Monthly Archives: 3月 2013

平将門“怨念”伝説 in Shiga

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

 

 

先日NHK時代劇で『火怨・北の英雄 アテルイ伝』が放送されました。東日本大震災の被災地支援の意味を多分に含んでいるのでしょうが、阿弖流爲(アテルイ)という記紀に於いても存在が不確かな人物をテーマに起用した点は評価に値します。「北辺の大地」は時に中央を脅かす英傑が誕生するパワーを秘めています。今回はそんな英傑の1人の伝説をご紹介したいと存じます。

 

 

平将門(たいらのまさかど)・・・歴史好き&ミステリースポット好きの方なら“ピン”とくる人物ですよね(^^)

 

 

平将門平安時代中期の武将で、関東を中心として急速に勢力を拡大。自らは新皇(しんのう)と称して新たな天皇を名乗り、朝廷に反旗を翻したため朝敵とみなされます。その後朝廷より派遣された討伐軍と対峙しますが、新皇就任から僅か2ヶ月で征討されてしまいます。この騒乱は、承平・天慶の乱(じょうへい・てんぎょうのらん)と称されます。

※「承平・天慶の乱」は、平将門と藤原純友(ふじわらのすみとも)が起こした2つの騒乱の総称です。

 

 

もっとも将門の名を誰しもが“何となく”でも存知しているのは、やはり東京都千代田区大手町にある平将門の首塚/将門塚(しょうもんづか)の存在でしょう。東京都心のど真ん中のビル群の中にあって、未だ異種独特の雰囲気を醸し出しています。かつては“祟り伝説”“心霊スポット”のカラーが強かったのですが、最近はパワースポットとしての認知も高まっているようです。

 

 

将門は武芸に秀でていたのみならず、世に受け入れられない者の代弁に努めていたとされ、その壮絶で悲劇的な死とも相俟って、日本各地に逸話や伝説が語り継がれています。ここでは滋賀に残る“将門伝説”をご紹介いたします。

 

 

不飲池愛知郡愛荘町には、不飲(のまず)という何とも物騒な名前の付いた池と川があります。滋賀県下の大半の河川は山間部を源流とするか大きな河川の支流であるのですが、不飲川(のまずがわ)”は、愛荘町の南面を流れる「愛知川(えちがわ)」近くにある不飲池(のまずいけ)を源泉としている、極めて珍しい存在です。

 

 

さて何故「不飲」などという、余り“有り難くない”名前が付いたのか?

 

 

承平・天慶の乱で朝廷の討伐軍に敗れ討死した将門。その首は討伐軍の藤原秀郷(ふじわらのひでさと/「三上山のムカデ退治」の伝説で名高い武将)によって都(平安京)に運ばれました。途中この池で将門の首を洗うと血で真っ赤に染まったため、それ以来近隣の民衆は「池の水を飲んではいけない」と伝えたとされています。

 

 

ちなみにこの池のそれまでの名前は野間津池(のまずいけ)であったとか。なにやら“こじつけ”を感じるのは私だけでしょうか?

 

 

不飲川と不飲川橋その他『近江輿地志略』という文献によれば、この池の水には毒が混じっていたからとか、池から毒ガスが出ていたから「野間津(不飲)」と言われていたとも書かれています。また戦国時代にはこの付近で合戦が絶えず、池や川に戦死者の死体が絶えず浮いていたことが原因であったとも言われています。

 

 

ともかく“不飲池”“不飲川”、また旧中山道に掛かる橋にも不飲川橋と名付けた程ですから、如何に住民がこの言い伝えに強い警戒心を抱いていたかが伺い知れます。

 

 

そして科学万能の現代・・・不飲の真相を“科学的に解明”したという話は聞いたことがありません。昔は“不飲池”“不飲川”共に不気味な様相を呈しておりましたが、現在は河川改修され、それほど不気味には感じません。

 

 

さてこの愛荘町には、もう1つの“将門伝説”があります。

 

 

愛荘町の北面を流れる宇曽川(うそがわ)と旧中山道が交わる地点に、歌詰橋(うたづめばし)という名の橋があります。

 

 

歌詰橋平安京へ凱旋する秀郷の一行がこの地に差し掛かった時、運んでいた将門の首が突如として眼を見開き、秀郷目掛け急襲してきたのです。

 

