Monthly Archives: 1月 2012

仏の道に殉じた青年僧たち“住蓮房・安楽房”の伝説

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

 

今回は仏の道に殉じた2人の青年僧、住蓮房・安楽房(じゅうれんぼう・あんらくぼう)についてのお話をいたしたいと存じます。

 

鎌倉時代初期のことです。後に浄土宗の元祖とされ、「すべての人は平等であり、すべての人は“南無阿弥陀仏”によって救われる」と説き、それまで時の権力者たちだけのものであった仏教を、新興の武士や農民、そして女性にも広めた“法然(ほうねん)”という僧侶がおりました。

 

その法然の弟子の中で最も名の知れているのは、やはり昨年の750年大遠忌で一躍フィーチャーリングされている“浄土真宗”の宗祖・親鸞(しんらん)でしょう。

 

さて同じく弟子の中で、法然の教えに従い不断念仏・浄土礼讃を熱心に修道していた住蓮房・安楽房という人物がおりました。2人は京都の鹿ヶ谷(ししがたに/現在の京都市左京区鹿ヶ谷)に「鹿ヶ谷草庵」を結び、ここを拠点として布教活動に勤しんでおりました。

 

当時新興の存在であった法然の教えは、既存教団(天台宗・延暦寺や法相宗・興福寺など)の活動を脅かす非常に厄介な存在で、あらゆる手段で排除しようと躍起になっておりました。

 

このような状況下にあってもこの2人の僧は「別時念仏会(べつじねんぶつえ/日時を決めて集まり、阿弥陀如来を称えひたすら念仏を唱えて身体を清める行事)」を開き、多くの人々に法然の教えを説いていました。その参加者の中に、鈴虫姫松虫姫(すずむしひめ・まつむしひめ)という女房(にょうぼう/朝廷の奥向き担当の女官)がおりました。

 

鈴虫姫・松虫姫は共に今出川左大臣の娘で、容姿端麗で博識であったことから後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)の寵愛を一身に受けておりました。反面、他の女房からの嫉妬も相当なものでした。

 

建永元(1206)年12月7日。この日熊野へ行幸した上皇より1日休暇を貰った両姫は、清水寺を参拝した帰り道に鹿ヶ谷草庵に立ち寄り、そこで法然の説法を聞きます。これに共感した両姫は「真の人間解放の道は、阿弥陀如来の絶対他力に求めるしかない」と固く自覚するのです。

 

 

御所に戻った後もこの思いが変わることはなく、両姫は秘密裏に申し合わせて深夜に御所を出奔して鹿ヶ谷草庵に駆け込み、住蓮房・安楽房に出家を願い出ます。2人の僧は「出家するには上皇の許可が必要」と一旦は思い止まるよう諭しましたが、結局は両姫の決死の覚悟に心動かされ剃髪を認めます。時に松虫姫19歳、鈴虫姫17歳でありました。

 

 

さて都に戻った上皇の耳に、この事実が悪告げする者によって「女房と僧の不義密通」と伝えられます。上皇はこれに激怒し、新興専修念仏教団に対しそれまで優柔であった態度を一変させるのです。

 

 

まず住蓮房・安楽房及びその弟子の西意善綽房(さいいぜんしゃくぼう)・性願房(しょうがんぼう)の4名が捕縛され、彼らには死罪が言い渡されます。

 

建永2(1207)年2月9日。住蓮房と性願房は馬淵荘(まぶちのしょう/現在の近江八幡市千僧供町)で、安楽房は六条河原(京都)で、西意善綽房は摂津(大阪)で、それぞれ斬首されました。

 

住蓮房は「極楽に生まれむことの うれしさに 身をば佛に まかすなりけり」、安楽房は「今はただ云う言の葉も なかりけり 南無阿弥陀仏の み名のほかには」と辞世の句を遺しています。

 

それでも怒りの収まらぬ上皇は、法然と親鸞を含む7名の流罪を決定。法然は土佐國(途中、讃岐國に変更)、親鸞は越後國に配流され、共に僧籍を剥奪されました。

 

これが世に言う「建永の法難(けんえいのほうなん)」です。またこの時期は改元期にあたるため、承元(じょうげん)の法難とも呼ばれます。

 

尼となった鈴虫・松虫は、後に瀬戸内海の生口島(いくちじま/広島県尾道市)にある光明坊(こうみょうぼう)に移り住み、念仏三昧の余生を送りました。松虫は35歳、鈴虫は45歳で没したと伝えられています。

 

江戸時代に入り、処刑の地となった千僧供村(せんぞくむら/旧馬淵荘)の村人はこれを哀れみ、また安楽房が死に際に住蓮房との合葬を希望していたこともあり、元禄2(1689)年に2人の墓を建立し弔いました。

 

現在、国道8号に程近い近江八幡市千僧供町の田園地帯の中心にポツンとある円墳(住蓮房古墳)の上に住蓮房・安楽房があります。

 

ここは古くから「御僧塚」と呼ばれ、代々近隣在郷の人々により大切に守られています。

 

かつてはこの地で毎年10月に村挙げての「崇敬講」というイベントが行われ、墳墓に通じる沿道には多くの露店が立ち並び、近郷のお祭の1つとして多くの参拝者で賑わった時代もあったそうです。

 

ちなみにこちらの写真は千僧供集落にある易行寺(いぎょうじ)で保管されていた、住蓮房古墳の古写真(絵葉書)で、以下のものも同様です。

 

