Monthly Archives: 12月 2012

もし長生きが叶うのなら・・・“寿命石”の伝説

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

 

 

「神のみぞ知る」“寿命”・・・それは科学万能の21世紀にあって人類が未だコントロール成さざる未知の領域。これを司るのはまさしく神のみ!と言っても過言ではないでしょう。今回はその未知の領域に踏み込む寿命石(じゅみょういし)のお話をご紹介いたします。

 

 

寿命石(多賀大社)ではまず寿命石の“ありか”を先にご案内いたしましょう。犬上郡多賀町多賀にございます多賀大社。その本殿の東側(向かって右側)に問題の対象はございます。

 

 

いやいやまだまだ!ここで焦ってはいけません。とりあえず、まずは使用上の注意(私の話)をお聞きください(^^)

 

 

今から約800年前の平安時代末期。 治承4(1180)年12月28日。時の権力者・平清盛(たいらのきよもり)の命により、平重衡(たいらのしげひら/平清盛の五男で平家軍の大将として活躍)率いる平家軍は南都焼打(なんとやきうち/東大寺・興福寺など奈良の仏教寺院を焼討にした事件)を実行します。

 

 

先日の大河ドラマでもそんなエピソードが語られていましたよね。

 

 

奈良の大仏(東大寺)奈良の東大寺も主要な建物の大部分を焼失。大仏殿は数日に渡り燃え続け、大仏も壊滅的な被害を受けました。 翌年、後白河法皇(ごしらかわほうおう)の使者としてこの惨状の視察に訪れていた藤原行隆(ふじわらのゆきたか)に、東大寺の再建を進言した1人の老僧がおりました。それが俊乗坊重源(しゅんじょうぼう・ちょうげん)でした。

 

 

行隆はこれに賛意を示し、重源を朝廷に推挙。重源は東大寺勧進職(とうだいじかんじんしょく/東大寺再建のために信者や有志者を説得し寄付金の奉納を推進する総責任者)に任ぜられます。この時、重源は61歳でした。

 

 

東大寺の再建には財政的にも技術的にも多大な困難が想定されましたが、それよりも勧進職を拝命した重源が、果たして年齢的に職責を全う出来るかという心配がありました。 重源自身も勿論このことを憂慮していました。

 

 

そして色々と考えた末に何とかあと二十年寿命を延ばしたいと、再建成就の祈願も兼ね大神宮(伊勢神宮のこと)に三度参詣します。

 

 

重源すると祭神・天照大神(あまてらすおおみかみ)が夢に現れ、「再建成就のために延命を望むなら多賀の神(伊邪那岐命・伊邪那美命)に祈願せよ」と告げられました。

 

 

重源は さらにここ多賀大社を訪れ、参籠の日々を過ごしました。 そして満願の日。重源の一念が神に届いたのか、社殿の前に1枚の柏の葉が散ってきました。その葉は虫に 喰われていましたが、よく見てみると『(えん)』の形に読めました。この字は「廿」「」と分けて読むことも出来るので、二十年の 延命を神がお聞き届けになった印であると喜んで東大寺へと戻りました。

 

 

その後多年に渡り各地へ寄付金集めに奔走し幾多の困難を克服した結果、文治元(1185)年8月28日に大仏の開眼供養を迎えるに至りました。

 

 

建久6(1195)年には大仏殿を再建し、建仁3(1203)年には総供養を執り行います。

 

 

寿命石と祈願の白石重源は再び多賀大社を参詣し、寿命を神に返上して傍らの石を枕に亡くなりました。建永元(1206)年6月、重源85歳でした。

 

 

その枕にしたという石が寿命石(別称:枕石”であると伝えられています(話をまともに聞いていれば、ひょっとして下手をすると命を取られる???)。

 

 

なお重源が授かった『柏葉莚字』の故事に因み、白い石に願い事を書いて寿命石に奉納するという習わし(?)があります。祈願をご希望の方は社務所お尋ねください。

 

 