 

透かさず秀郷は将門の首に向かって「歌を一首!」と叫ぶと、将門の首は歌に詰まってその場に落ちたとか。それがこの橋の上だったので、この名が付いたようです。

 

 

流石にこの歌詰橋も現在はコンクリート橋梁ですが、かつては十数本の長い丸太棒を土台にして、その上に土を塗りこめた“土橋”であったそうです。

 

 

将門は死してなお「底知れぬ力と怨念」を秘めていたのですねぇ。“おどろおどろしい”感もありますが、それでも彼のパワーをご所望でしたら是非ご散策ください。なお、いくらパワーが欲しいとは申せ、決して“不飲”の水はお口に含まれませんように(^^)

 

 

ご紹介しているうちに、何やら“沢田研二”版の『魔界転生』を思い出しました。
ん?思い出すべきは『帝都物語』だった…かな?

 

 

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タイムトリップ“日夏懐景散策紀行”

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さて前回「おしよの伝説」取材のために縦横無尽に駆け巡った日夏の街並(彦根市日夏町)をご紹介したいと存じます。

 

 

日夏町はかつて犬上郡日夏村と呼ばれる一行政区画でした。昭和25(1950)年に彦根市へ編入されたのですが、その当時の人口は何と約8,800人。合併当時の彦根市の約18%の人口を要する大きな村でした。昨年国指定史跡に認定され、にわかに注目を浴びている荒神山古墳のある荒神山に、かつてこの周辺を治めていた日夏氏の居城があったとされています。町内に残る数多くの“日夏姓”は、領主にゆかりのある家柄の末裔であるとも言われています。

 

 

またこの日夏は朝鮮人街道(ちょうせんじんかいどう/将軍上洛や朝鮮通信使通行に使用された中山道の脇街道で“彦根道”の別称)が南北に縦断し、古くから交通の要衝でもありました。

 

 

近代に入っても農・商・工業の拠点の一角を担っていましたが、時代の流れとともにかつての市街地は寂れ、町の趨勢は大きく変化してしまいました。

 

 

とはいえ今でもかつての隆盛の一端が垣間見えるのは何よりの“宝”。そんな“宝”の片鱗を探しに歩いてみました。

 

 

ここは日夏の玄関口、中沢交差点。左右の道が“朝鮮人街道”、手前の道が地元の政治家で植林家の大橋利左衛門(おおはしりざえもん)によって整備された日夏街道です。

 

 

日夏街道は、最寄駅である河瀬(かわせ)駅開業から遡ること9年の明治20(1877)年に、鉄道への接続道路として開通しました。

 

 

現在は周辺住民の重要な生活道路として機能しています。

 

 

また写真左側には荒神山が見えます。この山は明治に入り生活に困窮した村民が樹木を乱伐し、短期間でハゲ山同然の状態になっててしまったのだとか。それを前述の利左衛門が村民を説得してアカマツを植林し、現在の状態に戻したのだそうです。何れにしましても利左衛門の努力と先見の明が、今でもこの地域の生活の根幹を支えているのです。

 

 

さて日夏の象徴的存在といえば、この旧日夏村役場です。

 

 

かのヴォーリズ建築事務所の設計により昭和10(1935)年に竣工。

 

 

総工費19,578円30銭(現在の貨幣価値に換算しておよそ2億円)を投じて、産業組合(後の農業協同組合)との合同庁舎として整備されます。

 

 

そして彦根市に編入される昭和25(1950)年までの15年間、村の中枢として機能しました。

 

 

役場としての役目を終えた後は、引き続き地元の自治会館(南側)と農協の支店(北側)として活用されました。

 

 

しかしJA(旧農協)の店舗統廃合により平成13(2001)年に支店が閉鎖され、解体の危機に直面します。

 

 

この存亡の危機に対して「日夏歴史研究会」を始めとする地元有志の方々の熱意と努力が実を結んだ結果、解体の危機を免れ今に至ります。

 

 

現在農協の後にはお洒落なCafeが開業し、自治会館もコミュニティスペース「日夏里館(ひかりかん)」として新たな一歩を踏み出しています。

 

 

