“後藤奇壹の湖國浪漫風土記”にようこそ

~近江の國は歴史の縮図である~

【湖國風土記寫眞】比良の暮雪滋賀の知られざる歴史、忘れ去られゆく民話、先人たちの偉大なる足跡を後世に伝える渾身の激白(?)徒然紀行。

生まれ育った近江國の風土をこよなく愛する土着民が、“滋賀の郷土史”を皆様に知って戴ければとの想いで書き綴っております。時折・・・しばしば(?)「彷徨」もございますが、ご高覧・ご笑覧賜れば幸いです<(_ _)>

 

※相互リンク大歓迎です。ご意見・情報承ります(^^)よりご連絡戴ければ幸甚です。

管理人:後藤 奇壹


園城寺夜話(5)“天狗杉の伝説”

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>  

 

今回の園城寺夜話は天狗杉(てんぐすぎ)の伝説についてご紹介したいと存じます。


太郎坊の天狗天狗と言えば京都の鞍馬寺を連想される方が多いかと思いますが、滋賀でも天狗にまつわるお話は各地に残っています。
また「天狗杉」と呼ばれる木も県内に点在しており、小生が確認出来たものだけでも、大津にはここ園城寺、そして比叡山に3箇所、石山寺、さらに長浜は木之本町田部の観音堂にもあります。

 

それだけ京都に負けじ劣らじ天狗との縁は深いのです。

 

さてお話を園城寺に戻しましょう。

 

金堂の南正面東側。そこに園城寺の天狗杉があります。

 

園城寺天狗杉根回り約7.5m、目通り周囲約4.0m、全高約20mのこの巨大な杉は地上間もないところで二股に分かれ、主幹先端部分は数度の落雷によって枯れた状態になっています。

 

しかし他の部分は健在で良く枝葉が茂り、全体的に端正な樹勢を現在でも保っております。昭和51(1976)年3月には大津市より、指定文化財と天然記念物に選定されています。

 

室町時代初期、相模坊道了(さがみぼうどうりょう)という僧が勧学院の書院で密教の修行をしていました。

 

ある夜のこと。同郷出身の了庵慧明(りょうあんえみょう)が相模國(現在の神奈川県)で最乗寺(さいじょうじ)を開創したことを聞き及ぶと、突如として天狗となり、書院の窓から飛び出しこの杉の上に止まります。 そして早暁に東の空に向かって飛び去りました。

 

最乗寺 御真殿【HN.珍念さん 提供】何とはるか小田原まで飛び、最乗寺に馳せ参じたと伝えられています。 その後了庵のもとで土木事業に従事し、五百人力を発揮しました。験徳著しく村人から慕われ、今も同寺の御真殿に祀られています。

 

また道了が修行していた勧学院には「天狗の間」があり、現在も遺徳を偲び最乗寺より参詣者が訪れています。

 

今回の記事作成に際し、資料をご提供頂きましたHN.珍念さん、この場を借りまして厚く御礼申し上げます。

 

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園城寺夜話(4)“村雲橋の伝説”

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今回の園城寺夜話は天台寺門宗の宗祖・圓珍(智証大師)にまつわる村雲橋(むらくもばし)の伝説についてご紹介したいと存じます。

 

圓珍(智証大師)まずはこれまでもちょこちょこ名前の出てきた宗祖・圓珍(えんちん)について簡単にご紹介致します。

 

最澄(伝教大師)が日本で開いた天台宗の僧で、讃岐國(現在の香川県)の出身。あの真言宗の宗祖・空海(弘法大師)の甥とも言われています。

 

平安時代初期に唐(中国)へ留学僧として海を渡ったことから、入唐八家(にっとうはっけ/最澄・空海を始めとする代表的な唐への留学僧)の1人に列しています。

 

わずか14歳で比叡山に入り、初代天台座主(てんだいざす/延暦寺の住職)・義真(ぎしん)に師事。853年、唐に留学し、天台山(天台宗の聖地)で天台宗の教義を本格的に学びます。その後、かつて空海が留学した長安(ちょうあん/唐の都で現在の西安市)にある青龍寺で密教を学び、およそ5年間の留学生活を終えて帰国します。

 