こんな細いあぜ道に露店が並んでいたのですね。

 

 

写真の左側が住蓮房、右側が安楽房の墓になります。

 

 

いつも花がたむけられ、墓所内は清浄に保たれています。

 

 

集落の人々の信仰の厚さの程が伺い知れます。

 

 

こちらはかつての住蓮房・安楽房墓の古写真。

 

 

以前は墓前に常夜灯がありましたが、現在はさらに前(現在の住蓮房古墳の写真参照)へ移動しています。

 

 

これは近代に入り浄土宗の方々が法要を営まれるのに、地元の同意なしに勝手に移設してしまったのだとか。

 

それが契機となって、長きに渡り浄土宗と地元との間はとても険悪な関係であったそうです。2人の僧のあずかり知らぬところで、色々とあるのですね(>_<)

 

 

旧中山道沿いには、住蓮房首洗池があります。

 

 

この池のほとりで住蓮房は処刑され、その首を洗ったとされています。

 

 

長い間荒れ放題となっていましたが、平成18(2006)年の住蓮房・安楽房の八百年遠忌を契機に千僧供町まちづくり委員会が中心となって浄財を集め再整備されました。

 

現在は公園となっていますが、水も無く、池とは名ばかりの状態となっています(再整備の際の資金面での問題もあったようです)。

 

でもかつてはこのように水を湛え、風光明媚な場所であったことがこの古写真から伺えます。

 

さて前出の易行寺ですが、詳しい経緯は定かではないものの、住蓮房・安楽房殉死以降非常に深い関わりを持っておられます。

 

 

こちらには2人の法難を記した住蓮房安楽房御絵傳(じゅうれんぼうあんらくぼうごえでん)が伝えられています。

 

 

現存する写真の絵巻は昭和30(1956)年の七百五十年遠忌を記念に作成されたものですが、住職の赤松さんによると「もともと下絵となった原本が存在していたのではないか」とのことでした。

 

 

また住蓮房・安楽房の木像も安置されています。

 

 

 

こちらはもともと中山道近くの御堂にありましたが、明治29(1896)年の暴風雨で御堂が倒壊。

 

 

 

止む無くこちらに遷されることになったのだそうです。

 

 

 

以来不思議な御縁で、易行寺では毎年命日である2月9日に法要が営まれています。

 

 

さてここでサイドストーリーを2つご紹介いたします。

 

1つめは「住蓮房がなぜ馬淵の地で処刑されたのか?」について。

 

当時、罪人の処刑(武士は除く)は見せしめのため「出身地」で挙行するという習わしがあったようです。安楽房が京で処刑されたのもそうですし、住蓮房も馬淵の出身であったからというのが通説です。

 

しかし易行寺の資料によると、住蓮房は伊勢國(現在の三重県)出身であったとされています。

 

千僧供町には氏神を祀る椿神社がありますが、かつては三重県鈴鹿市にある椿大神社(つばきおおかみやしろ)ととても深い結びつきがあったようなのです。

 

赤松さんは「千僧供は昔から伊勢との関わりが深いので、そのことがこの地での処刑と何か関連があるのでは」と推測されています。

 

 

ちなみに住蓮房は、北面の武士で後鳥羽上皇の側近の1人で歌人としても重用された藤原左衛門尉秀能(ふじわらさえもんのじょうひでよし)により馬淵まで護送。

 

その後、近江源氏の流れを汲む佐々木九郎吉實(ささきくろうよしざね)によって斬首されました。

 

吉實は専修念仏の信者であったため住蓮房の処刑には最大限の敬意をもって接し、後に出家して生涯をかけ菩提を弔ったそうです。

 

その住蓮房の処刑に用いられた斬首の刀が現在、栗東市綣(へそ)にある大宝神社に奉納されています。

 

もう1つ、住蓮房には朝子という母親がおりました。我が子が捕縛された悲しみに盲目になってしまい、いよいよ処刑されるとの報を聞きつけ、何としても息子に一目逢いたいと馬淵荘を目指し東山道(中山道の前身)を急ぎました。

 

しかし守山辺りに差し掛かった時、既に処刑されてしまったことを耳にします。「最早この世に生きる望みなし」と絶望した母・朝子は、焔魔堂(えんまどう)付近の池(後に尼ヶ池と呼ばれる)に身を投げてしまうのです。

 

 

この池の近隣に住む市村長左衛門は母親の菩提を弔うべく屋敷に墳墓を建立し、以来市村家が代々御守をされています。

 

 

現在でも守山市焔魔堂町の旧中山道沿いの焔魔堂交差点南詰にある市村家の敷地内に、住蓮房母公墓があります。

 

なお、どういう経緯を辿ったのかは不明ですが、住蓮房斬首の刀を大宝神社に奉納したのはこの市村家であるそうです。

 

あなたは自分の信ずるものに生命を賭することができますか?

 

今回の記事編集に情報提供いただきました千僧供町まちづくり委員会の小川栄司さん、千僧供地域歴史資料館・館長の小西末男さん、易行寺住職の赤松正之さん。この場を借りまして厚く御礼申し上げます、本当に有難うございました。

 

千僧供町まちづくり委員会
【URL】 http://senzoku.xrea.jp/

千僧供地域歴史資料館
・滋賀県近江八幡市千僧供町1090番地
・TEL. 0748-37-6121
・開館日/土曜日・日曜日・祝祭日
・開館時間/10:00~16:00
・入館料/無料

易行寺
・滋賀県近江八幡市千僧供町384番地
・TEL. 0748-37-0809

(※この記事は「滋賀サクの歴史浪漫奇行」にて2011年3月29日に掲載したものを加筆修正しております。)

 

にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 滋賀県情報へ
ご愛読いただき誠に有難うございます。ワンクリック応援にご協力をお願いいたします!