豊郷町の旧豊郷小学校校舎同様、随所にヴォーリズ建築の真髄を垣間見ることが出来ます。

 

 

また最近この建物の設計図が発見され、にわかに注目が集まっています。

 

 

この村役場の隣には、かつて日夏村民の子供たちが通っていた日夏小学校がありました。

 

 

昭和43(1968)年に花田(はなだ)・多景(たけ)小学校とともに城陽小学校へ統合され廃校となりました。

 

 

廃校後も校舎の一部が残り、日夏保育園の園舎として活用されていました。

 

 

当時の木造2階建の建物はとても風格がありましたが、園舎が新設されるとともに全て解体されてしまいました。

 

 

現在はかつての小さな門柱と石橋、そして当時からあったであろう数本の樹木が残るのみです。

 

 

宇曽川堤  花の雲
たなびく里に 友垣の
へだてもうけぬ なごやかさ
ああ 誉あれ われらの学校

 

琵琶の浦波 静かにて
鏡とすめる 心もて
研き修めん 知恵と徳
ああ 光あれ われらの希望

 

荒神山の 松の如
青空指して すくすくと
強く正しく 伸びゆかん
ああ 栄あれ われらの前途

 

 

昨年彦根市立時代の校歌の歌詞と楽譜が発見されました。

 

 

地元では当時を懐かしむ卒業生の間でちょっとしたブームとなっているようです。

 

 

もう1つ、かつての隆盛振りを思い起こさせる建物があります。日夏最後の酒造会社・寺村酒造です。

 

 

創業期は判然としませんが江戸時代から続く造り酒屋で、八景菊(はっけいぎく)という銘柄の日本酒を製造しておられました。残念ながら日本酒の需要低迷と杜氏や蔵男の確保の難しさから、昭和60(1985)年で酒造業から撤退されました。

 

 

ただその後も八景菊の名を守るべく東近江市の近江酒造に生産を委託され、現在でも“上撰(旧1級酒・写真左)” “佳撰(旧2級酒・写真右)”の2種を継続して販売しておられます。

 

 

ちなみに味は端麗な甘口で、万人受けするタイプの清酒であると教えていただきました。

 

 

かつての造り酒屋の面影は、今でも多く残っています。

 

 

表に最も特徴的な建物があります。

 

 

この肌色の建物は、酒米を精米するための場所だそうです。

 

 

現在も倉庫として活用されています。

 

 

また裏手には酒蔵の一部や煙突も残っています。

 

 

一番奥にあった酒蔵は一部改装されて、現在美容院として活用されています。この煙突も日夏のどこからでも見える象徴的オブジェとして今でも“歴史の生き証人”としての役目を立派に務めています。

 

 

最後に、この日夏は湧水の村としても知られていました。

 

 

集落のあちこちに水路が張り巡らされ、戦後間もない頃までは琵琶湖から多くの魚が遡上してきていたそうです。

 

 

 

しかし高度成長期に生活雑排水や農業汚濁水の流入で死の川に変貌してしまいました。

 

 

 

近年になってこの水路の再生活動が町興しの一環として行われ、今はとても清廉な水が流れ、そこを大きな鯉が悠々と泳いでいます。

 

 

先日取材でお世話になった角田さんも、以前自宅で飼育されていた鯉を寄贈され、現在でも元気に泳いでいるそうです。

 

 

この水路にメダカやタナゴが還ってくる日は来るのでしょうか・・・。

 

 

あっ、そうそう。すっかり忘れていました。お嬢が池のもう1つのお話をするお約束でしたね。

 

 

この池にはどんな大雨や洪水の時でも、決して濁ることのない澄み切った場所がありました。そこには数匹の小魚が年中泳いでいて、太公望でなくとも釣糸を垂れてみたい衝動に駆られたそうです。明治になってからのある日、1人の郵便夫が釣糸を垂れていました。最初は餌をつけて懸命に糸の動きを眺めていましたが、次第に何か楽しそうに1人で話しだします。まるで池の中にいる者と話し合っているように見えました。しばらくすると郵便夫はいきなり池の中へと歩き出し、「あれよあれよ」と言う間もなくその姿は見えなくなってしまいました。

 

 

