Monthly Archives: 7月 2012

湖北“東山道/中山道を往く”(2)~if・・本能寺の変は無かった!?成菩提院

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

 

 

滋賀県教育委員会文化財保護課主催「ブロガーによる歴史探訪情報発信」企画として、湖北“東山道/中山道”界隈に佇む歴史の魅力を紐解くシリーズ。

 

 

第2回目は、歴史の“もしも”に興味深いエピソードを持つ寺院、成菩提院(じょうぼだいいん)を訪ね歩きます。

 

 

JR東海道線・柏原(かしはら)駅から北北西に約1kmの山裾。徒歩約10分の位置に成菩提院はあります。

 

 

 

寂照山円乗寺成菩提院(じゃくしょうざんえんじょうじじょうぼだいいん)。これがこの寺院の正式名称になります。平安時代初期の弘仁6(815)年、天台宗の開祖・最澄(伝教大師)が東国へと赴く際、この地(柏原小野)に小さな草庵を結んだことが始まりとされています。

 

 

 

鎌倉時代には天台宗の談議所(だんぎしょ/学問所のこと)に姿を変え、当時湖北一帯を統治していた近江源氏・京極氏の手厚い庇護のもと隆盛を誇りました。

 

 

室町時代初期。後に当寺中興の祖と呼ばれる比叡山延暦寺西塔の高僧・貞舜(じょうしゅん)は、時の将軍・足利義満からの要請を受け、ここの住職に就任。延暦寺の別院(べついん/本山に準じるものとして別の地域に設けられた寺院)の1つとして列せられるまでになり、以降多くの名僧を輩出します。

 

 

またこの成菩提院は、織田信長豊臣秀吉浅井長政小早川秀秋などといった名だたる戦国武将が、東山道往来時に宿泊していたことでも知られています。

 

 

驚きなのは、ともすれば“廃仏の先兵”とも誤解され兼ねない所業で知られる信長が、東山道を通る度にここに宿泊していることです。

 

 

同じ天台宗でも本山の比叡山は焼討ちに及んだのに対し、こちらは手厚く庇護。はっきりとした理由は不明ですが、戦国武将たちの信頼に足る何かがここにはあったのでしょう。その証拠と言うには少々乱暴ですが、関ヶ原合戦直後には彼の徳川三代の影の戦略的参謀として名高い南光坊天海が二十世住職を務めています。

 

 

さて、天台宗の別院としての名に恥じぬ数多くの仏教文化財を擁する成菩提院ですが、ここでは敢えてこの話題に触れず、成菩提院に伝わる3つの興味深い逸話についてお話しいたします。

 

 

まずはこの写真をご覧ください。

 

 

 

何の変哲もないただの“古びた大塗り盆”ですが、何とこの成菩提院を歴史の檜舞台へと一気に引き上げる契機を象徴するメモリアルオブジェクトなのです。

 

 

 

時は慶長5(1600)年9月、関ヶ原合戦の直前のこと。後にこの戦いのキーマンとなる小早川秀秋がここに逗留します。そして9月15日の合戦当日、あの有名な歴史的変事が勃発。それまで西軍優勢であった戦局を一気に覆し、徳川家康率いる東軍が勝利します。

 

 

当時の住職であった祐円(ゆうえん)は、直ぐ様勝利に沸く東軍の本陣にこの大盆いっぱいの牡丹餅(ぼたもち)を届け、家康を大層喜ばせたと言います。これに気を良くした家康は、成菩提院に対し寺領150石の安堵と十石五斗の加増を約束しました。

 

 

ここで1つの疑問が出てきます。牡丹餅は、餡となる小豆の仕込みから餅の出来上がりまで、どんなに急いでも丸2日は必要となります。

 

 

でも祐円はまるで東軍勝利を予見していたかの如く、牡丹餅を迅速に本陣へと届けているのです。

 

 

 

実はこの祐円、あの家康の懐刀と呼ばれた南光坊天海の兄弟子に当たります。当寺のご住職の推測として、秀秋は成菩提院に逗留時、家康からの密命を、天海そして祐円を通じて受け、戦う前から東軍に与することが仕組まれていたのではないかと。史実では、関ヶ原で家康は秀秋の陣目掛けて大砲(おおづつ)を放ち、それに窮した秀秋が止む無く西軍を裏切ったとされていますが、これはあくまでもパフォーマンス且つ作戦決行の合図ではなかったのかと考えておられるのです。

 

 

2つめのエピソードは、この山門からです。

 

 

 

この山門の内部には、彼の名工・左甚五郎(ひだりじんごろう)の作と伝えられる龍の彫刻があります(カメラではとてもフォーカス出来ない位置にあるので割愛いたします)。

 