清盛の寵愛に翻弄された姉妹 “妓王・妓女”の伝説

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

 

今回は平清盛の寵愛に翻弄された白拍子(しらびょうし)の姉妹、妓王・妓女(ぎおう・ぎじょ)についてのお話をいたしたいと存じます。

 

去年のNHK大河ドラマ「江~姫たちの戦国」は、受信料を真面目に納付している私にとって実に不発な作品でした。長浜エリアでの博覧会はそれなりに盛り上がったようですが、ドラマの最後のまとめ方は“無茶ぶり”もいいところ…ホントがっかりでした。

 

…でもって、1月8日からスタートした『平清盛』にはとても期待しております…と言いたいところなのですが、開始早々何かと物議を醸しているようで…ちょっぴり心配でございます(>_<)

 

 

ではまず「白拍子とは何か?」をご説明いたしましょう。

 

 

白拍子とは平安時代末期から鎌倉時代に掛けて、“今様(いまよう)”朗詠(ろうえい)“と呼ばれる歌曲を歌いながら舞を踊る男装の遊女や子どものことを指します。

 

 

そうですね~8年前の大河ドラマ『義経』で石原さとみさんが演じた、源義経の愛妾(あいしょう/お気に入りの妾)・静御前(しずかごぜん)の姿が最もイメージに近いかと…。ちなみに静御前は義経の“妻”ではなく、“愛人”でございます。

 

 

さて今回のお話の一端を担う清盛ですが、その母親の素性については諸説あるものの、歴史上“不詳”とされております。

 

 

大河ドラマでは「清盛は白河法皇の御落胤(ごらくいん/父親に認知されない私生子)で、母親は法皇の愛妾であった白拍子(舞子)」という設定となっております。清盛と白拍子とは何かと因縁があるようです。

 

 

ではお話を本題に戻します。

 

 

京都・奥嵯峨にございます祇王寺(ぎおうじ)の『祇王寺縁起』によりますと、妓王は仁平3(1153)年に野洲郡江部庄(現在の野洲市永原・北・中北地区)で、北面の武士で江部の庄司でもあった橘次郎時長(たちばなじろうときなが)と母・刀自(とじ)の娘として誕生します(一説には“江部九郎時久”が父親とも)。

 

野洲市中北には、かつて妓王たち家族が住んでいたとされる屋敷跡が残っています。

 

その2年後には妹の妓女が生まれます。しかし程なくして妓王4歳・妓女2歳の時、父・時長が保元の乱で戦死してしまいます。

 

妓王16歳の時、母・刀自は2人の娘を連れて京の都に上ります。白拍子となった彼女は、その美貌と艶やかな舞でたちまち都でも一目置かれる存在となります。

 

その評判が時の権力者であった平清盛の眼に止まり、妓王は絶大なる寵愛を受けます。またそのお陰もあって、妓女や刀自も何不自由ない暮らしを送ることが出来ました。

 

それから3年後。佛御前(ほとけごぜん)という若い白拍子が都で評判となります。彼女は清盛の御前で舞を踊ることを望みますが、妓王が寵愛を集めていたため一旦は追い払われます。

 

しかし妓王の取り計らいにより、清盛の前に出る機会を得ます。清盛は佛御前の舞にすっかり魅了され、何と妓王は直ちに追い払われてしまいます。

 

妓王21歳の時。

 

時の権力者の余りの仕打ちに妓王は自害を決意し、妹の妓女もそれに同調しますが、母の刀自がこれを思い止まらせ、奥嵯峨にある往生院(おうじょういん/現在の祇王寺)に身を隠し、出家して念仏を唱える日々を送りました。

 

この事実を知った佛御前は、恩義ある妓王の身の上をはかなみ、清盛に無断で自らも出家。

 

同じく往生院に入り、妓王・妓女・刀自とともに余生を過ごしたと言います。

 

妓王が清盛の寵愛を一身に集めていた頃。

 

干ばつに苦しんでいる郷里の村人を救うために、妓王が清盛に請願して承安4(1174)年に竣工した灌漑用水・妓王井川(ぎおういがわ)が現在でも残っています。

 

 

工事は困難を極めましたが、野洲川から野田浦(現在の野洲市野田)まで三里(約12km)に渡り水路が整備されました。

 

 

これで野洲郡の十か村に及ぶ村人が水不足解消の恩恵に与り、近江國内でも有数の穀倉地帯へと発展を遂げました。

 

 

このことは今でも妓王の恩沢(おんたく)として語り継がれています。

 

 

野洲市三上の野洲川沿いにある新興住宅地。

七間場(しちけんば)地区の自治会館敷地内に妓王井川水源地跡の碑があり、竣工当初はここを水源としていたようです。

 

ちなみにこちらの地名は、かつて“近江太郎”と呼ばれる暴れ川であった野洲川の堤防を護る役目を、一人当たり七間(約12.7274m)割り当てられたことに由来するのだそうです。

 

 