帰国後再び比叡山に戻りますが、868年、第5代天台座主に就任。859年、朝廷の許可を得て園城寺を再興し、ここを天台密教の道場として整備しました。これが現在の園城寺の始まりです。圓珍の死後、教義の違いから延暦寺と園城寺は一気に宗教的対立を迎え、朝廷の政治的な思惑も複雑に絡み、天台宗は約700年間の長きに渡り混迷の時代を歩むこととなるのです。

 

さて何処にでも存在することなのですが、開祖・宗祖にまつわる伝説というものは定番でございます。ここで圓珍ゆかりの代表的なお話を1つ。

 

村雲橋金堂から観音堂に向かう参道の途中、勧学院の美しい石垣の築地堀の手前に村雲橋(むらくもばし)と呼ばれる小さな石橋があります。

 

橋の下の川はとても小さいのですが、常に美しい水が流れています。

 

ある日のこと。圓珍がこの橋を渡ろうとした時、ふと西の空を見遣り大変驚きました。

 

かつて唐の長安で学んだ青龍寺が火事に遭っていることを察知したのです。 圓珍は早速真言を唱え、橋上から閼伽水を撒くと、橋の下から一条の雲が湧き起り、 西に向かって飛び去りました。その光景をその場にいた弟子たちはあっけにとられて、ただただ見とれていたそうです。

 

青龍寺(中国・西安)【西安觀光 提供】それから幾日か経ち、青龍寺より園城寺へ鎮火の礼状が送られてきました。

 

「当寺が火災に遭った際、大層お助け頂きました。お陰で重要な仏典が全て焼損することを免れました。厚く御礼申し上げます」と。

 

 

弟子たちは改めて圓珍の神変摩訶不思議な力に感動し、以来この橋を“ムラカリタツクモの橋”、村雲橋と称して、その徳をいつまでも忘れぬようにしたと伝えています。

 

今回の記事作成に際し、資料をご提供頂きました西安觀光様、この場を借りまして厚く御礼申し上げます。

 

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園城寺夜話(3)“What’s 三井古流煎茶道?”

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今回の園城寺夜話は前回お伝えした閼伽井にも縁の深い、三井古流煎茶道(みいこりゅうせんちゃどう)についてご紹介したいと存じます。

 

三井古流施茶案内さて皆さん、煎茶道ってご存知ですか?

 

茶道といえば一般的には抹茶を用いる抹茶道のことを指しますが、実は煎茶を用いた茶道もあるのです。

 

煎茶道のルーツは中国文化に由来しますが、日本では江戸時代初期に禅宗の一派である黄檗宗(おうばくしゅう)の開祖・隠元隆琦(いんげんりゅうき)が始めたとされます。現在でも全日本煎茶道連盟が黄檗宗の総本山・萬福寺(京都府宇治市)に設置され、連盟の会長は萬福寺の管長が兼務することが慣習となっています。

 

形式に囚われず煎茶を飲みながら清談を交わすというカジュアルなスタイルが、茶道の世界において形式化が進みつつあったことへの反発もあって、文人たちや江戸・京都・大坂を中心とした上流階級の間で急速に普及しました。

 

園城寺宝寿院・三井古流煎茶道本部江戸時代後期、文化・文政の頃。

 

園城寺に壷井軒(つぼいけん)という年老いた居士(こじ/出家をせずに家庭において修行を行う仏教の信者のことで千利休が代表例)が住むようになり、悟りを開いて真理を会得することに精進。

 

三井の霊水(閼伽井)をすくって金堂に奉安する弥勒菩薩に献茶し、また参詣の善男善女にも茶を振る舞っていました。これが三井古流煎茶道の始まりであるといわれています。

 

明治・大正期に入ると文明開化の潮流の中で西洋文化がもてはやされ、中国文化に由来する煎茶道は一時衰退を余儀なくされます。しかし昭和、特に大東亜戦争終結後に入り煎茶道復興の動きが各地で活発となり、1960~70年代には隆盛を極めました。

 

三井古流茶道具近年は煎茶の大衆化が進行したことにより煎茶道への関心は薄れつつあり、現在その動静は停滞しています。そのような理由もあって、煎茶道の知名度が低いのかも知れません。ですがそんな時代の流行り廃れに流されることなく、三井古流煎茶道では独自の流儀を保ち、今でも閼伽井で水を汲み、毎日金堂に献茶し、参詣者に煎茶道の愉しみを伝えています。

 

