Daily Archives: 2012年1月18日

清盛の寵愛に翻弄された姉妹 “妓王・妓女”の伝説

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

 

今回は平清盛の寵愛に翻弄された白拍子(しらびょうし)の姉妹、妓王・妓女(ぎおう・ぎじょ)についてのお話をいたしたいと存じます。

 

去年のNHK大河ドラマ「江~姫たちの戦国」は、受信料を真面目に納付している私にとって実に不発な作品でした。長浜エリアでの博覧会はそれなりに盛り上がったようですが、ドラマの最後のまとめ方は“無茶ぶり”もいいところ…ホントがっかりでした。

 

…でもって、1月8日からスタートした『平清盛』にはとても期待しております…と言いたいところなのですが、開始早々何かと物議を醸しているようで…ちょっぴり心配でございます(>_<)

 

 

ではまず「白拍子とは何か?」をご説明いたしましょう。

 

 

白拍子とは平安時代末期から鎌倉時代に掛けて、“今様(いまよう)”朗詠(ろうえい)“と呼ばれる歌曲を歌いながら舞を踊る男装の遊女や子どものことを指します。

 

 

そうですね~8年前の大河ドラマ『義経』で石原さとみさんが演じた、源義経の愛妾(あいしょう/お気に入りの妾)・静御前(しずかごぜん)の姿が最もイメージに近いかと…。ちなみに静御前は義経の“妻”ではなく、“愛人”でございます。

 

 

さて今回のお話の一端を担う清盛ですが、その母親の素性については諸説あるものの、歴史上“不詳”とされております。

 

 

大河ドラマでは「清盛は白河法皇の御落胤(ごらくいん/父親に認知されない私生子)で、母親は法皇の愛妾であった白拍子(舞子)」という設定となっております。清盛と白拍子とは何かと因縁があるようです。

 

 

ではお話を本題に戻します。

 

 

京都・奥嵯峨にございます祇王寺(ぎおうじ)の『祇王寺縁起』によりますと、妓王は仁平3(1153)年に野洲郡江部庄(現在の野洲市永原・北・中北地区)で、北面の武士で江部の庄司でもあった橘次郎時長(たちばなじろうときなが)と母・刀自(とじ)の娘として誕生します(一説には“江部九郎時久”が父親とも)。

 

野洲市中北には、かつて妓王たち家族が住んでいたとされる屋敷跡が残っています。

 

その2年後には妹の妓女が生まれます。しかし程なくして妓王4歳・妓女2歳の時、父・時長が保元の乱で戦死してしまいます。

 

妓王16歳の時、母・刀自は2人の娘を連れて京の都に上ります。白拍子となった彼女は、その美貌と艶やかな舞でたちまち都でも一目置かれる存在となります。

 

その評判が時の権力者であった平清盛の眼に止まり、妓王は絶大なる寵愛を受けます。またそのお陰もあって、妓女や刀自も何不自由ない暮らしを送ることが出来ました。

 

それから3年後。佛御前(ほとけごぜん)という若い白拍子が都で評判となります。彼女は清盛の御前で舞を踊ることを望みますが、妓王が寵愛を集めていたため一旦は追い払われます。

 

しかし妓王の取り計らいにより、清盛の前に出る機会を得ます。清盛は佛御前の舞にすっかり魅了され、何と妓王は直ちに追い払われてしまいます。

 

妓王21歳の時。

 

時の権力者の余りの仕打ちに妓王は自害を決意し、妹の妓女もそれに同調しますが、母の刀自がこれを思い止まらせ、奥嵯峨にある往生院(おうじょういん/現在の祇王寺)に身を隠し、出家して念仏を唱える日々を送りました。

 

この事実を知った佛御前は、恩義ある妓王の身の上をはかなみ、清盛に無断で自らも出家。

 

同じく往生院に入り、妓王・妓女・刀自とともに余生を過ごしたと言います。

 

妓王が清盛の寵愛を一身に集めていた頃。

 

干ばつに苦しんでいる郷里の村人を救うために、妓王が清盛に請願して承安4(1174)年に竣工した灌漑用水・妓王井川(ぎおういがわ)が現在でも残っています。

 

 

