「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>
今回は間諜(かんちょう/スパイ)に冤罪を被せられた女性、おしよについてのお話をいたしたいと存じます。
彦根市の中央部に日夏(ひなつ)町という大きな町があります。この日夏という町は、江戸時代には8つの村(筒井・五僧田・安田・泉・寺・妙楽寺・中沢・島)に分かれ、“日夏荘”と呼ばれていました。
江戸時代中期、8代将軍・徳川吉宗が世を治めていた享保2(1717)年の春のことです。
五僧田村(ごそうでんむら/現在の彦根市日夏町五僧田)に角田藤兵衛(すみだとうべえ)という人がおりました。
藤兵衛は村で井筒屋という造り酒屋を営んでいました。
村でも指折りの豪家で、荒神(こうじん)山東端にある唐崎(とうざき)神社の氏子総代を代々務めるほどの家柄でした。
当時の唐崎神社では、毎年の祭礼で氏子の各村が太鼓渡御で先陣争いすることが恒例となっていました。
毎度のことながら祭の前になると、各村の世話方たちは渡御の最短ルートを検討したり、他の村を出し抜く方法を思案したりと、数夜に渡って相談することになっていました。
ここ4~5年は五僧田村が先陣を勝ち取っていましたが、そこでは常に隣の須越村(すごしむら/現在の彦根市須越町)と競り合っていました。
さて、井筒屋の手代に美濃國出身で甚佐(じんざ)という者がおり、得意先回りに須越村へも行き来していました。しかしこの甚佐は余り身持ちが良くなく、常に金に困っていました。
これを知った須越村の世話方たちは、甚佐を金で買収。甚佐は井筒屋の縁の下に潜り込み、会合の一部始終を横流しします。結果須越村は五僧田村を出し抜いて、ついにその年の先陣を奪取したのです。
祭の終った夜、五僧田村ではこちらの手の内を密告した者がいると大騒ぎになり、井筒屋には世話方たちが集まって、早速犯人詮議の会合が開かれます。村には須越村の家と縁戚関係にある者もおり、皆から白い目で見られるため、家庭不和さえ起きかねない様相を呈していました。
井筒屋には須越村の出身で、気立てよく大層美人で評判の女中が働いておりました。名をおしよといい、幾人もの手代や蔵男たちが秘かに想いを寄せ、引く手あまたの状態でありました。
この日甚佐はこの騒動のどさくさに紛れて、日頃想いを寄せていたおしよを酒蔵に誘い込んで口説きました。しかし身持ちの固いおしよは全く応じる気配がありません。業を煮やした甚佐は乱暴に打って出ようとしようとしますが、おしよと争っている声を聞きつけられ、会合に集まった人々に何事かと次々に駆け付けられてしまいました。
収拾の付かなくなった甚佐は、あろうことかおしよを指して、「内通していた犬が見つかったので取り押さえて引き立てるところだ。ふとい女だ!」と言葉巧みに訴えました。
おしよは必死に弁解しますが、内通によって先陣を奪われ怒り心頭であった人々は「殺してしまえ」「叩きのばせ」と騒いで全く取り合いません。悪いことにおしよは須越村の漁師の娘でしたので、濡れ衣を晴らす術もなく犯人に仕立て上げられてしまったのです。
人目の隙を見て井筒屋を抜け出したおしよは、隣の筒井村の西方へ暗路を走りだし、あまりの口惜しさ無念さに村外れの古沼に飛び込んでしまいました。
こっそりおしよの後を付けていた甚佐は、これで自分の悪事がばれないと思い飛び上がって喜びました。ところが古沼から急に波が立って、何と甚佐は水中へ引きずり込まれてしまったのです。
おしよが居なくなったことに気付いた村人たちは四方へ散って行方を捜しましたが、とうとう見付けることは出来ませんでした。翌朝、古池の傍の柳を抱くような姿で亡くなっている甚佐が発見されました。しかしとうとうおしよを見付けることは出来ませんでした。
その後この古池には大蛇が潜んでいると噂されるようになります。人には姿を見せませんが、大蛇が通った後の田圃にはおびただしい数の銀蠅が群れていたといいます。
村人たちは大蛇がおしよの化身であると恐れ、以降この古池をおしよ池と呼ぶようになりました。後に「おしよ」の語呂が転訛して、お嬢が池(おじょうがいけ)となったそうです。
お嬢が池は日夏町の西端にある野田沼の東方にありました。圃場整備の影響で徐々に規模を狭めつつもかつてのよすがを残していたのですが、残念ながら昭和57(1982)年の整備事業で、難工事の末跡形も無くなってしまいました。
井筒屋も大東亜戦争終戦後しばらくまで酒造業を営んでいましたが、経営に行き詰まり廃業してしまったそうです。
日夏町筒井地区在住の角田一郎さんのお話によれば、“角田藤兵衛”の名は一種の屋号であり、この周辺にはその名を冠する家が3軒あり、そのうちの1つだったのだそうです(ちなみに角田一郎さんのお家も“角田藤兵衛”の屋号をお持ちです)。
また角田家は家系を遡ると第59代・宇多天皇に辿り着き、近江源氏・佐々木氏の末裔なのだとも教えていただきました。
かつての井筒屋跡には、現在別の方の家屋敷が建っています。
伝説では“五僧田村”となっていますが、角田さんに寄れば“筒井村”が正しいのではないかとのことでした。
角田さんがまだ幼い頃に廃業を目の当たりにしたそうですが、資産を切り売りしながら凋落していく姿は子供心に世の悲哀を覚えたそうです。
人間、悪いことをすれば必ずその報いを受けるという教訓ですね。お嬢が池にはもう1つのお話があるのですが、それは次回のお楽しみということで(*^_^*)
今回の記事編集に情報提供いただきました社団法人彦根観光協会の松本さん、彦根市日夏町筒井の角田さん。この場を借りまして厚く御礼申し上げます、本当に有難うございました。
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