上の寫眞でもお解り頂けるかと思いますが、我々が見慣れている茶道具とは趣が全く異なります。抹茶道の作法とは全く異なるので少し戸惑いますが、一般の方々へのお点前ではスタイルをとやかく言われることはありませんので気軽に体験することが出来ます。

 

金堂から参道を南へ約300m下ったところに、三井古流煎茶道本部が置かれている宝寿院があります。ここで煎茶道を体験することが可能です。でもこの入口の風格に、敷居の高さを感じるのは致し方無きこと。

 

三井古流青山茶会そこで三井古流では、広く一般に開放して煎茶道に親しんでもらおうという行事を桜が満開となる4月、金堂と宝寿院の中間点にある唐院の敷地内で催されます。それが三井古流青山茶会です。    

 

通常宝寿院の茶室で施茶されるものを、気軽に屋外で体験して貰おうという年に1回のイベントです。毎年実施日が異なりますし、たった1日のみの行事ですので、興味のある方は事前に問い合わせされることをおススメ致します。

 

小生もまだ一度しかお点前に参加したことがなく、その時は“何が何やら”の状態でしたので、今度施茶戴く際はじっくりとその神髄に浸ってみたいと思います(^^)

 

園城寺宝寿院 三井古流煎茶道本部

・滋賀県大津市三井寺町246
【TEL】 077-522-9580

 

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園城寺夜話(2)“閼伽井の伝説”

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今回の園城寺夜話は、閼伽井(あかい)の伝説についてご紹介したいと存じます。

 

園城寺金堂前回の内容と少し重複致しますが何卒ご容赦下さいませ。

 

園城寺のそもそものルーツは飛鳥時代後期に大津京を造営した天智天皇の孫にあたる大友与多王(おおとものよたのおおきみ)が、父・大友皇子(弘文天皇)の菩提を弔うため、資材を投げ打ち建立したものと伝えられています。

 

その園城寺に涌く霊泉が天智・天武・持統の3代の天皇の産湯として使われたことから御井(みい)の寺と呼ばれ、それが転じて三井寺と呼ばれるようになったとされています。

 

園城寺閼伽井屋一般的な寺院での本堂にあたる金堂(こんどう)。その西隣に三井寺の名の由来となった井戸の閼伽井屋(あかいのや)があります。

 

建屋が金堂と僅か数メートルしか離れていないので、残念ながら正面からの撮影が不可能となっています。何故こんなにも隣接して金堂が建造されているのかは皆目謎です。

 

ちなみに閼伽(あか)とは仏教において仏前などに供養される水のことで、天台寺門宗の宗祖である円珍(智証大師)によって三部灌頂が奉修されたので、閼伽井と呼ばれるようになりました。

 

現在でもコンコンと湧き出る井戸の水は、園城寺の様々な営みに供されています。

 

閼伽井

現在の建屋は後に豊臣秀吉の正室・北政所(おね)の命により建立されたもので、もともとは石庭の一部でした。

 

園城寺は大友与多王の邸跡に建立されたのではとの説もあり、閼伽井を中心とする石庭はそもそも大友氏邸の庭園とされ、現存する日本最古の石庭ではないかとも考えられています。

 

さてこの園城寺界隈には、この他にも霊泉と呼ばれる井戸の伝説が残っています。    

 

練貫井園城寺大門より南東へ約300m。琵琶湖疏水に程近い場所に大練寺(だいれんじ)があります。ここに練貫井(れんがんのい)があります。

 

かつてここには大津京があり、この井戸の水で練った衣を宮中に献上し、その衣を天智天皇が着用されていたことからその名が付いたとされています。

 

また天智天皇が行幸されたと言われる古道がこの練貫井の前を通っていて、豊臣秀吉が京の聚楽第から毎日この井戸の水を汲みに来て、点茶(てんちゃ/抹茶をたてること)に用いたとの言い伝えも残っています。

 

園城寺の閼伽井、逢坂関の走井と並び大津三名水の1つに列せられる程の名水でしたが、明治20(1887)年、琵琶湖疏水の掘削工事で水脈が断たれ、残念ながら現在はその跡しか残っていません。

 

もう1つ。

 

金殿井園城寺から北方へ約3km、近江神宮の裏山手に宇佐八幡宮(うさはちまんぐう)があります。

 

 

ここの境内に金殿井(かねどののい)があります。

 

