「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>
先日NHK時代劇で『火怨・北の英雄 アテルイ伝』が放送されました。東日本大震災の被災地支援の意味を多分に含んでいるのでしょうが、阿弖流爲(アテルイ)という記紀に於いても存在が不確かな人物をテーマに起用した点は評価に値します。「北辺の大地」は時に中央を脅かす英傑が誕生するパワーを秘めています。今回はそんな英傑の1人の伝説をご紹介したいと存じます。
平将門(たいらのまさかど)・・・歴史好き&ミステリースポット好きの方なら“ピン”とくる人物ですよね(^^)
平安時代中期の武将で、関東を中心として急速に勢力を拡大。自らは新皇(しんのう)と称して新たな天皇を名乗り、朝廷に反旗を翻したため朝敵とみなされます。その後朝廷より派遣された討伐軍と対峙しますが、新皇就任から僅か2ヶ月で征討されてしまいます。この騒乱は、承平・天慶の乱(じょうへい・てんぎょうのらん)と称されます。
※「承平・天慶の乱」は、平将門と藤原純友(ふじわらのすみとも)が起こした2つの騒乱の総称です。
もっとも将門の名を誰しもが“何となく”でも存知しているのは、やはり東京都千代田区大手町にある平将門の首塚/将門塚(しょうもんづか)の存在でしょう。東京都心のど真ん中のビル群の中にあって、未だ異種独特の雰囲気を醸し出しています。かつては“祟り伝説”“心霊スポット”のカラーが強かったのですが、最近はパワースポットとしての認知も高まっているようです。
将門は武芸に秀でていたのみならず、世に受け入れられない者の代弁に努めていたとされ、その壮絶で悲劇的な死とも相俟って、日本各地に逸話や伝説が語り継がれています。ここでは滋賀に残る“将門伝説”をご紹介いたします。
愛知郡愛荘町には、不飲(のまず)という何とも物騒な名前の付いた池と川があります。滋賀県下の大半の河川は山間部を源流とするか大きな河川の支流であるのですが、不飲川(のまずがわ)”は、愛荘町の南面を流れる「愛知川(えちがわ)」近くにある不飲池(のまずいけ)を源泉としている、極めて珍しい存在です。
さて何故「不飲」などという、余り“有り難くない”名前が付いたのか?
承平・天慶の乱で朝廷の討伐軍に敗れ討死した将門。その首は討伐軍の藤原秀郷(ふじわらのひでさと/「三上山のムカデ退治」の伝説で名高い武将)によって都(平安京)に運ばれました。途中この池で将門の首を洗うと血で真っ赤に染まったため、それ以来近隣の民衆は「池の水を飲んではいけない」と伝えたとされています。
ちなみにこの池のそれまでの名前は野間津池(のまずいけ)であったとか。なにやら“こじつけ”を感じるのは私だけでしょうか?
その他『近江輿地志略』という文献によれば、この池の水には毒が混じっていたからとか、池から毒ガスが出ていたから「野間津(不飲)」と言われていたとも書かれています。また戦国時代にはこの付近で合戦が絶えず、池や川に戦死者の死体が絶えず浮いていたことが原因であったとも言われています。
ともかく“不飲池”“不飲川”、また旧中山道に掛かる橋にも不飲川橋と名付けた程ですから、如何に住民がこの言い伝えに強い警戒心を抱いていたかが伺い知れます。
そして科学万能の現代・・・不飲の真相を“科学的に解明”したという話は聞いたことがありません。昔は“不飲池”“不飲川”共に不気味な様相を呈しておりましたが、現在は河川改修され、それほど不気味には感じません。
さてこの愛荘町には、もう1つの“将門伝説”があります。
愛荘町の北面を流れる宇曽川(うそがわ)と旧中山道が交わる地点に、歌詰橋(うたづめばし)という名の橋があります。
平安京へ凱旋する秀郷の一行がこの地に差し掛かった時、運んでいた将門の首が突如として眼を見開き、秀郷目掛け急襲してきたのです。
透かさず秀郷は将門の首に向かって「歌を一首!」と叫ぶと、将門の首は歌に詰まってその場に落ちたとか。それがこの橋の上だったので、この名が付いたようです。
流石にこの歌詰橋も現在はコンクリート橋梁ですが、かつては十数本の長い丸太棒を土台にして、その上に土を塗りこめた“土橋”であったそうです。
将門は死してなお「底知れぬ力と怨念」を秘めていたのですねぇ。“おどろおどろしい”感もありますが、それでも彼のパワーをご所望でしたら是非ご散策ください。なお、いくらパワーが欲しいとは申せ、決して“不飲”の水はお口に含まれませんように(^^)
ご紹介しているうちに、何やら“沢田研二”版の『魔界転生』を思い出しました。
ん?思い出すべきは『帝都物語』だった…かな?
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