こちらは野洲市野洲の四ツ家(よつや)地区にある“史蹟 妓王井川”の碑です。

 

 

 

現在、妓王井川を示す唯一の道標となっています。

 

 

 

時代の流れに影響され妓王井川の様相も大きく変化してしまいました。

 

 

 

それでも今に至り、野洲の人々に様々な恩恵を与え続けています。

 

 

最後にご紹介するのは、野洲市中北にあります浄土宗・宝池山妓王寺(ぎおうじ)です。

 

この寺院は妓王井川が整備された翌年の承安5(1175)年。

 

何れ妓王たちの“終の棲家(ついのすみか)”となるべく、清盛が建立させた宝聚寺(ほうじゅじ)が前身とされています。

 

また一説には、妓王たちが辿った末路を哀れに思い、また灌漑用水を整備してもらった恩義に報いるため、村人たちによって建立されたとも伝えられています。

 

江戸時代に大津の膳所藩によって編纂された地誌『近江輿地志略(おうみよちしりゃく)』によりますと、「妓王妓女佛御前刀自の四女墓あり、四女の木像あり」と記述されています。

 

その記述通り、ここ妓王寺には4人の墓が祀られ、4人の木像が安置されています。残念ながら墓石は存在するもののどれが誰のものであるかという特定は出来ない状態にあり、また木像も原則非公開となっています。

 

妓王寺は代々尼僧によってお守りされてきたのですが、平成16(2004)年に最後のご住職が亡くなられ、後継者も無く以降は地元自治会役員の持ち回りでお世話をされています。

 

また毎年8月下旬(25日頃)には、妓王井川の恩恵に与ったかつての村々の人々が参集し、現在も法要を営んでおられます。

 

それにしましても、かつての“恋敵”同士が共に祀られているなど現代では考えられませんよね。

 

今回妓王寺の取材には平成22年度・中北自治会会長・永原一豊さんの奥様に立ち合っていただきました。

 

その際、こんなエピソードを語っていただきました。

 

妓王・妓女は“祇王・祇女”とも表記され、京都の祇王寺は後者になっています。どちらが正しいという訳ではなく、当時は文字を読み書き出来る階層が限られており、お話も口伝(くでん)によるところが大きいので、このようなことになったのではと仰っておられました。

 

またニューヨークの大学の女性の先生が、平家物語の研究でわざわざ来訪されたのには流石に驚かれたそうです。

 

あと妓王寺は京都の祇王寺に比べて知名度に雲泥の差があり、また無住寺ということもあってなかなか観光資源として活かし切れずにいるとか。

 

今回の大河ドラマを契機に注目されることを期待しているとも仰っておられました。

 

なお妓王寺のある中北集落は、自動車での進入が非常に困難な隘路となっております。また見学には予約が必要となりますので、詳しくは下記までお問い合わせください。

 

野洲市観光物産協会 (野洲市役所環境経済部商工観光課)

・滋賀県野洲市小篠原2100番地1
・TEL. 077-587-3710
・受付日/平日のみ
・受付時間/8:30~17:15

 

今回の記事編集に情報提供いただきました永原一豊さんとその奥様。この場を借りまして厚く御礼申し上げます、本当に有難うございました。

 

(※この記事は「滋賀サクの歴史浪漫奇行」にて2011年4月5日に掲載したものを加筆修正しております。)

 

にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 滋賀県情報へ
ご愛読いただき誠に有難うございます。ワンクリック応援にご協力をお願いいたします!


薙ぎ払えっ!“守山の火祭り”の伝説

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

 

 

今回は滋賀随一の“炎のページェント”、守山の火祭りについてのお話をいたしたいと存じます。

 

 

JR琵琶湖線・守山駅西口から西方に約800m。

 

 

小さくこんもりとした森の中に、勝部(かつべ)神社があります。

 

 

大化5(649)年。

 

 

この一帯を治めていた物部宿禰広国(もののべのすくねひろくに)が物部郷勝部村のこの地に祖神を祀り、この地の総社(そうじゃ/特定地域内の神社の祭神を集合させて祀った神社)として物部大明神と称したのが起源とされています。

 

 

その名が指し示す通り、こちらには武神が祀られており、また「勝部」とは武門の吉相を意味するため、古くから武家の厚い崇敬を受けておりました。そのエピソードには枚挙に暇がありません。

 

 

近江源氏で守護職にあった佐々木氏は、出陣の際に必ず参拝して戦勝を祈願した。

佐々木(六角)高頼は社殿を再興(現存する社殿)し、また(応仁の乱に)出陣の際は境内の竹を切り出して旗竿にした。

元亀元(1570)年に織田信長が野洲・栗太両郡を制圧し、領主に服従の起誓文を書かせ、集まった六十余通を奉納。また戦勝の祈願文も奉納した。

文禄元(1592)年に豊臣秀吉が、朝鮮征伐(文禄の役)の戦勝を祈願する。

八幡山城主の豊臣秀次が神領を寄進する。

 

 

これだけの名だたる武家・武将から頼りにされていた、実はスゴい神社なのです。

 

 

さて話題は変わりまして、この勝部神社では毎年1月の第2土曜日(2005年までは1月8日)に勝部の火祭りが行われます。

 

 

当日朝5時に採取された菜種殻で作られた大蛇形の頭に、ハンノキ・青竹(かつては柴)の割木を荒縄で縛った胴体を付け、長さ5~6m・最大直径約40cm・重さ約400kgもの大松明16基を仕立て、昼過ぎに全ての松明に対して神酒・鰯・豆腐を供え祈祷を行います。

 

 

3基の大太鼓が街中を練り歩いた後、午後8時頃に全ての松明に奉火。神前にて約100~200人もの裸体に褌姿の若者達が「ごうよ」「ひょうよ」(御脳平癒の転)と大きな掛け声をかけながら乱舞し、御神火をもって無病息災・五穀豊穣を祈願します。

 

 

そもそもこのような“ダイナミックな奇祭”が行われるようになったのは何故でしょうか?

