Monthly Archives: 1月 2013

きぬがさやま夜話(3)“桑實寺”の伝説

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

 

 

今回は「きぬがさやま夜話」最終章としまして、繖山の西面中腹にあります桑實寺(くわのみでら)についてお話をいたしたいと存じます。

 

 

寺名が何とも素朴で面白いです(^^)

 

 

桑實寺を開基した定恵(じょうえ/中臣鎌足の長男で護持僧)が、唐から持ち帰った桑の実をこの地の農家にて栽培し、日本で最初に養蚕を始めたことに由来するのだそうです。

 

 

ちなみに護持僧(ごじそう/御持僧とも)とは、天皇の身体護持のため祈祷を行っていたお坊さんのことです。

 

 

このお寺が創建されたのには、このような経緯がありました。

 

 

天智天皇の御代のこと。当時大津京では悪病が流行り、天皇の四女であった阿閉皇女(あへのひめみこ/後の元明天皇)も同じく病に伏せってしまいます。

 

すると皇女が夢の中で湖の波の声として観音経が聞こえ、その波の止まるところを見ようと舟を出したら、瑠璃(るり)の光が見えて目が覚めたと訴えました。

 

そこで天皇は定恵にこの夢のことを話し、どういう訳かと尋ねます。すると定恵は次のような話を思い出しました。

 

「昔、役行者(えんのぎょうじゃ)が富士山に登り、西方に瑠璃色の琵琶を見た。そして琵琶の傍らに天蓋があり、その東方で美しい女が音曲を奏でていた。それは何かと調べてみたら、琵琶と見たのは近江の湖であり、天蓋と見たのは繖山であった。天女は弁財天であり、これは八大龍王の化身、湖底には龍宮城もあった。」

 

夢がこの話によく似ているというので、定恵は大津の膳所(ぜぜ)の浜で病気平癒のための祈願法要を営みました。すると薬師如来が現れ、お陰で阿閉皇女を始め国中の人々の病が治りました。

 

程なくして湖より大白水牛(だいびゃくすいぎゅう/白い水牛)が現れ、薬師如来を乗せて繖山の麓へと飛んで行きます。麓からは岩駒(いわこま/白い馬)が薬師如来を乗せ、山腹に降り立ちます。

 

その降り立った場所に瑠璃石がありました。

 

このことに感激した天智天皇は、勅願により瑠璃石の近くにその薬師如来を本尊として堂塔を建立しました。それが桑實寺なのです。

 

 

薬師如来が降臨した瑠璃石と呼ばれる巨石が、繖山の山腹にあります。

 

 

 

桑實寺本堂から向かって左側にある登山道を行き、途中観音寺城方面への険しい山道を約20分進むと、桑實寺本堂裏手に巨石群が右手に現れます(注:ピカピカとは光っていません!)

 

 

 

特に案内板がある訳ではないのですが、モノリスのような2つの石柱を門に構え、一際大きな岩が山腹に張り付いています。

 

 

 

ここには岩駒が降り立った時の蹄(ひづめ)の跡も残っています。

 

 

このお話は国重要文化財に指定されている『桑實寺縁起絵巻』に網羅されています。

 

 

なお、この桑實寺の開基にはある疑惑が・・・。

 

 

天智天皇の勅願で定恵が創建したと伝えられているのが677年。『藤原家伝』によれば、定恵が亡くなったのが666年。

 

 

何と没後11年に開基?・・・いやいや最早これは“怪奇”です(>_<)

 

 

なお鎌倉時代に撰せられた日本初の仏教通史『元亨釈書(げんこうしゃくしょ)』では没年を714年としていますので、これなら辻褄が合います。

 

 

どちらにせよ、中臣鎌足の長男でありながら僧であることといい、何かと謎多き人物であることは確かなようです。

 

 

最後に、織田信長にまつわるお話を1つ(どこかでお聞きになったかもしれません)。

 

 