 

 

この彫刻があまりにも出来がよく、本物の龍となって村に大洪水を巻き起こしたとか。村人はこの龍の彫刻の眼に楔(くさび)を打ち込んで、何とかこれを鎮めたそうです。

 

 

ただ今に残る彫刻の眼には楔を打ち込んだ形跡もありませんし、左甚五郎は1人ではなかったとも言われていますので、これはどこにでもよくあるお話しかと・・・。ちなみに私の自宅近所の寺院にも、似たようなお話があります(^^)

 

 

最後のエピソードが今回の記事の“肝”でございます。タイトルの「if・・本能寺の変は無かった!?」に関連するお話でございます。さて信長がここに何度も滞在したことは前述しましたが、実はその度に生命の危機にさらされていたのです。

 

 

その中でも大きな危機が2回ありました。まず最初の危機は浅井長政と姻戚関係にあった時のこと。信長は手勢250騎を従えて、この成菩提院に宿泊していました。浅井長政の命を受けて接待役として詰めていた重臣・遠藤喜右衛門は密かに成菩提院を抜け出し、急ぎ小谷城へ立ち戻り、長政に夜襲による信長暗殺を進言します。しかし義理堅い性格の長政は、愛する妻・お市の方の兄を騙し討ちにするなど武士にあるまじき所業と、その進言を一蹴したと言います。

 

 

次の危機は、信長が天下布武を成し遂げ本能寺で落命する約半年前のこと。いつものように少ない手勢でここに滞在していた信長。同時に近隣の伊富貴山観音護国寺(いぶきさんかんのんごこくじ/石田三成の出世伝説“三碗(さんわん)の才”で有名)には、明智光秀が宿泊していました。光秀はこの機会に信長を討ち取ろうと画策しておりましたが、黒田長政(くろだながまさ/豊臣秀吉の軍師・黒田官兵衛の子にして、関ヶ原合戦東軍勝利の功労者)に翻意を促されて断念したと伝えられています。

 

 

本能寺の変の裏に家康の陰謀ありなどと言われることもありますが、家康と懇意の仲であった黒田長政が説得に当たったというのは、何やらキナ臭さを感じざるを得ません。

 

 

でももしこれが実行されていたら・・・歴史の教科書の「本能寺の変」は、間違いなく『成菩提院の変』と記載されていたでしょうね。

 

 

上の写真は成菩提院にある隠し部屋。ここに多くの戦国武将が休んだと伝えられています。「寝首をかかれない」ための工夫が、こんなところにあるのです。

 

 

成菩提院住職・山口智順さんには、取材後もお忙しい中お電話にて色々興味深いお話を頂戴し、全面的にご協力を賜りました。この場を借りまして厚く御礼申し上げます。

 

 

なお毎年11月には近隣の徳源院・観音寺とともに寺宝展が開催されます。貴重な秘蔵品に接するまたとない機会に、ご住職の興味深いお話に耳を傾けてみるのもよいのではないでしょうか。

 

 

成菩提院 

滋賀県米原市柏原1692
TEL.0749-57-1109
拝観料:300円(拝観要予約)

※写真撮影は本企画にて特別に許可されたものですので予めご了承ください。

 

 

にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 滋賀県情報へ
ご愛読いただき誠に有難うございます。ワンクリック応援にご協力をお願いいたします!


湖北“東山道/中山道を往く”(1)~湧水の郷・醒井

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

 

 

今回から6回シリーズの予定で、滋賀県教育委員会文化財保護課主催の「ブロガーによる歴史探訪情報発信」企画としまして、湖北“東山道/中山道”界隈に佇む歴史の魅力を紐解いて参りたいと存じます。

 

 

さて栄えある第1回目は、中山道六十九次の第61番宿場で湧水の郷としても知られる醒井(さめがい)を訪ね歩きます。

 

 

 

そもそもこの醒井の地名は、こちらの湧水“居醒の清水”(いざめのしみず)に由来します。

 

 

「古事記」「日本書紀」によると、今から約2000年前の景行天皇(けいこうてんのう)の御代のこと。

 

 

東征からの帰路、日本武尊(やまとたけるのみこと/景行天皇の第二皇子)は、伊吹山の荒ぶる神(大蛇)征討の勅命を受けます。

 

 

大蛇を切り伏せることには成功しますが、その毒気に当たって発熱し、正気を失う程のダメージを負います。

 

 

やっとの思いで山を降りてこの泉まで辿り着き清水で身体を冷やしたところ、たちどころにして熱は下がり、体力・気力共に回復します。

 

 

尊はこの泉を居醒の清水と名付け、これが転じてこの地が醒井と呼ばれるようになったと伝えられています。

 

