最後の忠臣蔵“寺坂吉右衛門信行”の伝説

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

 

 

今回は、2010年に映画『最後の忠臣蔵』の主人公の1人としてにわかに注目を集めた赤穂義士・寺坂吉右衛門信行(てらさかきちえもんのぶゆき)についてのお話をいたしたいと存じます。

 

 

元赤穂藩筆頭家老・大石内蔵助良雄(おおいしくらのすけよしお)率いる浪士四十七士が、亡き主君・浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)の敵を討つべく吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)邸を襲撃した事件は、一般的に『忠臣蔵』として知られています。

 

 

毎年のことですが、この時期になるとやはりこの話題が大なり小なり出てきますね。

 

 

特に今年はNHK・BSプレミアムで放送された吉良上野介側から描いた『薄桜記』が大変人気を博しました(^^)

 

 

さてこれは事件後に創作された歌舞伎や人形浄瑠璃の演目『仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)』の通称からきたもので、歴史上の出来事としては元禄赤穂事件(げんろくあこうじけん)と呼ばれています。

 

 

ここで豆知識。

 

 

実は大石内蔵助の家系はもともと栗太郡大石庄(現在の大津市大石東町/大石中町)の出身なのです。

 

 

鎌倉時代には近江守護職・佐々木氏の元で大石庄の下司職(げししょく/荘地・荘民の管理・租税徴収と領主への上納・治安維持・侵略防衛等を職務とする現地の役人)を務めていました。

 

 

最近になって一般的に知られるところとなってきましたが、吉良邸を襲撃したのは47人。

 

 

でも本懐を遂げ主君が眠る泉岳寺(せんがくじ)に仇討の報告をし、後に幕府の裁定で切腹したのは46人。つまり1人足りないのです。それが寺坂吉右衛門信行その人なのです。

 

 

吉良邸襲撃後の吉右衛門逃亡には、「(1)討入直前に逃亡したという説」「(2)討入後に大石の密命を受けて一行から離れた説」「(3)足軽の身分であった吉右衛門を討入に加わらせたことが忍びないと大石が逃がした説」と様々述べられていますが、未だ真相は闇の中です。

 

 

吉右衛門には元禄赤穂事件を詮議した大目付・仙石久尚(せんごくひさなお)の決定により幕府からの追手は一切掛からず、その後義士由縁の家に奉公。

 

 

一時は寺男も務めていましたが、旗本・山内家に仕えて83歳で病没します。随分と省略しましたが、以上が史実に残る吉右衛門の生涯です。

 

 

さて、ここからが“伝説”として残る吉右衛門のお話です。

 

 

元禄15年12月15日(1703年1月31日)早朝。大石内蔵助の密命を受けた吉右衛門は、吉良上野介の首級を上げ泉岳寺へと向かう義士達と別れ、討入の報告をすべく赤穂神宮寺の住職・俊恵(しゅんけい)のもとへと急ぎます。

 

 

しかし、神宮寺に俊恵の姿はありませんでした。

 

 

吉右衛門が赤穂に戻った時から遡ること、約40年…。

 

 

寛文4(1664)年。大廟(たいびよう/伊勢神宮の異称)への献金のため、俊恵は百両もの大金を用意して、伊勢を目指すべく東海道を歩いていました。草津宿の茶屋で休憩し再び歩き出しますが、その時大事な財布を忘れたことに気付きませんでした。

 

 

その茶屋に入れ替わりで入って来たのが、後に江戸の豪商“星久”の祖となる近江商人・松居久次郎(まついきゅうじろう)でした。

 

 

久次郎は大金の入った財布を見付けると猫糞(ねこばば)することなく、「さぞかし持ち主はお困りであろう」と、落し主が見付けやすいように天秤棒の先に結び付けて茶屋を後にしました。

 

 

財布を忘れたことに気付いた俊恵は慌てふためき、走って草津へ戻ろうとしました。すると偶然にも財布を拾った久次郎とバッタリ出逢います。俊恵は久次郎に事の次第を説明して、財布を返してくれるよう懇願しました。久次郎はこの財布が俊恵のものであるという確証が持てた後に返しました。

 

 

そこで俊恵は財布を拾ってもらった礼として、十両を久次郎に渡そうとしました。しかし久次郎は頑として受け取りません。俊恵は困り果て、自分に何か恩返し出来ることは無いかと尋ねました。