大津京遷都直後、天智天皇が重い病気を患われます。当時天皇の側近の1人(右大臣)で中臣(藤原)鎌足の従兄弟でもあった中臣金(なかとみのかね/?~672年)は、夢で「都の西方にある大木の根本から湧き出る清水を汲んで献上せよ」とのお告げを受けます。

 

早速山中に分け入り泉を発見、この水を献上するとたちどころに平癒されたとか。

 

以降疾病に霊験あらたかな霊泉として守られてきましたが、宇佐八幡宮の創建(1065年)に際し、御神水として一般に公開。特に難病諸病に効果が顕著であると、次第に広くその効が伝えられました。 現在毎年8月上旬に霊泉祭が行なわれ、土用の日にこの水を頂くと特に効験があると言われています。

 

水都とも呼ばれる滋賀に相応しい、“水”にまつわるお話でした(^^)

 

泉涌山 大練寺 (練貫井)

・滋賀県大津市三井寺町9−3
【TEL】 077-522-0318

宇佐八幡宮 (金殿井)

・滋賀県大津市錦織1-15
【TEL】 077-522-6812

 

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園城寺夜話(1)“二つの総本山”

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今回から園城寺夜話(おんじょうじよわ)と題しまして、園城寺並びに門前町にまつわるエピソードを展開して参ります。 

 

園城寺大門(仁王門)まずは序章としまして、園城寺について簡単にご紹介したいと存じます。

 

 

園城寺とは滋賀では勿論、国内でも屈指の古刹の1つなのですが、一般には通称である三井寺(みいでら)の名で知られています。

 

 

最澄(伝教大師)を開祖とする天台宗の寺院なのですが、実は天台宗には総本山(俗に民間企業で言うところの本社)が2つ存在するのです。  一般的に知られる比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)と、ここ園城寺なのです。

 

正確に申しますと延暦寺が天台宗山門派、園城寺が天台宗寺門派となり、教義のルーツは同じくするものの宗派が異なるのです。分派の経緯は全く異なりますが、浄土真宗で言うところの東/西本願寺に分かれているような感じでイメージして戴ければ良いかと存じます。

 

園城寺金堂かつては延暦寺とは激しい対立関係にあり、互いの宗徒や僧兵による争いは絶えず、室町時代末期迄に大小合わせて実に50回近く焼打ちに遭っています。

 

また理由は定かではありませんが豊臣秀吉の逆鱗に触れ、寺領を没収され廃寺寸前までに追い詰められたこともあったとか。その度に奇跡の復活を遂げてきたので、不死鳥の寺とも称されていました。

 

いつも思うことなのですが・・・宗教的対立は今の時代にも形を変えて存在しますが、開祖・宗祖のただひたすら衆生を救うという崇高な教えが、なぜこうも人間の我欲剥き出しに対立の構図を生むのか不思議でなりません。    

 

そして日本三不動の1つに数えられる黄不動の寺院としても知られています。但し、原則非公開の秘仏ですので滅多にご尊像を拝することは出来ません。小生も残りの高野山明王院の赤不動、京都・青蓮院門跡の青不動は参拝の栄華を得ることが叶いましたが、県内に在住していながら未だ黄不動にはお目に掛かれません。それ程「近くて遠い」存在なのです。

 

今から4年前の平成26年、宗祖・智証大師生誕1200年慶讃大法会(10月18日~11月24日)が奉修され、その際期間限定(11月21日~11月23日)で国宝・金色不動明王像(黄不動尊)が公開されたのですが、それには結縁潅頂会(:けちえんかんじょうえ/出家・在家を問わず広く信者が仏縁を結ぶために潅頂壇に入り、曼荼羅の諸尊像に華を投じてその人の守り本尊を得るための密教儀式)に参加するという条件をクリアせねばなりませんでした。しかし・・・その志納金が10,000円・・・信心のためとは申せ、平民にはかなりハードル高いです(T_T)

 

果たして何人の方がこの高いハードルを越えられたのでしょうね?

 

ではこの序章の最後を締め括るお話を1つ。何故、園城寺のことを『三井寺』と呼ぶのか?