1582(天正9)年4月10日。信長は少数の小姓衆を従えて、琵琶湖の竹生島(ちくぶしま)に参詣します。

 

安土城に詰める女房衆(にょうぼうしゅう/主君の身の回りの世話をする女性)は、遠路であるから途中の羽柴秀吉の長浜城に宿泊し、今日は帰城しないと考え自由に過ごしておりました。

 

ある者は城の二の丸に出掛け、ある者は桑實寺の薬師参りに出掛けていました。しかし大方の予想に反し、信長は異例の速さで安土城に戻ります。城内は大騒ぎとなり、この状況に激怒した信長は、怠けていた者を残らず縛り上げさせました。

 

桑實寺に出掛けていた者たちは信長の罰を恐れて、寺の長老に助けを請いました。長老は「慈悲をもってお助けを」と懇願しますが、かえって信長の逆鱗に触れ、女房衆とそれを擁護した高僧たちを処刑したのです。

 

 

これが世に言う桑實寺事件(竹生島事件とも)です。このお話は豊臣秀吉の命により執筆された『信長公記(しんちょうこうき)』に所載されているのですが、桑實寺の当時の寺伝にその出来事の記載がないことから、昨今は“いささか歪曲された内容”ではないかとの意見もあります。

 

 

なお桑實寺の500段の階段は「心臓破りの丘」以上の難関です。体力や足腰に自信のない方にはおススメできません。更に「瑠璃石」への道のりは、下手しますと“遭難”してしまいます。探訪には事前の入念な準備が必要です・・・ちなみに私は桑實寺でお借りした“竹の杖”なしでは登れませんでした(>_<)

 

 

でも・・・ロケーションはサイコーです!(^^)

 

 

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きぬがさやま夜話(2)“お茶子谷”の伝説

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今回は「きぬがさやま夜話」第2回としまして、かつてこの繖山に近江源氏・佐々木氏の嫡流であり南近江の守護大名であった六角氏が権勢を誇るべく築いた、観音寺城にまつわるお話をいたしたいと存じます。

 

 

この繖山にはお茶子谷と呼ばれる場所があります。

 

 

山の南面麓にある寺院・教林坊(きょうりんぼう)の裏手(通称:龍の口)から観音正寺の奥之院へと通じる谷筋がそれですが、観音寺城が落城してからは全く使われなくなったそうです。

 

 

お茶子谷には哀しい話が残っています。

 

 

昔々、繖山山麓の石塚村に住んでいた豪族の娘に、お茶子という美しい姫がいました。

 

やがてお茶子は、近江源氏・佐々木氏の殿様に見初められてお城へ仕える身となります。お茶子の優しさと美しさは大変殿様を喜ばせ、殊の外寵愛を受けました。

 

しかしそれは同時に、お城に仕える他の女たちから大きく妬まれることになります。

 

女たちの妬みは次第に酷くなり、ある日お茶子は谷の岩屋に閉じ込められ、蛇に責められてなぶり殺されてしまいます。お茶子の怨霊はブトに化身したため、この山のブトは頭が桃割れの形をしていて、刺されると酷く毒が回って腫れ上がるといいます。

 

 

ブトとは蚋(ぶゆ/ハエの仲間で大きさが2~5mmの吸血害虫)のことを指します。

 

 

ちなみに・・・実はこの「お茶子伝説」にはもう1つのストーリーパターンがあるのです!

 

 

その昔、繖山の麓にある石塚村の豪族に、お茶子という美しい娘がおりました。

 

このところ毎夜、お茶子のところへ忍んでくる若者がおりました。それは観音寺城主・佐々木氏の血筋の者と名乗る気品の高い貴公子でした。如何にお忍びとはいえ従者の1人も連れて来ないので両親は不審に思いましたが、お茶子はすっかり魂を奪われています。先頃、野へ若葉を摘みに出たのがそもそもの馴れ初めでした。

 