胡宮神社ちなみに・・・多賀大社から南南西約1kmの地点、名神高速道路・多賀サービスエリア付近に胡宮神社(このみやじんじゃ)があります。

 

 

こちらも多賀大社と同じく、伊邪那岐命・伊邪那美命をお祀りしています。 実はこちらにも寿命石・枕石があります。まぁ同じ祭神を祀る神社ですから、同様の伝説が残るのも理解出来ないではないですが…でもやっぱり腑に落ちません。

 

 

こんなお話を聞きました。この胡宮神社、中世までは「多賀大社の境外末社(けいがいまっしゃ)」として認識されていました。

 

 

寿命石・枕石(胡宮神社)しかし近世になって胡宮神社側が末社を否定し、「胡宮神社は多賀大社の奥宮(おくみや)である」と主張したため論争が絶えなかったそうです。

 

 

境外末社とは、神社本社の管理に属するものの外に独立した敷地を持つ小規模な神社のこと。

 

 

対して奥宮とは神社本社と同じ祭神を祀り、本社よりも奥に鎮座する神社のことです。簡単に申し上げますと、「胡宮神社は多賀大社と同格である!」と主張したのです。

 

 

「この論争が勃発してから、ここに寿命石が設置されたのでは?」という話も聞かれます。

 

 

なお胡宮神社には、重源が東大寺再建成就のための参詣した建久9(1198)年に寄進したと伝えられる金銅製五輪塔(国指定重要文化財)が所蔵されています。

 

 

金銅製五輪塔(国指定重要文化財)いや~もう話がややこしくなってきました。さてはて、どちらが本物でどちらが偽物なのか。

 

 

いやいや、どちらが元祖でどちらが本家なのでしょうか???これこそまさしく“神のみぞ知る”というワケです。

 

 

そういえばこんな感じの論争、多賀大社門前の「糸切餅」の販売店でもあったような・・・(苦笑)。

 

 

でも色々な意味で“長生き”はしたいですよね。あなたはどちらの“寿命石”にお願いしますか?

 

 

2012年の更新は本記事をもって修了致します。次回は2013年1月9日からスタートの予定です(その前にも気分次第でちょこちょこ執筆するかも・・・)。このリスタートの1年、ご愛顧いただきまして誠に有難うございました。来年も何卒お引き立て賜ります様お願い申し上げます<(_ _)>

 

 

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自由気儘な丹後紀行&宮津・富田屋

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

 

 

先日、以前勤務していた会社の仲の良かった同僚と『強化合宿』に参加してきました。まぁ“強化合宿”と申したところで、つまるところ“ヤローばかりの呑み喰い会合”なのであります(苦笑)。私はこの世知辛い世情の煽りを受けて数多くの会社を渡り歩いてきているのですが、どの会社も退職以降付き合いが続いているのが私の数少ない“自慢”であります(^^)

 

 

行先は「天橋立で有名な宮津!」と1ヶ月前にすんなり決定したのですが、交通手段が出発直前まで中々決議せず・・・結局は現地集合ということに。在住エリアの都合もあり、他のメンバーは京都縦貫自動車道ルート。但し私だけは北陸自動車道&若狭ルートを採りました。

 

 

久々の「遠出1人旅」・・・恐らく“独身時代”以来かと。たまにはいいもんですねぇ(^^)v

 

 

北陸自動車道を敦賀インターチェンジでアウト。そこからひたすら国道27号を西進です。日本海側で天候に恵まれることは非常に稀なのですが、(日頃の行いの賜物か)明朗快晴でありました。小浜西インターチェンジから舞鶴若狭自動車道へイン。ここと敦賀が繋がれば(2014年開通予定)、若狭・丹後がもっと身近になりますね。極端な話、これまで慢性的な渋滞でネックだった京阪神エリアの“迂回ルート第1号”にもなるワケです。

 

 

快晴時の日本海って、ホント~にキレイです。そして何故だかこの地域の道沿いには、コンビニが「ミニストップ」しかないんですねぇ。滋賀ではとても貴重な存在ですが・・・。家族を連れて来ていたら間違いなく、“ベルギーチョコアイス”を熱烈所望されるところでした(^^)