 

実は現在の“天台寺門宗の寺院”としてのスタートは平安時代中期ですが、そもそものルーツは飛鳥時代後期に大津京を造営した天智天皇の孫にあたる大友与多王(おおとものよたのおおきみ)が、父・大友皇子(弘文天皇)の菩提を弔うため、資材を投げ打って建立したものと伝えられています。

 

園城寺閼伽井屋そこに涌く霊泉が天智・天武・持統の3代の天皇の産湯として使われたことから御井(みい)の寺と呼ばれ、それが転じて三井寺となったと言われているのです。

 

その三井寺の由来となった井戸の閼伽井屋(あかいのや)は今でも現存しており、清水がコンコンと湧き出ています。

 

言い伝えや俗称が本来の名称よりも一般に流布した、極めて稀なケースと言えるでしょう。

 

長等山 園城寺 (三井寺)

・滋賀県大津市園城寺町246
【TEL】 077-522-2238
【Web】 http://www.shiga-miidera.or.jp/

 

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謹賀新年 天上天下唯我独尊 2018

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寒中お見舞い申し上げます。服喪につき新年のご挨拶をご遠慮申し上げることをご容赦ください。

琵琶湖と三上山・日の出

本日で「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」開設6周年を迎えました(^^)

 

昨年は躍進の1年を志しておりましたが、公私共に激震の1年でございました。今年は躍進ならぬ躍動の1年として邁進いたす所存でございます。相も変わらずの微速ではございますが、暁に向かい着実に前進して参りますので、本年も相変わりませぬご贔屓を賜りますようお願い申し上げます<(_ _)>

 

今頃・・・服喪中にて、炬燵の番をしていることでしょう(^^)

 

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さらば!近江鉄道の古典電気機関車たち

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またもや近江鉄道が誠にもって残念な決断を下しました。

 

近江鉄道ミュージアム鉄道資料館12月7日、近江鉄道は同社が彦根に近江鉄道ミュージアム鉄道資料館に保有する電気機関車10輌(ED14形×4輌、ED31形×5輌、ロコ1101形×1輌)を、車体の老朽化による維持が困難なことを理由として、来る12月16日(土)でのお別れイベントでの公開を最後に順次解体処分することを発表しました。

 

 

先般のボンネットバスの引退と言い、この企業は『効率』という名の錦の御旗を盾に、いくつの愚行を重ねれば気が済むのでしょう。百歩譲って「一部を除いて・・・」ならいざ知らず、10輌全てを対象としているのです。これら大正末期から昭和初期に製造され、日本の近代化に寄与した機関車たちが現存することの価値を全く理解していないと言わざるを得ません。

 

一番上の写真右端に写っているED4001形は、平成21年1月にもともとの出身である東武鉄道に引き取られ、出来得る限り在籍当時の姿に復元され、現在東武博物館で保存されています。こうも鉄道会社によって扱いが異なるものかと、憤懣やる方ない心境です。ED4001形は余り近江鉄道で活躍を果たせなかった分、晩年に幸せを掴めたのでしょう。

 

近江鉄道電気機関車群ED14形(写真中央)は大正15(1926)年にアメリカのゼネラル・エレクトリック社で製造され、国鉄が東海道線電化開業に合わせ輸入。

 

東海道線を皮切りに中央線、飯田線、仙山線で活躍。国鉄で御役御免になった後は輸入された4輌全てが近江鉄道に譲渡されました(3号機は一時期西武鉄道に貸し出されサーモンピンクに塗装されていました)。

 

凸型車体が特徴的なED31形(写真右)は大正12(1923)年に芝浦製作所・石川島造船所で製造され、国鉄/JR飯田線の前身である伊那電気鉄道に入線。その後同社が国鉄に買収され、昭和27(1952)年にED31形に改称。製造された6輌のうち1・2号機が西武鉄道に譲渡され、後に近江鉄道に再譲渡。3~5号機が近江鉄道、6号機が上信電気鉄道に譲渡されました。

 

前述の2形式より一回り小さなロコ1101形(写真左)は昭和5(1930)年に東洋電気・日本車輌で製造され、国鉄/JR阪和線の前身である阪和電気鉄道に入線。その後南海電気鉄道、国鉄阪和線を経て近江鉄道に。低速でのポテンシャルの高さを買われて、長年彦根列車区の入換機として活躍しました。

 

ED14形4号機かつて平成19年(2007)3月に整備された近江鉄道ミュージアム鉄道資料館での保存展示に接した際は、同社の鉄道遺産の価値に対する『本気度』を感じました。

 