しかしどうしたことかお茶子は目に見えてやつれていきます。そのやつれ方が余りに激しいので、「もしや魔性の者では…」と両親は気が気でなく、こっそりと占ってもらいました。結果その原因が大蛇の仕業であることを知らされて、さしもの幾多の手の者を従える豪族も、可愛い娘のために驚き嘆き悲しみました。

 

逃れる方法を授かったお茶子の父親は、家来に命じて家中の隙間という隙間を糊で貼り付けて塞がせました。母はお茶子に長い針を渡し、「今夜あの人が来たら、この針でその人の衣の裾を縫い止めるのです。決して気付かれぬように・・・」と何度も念を押しました。

 

 

「あのお優しい殿様が、何で大蛇であってよいものか」とお茶子は両親を恨めしく思うのですが、ふと思い当る節もありました。

 

その夜の若者はとても淋しげで、顔色も蒼ざめておりました。「お茶子殿、お別れです。今宵が最後・・・」

 

お茶子は別れが悲しくて泣きながら、しかし恐ろしさも忘れ必死の思いで彼の衣の裾を針で縫い止めました。物音ひとつもせず、その後のことは誰にも解りませんでした。

 

数日後、村中が大騒ぎとなる事件が起こります。

 

「龍の口に大蛇が死に掛かっている。首に剣が縫い刺さっていて、血まみれになって黄色い焔を吐いて、のた打ち回っている!」と叫びながら、命からがら帰って来たある木こりが余りの恐ろしさのためにそのまま息絶えてしまったというのです。

 

翌朝、龍の口で大蛇に巻かれて死んでいるお茶子が見つかりました。哀れに思った村人たちは、お茶子と大蛇をこの谷にねんごろに葬ったそうです。

 

 

この2つのお話は微妙にニュアンスが異なりますが、共に哀しいお話であることに変わりはありません。以来この谷を「お茶子谷」と呼ぶようになったとのことです。

 

 

最後に、この悲劇のヒロインであるお茶子を祀ったお茶子地蔵が現在でも残っています。

 

 

繖山を東近江市方面から入る林道観音寺線を登り、山上駐車場から観音正寺参道を歩きます。参道沿いには大変多くのお地蔵様が祀られていますが、そのなかでも一際大きな(高さ約1m)お地蔵様がそれですので、直ぐにお解りいただけると思います。

 

 

お茶子の数奇な運命に想いを馳せ、合掌いただければ幸いです<(_ _)>

 

 

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きぬがさやま夜話(1)“観音正寺”の伝説

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今回から3回シリーズで「きぬがさやま夜話」と題しまして、繖山(きぬがさやま)にまつわるお話をいたしたいと存じます。

 

 

繖山(きぬがさやま/別称:観音寺山・標高433m)は、東近江市と近江八幡市の境界とする繖山山系(安土山~箕作山)の最高峰になります。

 

山中には日本最大級の山城といわれる近江源氏・佐々木氏の嫡流である六角氏の本拠地・観音寺城跡と、西国三十三箇所第32番札所である観音正寺(かんのんしょうじ)、また日本の養蚕の発祥地である桑實寺(くわのみでら)を擁します。

 

 

そもそも(きぬがさ)とは何ぞや?

 

 

その答えは、桑實寺に残る『桑實寺縁起』(国指定重要文化財)にあります。

 

 

天地が初めて別れた大昔。あるところに一株の桑の木があり、そこに3つの果実が出来ました。

 

1つは金烏(きんう/太陽に住むという三本足の伝説の鳥)となって木の頂を飛び、1つは玉兎(ぎょくと/月に住むという伝説のウサギ)となって枝の先で遊んでいました。

 

これが世の中を照らす日光と月光の表れとなります。

 

最後の1つの実は地に落ちて山となりました。その山の形は8枚の葉のようで、天蓋にも似ていました。

 

 

ちなみに繖(きぬがさ)とはこの天蓋(てんがい/貴人・聖人の寝台・玉座・祭壇・司祭座などの上方に設ける覆い)のことを指します。

 

 

