「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>
今回は仏の道に殉じた2人の青年僧、住蓮房・安楽房(じゅうれんぼう・あんらくぼう)についてのお話をいたしたいと存じます。
鎌倉時代初期のことです。後に浄土宗の元祖とされ、「すべての人は平等であり、すべての人は“南無阿弥陀仏”によって救われる」と説き、それまで時の権力者たちだけのものであった仏教を、新興の武士や農民、そして女性にも広めた“法然(ほうねん)”という僧侶がおりました。
その法然の弟子の中で最も名の知れているのは、やはり昨年の750年大遠忌で一躍フィーチャーリングされている“浄土真宗”の宗祖・親鸞(しんらん)でしょう。
さて同じく弟子の中で、法然の教えに従い不断念仏・浄土礼讃を熱心に修道していた住蓮房・安楽房という人物がおりました。2人は京都の鹿ヶ谷(ししがたに/現在の京都市左京区鹿ヶ谷)に「鹿ヶ谷草庵」を結び、ここを拠点として布教活動に勤しんでおりました。
当時新興の存在であった法然の教えは、既存教団(天台宗・延暦寺や法相宗・興福寺など)の活動を脅かす非常に厄介な存在で、あらゆる手段で排除しようと躍起になっておりました。
このような状況下にあってもこの2人の僧は「別時念仏会(べつじねんぶつえ/日時を決めて集まり、阿弥陀如来を称えひたすら念仏を唱えて身体を清める行事)」を開き、多くの人々に法然の教えを説いていました。その参加者の中に、鈴虫姫・松虫姫(すずむしひめ・まつむしひめ)という女房(にょうぼう/朝廷の奥向き担当の女官)がおりました。
鈴虫姫・松虫姫は共に今出川左大臣の娘で、容姿端麗で博識であったことから後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)の寵愛を一身に受けておりました。反面、他の女房からの嫉妬も相当なものでした。
建永元(1206)年12月7日。この日熊野へ行幸した上皇より1日休暇を貰った両姫は、清水寺を参拝した帰り道に鹿ヶ谷草庵に立ち寄り、そこで法然の説法を聞きます。これに共感した両姫は「真の人間解放の道は、阿弥陀如来の絶対他力に求めるしかない」と固く自覚するのです。
御所に戻った後もこの思いが変わることはなく、両姫は秘密裏に申し合わせて深夜に御所を出奔して鹿ヶ谷草庵に駆け込み、住蓮房・安楽房に出家を願い出ます。2人の僧は「出家するには上皇の許可が必要」と一旦は思い止まるよう諭しましたが、結局は両姫の決死の覚悟に心動かされ剃髪を認めます。時に松虫姫19歳、鈴虫姫17歳でありました。
さて都に戻った上皇の耳に、この事実が悪告げする者によって「女房と僧の不義密通」と伝えられます。上皇はこれに激怒し、新興専修念仏教団に対しそれまで優柔であった態度を一変させるのです。
まず住蓮房・安楽房及びその弟子の西意善綽房(さいいぜんしゃくぼう)・性願房(しょうがんぼう)の4名が捕縛され、彼らには死罪が言い渡されます。
建永2(1207)年2月9日。住蓮房と性願房は馬淵荘(まぶちのしょう/現在の近江八幡市千僧供町)で、安楽房は六条河原(京都)で、西意善綽房は摂津(大阪)で、それぞれ斬首されました。
住蓮房は「極楽に生まれむことの うれしさに 身をば佛に まかすなりけり」、安楽房は「今はただ云う言の葉も なかりけり 南無阿弥陀仏の み名のほかには」と辞世の句を遺しています。
それでも怒りの収まらぬ上皇は、法然と親鸞を含む7名の流罪を決定。法然は土佐國(途中、讃岐國に変更)、親鸞は越後國に配流され、共に僧籍を剥奪されました。
これが世に言う「建永の法難(けんえいのほうなん)」です。またこの時期は改元期にあたるため、承元(じょうげん)の法難とも呼ばれます。
尼となった鈴虫・松虫は、後に瀬戸内海の生口島(いくちじま/広島県尾道市)にある光明坊(こうみょうぼう)に移り住み、念仏三昧の余生を送りました。松虫は35歳、鈴虫は45歳で没したと伝えられています。
江戸時代に入り、処刑の地となった千僧供村(せんぞくむら/旧馬淵荘)の村人はこれを哀れみ、また安楽房が死に際に住蓮房との合葬を希望していたこともあり、元禄2(1689)年に2人の墓を建立し弔いました。
現在、国道8号に程近い近江八幡市千僧供町の田園地帯の中心にポツンとある円墳(住蓮房古墳)の上に住蓮房・安楽房墓があります。
ここは古くから「御僧塚」と呼ばれ、代々近隣在郷の人々により大切に守られています。
かつてはこの地で毎年10月に村挙げての「崇敬講」というイベントが行われ、墳墓に通じる沿道には多くの露店が立ち並び、近郷のお祭の1つとして多くの参拝者で賑わった時代もあったそうです。
ちなみにこちらの写真は千僧供集落にある易行寺(いぎょうじ)で保管されていた、住蓮房古墳の古写真(絵葉書)で、以下のものも同様です。
こんな細いあぜ道に露店が並んでいたのですね。
