「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>
今回は花嫁が消えてしまうという怪奇、嫁取橋(よめとりばし)についてのお話をいたしたいと存じます。
東近江市の旧八日市・五個荘エリアに建部(たてべ)と呼ばれる地区があります。現在は「建部〇〇町」といった形で行政区画が細分化されていますが、かつては建部荘・建部村と呼ばれていました。
この建部の地に吉住池(よしずみいけ)、通称・日吉溜(ひよしのため)と呼ばれる溜め池があります。
3月7日更新記事の“ハナノキの伝説”でも少し触れましたが、ここ池の西側にある箕作山の瓦屋禅寺は、河内國の四天王寺創建の際に瓦を製造した拠点として造営されました。
またこの日吉溜は、瓦に使用する土を掘ったため出来たものであると伝えられています。
その池に通じる細い川に、とある石橋が1つ掛かっておりました。
昔々、信濃國(現在の長野県)に兵左衛門と近江國・甲賀に太郎右衛門という人物がおりました。2人は若い頃からとても親しい間柄にありました。
さて、太郎右衛門には17歳になるお菊というそれは美しい娘がおりました。その美貌は近隣でも評判で、「甲賀小町」とまで呼ばれていました。
かねてよりお菊の評判を耳にしていた兵左衛門は、「是非うちの息子の嫁に」と太郎右衛門に申し出ました。
この縁談話はトントン拍子に進み、大層な嫁入り道具を整えて、はるばる信濃まで輿入れをすることになりました。
春三月のうららかな佳き日、花嫁を輿(こし/人を乗せ人力で持ち上げて運ぶ乗り物)に乗せて甲賀を出立。花嫁行列は御代参街道(ごだいさんかいどう)を通り、日吉溜のこの石橋に差し掛かろうとしておりました。
すると橋の上に1人の少女(一説には老婆)が両手を広げて行く手を遮り、何やら大声でわめいています。
何を言っているのかと近付くと、「いま池の中で龍神様の祝宴が行われているので、それが済むまでこの橋を渡ってはならぬ」と大声で叫んでいるのです。
「何を馬鹿げたことを…ここは天下の大道である。そこを退け!邪魔をすると叩き切るぞ!」と脅しましても一向に動こうとしません。怒り心頭となった太郎右衛門は、とうとう刀を抜いてその少女を真っ二つに切ってしまいました。
すると瞬く間にその少女の姿は消え失せ、のどかな春の池の景色に戻りました。そして橋の上には金襴織の丸帯が1つ、置かれてありました。
「これは珍しい丸帯だ、戴いていこう」と太郎右衛門は帯を長持(ながもち/衣類や寝具の収納に使用された長方形の木箱)に納めて出立しようとしたその時です。妙に花嫁の興が軽いのです。不思議に思い輿の中を見ますと、何と乗っている筈の花嫁の姿がどこにもありません。
すると、何処からともなく「花嫁はたしかに頂戴した。礼の印に金欄帯を進上する」との声が聞こえてきました。花嫁は池の主に盗られてしまったのです。
この変事に一行はびっくり仰天!腰も抜かさんばかりで、輿も何もかも投げ捨てて逃げ帰ってしまいました。
これ以降この石橋を嫁取橋と呼び、絶対に花嫁の行列を通さないこととしました。
また龍神様の怒りを恐れた近隣の村人たちは日吉溜の主をご神体として崇め、“日吉澤早慧龍神(ひよしざわそうけいりゅうじん)”としてお祀りしました。そして毎年7月25日に祭祀を執り行い、村の安泰を祈念したそうです。
現在、御代参街道であった道路にこの石橋は残っていません。
なお東近江市建部日吉町にある日吉神社の参道近くにある石材が、かつての嫁取橋であったと言われています。
「急いては事を仕損じる」という教訓ですね。
来るゴールデンウィークは、家族と共に県内各地へフィールドワーク(取材散歩)に出掛ける予定をいたしております。充電期間ということで、次回更新は5月9日となりますのでお楽しみに!
(※この記事は「滋賀サクの歴史浪漫奇行」にて2011年4月26日に掲載したものを加筆修正しております。)
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