以来、この山は繖山と呼ばれるようになったのです。以外やこんなところに、“天地創造”“日本起源”の言い伝えがあるのですね。

 

 

この繖山には色々なお話が残っているのですが、今回は観音正寺に話題を絞ってお届けいたします。

 

 

観音正寺は605年に厩戸王(うまやどのおう/一般的には聖徳太子として知られる)によって開基されたと伝えられています。その開基の起源に関するお話が残っています。

 

 

 

その昔、厩戸王は仏教を広めるために諸国を行脚しておりました。

 

そして近江の愛知川(えちがわ)に差し掛かった時、川の畔で人魚の訴えを聞きます。

 

「私は琵琶湖に住む人魚ですが、実は毎日鱗(うろこ)の間を虫に喰われ、痛くて苦しんでおります。私の前世は漁師でしたが、殺生を生業としていたために、このような姿に生まれ変わってしまったのです。どうか観音菩薩をお祀りして、私の苦しみを救ってください。」

 

そこで早速厩戸王は山に登り、自ら千手観音を刻んで祈ったところ、人魚の苦痛が解消されたといいます。

 

 

その後、この千手観音を本尊として堂塔が建立されました。

 

 

他にも境内の“奥之院”と呼ばれる場所の岩屋には、厩戸王が刻んだという磨崖仏(まがいぶつ/自然の切り立った崖や巨石に彫刻された仏像)が残っています。後に平安時代後期のものであることが判明したため、どうやら“厩戸王作”ではないようです。

 

風化が激しく長い間非公開となっていましたが、2005(平成17)年に「開創1400年」を記念して、期間限定で公開が再開されました。現在は非公開となっております。

 

 

実はこのお寺、2回の大きな災難に見舞われています。

 

 

1度目は戦国時代。同じ繖山に本拠地を持っていた南近江の守護大名・六角氏の庇護を得て栄えていたという理由から、観音寺城もろとも織田信長により焼き討ちに遭い全焼しています。再建されたのは江戸時代初期と言われています。

 

 

そして2度目は何とつい20年前のこと。1993(平成5)年、失火により本堂が全焼。本尊で国指定重要文化財であった「千手観音立像」や、当寺起源の寺宝でもあった人魚のミイラも焼失してしまいました。現在の本堂は2004(平成16)年に再建されたものです。

 

 

また新たに造立された本尊・千手千眼観世音菩薩坐像は、インドから輸入された23トンもの白檀(びゃくだん/仏教儀式で香木として珍重され、特にインドのマイソール地方で産するものが最も高品質とされる)が使われています。

 

 

その希少性からインドで白檀は禁輸対象品となっていましたが、ご住職が二十数回訪問して交渉に当り、結果特例措置として輸出が認められたのだそうです。

 

 

焼失してしまった“立ち姿”の観音様は高さ1m足らず。新たに造られた“座り姿”の観音様は3.56m(光背を含めた総高は6.3m)のビッグサイズ!

 

 

何故こうなってしまったのかは、造立を手掛けた仏師界のカリスマ・松本明慶氏とご住職のみぞ知る・・・といったところでしょうかねぇ(?_?)

 

 

西国三十三箇所の第32番札所ということもあり参拝者は絶えませんが、“純粋な巡礼地”であり“妙な観光地化”をしていない分、ゆったりと訪れることが出来ます。冬季(3月迄)は専用有料道路が閉鎖されるため、東麓にある石寺楽市にクルマを駐車し石段の参詣道をご利用ください。この時期は心静かにお参り出来ること請け合いです(^^)

 

 

今回の取材に快くご協力、また貴重な資料をご提供いただきました観音正寺寺務所様。この場を借りまして厚く御礼申し上げます。

 

 

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“お伊勢参らば お多賀へ参れ”

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

 

 

小生生粋の日本人でございますから、神様に新年のご挨拶と感謝の誠を捧げねばなりません。

 

 

さて天候は今にも雪が降りそうな曇り空。

 

 