 

 

一般に伝えられているのは、今から遡ること約800年前の鎌倉時代初期。

 

 

時の帝であった土御門(つちみかど)天皇が重病に掛かり、一向に回復の兆しが見えませんでした。これを憂慮した朝廷は、占師に占わせて原因を追究させました。

 

 

占師は、「近江の国、栗太・野洲両郡の境に大沼(現在の野洲川を指す)があり、ここに齢数千年の大蛇が住んでいる。それが天皇に危害を加えている。このままでは御命を奪うであろう」と申しました。

 

 

早速朝廷から討伐隊が派遣されますが、大蛇はなかなか姿を見せません。討手は仕方なく勝部神社に参籠し、50日間の祈願を行います。

 

 

そして満願の日。

 

 

何と何処からともなく疲労困憊した大蛇が這い出てきたではありませんか。討手はここぞとばかりに大蛇を焼き殺します。するとたちどころに天皇の病状は回復しました。これを起源として火祭りが行われるようになったとされています。

 

 

もう1つ、言い伝えが残っています。

 

 

今から遡ること約1950年前の飛鳥時代中期。

 

 

物部宿禰広国が野洲郡を通って物部大明神(勝部神社)に向かおうとした際、湛度の淵(たんどのふち/現在の野洲川を指す)に大蛇が現れました。

 

 

広国は太刀を振り回し、たちどころに大蛇を3つに切り捨てました。

 

 

その時大蛇の胴体は湛度の淵に残り、頭部は浮気(ふけ/現在の守山市浮気町付近)に落ち、尾は窪江(くぼえ/現在の大津市瀬田大江町)へと飛んで行ったそうです。

 

 

“勝部の火まつり”で使う松明はその胴体部分にあたり、注連縄(しめなわ)は大蛇の鱗(うろこ)を表しているともいわれています。

 

 

なお頭部が落ちたという浮気にある住吉(すみよし)神社でも、この故事に則り住吉の火まつりが勝部の火祭りと同じ日時に催されます。

 

 

こちらは6基の松明を用い、年寄衆の弓射式で祭りが始められるなど、より古式に従った神事で行われます。掛け声は「へーよ、へーよ」と勝部神社とは若干異なります。

 

 

この2つの火祭りを総じて「守山の火祭り」と呼び、何れも昭和33(1958)年に滋賀県の“記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財”に選択されています。

 

 

これらの祭礼はJR守山駅を基点として、ほぼ東西の同心円上で、しかも同じ日のほぼ同時刻に神事が始まり、そしてクライマックスを迎えます。

 

 

2つ同時に観覧することは「ドラえもんのどこでもドア」でも持っていない限り不可能ですので、是非2年に渡ってご堪能ください(^^)

 

 

今年は来る1月14日(土)に執り行われます。強烈な御神火のパワーを受けて、このモヤモヤした閉塞感を薙ぎ払いましょう!

 

 

勝部神社

・滋賀県守山市勝部1丁目8-8
・JR守山駅西口より徒歩10分

住吉神社

・滋賀県守山市浮気町152
・JR守山駅東口より徒歩15分

※両神社とも駐車場がございません。公共交通機関もしくは守山駅前の各有料駐車場をご利用ください。

 

 

今回の記事編集に写真をご提供いただきました滋賀県庁広報課様。この場を借りまして厚く御礼申し上げます。

 

 

にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 滋賀県情報へ
ご愛読いただき誠に有難うございます。ワンクリック応援にご協力をお願いいたします!


“けいおん”と“メンソレータム”?

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>
システムエラーにより更新が少し遅くなりました(>_<)

 

お正月は楽しくお過ごしになられましたか?今日からお仕事スタートの方もいらっしゃるのではないでしょうか。

 

さて「後藤奇壹のびわこ浪漫怪廊」も本日から本格復帰でございます。

 

その第1弾が“けいおん”と“メンソレータム”…「ナゼにその選択?」とのご指摘、ごもっともでございます(^^)

 

実は前ブログでのアクセスランキング断トツ1位の記事でございまして…外すワケには参らぬと思い、復帰1号記事に抜擢いたしました。

 

 

“けいおん”とは、これまでTVで2シーズン放送された後その人気は止まるところを知らず、ついに劇場版が昨年12月3日に公開された「萌え系アニメ」の金字塔的存在(褒め過ぎか?)。

 

 

単なる「萌え系」に止まらず、音楽には素人同然の女子高生が廃部寸前の「軽音楽部」を再興するという意外にもしっかりした設定。

 

それでいて内容のほとんどがポヤ~ンとした彼女たちの日常を描いている点がファンの共感を呼び、また実際の街並みや建物を登場させるなどして地域の活性化にも貢献しているという点でとても高い評価を得ているユニークな作品…と聞いております(^^)