 

 

団体行動ですと目的地到着まで自由が利かないのですが、今回は“ぶらり1人道中”ですので、ダラダラしながらのんびり気楽に秋の日本海沿いを満喫です。クルマのナビが綾部経由で宮津を目指すよう誘導するのを無理矢理無視して舞鶴東インターチェンジでアウトしたり、敢えて国道ルートを採らずに漁港沿いの狭い県道を走ったりと、自由気ままし放題です。

 

 

結局宮津には1泊しただけで、天橋立の散策もビューランドからの股覗きもせずに帰ってきてしまいました。「いったい何しに行ったの?」と言われて当然なのですが、“アラフォーヤロー連中の気まま旅”なんてものはそんな程度です。誠に“無計画極まりない”のであります。では、そんな“大した内容もない旅”から厳選して、(自分勝手の)おススメ情報をご紹介いたしましょう(^^)

 

 

◆富田屋(大衆食堂)

富田屋(大衆食堂)今回の旅の最大の目的地は、ここ“大衆海の幸料理・富田屋”です。“とみたや”ではなく“とんだや”と読みます。

 

建物とネオンサインが何とも言えぬ風情を醸し出しています。場所は北近畿タンゴ鉄道・宮津駅から徒歩30秒!という好立地。

 

週末にも関わらず、宮津駅前周辺には人っ子一人いやしません。列車もバスもタクシー乗り場もガ~ラガラ。とても人口約2万人の玄関口とは思えません(2万人程度だったらこんなもんかな?)。

 

でもこの富田屋だけは別格。夜の営業が始まる17時からは何処ともなく人が集まり始め、21時あたりまで満席状態。世の居酒屋さんが羨むほどの賑わいです。他府県ナンバーのクルマも結構やって来ていました。

 

 

◆富田屋(お宿)

富田屋(お宿)実はこの富田屋は“お宿”も併設しています。お宿の方には出迎える女将さんや仲居さんもいません。簡単に表現すると「水戸黄門に出てくる“旅籠(はたご)”」のようなイメージです。

 

お宿の特徴は、ヴィンテージ感漂う建物(耐震完全非対応)、階段は山ガール仕様(急傾斜過ぎて年配の方には危険)、廊下は総ウグイス張り(忍び足不可)、天井は100年前の日本人サイズ(現代人が過失で頭突きをした形跡多数)、お風呂は交代制のプライベート仕様(よーするに定員1名)。客室は、コミュニケーション優先仕様(扉は全て障子のためセキュリティ効果無し)、ダンボの耳仕様(表通りでの立ち話丸聞こえ)、もちろん空調完備(但し機械が古くて超轟音稼働)、何やらあちこちに注意書きや警告文多数・・・こんなところでしょうか(^^)

 

フロントが無いので受付は隣の食堂で行います。ちなみにチェックインは15時、チェックアウトは10時。夜の門限は23時(遅れると締め出されます)。お風呂の利用時間は17~22時です。

 

 

◆富田屋(晩ごはん)

富田屋(晩ごはん)晩ごはんの時間予約はチェックイン時に行います。

 

今回のメニューは…「カニ身の酢の物、お刺身(カンパチ・タイ・サザエ)、天ぷら盛り合せ、イカの煮物、大鰯の塩焼き(2尾)、巨大バイ貝の壺焼、御飯&たくわん&味噌汁(またはきつねうどん)」。どうです!豪勢でしょう(余りにも矢継ぎ早に運ばれてくるので写真に撮り切れませんでした)。しかもボリュームのみならず、“魚が新鮮で美味いっ!”

 

あと補足ですが、朝食は通り向いの「喫茶・サイホン」でいただきます。こちらのメニューは「4枚切サイズのバタートースト・ハーフカット2枚、ハムエッグ、野菜サラダ、フルーツ、飲み物(コーヒー・紅茶・ミルクの何れか)」です。これだけ食べて、宿泊して、何とたったの5,000円ポッキリ・・・“ジ○パ○ッ○た○た”もビックリのお値段です!