 

この醒井を訪れる多くの人々が魅了されて止まないもの・・・それは何と言っても中山道と並行して流れる地蔵川に群生する梅花藻(バイカモ)です。

 

 

梅花藻はキンポウゲ科の水生多年草で、清流でしか育ちません。

 

 

 

霊仙山(りょうぜんやま)の豊富な伏流水を水源とし、通年の水温がほぼ14℃に保たれる地蔵川は格好の生息地となっています。

 

 

 

7月中旬から8月に掛け梅の花に似た白い小花を咲かせることから、梅花藻(バイカモ)と名付けられたようです。

 

 

最盛期には直径1.5cm程の実に可憐で可愛らしい花々が一斉に川面を彩ります。

 

 

 

また夏の終わりには川沿いに植生するサルスベリの花が落ちて、梅花藻の白と緑、そしてサルスベリの紅が絶妙なコントラストを呈します。

 

 

 

先程も述べましたが、この地蔵川は霊仙山の伏流水を水源としております。

 

 

よって余程のことが無い限り、この清流が濁流へと変化することはありません。

 

 

 

取材前日に集中豪雨があり、他の河川は軒並み濁流と化しておりましたが、この地蔵川だけは水量は多いものの清流の態を保っておりました。

 

 

 

ですから、現在に至っても貴重な生活用水として活用されています。もちろん、ラムネも程よく冷えておりました(^^)

 

 

“湧水”が成せる技なのでしょうか。

 

 

水彩画を愉しむ方々のメッカとしての認知度も最近上がってきています。

 

 

何人かの方々にお声掛けして拝見させていただきましたが・・・皆さん、とてもお上手です。

 

 

私には絵心が無いもので、とても羨ましい限りです。

 

 

日常の喧騒を忘れ、自然と水音を愛でつつ、心穏やかに1枚の絵に興じる・・・こんな時間の過ごし方もまた良しです。

 

 

さて今度は、水から“陸”を巡って参ります(^^)

 

 

いささか観光地化された感は否めませんが、現在でも往時の中山道の宿場としての雰囲気を十分に保っています。

 

 

中山道は現役の生活道路でもあるので交通規制はなされておりませんが、地元の方々の配慮が、交通量は然程多くはありません。

 

 

 

ですので、時間を気にせずゆったりと散策を愉しむことが出来ます。

 

 

 

この界隈で最もシンボライズな建造物が、この旧醒井郵便局

 

 

 

じつはコレ、かの宣教師にして建築家のウィリアム・メレル・ヴォーリズの設計により建造されたものなのです。ヴォーリズに関する詳細は、当ブログ記事『“けいおん”と“メンソレータム”?』をご覧ください。

 

 

まだまだ魅力的なスポットは沢山あるのですが、他が控えておりますので、また別の機会にご紹介したいと思います。

 

 

最後にグルメスポットをご紹介しておかないとダメですよね(^^)

 

 

JR醒ヶ井駅から徒歩1分の場所に醒井水の宿駅(さめがいみずのえき)があります。

 

 

地元の名産品の販売はもとより、特にご年配の方には嬉しい和風ランチバイキングが人気。大人1,380円(中学生以上)と少しお値段は張りますが、鱒のお寿司や名水豆腐などヘルシー志向の方におススメです。

 

 

 

 

 

 

 

 

ちなみに私の“個人的”なおススメはコチラ・・・

 

 

 

喫茶 梅花藻。

 

 

 

 

 

ランチバイキングとフードコートはお昼時間に大変混雑するので、醒井水の宿駅でゆったりと寛いだ時間を過ごしたい方にとっての隠れ家的存在です。

 

 

 

今回私はここでランチブレイク。

 

 

 

おススメは醒井の名水で淹れた、夏季限定の水出しコーヒーです。

 

 

 

 

 

こちらのキレイなお姉さんがお店を切り盛りされています。

 

 

取材にも快く応じてくださいました。有難うございます。

 

 

 

湧水の郷・醒井では来る7月21日(土)より梅花藻ライトアップが実施されます。昼間とはまた違った幻想的なシーンを是非お楽しみください!

 

 

醒井水の宿駅
 滋賀県米原市醒井688番地10 
 TEL.0749-54-8222

 

梅花藻ライトアップ
 期間:7月21日(土)~8月5日(日)/荒天中止       
 時間:19:30~20:30
 場所:米原市醒井・地蔵川周辺(JR醒ヶ井駅より徒歩10分)
 お問合せ:米原観光協会  TEL:0749-58-2227

 

 

にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 滋賀県情報へ
ご愛読いただき誠に有難うございます。ワンクリック応援にご協力をお願いいたします!