工事は困難を極めましたが、野洲川から野田浦(現在の野洲市野田)まで三里(約12km)に渡り水路が整備されました。

 

 

これで野洲郡の十か村に及ぶ村人が水不足解消の恩恵に与り、近江國内でも有数の穀倉地帯へと発展を遂げました。

 

 

このことは今でも妓王の恩沢(おんたく)として語り継がれています。

 

 

野洲市三上の野洲川沿いにある新興住宅地。

七間場(しちけんば)地区の自治会館敷地内に妓王井川水源地跡の碑があり、竣工当初はここを水源としていたようです。

 

ちなみにこちらの地名は、かつて“近江太郎”と呼ばれる暴れ川であった野洲川の堤防を護る役目を、一人当たり七間(約12.7274m)割り当てられたことに由来するのだそうです。

 

 

こちらは野洲市野洲の四ツ家(よつや)地区にある“史蹟 妓王井川”の碑です。

 

 

 

現在、妓王井川を示す唯一の道標となっています。

 

 

 

時代の流れに影響され妓王井川の様相も大きく変化してしまいました。

 

 

 

それでも今に至り、野洲の人々に様々な恩恵を与え続けています。

 

 

最後にご紹介するのは、野洲市中北にあります浄土宗・宝池山妓王寺(ぎおうじ)です。

 

この寺院は妓王井川が整備された翌年の承安5(1175)年。

 

何れ妓王たちの“終の棲家(ついのすみか)”となるべく、清盛が建立させた宝聚寺(ほうじゅじ)が前身とされています。

 

また一説には、妓王たちが辿った末路を哀れに思い、また灌漑用水を整備してもらった恩義に報いるため、村人たちによって建立されたとも伝えられています。

 

江戸時代に大津の膳所藩によって編纂された地誌『近江輿地志略(おうみよちしりゃく)』によりますと、「妓王妓女佛御前刀自の四女墓あり、四女の木像あり」と記述されています。

 

その記述通り、ここ妓王寺には4人の墓が祀られ、4人の木像が安置されています。残念ながら墓石は存在するもののどれが誰のものであるかという特定は出来ない状態にあり、また木像も原則非公開となっています。

 

妓王寺は代々尼僧によってお守りされてきたのですが、平成16(2004)年に最後のご住職が亡くなられ、後継者も無く以降は地元自治会役員の持ち回りでお世話をされています。

 

また毎年8月下旬(25日頃)には、妓王井川の恩恵に与ったかつての村々の人々が参集し、現在も法要を営んでおられます。

 

それにしましても、かつての“恋敵”同士が共に祀られているなど現代では考えられませんよね。

 

今回妓王寺の取材には平成22年度・中北自治会会長・永原一豊さんの奥様に立ち合っていただきました。

 

その際、こんなエピソードを語っていただきました。

 

妓王・妓女は“祇王・祇女”とも表記され、京都の祇王寺は後者になっています。どちらが正しいという訳ではなく、当時は文字を読み書き出来る階層が限られており、お話も口伝(くでん)によるところが大きいので、このようなことになったのではと仰っておられました。

 

またニューヨークの大学の女性の先生が、平家物語の研究でわざわざ来訪されたのには流石に驚かれたそうです。

 

あと妓王寺は京都の祇王寺に比べて知名度に雲泥の差があり、また無住寺ということもあってなかなか観光資源として活かし切れずにいるとか。

 

今回の大河ドラマを契機に注目されることを期待しているとも仰っておられました。

 

なお妓王寺のある中北集落は、自動車での進入が非常に困難な隘路となっております。また見学には予約が必要となりますので、詳しくは下記までお問い合わせください。

 

野洲市観光物産協会 (野洲市役所環境経済部商工観光課)

・滋賀県野洲市小篠原2100番地1
・TEL. 077-587-3710
・受付日/平日のみ
・受付時間/8:30~17:15

 

今回の記事編集に情報提供いただきました永原一豊さんとその奥様。この場を借りまして厚く御礼申し上げます、本当に有難うございました。

 

(※この記事は「滋賀サクの歴史浪漫奇行」にて2011年4月5日に掲載したものを加筆修正しております。)

 

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