かつて、この池ではこんな出来事があったのです。

 

 

その昔、“夜遊び”といって若い男が女の家に通うという風習がありました。村にはお光という若くて優しい娘がおり、皆からは「お嬢、お嬢」と呼ばれ、誰からも愛されていました。なかでも村の庄屋の一人息子は、誰よりも足繁くお光の元に通い、相思の中になりつつありました。ところがその息子に隣村の豪農の娘との縁談がまとまります。ある夜庄屋の息子はお光を誘い出しました。そして池の近くまで来た時、ばつの悪くなった息子は何も知らないお光をあろうことか池に突き落としてしまったのです。以来この池をお光の愛称から「お嬢が池」と呼ぶようになり、成仏せぬお光の霊が池に近付く若い男を誘うのだと言われています。

 

 

さて今回ご紹介したスポットの他にも、集落の中に入ると昔懐かしい土蔵や寺院が随所に残っています。地元の方もとても親切な方が多く、初対面の私にお茶までご馳走していただいたお家もございました(*^_^*)

 

 

観光地とはまた違ったレトロな雰囲気漂う日夏の町を散策してみてはいかがでしょうか?

 

 

今回の記事編集に情報提供いただきました彦根市日夏町泉地区の寺村酒造さん、筒井地区の角田さん。この場を借りまして厚く御礼申し上げます、本当に有難うございました。

 

 

旧日夏村役場(日夏町民会館)
彦根市日夏町2908-5

寺村酒造
 彦根市日夏町2055
TEL.0749-28-0513

 

 

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濡れ衣を着せられた悲劇の女“おしよ”の伝説

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今回は間諜(かんちょう/スパイ)に冤罪を被せられた女性、おしよについてのお話をいたしたいと存じます。

 

 

彦根市の中央部に日夏(ひなつ)という大きな町があります。この日夏という町は、江戸時代には8つの村(筒井・五僧田・安田・泉・寺・妙楽寺・中沢・島)に分かれ、“日夏荘”と呼ばれていました。

 

 

旧五僧田村江戸時代中期、8代将軍・徳川吉宗が世を治めていた享保2(1717)年の春のことです。

 

 

 

五僧田村(ごそうでんむら/現在の彦根市日夏町五僧田)に角田藤兵衛(すみだとうべえ)という人がおりました。

 

 

藤兵衛は村で井筒屋という造り酒屋を営んでいました。

 

 

唐崎神社村でも指折りの豪家で、荒神(こうじん)山東端にある唐崎(とうざき)神社の氏子総代を代々務めるほどの家柄でした。

 

 

 

当時の唐崎神社では、毎年の祭礼で氏子の各村が太鼓渡御で先陣争いすることが恒例となっていました。

 

 

毎度のことながら祭の前になると、各村の世話方たちは渡御の最短ルートを検討したり、他の村を出し抜く方法を思案したりと、数夜に渡って相談することになっていました。

 

 

旧須越村ここ4~5年は五僧田村が先陣を勝ち取っていましたが、そこでは常に隣の須越村(すごしむら/現在の彦根市須越町)と競り合っていました。

 

 

さて、井筒屋の手代に美濃國出身で甚佐(じんざ)という者がおり、得意先回りに須越村へも行き来していました。しかしこの甚佐は余り身持ちが良くなく、常に金に困っていました。

 

 

これを知った須越村の世話方たちは、甚佐を金で買収。甚佐は井筒屋の縁の下に潜り込み、会合の一部始終を横流しします。結果須越村は五僧田村を出し抜いて、ついにその年の先陣を奪取したのです。

 

 

祭の終った夜、五僧田村ではこちらの手の内を密告した者がいると大騒ぎになり、井筒屋には世話方たちが集まって、早速犯人詮議の会合が開かれます。村には須越村の家と縁戚関係にある者もおり、皆から白い目で見られるため、家庭不和さえ起きかねない様相を呈していました。

 

 

酒蔵(イメージ)井筒屋には須越村の出身で、気立てよく大層美人で評判の女中が働いておりました。名をおしよといい、幾人もの手代や蔵男たちが秘かに想いを寄せ、引く手あまたの状態でありました。

 

 