 

“メンソレータム”といえば、お馴染み「ロート製薬」が販売している、ちょっぴりスースーする「リトルナースちゃん」が目印のスキンケア商品。今ではリップクリームの知名度の方が高いのかも知れません。

 

“けいおん”と“メンソレータム”…「女子高生つながりかっ!」などと、そんな“安直なコラボ”はいたしません。これらには別にある深~い共通点が潜んでいるのです。

 

皆さん、「豊郷町立豊郷小学校」をご存知でしょうか?普段から時事ニュースを注視されている方ならご記憶かとは存じますが、1999(平成11)年にいつも全国紙の三面記事とは縁遠い滋賀県が一躍有名になってしまった事件がございました。

 

そう、当時の町長と町民が真正面から対立した「校舎改築問題」です。

 

豊郷小学校の校舎は去る高名なアメリカの建築家が手掛けた、とても格式ある建造物なのです。

 

そして(もうご存知の方は多いかと思いますが) “けいおん”に登場する女子高生たちの日常生活の舞台となっている学校は、この校舎をモチーフにしているとされています。

 

ここで事件の経緯を改めて紹介いたしませんが、もしこの校舎が解体されていたら、“けいおん”の中で登場する校舎はおろか、階段の手すりにあしらわれたウサギやカメのオブジェも描かれることはなかったでしょう。

 

アニメでは校舎の魅力の全てを網羅しているワケではありませんが、建築家の子どもたちへの深い愛情が随所に感じられる建物なのです。

 

今では事件のことなど無かったかのような様子で、週末ともなると地元商工会主催の「けいおん!カフェ」が人気を博しているようです…私は行ったことないですが…(^^)

 

 

おまけに劇場版公開を契機に、京阪電車・石山坂本線では左のようなラッピング電車も運行しています(これはかなり“痛い”…)。

 

 

さて次に“メンソレータム”ですが、もともとはアメリカの「メンソレータム社」という会社の製品だったというのはご存知でしょうか?

 

大正時代にあるアメリカ人が創業した「近江セールス(現在の近江兄弟社)」が日本でのライセンス(製造・販売)権を獲得し、国内に広めたのです。ただ残念なことに1974(昭和49)に近江兄弟社が経営破綻(後に再建)したため、その権利を返上してしまったのです。その後ロート製薬が権利を取得、1988(昭和63)年にメンソレータム社を買収し現在に至ります。あの「リトルナース」のキャラクターデザインも、もともとは近江兄弟社が手掛けたものなのです。

 

もう勘の良い方はお気付きかと思いますが、 “けいおん”と“メンソレータム”の共通点にはあるアメリカ人がいるのです。

 

そのアメリカ人というのが、今回のエピソードの中心人物「ウィリアム・メレル・ヴォーリズ」その人なのです(いつも“前振り”が長くて申し訳ありません<(_ _)>)。

 

ヴォーリズは1905(明治38)年に、滋賀県立商業学校(現在の滋賀県立八幡商業高等学校)の英語科教師として来日します。その後京都で建築事務所を設立し、日本各地の学校や教会などの建築に携わりました。

 

1908(明治41)年以降は近江八幡を拠点とし、数々の事業を展開していきます。周囲は彼のことを「青い目の近江商人」と呼んだそうです。後に子爵の令嬢「一柳満喜子」と結婚、日本に帰化して「一柳米来留(ひとつやなぎめれる)」と改名します。

 

ちなみに“米来留”という漢字表記は、「アメリカから来て留まる」という意味を洒落でつけたそうです。

 

改名してまもなく太平洋戦争が勃発。彼にとって「二つの故郷」が戦争状態に陥ったことは、さぞかし辛いことだったでしょう。戦後ヴォーリズは連合軍総司令官「ダグラス・マッカーサー」と太平洋戦争直前の内閣総理大臣だった「近衛文麿(このえふみまろ)」との仲介に尽力しました。天皇家の護持が成し得られたのも、彼の功績が大きいとも言われています。

 

そんな「深~い歴史」があったのも知らずして、私たちは今を生きているんですよねぇ。なお豊郷小学校の他に、事業の拠点であった近江八幡市には現在でも「ヴォーリズ建築」が多数保存されていますので、是非散策してみてください。

 

あと最後に豆知識。再建した近江兄弟社はメンソレータムに関する全ての権利を失ってしまったため、後に「メンターム」という商品を世に送り出します。

 

メンソレータムとよ~く似ているのですが、決定的に異なる点が2つあります。

 

1つめ。

 

メンソレータムのキャラクターは「リトルナース」ですが、メンタームは「メンタームキッド」、つまり“男の子”に変わっています。

 

なんとな~くタッチが似ているのは、同じデザイナー(今竹七郎)によるものだからです。

 

2つめ。

 

中身の薬の色ですが、メンソレータムは「淡い黄色」でメンタームは「白色」です。これは主成分であるワセリンの種類が異なるためです。

 

実際に薬局でl両方お買い求めになって違いを比べてみるのも面白いですよ。ちなみに両者とも効能は“同じ”ですのでご心配なく(笑)。

 

 

ついでに…

 

 

 

「映画けいおん」はただいま絶賛好評超絶公開中で~す。

 

 

決して「宣伝」ぢゃないッス!(爆)

 

 

(※この記事は「滋賀サクの歴史浪漫奇行」にて2010年7月21日に掲載したものを加筆修正しております。)

 

 

にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 滋賀県情報へ
ご愛読いただき誠に有難うございます。ワンクリック応援にご協力をお願いいたします!