 

 

すると久次郎は、「礼が欲しければ天秤棒の先に下げて歩きはしません。本当に落し主にお金が戻って嬉しいことです。

 

 

もし御礼をしたいと申されるなら、松居家の家運長久を祈祷してください」と言いました。

 

 

そして俊恵は無事大廟献金の大役を終え、赤穂へ帰ることになりました。再び東海道を歩き近江國に差し掛かった時、久次郎に再度礼を言いたいと思いましたが、久次郎の居所を聞いておかなかったのでとても残念がりました。

 

 

どうしても悔いが残る俊恵は赤穂に帰らず、永源寺近くの池之脇(現在の東近江市池之脇町)にある長寿寺に宿坊し、久次郎を探しながら家運長久を祈ったのだそうです。

 

 

さて、このことを知った吉右衛門は急遽近江國に向かい長寿寺を訪れました。

 

 

吉右衛門は討入の仔細を俊恵に話しました。と同時に四十六名の義士が華々しく切腹したことも知ります。

 

 

吉右衛門は1人だけ死を逃れたことに苦しみ、永源寺で得度(とくど/出家のための儀式)を受け仏門に入ります。

 

 

そして臨済庵(りんざいあん)の住職となり、亡くなった義士の菩提を弔うことに余生を捧げたと伝えられています。

 

 

う~ん何だか“寺坂吉右衛門信行の伝説”というよりも“俊恵と松居久次郎の伝説”の色が濃いですねぇ(苦笑)。

 

 

ちなみに長寿寺には大石内蔵助の叔父が宿坊したという記録が残っており、内蔵助自身も討入の準備のため江戸へ向かう際にここへ宿泊したと言われています。

 

 

これはあくまでも私の推測ですが、大石内蔵助の叔父というのは俊恵のことだったのかも知れませんね。

 

 

国道421号沿い。東近江市ちょこっとバス政所(まんどころ)線・相谷口(あいだにぐち)停留所付近の山中にある臨済庵址には、歴代の臨済庵住職とともに寺坂吉右衛門信行が祀られています。

 

 

墓石には「霜山刃公座元禅師」と刻まれており、戒名の“刃”の字は切腹した四十六名の義士に通じます。

 

 

実は寺坂吉右衛門信行の墓は、その他にも港区西麻布・曹渓寺【東京都】/五島列島久賀(ひさか)島・恵剣寺【長崎県】/出水市【鹿児島県】/八女市・一念寺【福岡県】/益田市【島根県】/西伊豆町・慈眼寺【静岡県】/仙台市・実相寺【宮城県】の7箇所あります。

 

 

何故このようなことになっているのかは不明ですが、何れも滋賀の伝説と同じようなパターンのお話が語り伝えられています。全国の「寺坂吉右衛門伝説」を巡ってみるのも一興かも知れませんね。

 

 

さてこの寺坂吉右衛門がにわかに注目を浴びました。一昨年12月18日に封切られた映画『最後の忠臣蔵』です。

 

 

これまでの“忠臣蔵”の映像化と異なり、討入後のアフター&サイドストーリーが描かれています。

 

 

従って今回の主人公は大石内蔵助にあらず。

 

 

討入後に逃走した寺坂吉右衛門信行と同じく、内蔵助の密命を受け討入前夜に逃亡したとされる瀬尾孫左衛門(せおまござえもん)が主人公となっています。

 

 

あと8年前にNHKでTVドラマ化もされています。

 

 

 

こちらは6回シリーズで、お話の内容がより深く描かれています。

 

 

 

共にDVDがリリースされていますので、映画とドラマとの描写の違いを見比べてみるのも面白いです。残念ながら滋賀が舞台として登場することはありませんが、映画のロケは近江八幡市内の3箇所で行われました。

 

 

あと冒頭でご紹介いたしました『薄桜記』も来月にDVDがリリースされます。

 

 

とにかく2010年度は『必死剣・鳥刺し』『大奥』『雷桜』『十三人の刺客』『桜田門外ノ変』『武士の家計簿』、そしてこの『最後の忠臣蔵』ととても時代劇が熱かったですね。もっともっと良質な時代劇が復権してくれることを願って止みません(^^)

 

 

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