湖北“東山道/中山道を往く”(4)~鎌倉幕府終焉の地・蓮華寺

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

 

 

滋賀県教育委員会文化財保護課主催「ブロガーによる歴史探訪情報発信」企画として、湖北“東山道/中山道”界隈に佇む歴史の魅力を紐解くシリーズ。今回から錦秋・後篇をお届けいたします。

 

 

第4回目は、鎌倉幕府終焉を決定付けた地の1つであった、蓮華寺(れんげじ)を訪ね歩きます。

 

 

JR東海道線・米原(まいばら)駅から東へタクシーで約5分、北陸自動車道・米原インターチェンジから南へ約5分の位置。

 

 

中山道沿いにはかつて、第62番の宿場、番場宿(ばんばじゅく)がありました。その宿場町の中ほどに、蓮華寺はあります。

 

 

この寺院の開祖は聖徳太子と伝えられ、今から約1300年前に開山。当初は寺号を法隆寺と称していたそうです。

 

 

しかし鎌倉時代中期の建治2(1276)年6月1日。落雷によって堂塔はことごとく消失してしまいます。

 

 

その後、弘安7(1284)年。諸国を遊行教化していた一向俊聖(いっこうしゅんしょう)がこの地を訪れ、念仏を広めます。

 

 

この地の地頭で鎌刃城主であった土肥元頼(どひもとより)は一向に深く帰依し、この荒廃した寺院を再興。

 

 

一向を中興の祖として迎え、寺号も八葉山蓮華寺と改称して現在に至ります。

 

 

こちらは樹齢700年ともいわれる一向杉

 

 

蓮華寺の開祖・一向はこの地で荼毘に付され(火葬され)、その後に杉を植樹したと言い伝えられています。

 

 

平成14(2002)年5月には滋賀県指定自然記念物に選定されています。

 

 

再興のもう1人の功労者である土肥元頼の墓も、本堂横にひっそりと佇んでいます。

 

 

現在この宝篋印塔は米原市指定文化財となっています。

 

 

ちなみに蓮華寺の名称は、一向の師匠であった良忠(りょうちゅう)が鎌倉に構えていた自坊の旧名から引用したとのことです。

 

 

室町時代にも応仁の乱の余波を受け再び焼失の憂き目を見ますが、戦国時代には再興されています。

 

 

 

これ程に不死鳥の如く蘇ることが出来たのは何故でしょう?

 

 

蓮華寺の正面には勅使門(ちょくしもん)と呼ばれる重厚な建物があります。

 

 

この門の中央には、十六八重表菊(俗称:菊の御紋)が今日でも燦然と輝いています。勅使(天皇からの使者)のための門をわざわざ設置しているところに、皇室との深い繋がりを伺わせます。

 

 

 この蓮華寺は古くから皇室からの帰依が厚く、特に花園天皇(第95代天皇)の御代には勅願寺としての勅許を受け、寺紋として十六八重表菊を下賜されたそうです。

 

 

また、この記事冒頭の写真には色鮮やかな扁額を掲載しておりますが、これは江戸時代初期に後水尾天皇(第108代天皇)御宸筆によるもの。このような皇室からの手厚い庇護が、蓮華寺を何度も甦らせたように思います。

 

 

さて蓮華寺には2つの大きなエピソードが残っています。

 

 

元弘3(1333)年。

 

 

当時の六波羅探題北方であった北条仲時(ほうじょうなかとき)は、後醍醐天皇(第96代天皇)の綸旨に呼応して挙兵した足利尊氏によって六波羅探題を攻められ敗走。仲時はかつて討幕の反乱(元弘の乱)を起こした後醍醐天皇を捕え、隠岐國に配流した張本人でした。

 

 

六波羅探題南方の北条時益とともに、光厳天皇(後に北朝初代天皇とされる)・後伏見上皇・花園上皇を伴って鎌倉へ落ち延びようとします。

 

 

しかし道中の近江國で野伏(のぶし/地侍や農民の武装集団)に襲撃され、時益は討死。

 

 

5月9日。仲時は番場峠で再び野伏に襲われ、さらに佐々木(京極)道誉の軍勢にも行く手を阻まれます。

 

 

進退窮まった仲時は皇族方の玉輦(ぎょくれん/天子や貴人の乗り物)を蓮華寺に移し、最期の戦いを敢行。

 

 

しかし奮戦虚しく敗退を喫し、仲時以下一族郎党432人は蓮華寺前庭にてことごとく自刃しました。

 

 

その時の鮮血が前庭から川のように流れたため、その場所を血の川と称したそうです。

 

 

その後天皇と上皇は、道誉に保護されて京都へ戻されました。そしてこの日から13日後の5月22日。鎌倉幕府は北条一族と共に滅亡します。

 

 

当時の第3代住職・同阿良向が自刃した北条一族に法名を与え、一巻の過去帳に姓名・年齢と共に登載したのが紙本墨書陸波羅南北過去帳で、現在は国指定文化財として厳重に金庫に保管されています(公開されているのは写本で、実際は432人のうち姓名が確認できた189人を記載)。

 

 

後に1人1人に与えられた法名をもとに造られた一石五輪塔は当初境内のあちらこちらに散逸していましたが、近代になって整備され現在の姿となっています。

 

 

ちなみに肝心の仲時の供養塔はここにはありません。実は江戸時代にある彦根藩主(井伊家)が馬に乗って蓮華寺を参拝した折、その夜「我を馬上から見下ろすとは何事ぞ」と夢の中で仲時が叱責したため、北向かいにある六波羅山の頂上に仲時の墓だけを移転したのだとか。

 

 

現在は深い藪に阻まれ、地元の方でもなかなか近付けない状態にあるようです。

 

 

もう1つのエピソードは、彼の有名な侠客・番場忠太郎(ばんばのちゅうたろう)についてです。

 

 

国定忠治・清水次郎長に並び名を馳せた侠客・番場忠太郎は、長谷川伸の戯曲『(まぶた)の母』の主人公ではありますが、実はこの3人の中で唯一の“架空の人物”なのです。

 

 

昭和5(1930)年に文壇で発表されて以降人気を博し、その後これを題材として数多くの映画・演劇・ドラマ・浪曲・歌謡曲が輩出されました。

 

 

蓮華寺はこれに因み番場忠太郎地蔵が安置され、供養塔まで建立されています。その供養塔には錚々たる昭和の名優達が寄贈者として名を連ねています。片岡仁左衛門・島田正吾・片岡千恵蔵・長谷川一夫などなど・・・時代劇ファンにはたまりません(^^)

 

 

その他にも、大正から昭和時代前期にかけての歌人でアララギ派の重鎮でもあった斎藤茂吉の歌碑もあります。

 

 

茂吉は第49代住職・佐原窿応(さはらりゅうおう)を師と仰ぎ、度々ここを訪れては多くの歌を詠んだそうです。

 

 

句碑には「松風の 音聞くときは 古への 聖の如く我は寂しむ」と刻まれています。

 

 

中世から近代に至るまで様々なエピソードに彩られた蓮華寺。

 

 

その数奇な歴史の舞台に、一度身を委ねてみては如何でしょうか。

 

 

今回蓮華寺檀家世話役の皆さんには全面的にご協力を賜りました。この場を借りまして厚く御礼申し上げます。また今回訪問時には本堂改修工事を実施しており、敢えて本堂外観の写真を掲載いたしませんでした。

 

 

蓮華寺

滋賀県米原市番場511
TEL.0749-54-0980
拝観料:300円

※写真撮影は本企画にて特別に許可されたものですので予めご了承ください。

 

 

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