いつも花がたむけられ、墓所内は清浄に保たれています。
集落の人々の信仰の厚さの程が伺い知れます。
以前は墓前に常夜灯がありましたが、現在はさらに前(現在の住蓮房古墳の写真参照)へ移動しています。
これは近代に入り浄土宗の方々が法要を営まれるのに、地元の同意なしに勝手に移設してしまったのだとか。
それが契機となって、長きに渡り浄土宗と地元との間はとても険悪な関係であったそうです。2人の僧のあずかり知らぬところで、色々とあるのですね(>_<)
この池のほとりで住蓮房は処刑され、その首を洗ったとされています。
長い間荒れ放題となっていましたが、平成18(2006)年の住蓮房・安楽房の八百年遠忌を契機に千僧供町まちづくり委員会が中心となって浄財を集め再整備されました。
現在は公園となっていますが、水も無く、池とは名ばかりの状態となっています(再整備の際の資金面での問題もあったようです)。
でもかつてはこのように水を湛え、風光明媚な場所であったことがこの古写真から伺えます。
さて前出の易行寺ですが、詳しい経緯は定かではないものの、住蓮房・安楽房殉死以降非常に深い関わりを持っておられます。
こちらには2人の法難を記した住蓮房安楽房御絵傳(じゅうれんぼうあんらくぼうごえでん)が伝えられています。
現存する写真の絵巻は昭和30(1956)年の七百五十年遠忌を記念に作成されたものですが、住職の赤松さんによると「もともと下絵となった原本が存在していたのではないか」とのことでした。
こちらはもともと中山道近くの御堂にありましたが、明治29(1896)年の暴風雨で御堂が倒壊。
止む無くこちらに遷されることになったのだそうです。
以来不思議な御縁で、易行寺では毎年命日である2月9日に法要が営まれています。
さてここでサイドストーリーを2つご紹介いたします。
1つめは「住蓮房がなぜ馬淵の地で処刑されたのか?」について。
当時、罪人の処刑(武士は除く)は見せしめのため「出身地」で挙行するという習わしがあったようです。安楽房が京で処刑されたのもそうですし、住蓮房も馬淵の出身であったからというのが通説です。
しかし易行寺の資料によると、住蓮房は伊勢國(現在の三重県)出身であったとされています。
千僧供町には氏神を祀る椿神社がありますが、かつては三重県鈴鹿市にある椿大神社(つばきおおかみやしろ)ととても深い結びつきがあったようなのです。
赤松さんは「千僧供は昔から伊勢との関わりが深いので、そのことがこの地での処刑と何か関連があるのでは」と推測されています。
ちなみに住蓮房は、北面の武士で後鳥羽上皇の側近の1人で歌人としても重用された藤原左衛門尉秀能(ふじわらさえもんのじょうひでよし)により馬淵まで護送。
その後、近江源氏の流れを汲む佐々木九郎吉實(ささきくろうよしざね)によって斬首されました。
吉實は専修念仏の信者であったため住蓮房の処刑には最大限の敬意をもって接し、後に出家して生涯をかけ菩提を弔ったそうです。
その住蓮房の処刑に用いられた斬首の刀が現在、栗東市綣(へそ)にある大宝神社に奉納されています。
もう1つ、住蓮房には朝子という母親がおりました。我が子が捕縛された悲しみに盲目になってしまい、いよいよ処刑されるとの報を聞きつけ、何としても息子に一目逢いたいと馬淵荘を目指し東山道(中山道の前身)を急ぎました。
しかし守山辺りに差し掛かった時、既に処刑されてしまったことを耳にします。「最早この世に生きる望みなし」と絶望した母・朝子は、焔魔堂(えんまどう)付近の池(後に尼ヶ池と呼ばれる)に身を投げてしまうのです。
この池の近隣に住む市村長左衛門は母親の菩提を弔うべく屋敷に墳墓を建立し、以来市村家が代々御守をされています。
現在でも守山市焔魔堂町の旧中山道沿いの焔魔堂交差点南詰にある市村家の敷地内に、住蓮房母公墓があります。
なお、どういう経緯を辿ったのかは不明ですが、住蓮房斬首の刀を大宝神社に奉納したのはこの市村家であるそうです。
あなたは自分の信ずるものに生命を賭することができますか?
今回の記事編集に情報提供いただきました千僧供町まちづくり委員会の小川栄司さん、千僧供地域歴史資料館・館長の小西末男さん、易行寺住職の赤松正之さん。この場を借りまして厚く御礼申し上げます、本当に有難うございました。
◆千僧供町まちづくり委員会
【URL】 http://senzoku.xrea.jp/
◆千僧供地域歴史資料館
・滋賀県近江八幡市千僧供町1090番地
・TEL. 0748-37-6121
・開館日/土曜日・日曜日・祝祭日
・開館時間/10:00~16:00
・入館料/無料
◆易行寺
・滋賀県近江八幡市千僧供町384番地
・TEL. 0748-37-0809
(※この記事は「滋賀サクの歴史浪漫奇行」にて2011年3月29日に掲載したものを加筆修正しております。)
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