 

私たちはこれにハコウニ・ウマヅラハギ・カンパチの刺身を追加オーダーして、しこたま酒を呑んで、1人あたり7,500円でした。あと食堂の営業が23時までなので、22時くらいまでに来店すればライトメニュー(夜食)もオーダー可能です。ちなみに私はカレーライスを、他の面々は中華そばを所望しました。カレーライスは315円、中華そばは367円。最高に安い上に、これが結構イケるんです。ここは呑み喰いだけに立ち寄るよりも、宿泊が断然おトクですね。なお秋から冬に掛けてがオフシーズンなので、比較的予約が取りやすいのだとか。

お問い合わせはTEL. 0772-22-0015までどうぞ。

 

 

◆海上自衛隊桟橋

海上自衛隊桟橋もともと今回の『強化合宿』の行程に“観光”が盛り込まれていなかったので、往路に気儘観光して参りました。

ナビに逆らって訪れたのは、舞鶴の海上自衛隊桟橋です。ここは週末や祝祭日に限り、海上自衛隊舞鶴地方総監部・舞鶴地方隊に所属する艦艇を一般公開しています。

どうもトップシークレット級の護衛艦(イージス艦など)にはお目にかかれないようなのですが、桟橋に接岸する巨大な護衛艦を間近に見学することができます。今迄陸上自衛隊の戦車や航空自衛隊の戦闘機を見たことはあるのですが、海上自衛隊の護衛艦を見たことはありませんでして…えぇ歳こいてはしゃいでしまいました。異常な程写真を撮りまくっていましたので、スパイと勘違いされたかも・・・(^^)

いま何かと“ビミョ~”な情勢ですので、次回からは自嘲いたしますです(爆)。なお今回の目玉は写真の「護衛艦DD-114すずなみ」。改修作業中でアングル的にはいま1つなのですが、一昨年の4月に中国海軍の訓練を監視していた際、相手の艦載ヘリコプターに水平距離90m・高度差30mにまで異常接近されたという“いわく”を持つ艦なのです。

「中国海軍さん。アンタこの艦が本気出したら、今頃Mk15ファランクスCIWSの自動制御でヘリはハチの巣ですぜ」。

ちなみに一般公開日は海上自衛隊・舞鶴地方隊のオフィシャルサイト(http://www.mod.go.jp/msdf/maizuru/)でチェックしてください。今回は岸壁からのみの見学でしたが、護衛艦の甲板まで上がれる日もありますよ。

 

 

◆由良川鉄橋

由良川鉄橋国鉄時代から撮影地として有名な、北近畿タンゴ鉄道・宮津線の由良川鉄橋です。

もともとこちらに立ち寄る予定はなかったのですが、宮津へ向かう途中で偶然眼に飛び込んできた(?)ため、急遽近くにクルマを停車。川の畔で農作業をされていたおじさんに、畑近くでの撮影許可をいただいた後、早速カメラを構えてみました。

川の流れはとても穏やか。周囲は非常に静かで、小鳥のさえずりくらいしか耳に入ってきません。

 

カメラを構えて10分経過・・・列車来ず。20分経過・・・列車来ず。30分経過・・・列車来ず。40分経過・・・「地方の第3セクターなんてこんなもんだろ」と諦めて帰ろうとしたその時、歴史が動きました(>_<)・・・いやいや遠くから微かに踏切警報音の音が。

後で知ったのですが、ここはだいたい1時間に1本しか列車は来ないようで…やっぱロケハンはしっかりやっておくものですね。写真はその列車の直後に来た、臨時の特急“タンゴディスカバリー”です。私の行き当たりばったり的物見胡散な行動に、世間話でお付き合いいただきましたおじさんに感謝です。結局予定の集合時間を1時間もオーバーしてしまいましたよ・・・あはははは。

 

 