“郷里ノ初春探訪”ノススメ

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

 

 

皆さまはこの正月三が日、いかがお過ごしでしたでしょうか?

 

 

例年ですと我が家の三が日は、ダラダラ過ごして初詣も(1月15日までの気が向いた時に)多賀大社に参拝するという体たらくでした。

 

 

そこで私たち家族はここ数年の「堕落した正月」を一新すべく、今年は元旦の早朝から郷里を守る神さま仏さまへの徒歩初詣行軍(?)を敢行いたしました。

 

 

午前8時、自宅出立。この年末年始の天候は荒れるとの予報でしたが、厚い暗雲からにわかに太陽が顔を出し、思いがけず“初日の出(?)”を拝むことが出来ました。

 

 

 

これも日頃の信心のお陰。まるで私たちの前途を祝福しているようで…(^^)

 

 

私たち家族が住む町は“中途半端な田舎”ですので、正月ともなるとクルマも人も見る影もなく静かです。周辺の脅威や障害(?)に気兼ねすることなく、私たち家族はトットコ歩きます。

 

 

歩き出して約5分。隣町の自治会館の横にある地蔵堂に到着。

 

 

ここの地蔵堂はこの周辺でも規模が大きく、実に五十以上のお地蔵さまが安置されています。

 

 

まずは子供の頃から信仰するお地蔵さまに新年のご挨拶<(_ _)>

 

 

……「おや?」

 

 

この地に生まれ育ってもう四十ウン年になりますが、こちらのお地蔵さまが御開帳されているのを初めて拝見しました。

 

 

地蔵盆には恐らく御開帳されているのでしょうが、隣町ゆえお祭りの時に訪れることが難しく、ついぞこれまでその機会に巡り合うことが出来なかったのです。

 

 

ちなみに…地蔵盆近畿地方特有の子どものためのお祭りです。恥ずかしながら、私もこのことを知ったのは10年ほど前のことです。“習慣”“風習”とは実に不思議なものですね(^^)

 

 

それにしても、お正月にお地蔵さまをこのように飾って、山盛りのお供えをしてお祀りする風習があることは全く知りませんでした。「ふしぎ発見!」です。

 

 

次に向かったのは、地蔵堂からさらに歩くこと約5分。

 

 

初詣の本丸である“氏神様”に到着いたしました。

 

 

私たちの住む町の氏神様は河瀬神社(かわせじんじゃ)と申し、この地域の郷社(ごうしゃ)となります。

 

 

 

簡単に解説いたしますと、郷社とはその地域(かつての郡部の町や村単位)の中心的な神社のことです。

 

 

 

春の大祭の日を除けば、滅多に他の参拝者と出逢うことはありません。失礼ながら、正直「元日も同じだろうな…」と高を括っておりました。

 

 

事実神社に到着した際は、人っ子一人いませんでした。

 

 

ところが家族一同本殿前で参拝を始めた途端、いつの間にか私たちの後ろに参拝待ちの長蛇の列が!

 

 

 

私たちはいつもこちらではゆっくり参拝しているので、少し慌ててしまって次の方にお譲りしてしまいました(>_<)

 

 

しばらくしまして人が途切れたタイミングを見計い、改めて(しっかりじっくりと)新年のご挨拶をいたしました<(_ _)>

 

 

お正月の神社の風物詩、焚き火にあたります。この寒い時期、身体も心も温まります。

 

 

 

とても清浄な気持ちになります。それにしても、この時期神社で焚き火が行われるのは何か謂れや理由があるのでしょうか?ご存知の方は是非ご一報ください。

 

 

ちなみに…ここに古いお札やお守り、おみくじを放り込む方が稀にいらっしゃいますが、これらを浄化するための“お焚きあげ”とは異なりますので、絶対にお止めください。

 

 

この河瀬神社は郷社であるとともに、かつては彦根藩・井伊家の庇護を受けていた知る人ぞ知る“商売の神様”でもあります。仕事始めの時期ともなりますと、企業関係者が結構参拝にいらっしゃるようです。

 

 

最後に訪れたのは、河瀬神社からさらに歩くこと5分。

 

 

ここは八幡社(はちまんしゃ)です。

 

 

八幡神は武家から“武運の神”としての崇敬を受けた神様です。

 

 

通常日本の神様は偶像(お姿)が存在しません。

 

 

ただし、この八幡神は信仰の過程で、僧形(そうぎょう:お坊さんの姿)の御神体を得たという珍しい存在でもあります。

 

 

そういう意味では、かつての神仏習合の代表選手的存在とも言えます。

 

 

あまり目立たない八幡社ですが、実はとても興味深い存在なのです。

(1)河瀬神社の境内社(けいだいしゃ:支店のような存在)とは余り知られていない。

(2)その他の理由でも“神仏習合”の性格を未だに色濃く残している。

 

 

難しいお話はこれくらいにしまして、まずは新年のご挨拶<(_ _)>

 

 

こちらの神社では現在定期的な大祭が行われないため、このようにお祀りしているのを拝見するのは初めてでした(さすがに御神体にはお目にかかれませんでしたが…)。

 

 

こちらの神さまは、いざという時にいつも私の後ろ盾となっていたただいているので、氏神様同様長年に渡りお参りを続けております。

 

