 

 

近年になってこの水路の再生活動が町興しの一環として行われ、今はとても清廉な水が流れ、そこを大きな鯉が悠々と泳いでいます。

 

 

先日取材でお世話になった角田さんも、以前自宅で飼育されていた鯉を寄贈され、現在でも元気に泳いでいるそうです。

 

 

この水路にメダカやタナゴが還ってくる日は来るのでしょうか・・・。

 

 

あっ、そうそう。すっかり忘れていました。お嬢が池のもう1つのお話をするお約束でしたね。

 

 

この池にはどんな大雨や洪水の時でも、決して濁ることのない澄み切った場所がありました。そこには数匹の小魚が年中泳いでいて、太公望でなくとも釣糸を垂れてみたい衝動に駆られたそうです。明治になってからのある日、1人の郵便夫が釣糸を垂れていました。最初は餌をつけて懸命に糸の動きを眺めていましたが、次第に何か楽しそうに1人で話しだします。まるで池の中にいる者と話し合っているように見えました。しばらくすると郵便夫はいきなり池の中へと歩き出し、「あれよあれよ」と言う間もなくその姿は見えなくなってしまいました。

 

 

かつて、この池ではこんな出来事があったのです。

 

 

その昔、“夜遊び”といって若い男が女の家に通うという風習がありました。村にはお光という若くて優しい娘がおり、皆からは「お嬢、お嬢」と呼ばれ、誰からも愛されていました。なかでも村の庄屋の一人息子は、誰よりも足繁くお光の元に通い、相思の中になりつつありました。ところがその息子に隣村の豪農の娘との縁談がまとまります。ある夜庄屋の息子はお光を誘い出しました。そして池の近くまで来た時、ばつの悪くなった息子は何も知らないお光をあろうことか池に突き落としてしまったのです。以来この池をお光の愛称から「お嬢が池」と呼ぶようになり、成仏せぬお光の霊が池に近付く若い男を誘うのだと言われています。

 

 

さて今回ご紹介したスポットの他にも、集落の中に入ると昔懐かしい土蔵や寺院が随所に残っています。地元の方もとても親切な方が多く、初対面の私にお茶までご馳走していただいたお家もございました(*^_^*)

 

 

観光地とはまた違ったレトロな雰囲気漂う日夏の町を散策してみてはいかがでしょうか?

 

 

今回の記事編集に情報提供いただきました彦根市日夏町泉地区の寺村酒造さん、筒井地区の角田さん。この場を借りまして厚く御礼申し上げます、本当に有難うございました。

 

 

旧日夏村役場(日夏町民会館)
彦根市日夏町2908-5

寺村酒造
 彦根市日夏町2055
TEL.0749-28-0513

 

 

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