この日甚佐はこの騒動のどさくさに紛れて、日頃想いを寄せていたおしよを酒蔵に誘い込んで口説きました。しかし身持ちの固いおしよは全く応じる気配がありません。業を煮やした甚佐は乱暴に打って出ようとしようとしますが、おしよと争っている声を聞きつけられ、会合に集まった人々に何事かと次々に駆け付けられてしまいました。

 

 

収拾の付かなくなった甚佐は、あろうことかおしよを指して、「内通していた犬が見つかったので取り押さえて引き立てるところだ。ふとい女だ!」と言葉巧みに訴えました。

 

 

おしよは必死に弁解しますが、内通によって先陣を奪われ怒り心頭であった人々は「殺してしまえ」「叩きのばせ」と騒いで全く取り合いません。悪いことにおしよは須越村の漁師の娘でしたので、濡れ衣を晴らす術もなく犯人に仕立て上げられてしまったのです。

 

 

お嬢が池地形図人目の隙を見て井筒屋を抜け出したおしよは、隣の筒井村の西方へ暗路を走りだし、あまりの口惜しさ無念さに村外れの古沼に飛び込んでしまいました。

 

 

こっそりおしよの後を付けていた甚佐は、これで自分の悪事がばれないと思い飛び上がって喜びました。ところが古沼から急に波が立って、何と甚佐は水中へ引きずり込まれてしまったのです。

 

 

おしよが居なくなったことに気付いた村人たちは四方へ散って行方を捜しましたが、とうとう見付けることは出来ませんでした。翌朝、古池の傍の柳を抱くような姿で亡くなっている甚佐が発見されました。しかしとうとうおしよを見付けることは出来ませんでした。

 

 

その後この古池には大蛇が潜んでいると噂されるようになります。人には姿を見せませんが、大蛇が通った後の田圃にはおびただしい数の銀蠅が群れていたといいます。

 

 

お嬢が池(昭和40年代)村人たちは大蛇がおしよの化身であると恐れ、以降この古池をおしよ池と呼ぶようになりました。後に「おしよ」の語呂が転訛して、お嬢が池(おじょうがいけ)となったそうです。

 

 

お嬢が池は日夏町の西端にある野田沼の東方にありました。圃場整備の影響で徐々に規模を狭めつつもかつてのよすがを残していたのですが、残念ながら昭和57(1982)年の整備事業で、難工事の末跡形も無くなってしまいました。

 

 

井筒屋も大東亜戦争終戦後しばらくまで酒造業を営んでいましたが、経営に行き詰まり廃業してしまったそうです。

 

 

角田藤兵衛旧宅跡日夏町筒井地区在住の角田一郎さんのお話によれば、“角田藤兵衛”の名は一種の屋号であり、この周辺にはその名を冠する家が3軒あり、そのうちの1つだったのだそうです(ちなみに角田一郎さんのお家も“角田藤兵衛”の屋号をお持ちです)。

 

 

また角田家は家系を遡ると第59代・宇多天皇に辿り着き、近江源氏・佐々木氏の末裔なのだとも教えていただきました。

 

 

かつての井筒屋跡には、現在別の方の家屋敷が建っています。

 

 

伝説では“五僧田村”となっていますが、角田さんに寄れば“筒井村”が正しいのではないかとのことでした。

 

 

お嬢が池跡付近角田さんがまだ幼い頃に廃業を目の当たりにしたそうですが、資産を切り売りしながら凋落していく姿は子供心に世の悲哀を覚えたそうです。

 

 

人間、悪いことをすれば必ずその報いを受けるという教訓ですね。お嬢が池にはもう1つのお話があるのですが、それは次回のお楽しみということで(*^_^*)

 

 

今回の記事編集に情報提供いただきました社団法人彦根観光協会の松本さん、彦根市日夏町筒井の角田さん。この場を借りまして厚く御礼申し上げます、本当に有難うございました。

 

 

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北陸との通商路“北国街道と脇往還”

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いや~この連日の降雪と寒さにはショージキまいります(>_<)

 

 

我が家の雪景色何故かと申しますと取材活動に出掛けられないからです。

 

 

 

毎回県内の様々な伝説やエピソードをご紹介しておりますが、ここ最近の大半が昨年後半に取材しましたストックの資料をベースにご紹介しているのが現状です。

 