痩せ我慢せずにジャンパーかコートを羽織ってくれば良かったと思う程の冷たい空気・・・此度新年の参拝をいたしましたのは、月並みながらお多賀さん(多賀大社)でございます。

 

 

いつもは臨時駐車場からの往復しかしませんが、今回は近江鉄道・多賀大社前駅から絵馬通(多賀大社門前通)をそぞろ歩くことといたしました。

 

 

この通り沿いには「糸切餅屋」と「土産物屋」しかないとばかり思っていましたが、旅館や料亭、精肉店にうどん屋に書店まであるんですね。何十年もこの道を通っていて今回初めて気付きました。お恥ずかしい限りです(苦笑)。

 

 

多賀大社新春風景正月三ヶ日が明けたというのに、結構参拝者がいらっしゃいます。 まだ大雪の痕跡がちらほらと残っていますが、年越し参りの時はさぞかし混雑していたことでしょうねぇ。 さてここで問題! こちらの御祭神はどなたでしたでしょうか? おさらいですよ~~(^^)

 

そう!伊邪那岐命(イザナギノミコト)と伊邪那美命(イザナミノミコト)ですよね。

 

“お伊勢参らば お多賀へ参れ お伊勢お多賀の子でござる”

“お伊勢七度、熊野へ三度、お多賀さまへは月参り”

 

信心深いさしもの私でも月参りはなかなか・・・ちなみに“お多賀の子でござる”伊勢神宮の天照大神(アマテラスオオミカミ)のお父さんは伊邪那岐命。でもお母さんは伊邪那美命ではないんですよね~。詳しくは『古事記』をご参照くださいませ<(_ _)>

 

 

さてコチラ、「伏見稲荷」さんではございません。ここは金咲稲荷大明神と申します。

 

 

 

意外にも多賀大社本殿の東側にございます。私もつい最近になって、ここにお稲荷さんが鎮座されているのを知りました。 金咲稲荷はお多賀さんの孫神様にあたられるのだそうです。名前を見て思わず強欲さを前面に 押し出してしまいそうになります(^^)

 

 

 

でもそれでは神様の勘気に触れてしまいますので、心静かに仕事の安泰を祈願いたしました。

 

 

こちらは西参道。多賀大社は表・東・西・北・稲荷の5つの参道からアプローチ出来ますが、ほぼ98%の参拝者が表参道を利用するため、他の参道はとてもひっそりとしています。

 

 

この西参道界隈にはかつて多くの神宮寺(じんぐうじ/日本において神仏習合思想に基づき神社に附属して建てられた寺院)が存在しましたが、明治の神仏分離令で全ての 寺院が破却されたそうです。

 

 

写真左手は「かめや」、右手は「かぎ楼」。ともに江戸時代から続く老舗の料理旅館です。

 

 

で、こちらがかめやのアップ。

 

 

 

よ~くご覧くださいませ。鬼瓦には屋号の「亀」の オブジェがあしらってあります。昔の人はこういうところに粋なこだわりを表現するから素晴らしい!

 

 

 

木造2階建の瓦葺き。正面に入母屋造の破風と切妻造の玄関が設けられたかめやの本館は 1924(大正13)年に築造され、平成13年4月には国登録有形文化財に指定されました 。

 

 

 

向いの明治10年に築造された楼閣調の「かぎ楼」(同じく国登録有形文化財)もなかなか趣深いです。人に例えるなら、「かぎ楼」が妖艶な女将で「かめや」が湯治場の女将。

 

 

う~ん私は・・・湯治場の女将が好みでしょうかね(*^_^*).