しかしその後の維持管理への対応には眉を顰めることも多く、存続に一抹の危惧は抱いておりました。

 

同社では同時に個人・団体を問わず車体単体のみの無償譲渡(輸送・設置費は自己負担)も検討するとも付け加えましたが、この短期間で決断出来る個人・団体が果たして現れるかどうか・・・奇跡に掛けるしかありません(自身にもっと財力があれば・・・本当に悔やまれてなりません)。

 

兎に角彼らの雄姿を眼に焼き付ける機会は来る16日が最後。どうか彼らのこれまでの功績に賞賛の拍手を送ってあげましょう。なお、詳しくはコチラの近江鉄道のイベント告知サイトをご覧ください。

 

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小さい秋み~つけた

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前回、“隠れ”紅葉スポットをご案内致しましたが、皆様晩秋の湖國の情景をご堪能頂けておりますでしょうか。今年の秋は本当に駆け足で過ぎ去っていく様相で、小生は堪能どころか例年より半月ほど早く冬支度に追われる始末にございます(*^_^*)

 

何かと多忙で紅葉狩りに出掛けることが叶わぬ現状ですが、何とか棲家の周辺で『小さい秋』を感じております。

 

晩秋地蔵

いつもお参りしているお地蔵様。

 

何たる偶然か、枯葉とお供えの花で厚着のお召し物を羽織っておられました。

 

しかもここ数日の強い寒気にも関わらず、自生のタンポポの開花。自然の成せる業の如何に珍妙なことか・・・と驚きを禁じ得ません。

 

空の青と、柿の橙。

 

蒼空と渋柿自然の色というのは、何故にこのように『映えるコントラスト』を生み出せるのだろうと感心しきりです。

 

さしもの雑食のカラスですら、食指を伸ばさぬ渋柿。

 

これは木守として朽ちていくのでしょうが、それでも人間は工夫してこれらを食す。人間の積み重ねられた『知恵』は素晴らしいと感服します。

 

手のひらいっぱいのドングリ。

 

手のひらいっぱいのドングリもうすぐ2歳になる小生の愛娘は、ドングリ拾いに夢中!

 

散歩に行く度拾うので、ベビーカーのラックはドングリでいつぱい。

 

小生も付き合わされていますが、小学生以来のイベント。大人になっても意外や楽しいものです(^^)

 

名所巡りも良いのですが、自身の生活圏の変化を見つけるのもまた一興。あなたの周りの『小さい秋』、見つけてみませんか?

 

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湖國紅葉めぐり“隠れ”名所選

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滋賀の紅葉は例年よりも早く見頃が訪れそうな様相です。冬支度もそろそろ始める時期ともななりつつありますね。“おでん”が恋しい季節でもあります(*^_^*)

 

皆さん、紅葉狩りにはもうお出掛け、もしくは予定はお決まりになられましたか?今年も異常な猛暑だったせいか、色付きがとても鮮やかに感じます。

 

滋賀の紅葉スポットと言えば、湖東三山(西明寺・金剛輪寺・百済寺)”“永源寺”“日吉大社”“比叡山延暦寺といったところがメジャーではないでしょうか。でも一番のネックは、そう“人出”ですよねぇ。晩秋の季節感を楽しみたいけれども、クルマが大渋滞。おまけに人でごった返すのはちょっと・・・と二の足を踏まれる方も多いのではないでしょうか。

 

そこで今回は小生が取材で(たまたま)知り得た場所で、観光客も比較的少なく、紅葉をゆっくりじっくり堪能できるスポットを特別に3箇所ご紹介致します(^^)

 

今からでも未だ未だ十分間に合いますし、来年への参考として頂くのも結構かと存じます。

 

◆太郎坊宮
 (東近江市小脇町)

 

標高350mの赤神山(あかがみやま)の中腹にある神社です。

 

地元の方には“太郎坊さん”の名で親しまれています。

 

近江鉄道からも、国道421号からでも、山に剥き出しの巨岩・怪石が一際目立ちますので直ぐ確認出来ます。

 

麓から740段の階段を登って本殿へ向かうことも可能ですが、クルマで自動車道を利用して中腹にある駐車場から入山されることをおススメします。

 

参道の紅葉も去ることながら、本殿から望む旧八日市エリアの眺望は絶景です。

 

ちなみに勝運・厄除・開運・商売繁盛に御利益があるそうですよ。

 

 