◆宮聖アンデレ教会

宮津聖アンデレ教会“ツンデレ”ではなく“アンデレ”でございますので、お間違いなく。日本聖公会京都教区所属の教会です。

 

 

宮津をぶらぶら歩いてシャッターを切る気分になったのはここだけでした。

 

特に“観光スポット”というワケではないようですが、和洋折衷の雰囲気漂う外観が素敵でしたので、思わずカメラに収めました。

 

 

この近くにある旅館の男の子(5歳くらい?)に「どうじょ~」って声を掛けられたのが、とても切なかったです<(TOT)>

 

 

さて・・・最後の締めくくり。富田屋の(かつてはうら若き乙女であった)ウエイトレスのお姉さま方には大変良くしていただき、感謝感激であります。一部のブログの記事や食べ物サイトでの評価で「愛想がない」「せせこましい(京都の言葉で“ゆとりがなくて窮屈”な意味)」といった意見が散見されましたが、それはこちらが「客として来ているんだぞ」という気持ちを全面に押し出したが故の“過度なサービスへの期待”への裏切り感が表面化したものではないかと。とても忙しいお店ですから、なかなか自分の思うようにはいかないでしょうが、そこは相手も人間。お互いがいい気分になれる言葉を用意すれば、自ずといい雰囲気になるというもんです。細かいところにイラつくよりも、度量の大きいところをバ~ンと見せて、限られた人生思いっ切り楽しみましょうや!(^^)

 

 

次は家族を連れていきたいと思います(^_^)v

 

 

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中村勘三郎さん追悼特別企画 “法界坊”の伝説

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

 

 

去る12月5日午前2時33分。歌舞伎界の風雲児と呼ばれ、一般人にとって得てして小難しく感じる古典芸能を独自の切り口で実に多くの人々に広め親しみを与えた稀代の役者、十八代目・中村勘三郎さんが、急性呼吸窮迫症候群のため還らぬ人となりました。

 

 

57歳、余りにも早過ぎる旅立ちでした。

 

 

今回は私の好きな役者さんの1人である中村勘三郎さんの偉業を偲び、滋賀の伝説と絡めたお話をいたしたいと存じます。

 

 

さて皆さん、法界坊というお坊さんをご存知でしょうか?この名前を聞いて“ピン”とくる方は、余程の“歌舞伎通”とお見受けいたします(*^_^*)

 

 

 

法界坊は『隅田川続俤(すみだがわごにちのおもかげ)』という演目の主人公として登場します。

 

 

 

最近では中村勘三郎さんがプロデュースする平成中村座の代表的な演目の1つとして高い人気を誇っていました。

 

 

隅田川続俤のお話のあらすじを書きますと直ぐにページが埋まってしまいますので詳しくは触れませんが、簡単に申せば「浅草で釣鐘建立の勧進をしながらその浄財で暮らす半面、薄汚い恰好をして悪事を働き、おまけに好色で嫌われ者の破戒僧法界坊”が巻き起こすドタバタ愛憎コメディ」といった感じです。

 

 

歌舞伎の演目で「コメディ(喜劇)」はとても珍しいので、現在でも人気があるのでしょうね。ちなみに“破戒僧(はかいそう)”とは、戒律を破って恥じないお坊さんのこと。特に肉食や好色・犯罪に手を染めるとそう言われるようです。これに対して戒律を頑なに守るのが“持戒僧(じかいそう)”です。

 

 

さて実はこの演目には、モデルとなった滋賀にまつわるお話があるのです。

 

 

今から丁度260年前、江戸時代後期の宝暦元(1751)年。坂田郡鳥居本村(とりいもとむら/現在の彦根市鳥居本町)のとある名主の家に、1人の男の子が生まれます。

 

 

幼少の頃に母親を亡くし、また8歳の時には父親まで失ってしまったため、近くの上品寺(じょうぼんじ)で出家し、名も法界坊穎玄(ほうかいぼうえいげん)と改めます。

 

 