 

毎日のように“長期気象予報”にらめっこしておりますが、どうもこの3月まではストックデータでしのがねばならない気配です。最悪記事の更新を一時休止することも覚悟せねば・・・と、冬のどんよりとした空を日々恨めしく見上げております。

 

 

まぁ愚痴をこぼしていても始まりませんので、ここは路線変更と参りましょう。

 

 

取材に出られないのなら、未取材箇所の情報収集と更なる郷土史関連資料の整理にあたる!いわゆる日頃の予習が肝要です(*^_^*)

 

 

さて、私は兼ねてより街道に興味を持っております。現役を引退しましたら、昔の人と同じように歩いて旅をしてみたいと。何も某P社のエ〇ルタ君のように「東京から京都まで走破するぞ!」などという壮大なプロジェクトではなく、県内の街道をゆっくりぼちぼち歩いてみたいのです。

 

 

これまでクルマの移動では見過ごしがちな先人の遺構を、歩くことによって発見することが何度もありました。やはり旅の基本&醍醐味は“二本の足で歩く”ところにあると思うのです。

 

 

ところで滋賀の街道と言えば東海道中山道がいの一番に浮かびます。さてさて皆さんは以下の街道のうちどれだけご存知でしょうか?

 

◆鳥居本(彦根市)と直江津(新潟県)を結ぶ“北国街道

◆関ヶ原(岐阜県)と木之本(長浜市)を結ぶ“北国脇往還

◆行畑(野洲市)と鳥居本(彦根市)を結ぶ“朝鮮人街道

◆札の辻(大津市)と敦賀(福井県)を結ぶ“西近江路

◆小幡(東近江市)と土山(甲賀市)を結ぶ“御代参街道

◆行畑(野洲市)と鳥居本(彦根市)を結ぶ“朝鮮人街道

◆武佐(野洲市)と桑名(三重県)を結ぶ“八風街道

◆出町柳(京都府)と小浜(福井県)を結ぶ“若狭街道

 

北国街道と脇往還その他にも地域の生活路としての街道も挙げればきりがありません。これら「マイナーな街道」は資料も少なく、また再開発や区画整理・道路の路線付替を行われた箇所が思いの外多いため、探訪は困難を極めるのです。

 

 

そんな私に助っ人として頼もしい資料がまた1つ、手元に届きました。長浜城歴史博物館編纂の『北国街道と脇往還(ほっこくかいどうとわきおうかん)』です。

 

 

これまで郷土史を学んできた中で北国街道と脇往還の名は頻繁に出てくるのですが、いま一つルートのイメージが掴めず今日に至ってしまっております。ちなみに脇往還と申しますのは、現代風に表現すればバイパスみたいなものです。

 

 

この資料では2つの街道の詳細なルート説明だけに止まらず、豊富な写真や図版を駆使して、歴史的背景や沿道文化にまで言及しています。

 

 

中河内宿しかもこの2つの街道と長浜の街を結んでいた長浜街道と、一昨年の大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」の舞台ともなった浅井氏の小谷城と米原を結んでいた小谷道についても網羅しています。

 

 

先日の記事で触れました豪雪地帯・中河内(なかのかわち)に宿場があったことに驚き(冬はどのように行き来していたのでしょう?)ました。

 

 

加えて、そこから10km程南にあります柳ヶ瀬(やながせ)に本格的な関所が存在したことも初めて知りました。

 

 

 

何十年も滋賀の郷土史を勉強してきたつもりでしたが、いやいやなかなか奥が深いと申しましょうか・・・お恥ずかしい限りです(━_━)ゝ

 

 

柳ヶ瀬関所いやはやこれは私にとって予想以上の第1級資料でした。

 

 

 

9年前に長浜城歴史博物館の特別展の図録として刊行され既に絶版となっていたのですが、幸運にも新品で入手することが出来ました(またまた高額出費は痛いですが・・・)。

 

 

雪が解け切る4月以降に、湖北エリアを重点的に取材していこうと考えております。それまでにはコイツを完全にマスターしておかないと・・・。当面はお天気模様ではなく、この北国街道と脇往還とのにらめっこの日々になりそうな気配です(^^)

 

 

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