 

 

◆瓦屋禅寺
(東近江市建部瓦屋寺町)

 

標高372mの箕作山(みつくりやま)の山腹にある臨済宗の寺院です。

 

東側にある旧表参道からハイキングすることも可能ですが、林道延命線をクルマで利用されることをおススメします(太郎坊宮の自動車道からも来訪可です)。

 

まさにここは寂静の世界。鳥のさえずりと風の音のみで、不思議と下界の雑音は一切聞こえません。

 

ちなみにこの寺院は聖徳太子が四天王寺を建立するため、この地で10万8,000枚の瓦を焼きましたが、その瓦を管理するため建立したと伝えられています。

 

「“瓦”を冠する寺の本堂が“茅葺(かやぶき)”とはこれ如何に」というツッコミは無しということで(^^)

 

 

◆猪子山公園/北向岩屋十一面観音
(東近江市猪子町)

 

こここそ地元の方のみぞ知る裏スポット。JR琵琶湖線・能登川駅から南方へ約1km、標高268mの猪子山(いのこやま)にあります。

 

猪子山公園は麓に、北向岩屋十一面観音は山頂に、その他山中には100基を超える古墳と巨石祭祀の遺構が点在します。

 

クルマで登れる林道もありますが、狭くて傾斜がキツく、おまけにヘアピンカーブの連続となっておりますので、運転技術に自信のない方にはおススメいたしません。

 

北向岩屋十一面観音から望む琵琶湖の眺望は圧巻です。手前に見える湖は“伊庭内湖(いばないこ)”です。

 

ちなみに地元のアベック・・・いやいやカップルが夜景を楽しむスポットになっている・・・らしいです(*^_^*)

 

私が出向いた時は、オジさま1人☓2回&オバさま2人組☓1回とすれ違っただけでした(^^)

 

最後に1点だけご注意を。

 

何れのスポットも訪問に際し何かしらの“難点”がございます。決してご無理をなさいませんよう、くれぐれもお気を付けあそばしませ<(_ _)>

 

それでは皆様、よい紅葉めぐりをお愉しみください(^^)v

 

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さらば!愛しのボンネットバス

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

 

皆様ご無沙汰致しております。息災でいらっしゃいますでしょうか。前回「超スローな更新」などと申しておりましたが、いやはやあれからもう3ヶ月余り・・・祇園祭がどうのこうのと言っていたのも束の間、秋というか冬にも手が届きそうな勢いの今日此頃でございます。

 

本当に久し振りに筆を執ります。乱文乱筆平にご容赦くださいませ。

 

いすゞBXD30(彦根ご城下巡回バス01)さて去る9月25日。何気なくテレビのローカルニュースを視聴しておりましたら、『ひこにゃんラッピングバス、50歳超え引退へ』の一報が!それまで半眠状態で視聴していた小生は、思わずテレビに噛り付きました。

 

余り地元の悪口を言いたくはないのですが、明確なビジョンを示せず、おまけに何分アピールが下手くそで町興しが不発続きの彦根。

 

そんな故郷にあって、ひこにゃんボンネットバスの定期運行は唯一無二の貴重な観光資源。よくもまぁあっさりと決まったものよと、驚くやら呆れるやら・・・(どうした御膝元行政は!!)。

 

ひこにゃんラッピングバスと呼ばれるこの昭和レトロぷんぷんのこのボンネットバス。正式にはいすゞ自動車BXD30型と称します。全長8.31m/全幅2.45m/全高2.93m/定員は46名。総重量8.5トンで6,370cc(130馬力)のディーゼルエンジンをボンネットに収納しています。

 

いすゞBXD30(江若交通時代)このバスは1966(昭和41)年に製造され、当時湖西エリアでの交通機関の中核として君臨していた江若(こうじゃく)交通の路線バスとして導入されました。

 

堅田営業所に配属され、その運転し易さから、狭隘路であった葛川・途中・和邇方面と旧滋賀郡堅田町(現・大津市堅田地区)の巡回路線を中心に活躍。

 

江若交通時代のナンバーは滋2い1074。4台所属していたボンネットバスの1台として沿線住民に親しまれていましたが、道路整備の促進や輸送効率の高い(定員の多い)箱型車体バスの台頭から、1981(昭和56)年2月12日付で廃車となります。

 