しばらく上品寺の住職・祐海(ゆうかい)のもとで修業を積みますが、後に諸国修行行脚へと旅立ちます。

 

 

穎玄19歳の時。師匠でもあり父同様の存在でもあった祐海が亡くなると上品寺の住職となりますが、当時寺はとても荒れ果てていました。穎玄は寺の再興を決意し、喜捨(きしゃ/寄付のこと)を求めて江戸へと出向きます。

 

 

江戸八百八町を武家屋敷から町屋まで隈なく歩き回り、また花街(はなまち/遊郭のこと)では遊女に仏法を説いても回りました。

 

 

そんな中、吉原遊郭にある遊女屋“大文字屋”の看板花魁(おいらん)である花里(はなさと)とその姉・花扇(はなおうぎ)は、穎玄の説法に痛く感銘し、熱心な帰依者となっていきます。

 

 

穎玄は我が身の哀しい身分を嘆く遊女たちに、自らが救いの手を差し伸べるべく、寺に釣鐘を寄進して欲しいと請います。

 

 

花里は自ら喜捨するに止まらず、遊郭内の布施集めの世話役も務めました。しかし残念なことに彼女は結核を患い、まもなくその若い命を散らしてしまいます。

 

 

 

花里亡き後、花扇が妹の遺志を継いで世話役となり、明和6(1769)年には待望の釣鐘が完成します。この釣鐘の周囲には、遊女ら有志の姓名が刻まれました。しかしこの時、花扇もこの世にはおりませんでした。

 

 

 

穎玄は遊女たちの想いを一身に背負い、釣鐘を地車(だんじり)に載せ、江戸からこの上品寺まで1人で曳いて帰りました。

 

 

釣鐘堂完成法要の前夜。穎玄の枕元にあの花里が現れ、「前世の功徳のお陰で、今は観音浄土で幸せに暮らしております」と言い残し消え去りました。穎玄が目を覚ますと、何と枕元に一体の観音菩薩像が置かれていたそうです。

 

 

また穎玄は花扇から生前打掛(うちかけ)を受け取っておりました。穎玄はそれをもとに七条の袈裟を作り、文政12(1829)年79歳で亡くなるまで用いていたと伝えられています。

 

 

今でも上品寺には釣鐘を曳いた地車や七条の袈裟の他、花里・花扇ゆかりの品が寺宝として納められています。

 

 

隅田川続俤での法界坊は喜捨を遊興に遣い娘を手籠めにするなど“極悪人”として描かれていますが、モデルとなった穎玄の実際の姿は“聖人君子”のような人物だったのです。

 

 

どこでどう転んでこのような内容になったのかは定かではありません。

 

 

 

今でも歌舞伎の演目として人気の高いお話が、実は滋賀にとてもゆかりの深い人物に由来するということは意外にも知られていないのです。

 

 

 

上品寺は現在、彦根市鳥居本町の国道8号沿いにあります。

 

 

激しい交通量の影響で、釣鐘の劣化が激しいとも聞きますが、大東亜戦争中の国家総動員法に基づく金属類回収令でも拠出されることなく、当時の面影を今に残しています。

 

 

勘三郎さん、ついに貴方の演じる法界坊をこの眼にすることは叶いませんでしたが、あちらの世界でも是非演じてくださいね。

 

 

昭和・平成の世に燦然と歌舞(傾)いた男、中村勘三郎。

 

 

永遠に・・・

 

 

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最後の忠臣蔵“寺坂吉右衛門信行”の伝説

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

 

 

今回は、2010年に映画『最後の忠臣蔵』の主人公の1人としてにわかに注目を集めた赤穂義士・寺坂吉右衛門信行(てらさかきちえもんのぶゆき)についてのお話をいたしたいと存じます。

 

 

元赤穂藩筆頭家老・大石内蔵助良雄(おおいしくらのすけよしお)率いる浪士四十七士が、亡き主君・浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)の敵を討つべく吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)邸を襲撃した事件は、一般的に『忠臣蔵』として知られています。