 

 

笑門絵馬。絵馬通の大半の家屋が、注連飾りでなくこの絵馬を 玄関に掲げていました。これも初めて見たアイテムです。

 

 

“笑う門には福来る” なかなかの縁起物だなぁと思い、 取扱店舗を探して東奔西走。ようやく店頭に置いてあるところを見付けたのですが・・・お値段、何と2,500円也。

 

 

いつもお財布の中身ピーピーの私には、ちょっと手が出ませんでした(苦笑)。

 

 

こちらは多賀名物・糸切餅のお店の1つ、本家ひしや(菱屋)です。

 

 

参詣道が合流する街角の道標と昔ながらの佇まいが何ともたまりませぬ。糸切餅のお店と言えば、多賀大社門前の「莚寿堂本舗」と「本家多賀や」が2トップなのですが、メジャーどころを紹介しないのが私の真骨頂(^^)

 

 

ここ本家ひしやは、今となっては数少ない全行程完全店舗内手作りの糸切餅を提供している老舗のお店です。他店のモノと比べて糸切餅最大の特徴であるピンクとブルーの線柄の色が濃く、餅がモチモチ(洒落ではありません)しています。

 

 

パッケージも素朴で、昔ながらの味を守っておられます。 「そこまで紹介しておいて何故現物写真がないのだ!」とのご指摘ごもっともです。スイマセン、売切れでした<(TOT)>

 

 

多賀にお越しの際は、多賀大社前駅近くのひしやの糸切餅を是非お求めください((+_+)).

 

 

桜町延命地蔵尊最後に訪れましたのは桜町延命地蔵尊でございます。

 

 

 

蛍光灯やLED電球全盛のこのご時世にあって、白熱灯の柔かな光に包まれた仏様のお姿に接すると、何やらホッとします。

 

 

 

このお地蔵様、江戸時代末期に糸切餅を発案した北国屋市兵衛によって建立されたとか。しかも眼病平癒で有名な木之本地蔵の分身なのだそうです。

 

 

境内では地獄で裁かれる場面と地獄に救いの手を差し伸べる場面が多くの仏様によって再現されており、さながら“地蔵菩薩の一大パビリオン”の様相を呈しています。長寿を願い多賀大社に参拝する人々が、かつてはこちらにも多く訪れていたことを伺わせます。

 

 

いやはや近くに何十年も住んでいても、気付かないことっていっぱいあるもんですねぇ。皆さんも普段クルマで通るだけの界隈や自宅の近所を改めて歩いて回ってみてはいかがでしょうか?新たな発見があるかもしれませんよ!

 

 

ここで、このブログをご覧の皆様に是非ともお願いがございます。 いつもいつも気掛かりなことがございまして・・・神社仏閣にお参りをされる際には、以下のことを是非ともお守りりいただきたいのです。

 

 

おねがい① 神社仏閣にお参りされる前に、どなたが お祀りされているのか事前に知っておきましょう。

② 境内では原則、喫煙・飲食・ゴミのポイ捨て・ その他マナーに反する行為は止めましょう。

③ お願い事は欲を出さず、明瞭簡潔心静かに 感謝の気持ちでもって行いましょう。

④ おみくじは基本的に持ち帰り、励み・戒めと して1年間大切に保管しましょう。

⑤ 観光・ イベントが主要な目的なら、最初から 参拝をお控えください。

 

 

神社仏閣を「自宅」「他所の家」「取引先」などに置き換えて考えれば、至極当たり前のことなのですが、昨今この「当たり前」が励行出来ない人がとても多く、誠に嘆かわしい限りです。ちなみに“おみくじ”に関しては色々と説がございますので、参考までにということで。

 

 

いま世界的に「日本人の精神文化」の資質が問われています。私たち日本人の誇りであった「察しと思い遣り」の心が、今あらゆる場面で崩壊の危機を迎えています。世界に冠たる日本人気質を取り戻すためにも、何卒皆様のご理解ご協力をお願いいたします<(_ _)>

 

 

もちろん自身にも戒めまする(>_<)

 

 

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謹賀新年 天上天下唯我独尊 2013

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

 

 

新年、明けましておめでとうございます。

 

本日で「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」は開設1周年を迎えました(^^)

 

 

昨年は激動の1年でございました。今年は躍動の1年として邁進いたす所存でございます。本年も相変わりませぬご贔屓を賜りますようお願い申し上げます<(_ _)>

 

 

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