 

さて「興味深い理由その(2)」は、境内に薬師堂(やくしどう)があることなのです。

 

 

歴史に詳しい方ならご存知でしょうが、江戸時代までは神社の中に寺院が、寺院の中に神社が存在するのは、ごく自然な光景でした。

 

 

しかし明治になって政府が公布した「神仏分離令」と「大教宣布」による影響で“廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)”の風潮が蔓延し、現在の光景となったのです。

 

廃仏毀釈とは、明治政府が神道を国家統合の基幹にすべく意図したため、一部の国学者主導のもと仏教は外来宗教であるとして、それまで様々な特権を擁していた仏教勢力の財産や地位を剥奪した流れのことです。

 

 

決して推察の域を出ませんが、この地域ではこの流れを食い止めたため、このように今も共存出来ているのだと思います。

 

 

後で知ったことですが、さらに興味深いエピソードがございました。

(1)同じ境内でありながら、八幡社の管理は地元の自治会。薬師堂の管理は、我が家が
檀家となっている真宗大谷派の寺院。

(2)薬師堂の薬師如来は秘仏で、お正月の時期だけ公開される。

(3)最初にお参りした地蔵堂の多くのお地蔵さまはもともとここの境内に安置されていたが、
約半世紀前に何故か三体を残して現在の場所に大移動。

 

 

お薬師さまと(居残られた)お地蔵さまにも、今年一年家族の安寧と健康をお願いいたしました<(_ _)>

 

 

帰り道に我が家が檀家となっている真宗大谷派の寺院の前に差し掛かりますと…

 

 

何やらとても人の出入りが多いので、「新年早々ご不幸かな…」と覗いたら、表門には『修正會 一月一日午前八時』と張り紙が…。

 

 

「しゅうせいかい?何じゃそりゃ???」

 

 

実はコレ、“しゅしょうえ”と読みまして、「前年を反省して悪を正し、新年の国家安泰、五穀豊穣などを祈願する」仏教行事なのだそうです。

 

 

この辺りでは、一升のお米を持参して元日に参拝するのが習わしなのだとか。貧乏で信心の浅い我が家は「持参の品」が直ぐに用意出来ませんので、そっと人知れず手を合わせて通り過ぎました(T_T)

 

 

社会・行動・交通・通信…何もかもが“高速”を求められるこのご時世ですが、「歩く」ってとても大切なことだと改めて実感しました。

 

 

皆さんもご自身がお住まいの町を歩き巡って、「小さな発見」「予想外の発見」に出逢ってみませんか?「犬も歩けばなんとやら」と申しますしね(^^)

 

 

さて昨年も予告いたしました通り、当ブログは毎週水曜日正午(お昼の12時)の更新を予定いたしております。次回はかつて最高のアクセス数を誇った話題をお届けいたします。

 

 

それでは明日本格スタートの「後藤奇壹のびわこ浪漫怪廊」にご期待ください!

 

 

にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 滋賀県情報へ
ご愛読いただき誠に有難うございます。ワンクリック応援にご協力をお願いいたします!


謹賀新年 天上天下唯我独尊 2012

新年、明けましておめでとうございます。

 

 

本日より「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」はスタートいたします。

 

 

昨年は波乱と激動の一年でございました。今年は自身にとっての“反転攻勢復興元年”といたしたく存じます。

 

 

皆様にご愛顧いただいた「滋賀サクの歴史浪漫奇行」をリセット&リスタートさせ、更なるディープなページへと進化&深化を遂げます。

 

 

 

今後とも相変わりませぬご贔屓を賜りますようお願い申し上げます<(_ _)>

 

 

にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 滋賀県情報へ
ご愛読いただき誠に有難うございます。ワンクリック応援にご協力をお願いいたします!


日々是滋賀日和 “湖國浪漫風土記”にようこそ

~近江の國は歴史の縮図である~

本日天気晴朗ナレドモ浪高シ~コロナに負けるな~

【取材活動に於ける新型コロナウイルス感染拡大抑止に係る行動指針宣言】
令和2年4月15日 追補
令和2年11月1日 改訂

国内のみならず、世界的パンデミックの様相著しい新型コロナウイルス感染症。小生はこの拡大抑止に日本人としての良心と誇りに掛け、積極的に協力することをここに宣言致します。日本政府、厚生労働省並びに滋賀県が発出する最新の行動指針に則り、この感染症の動静を勘案したうえ、感染対策を徹底し、取材活動を行います。なお当面の間は原則取材活動を制限致しますので、令和1年12月までに取材したストックを中心に記事をお届けして参ります。これに伴い、更新の遅滞や時勢・時期との適時適切さに欠如する内容となる可能性がございますことをご容赦ください。ご心配をお掛け致しますが、何卒ご理解賜りますようお願い申し上げます。

滋賀の知られざる歴史、忘れ去られゆく民話、先人たちの偉大なる足跡を後世に伝える渾身の激白(?)徒然紀行。

生まれ育った近江國の風土をこよなく愛する土着民が、“滋賀の郷土史”を皆様に知って戴ければとの想いで書き綴っております。時折・・・しばしば(?)「彷徨」もございますが、ご高覧・ご笑覧賜れば幸いです<(_ _)>

※相互リンク大歓迎です。ご意見・情報承ります(^^)よりご連絡戴ければ幸甚です。

管理人:企画室 江州新田藩 藩主 後藤 奇壹