 

 

毎年のことですが、この時期になるとやはりこの話題が大なり小なり出てきますね。

 

 

特に今年はNHK・BSプレミアムで放送された吉良上野介側から描いた『薄桜記』が大変人気を博しました(^^)

 

 

さてこれは事件後に創作された歌舞伎や人形浄瑠璃の演目『仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)』の通称からきたもので、歴史上の出来事としては元禄赤穂事件(げんろくあこうじけん)と呼ばれています。

 

 

ここで豆知識。

 

 

実は大石内蔵助の家系はもともと栗太郡大石庄(現在の大津市大石東町/大石中町)の出身なのです。

 

 

鎌倉時代には近江守護職・佐々木氏の元で大石庄の下司職(げししょく/荘地・荘民の管理・租税徴収と領主への上納・治安維持・侵略防衛等を職務とする現地の役人)を務めていました。

 

 

最近になって一般的に知られるところとなってきましたが、吉良邸を襲撃したのは47人。

 

 

でも本懐を遂げ主君が眠る泉岳寺(せんがくじ)に仇討の報告をし、後に幕府の裁定で切腹したのは46人。つまり1人足りないのです。それが寺坂吉右衛門信行その人なのです。

 

 

吉良邸襲撃後の吉右衛門逃亡には、「(1)討入直前に逃亡したという説」「(2)討入後に大石の密命を受けて一行から離れた説」「(3)足軽の身分であった吉右衛門を討入に加わらせたことが忍びないと大石が逃がした説」と様々述べられていますが、未だ真相は闇の中です。

 

 

吉右衛門には元禄赤穂事件を詮議した大目付・仙石久尚(せんごくひさなお)の決定により幕府からの追手は一切掛からず、その後義士由縁の家に奉公。

 

 

一時は寺男も務めていましたが、旗本・山内家に仕えて83歳で病没します。随分と省略しましたが、以上が史実に残る吉右衛門の生涯です。

 

 

さて、ここからが“伝説”として残る吉右衛門のお話です。

 

 

元禄15年12月15日(1703年1月31日)早朝。大石内蔵助の密命を受けた吉右衛門は、吉良上野介の首級を上げ泉岳寺へと向かう義士達と別れ、討入の報告をすべく赤穂神宮寺の住職・俊恵(しゅんけい)のもとへと急ぎます。

 

 

しかし、神宮寺に俊恵の姿はありませんでした。

 

 

吉右衛門が赤穂に戻った時から遡ること、約40年…。

 

 

寛文4(1664)年。大廟(たいびよう/伊勢神宮の異称)への献金のため、俊恵は百両もの大金を用意して、伊勢を目指すべく東海道を歩いていました。草津宿の茶屋で休憩し再び歩き出しますが、その時大事な財布を忘れたことに気付きませんでした。

 

 

その茶屋に入れ替わりで入って来たのが、後に江戸の豪商“星久”の祖となる近江商人・松居久次郎(まついきゅうじろう)でした。

 

 

久次郎は大金の入った財布を見付けると猫糞(ねこばば)することなく、「さぞかし持ち主はお困りであろう」と、落し主が見付けやすいように天秤棒の先に結び付けて茶屋を後にしました。

 

 

財布を忘れたことに気付いた俊恵は慌てふためき、走って草津へ戻ろうとしました。すると偶然にも財布を拾った久次郎とバッタリ出逢います。俊恵は久次郎に事の次第を説明して、財布を返してくれるよう懇願しました。久次郎はこの財布が俊恵のものであるという確証が持てた後に返しました。

 

 

そこで俊恵は財布を拾ってもらった礼として、十両を久次郎に渡そうとしました。しかし久次郎は頑として受け取りません。俊恵は困り果て、自分に何か恩返し出来ることは無いかと尋ねました。

 

 

すると久次郎は、「礼が欲しければ天秤棒の先に下げて歩きはしません。本当に落し主にお金が戻って嬉しいことです。

 

 