その後、同じく堅田町にあった名鉄マリーナホテル(平成11年3月閉鎖)に引き取られ、ナンバーも新たに滋賀22や200となり、利用客の送迎用として第2の人生をスタートさせます。実はこの時に赤・黒・白のトリコロールカラーに変更されています。「赤は『井伊の赤備え』をイメージしたもの」と仰る方もいらっしゃいますが、それは大きな誤り。これは名鉄カラーの赤なのです。

 

いすゞBXD30(長浜観光楽らくバス時代)しかしここでの活躍は僅か7年。長浜商業開発協同組合により1988(昭和63)年に開設された商業施設・長浜楽市に於いて、長浜駅や市内観光地との循環バス・長浜楽らく観光バスとして着任。

 

湖西から琵琶湖を対角線上にぐるっと回って、湖北にやってきたのです。

 

この時現在のナンバー滋賀22き25となり、当時としては珍しく所有は長浜市、運行は近江鉄道という事業分離形態を採用。多くの観光客や買物客から親しまれ、長浜の観光振興に大きく寄与しました。

 

しかし、運命の悪戯か長浜楽市の商業施設としての陳腐化と周辺への大型商業施設の進出が仇となり、循環バスの運行は廃止。老朽化も相まって、いよいよこのボンネットバスの命運も尽きたかと思われました。

 

いすゞBXD30(彦根ご城下巡回バス02)でも幸運の女神はまたもこのバスに微笑みかけたのです。車輌は近江鉄道に譲渡され、1997(平成9)年4月より彦根ご城下巡回バスとして再々々々スタート。ようやく安住の地を得たのです。

 

それまで観光客誘致での大きなネックであった彦根駅と彦根城周辺とのアクセスが格段に向上し、また昭和レトロ(というより高度成長期の雰囲気)な街並みともマッチして、その存在は市民や多くの観光客に愛されました。大きなトラブルもなく、観光シーズンと週末の定期運行を、老体に鞭打って見事に完遂。

 

さらに2007(平成19)年に開催された『国宝・彦根城築城400年祭』で登場したマスコットキャラクター・ひこにゃんの人気沸騰ぶりも手伝って、全国にその認知度を高めました。

 

2013(平成25)年6月にはひこにゃんラッピングが施され益々人気が高まってきていただけに、突然の引退は正に青天の霹靂。とはいえ、結局最初に納車された江若交通よりも長く彦根で活躍してくれたことには、感謝の念に堪えません。

 

老朽化と部品調達の困難、運転手の後継者不足が大きな理由とされてはいますが・・・小生の(個人的な)見解として、

(1)所属していた彦根営業所の整備工場が、大津営業所に移転。理由は立命館大学路線に導入した大型連接バスのメンテナンスを行うため。これにより彦根営業所ではオーバーホールを伴う大規模な整備が、設備・人員不足により困難となった。

(2)ボンネットバス運転手の高齢化と、慢性的なバス運転手不足。路線バスの運行を優先させるためには、観光用の古いバス1台の維持のために予算も教育の時間も割けない。

結局、昨今の事業会社の大規模な合理化の波の犠牲になったと考えるのが妥当でしょう(因みに同様の車輛を保有する奈良交通は、自社で部品を自作してでも動態維持するとのこと)。

 

近畿で唯一定期運行を維持してきたボンネットバスだけに、このまま滋賀の貴重な観光資源を見す見す消滅させてしまうのは地元として無策の極み。せめて動態保存し、時折イベント等でお披露目する状態には維持してもらいたいものです。

 

彦根ご城下巡回バスポストカードなお、この週末の10月28日(土)・29日(日)は彦根ご城下巡回バスでの最後のご奉公、つまりラストランになります。まだボンネットバスを体感しておられない方は、現段階で最後のチャンスとなりますので、是非彦根へお出掛けください。

 

あとボンネットバス唯一のオフィシャルグッズであるポストカードも残部僅少とのこと。

 

こちらもお急ぎください。詳しくはコチラの近江鉄道のグッズサイトをご覧ください(彦根観光協会の販売分は完売しました)。

 

久々の執筆、大変疲れました(+o+)

また時間と気分とネタに余裕が出て参りましたら再臨致します。相も変わらずの長文ダラダラにお付き合い頂きまして誠に有難う存じました<(_ _)>

 

【資料提供】昭和有閑倶楽部 乗合自動車分科会

 

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