もし御礼をしたいと申されるなら、松居家の家運長久を祈祷してください」と言いました。

 

 

そして俊恵は無事大廟献金の大役を終え、赤穂へ帰ることになりました。再び東海道を歩き近江國に差し掛かった時、久次郎に再度礼を言いたいと思いましたが、久次郎の居所を聞いておかなかったのでとても残念がりました。

 

 

どうしても悔いが残る俊恵は赤穂に帰らず、永源寺近くの池之脇(現在の東近江市池之脇町)にある長寿寺に宿坊し、久次郎を探しながら家運長久を祈ったのだそうです。

 

 

さて、このことを知った吉右衛門は急遽近江國に向かい長寿寺を訪れました。

 

 

吉右衛門は討入の仔細を俊恵に話しました。と同時に四十六名の義士が華々しく切腹したことも知ります。

 

 

吉右衛門は1人だけ死を逃れたことに苦しみ、永源寺で得度(とくど/出家のための儀式)を受け仏門に入ります。

 

 

そして臨済庵(りんざいあん)の住職となり、亡くなった義士の菩提を弔うことに余生を捧げたと伝えられています。

 

 

う~ん何だか“寺坂吉右衛門信行の伝説”というよりも“俊恵と松居久次郎の伝説”の色が濃いですねぇ(苦笑)。

 

 

ちなみに長寿寺には大石内蔵助の叔父が宿坊したという記録が残っており、内蔵助自身も討入の準備のため江戸へ向かう際にここへ宿泊したと言われています。

 

 

これはあくまでも私の推測ですが、大石内蔵助の叔父というのは俊恵のことだったのかも知れませんね。

 

 

国道421号沿い。東近江市ちょこっとバス政所(まんどころ)線・相谷口(あいだにぐち)停留所付近の山中にある臨済庵址には、歴代の臨済庵住職とともに寺坂吉右衛門信行が祀られています。

 

 

墓石には「霜山刃公座元禅師」と刻まれており、戒名の“刃”の字は切腹した四十六名の義士に通じます。

 

 

実は寺坂吉右衛門信行の墓は、その他にも港区西麻布・曹渓寺【東京都】/五島列島久賀(ひさか)島・恵剣寺【長崎県】/出水市【鹿児島県】/八女市・一念寺【福岡県】/益田市【島根県】/西伊豆町・慈眼寺【静岡県】/仙台市・実相寺【宮城県】の7箇所あります。

 

 

何故このようなことになっているのかは不明ですが、何れも滋賀の伝説と同じようなパターンのお話が語り伝えられています。全国の「寺坂吉右衛門伝説」を巡ってみるのも一興かも知れませんね。

 

 

さてこの寺坂吉右衛門がにわかに注目を浴びました。一昨年12月18日に封切られた映画『最後の忠臣蔵』です。

 

 

これまでの“忠臣蔵”の映像化と異なり、討入後のアフター&サイドストーリーが描かれています。

 

 

従って今回の主人公は大石内蔵助にあらず。

 

 

討入後に逃走した寺坂吉右衛門信行と同じく、内蔵助の密命を受け討入前夜に逃亡したとされる瀬尾孫左衛門(せおまござえもん)が主人公となっています。

 

 

あと8年前にNHKでTVドラマ化もされています。

 

 

 

こちらは6回シリーズで、お話の内容がより深く描かれています。

 

 

 

共にDVDがリリースされていますので、映画とドラマとの描写の違いを見比べてみるのも面白いです。残念ながら滋賀が舞台として登場することはありませんが、映画のロケは近江八幡市内の3箇所で行われました。

 

 

あと冒頭でご紹介いたしました『薄桜記』も来月にDVDがリリースされます。

 

 

とにかく2010年度は『必死剣・鳥刺し』『大奥』『雷桜』『十三人の刺客』『桜田門外ノ変』『武士の家計簿』、そしてこの『最後の忠臣蔵』ととても時代劇が熱かったですね。もっともっと良質な時代劇が復権してくれることを願って止みません(^^)

 

 

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