日々是滋賀日和 “湖國浪漫風土記”にようこそ

~近江の國は歴史の縮図である~

【湖國風土記寫眞】冬の伊吹山と三島池

滋賀の知られざる歴史、忘れ去られゆく民話、先人たちの偉大なる足跡を後世に伝える渾身の激白(?)徒然紀行。

生まれ育った近江國の風土をこよなく愛する土着民が、“滋賀の郷土史”を皆様に知って戴ければとの想いで書き綴っております。時折・・・しばしば(?)「彷徨」もございますが、ご高覧・ご笑覧賜れば幸いです<(_ _)>

※相互リンク大歓迎です。ご意見・情報承ります(^^)よりご連絡戴ければ幸甚です。

管理人:後藤 奇壹


“惜秋”湖東寂静紅葉選・後篇

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

紅葉
紅葉

昨日に引き続きまして、“惜秋”湖東寂静紅葉選をお届け致します。

◆太郎坊宮
 (東近江市小脇町)

太郎坊宮(阿賀神社)
太郎坊宮(阿賀神社)

後篇では旧八日市エリアから2箇所ご紹介致します。まずは太郎坊宮(たろうぼうぐう)。標高350mの赤神山(あかがみやま)の中腹にある神社です。

地元の方には“太郎坊さん”の名で親しまれています。

近江鉄道からも、国道421号からでも、山に剥き出しの巨岩・怪石が一際目立ちますので直ぐ確認出来ます。

太郎坊宮の紅葉
太郎坊宮の紅葉

麓から740段の階段を登って本殿へ向かうことも可能ですが、クルマで自動車道を利用して中腹にある駐車場から入山されることをおススメします。

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は 7785e225995686df699d3c3378a6989b.jpg です
太郎坊宮から布引丘陵を眺む

参道の紅葉も去ることながら、本殿から望む旧八日市エリアの眺望は絶景です。

ちなみに勝運厄除開運商売繁盛に御利益があるそうですよ。

◆瓦屋禅寺
 (東近江市建部瓦屋寺町)

瓦屋禅寺の紅葉(1)
瓦屋禅寺の紅葉(1)

最後にご紹介するのは瓦屋禅寺(かわらやぜんじ)。標高372mの箕作山(みつくりやま)の山腹にある臨済宗妙心寺派の寺院です。

東側にある旧表参道からハイキングすることも可能ですが、林道延命線をクルマで利用されることをおススメします(太郎坊宮の自動車道からも来訪可能です)。

まさにここは寂静の世界。鳥のさえずりと風の音のみで、不思議と下界の雑音は一切聞こえません。

瓦屋禅寺の紅葉(2)
瓦屋禅寺の紅葉(2)

ちなみに聖徳太子が大阪の四天王寺を建立するため、この地で10万8,000枚の瓦を焼いたとされています。 この寺院はその瓦を管理するために建立したと伝えられています。

瓦屋禅寺の紅葉(3)

なお「“瓦”を冠する寺の本堂が“茅葺(かやぶき)”とはこれ如何に」というツッコミは無しということでお願い致します(^^)

◆ご注意◆
何れのスポットも訪問に際し何かしらの“難点”がございます。決してご無理をなさいませんよう、くれぐれもお気を付けあそばせ<(_ _)>

それでは皆様、ゆったりほっこりの紅葉狩りをお愉しみください(^^)v

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“惜秋”湖東寂静紅葉選・前篇

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滋賀の紅葉は例年よりも早く、そして見頃が短くなりそうな様相です。伊吹山や比良山も初冠雪を記録しました。冬支度もそろそろ始める時期ともなりつつありますね。“おでん”が恋しい季節でもあります

紅葉
紅葉

さて皆さん、紅葉狩りにはもうお出掛けになられましたか?今年も異常な猛暑だったせいか、色付きがとても鮮やかに感じます。

滋賀の紅葉スポットと言えば、湖東三山(西明寺・金剛輪寺・百済寺)”“永源寺”“日吉大社”“比叡山延暦寺といったところが有名どころではないでしょうか。でも一番のネックは、そう異常なまでの“人出”です。晩秋の季節感を楽しみたいけれども、クルマが大渋滞。おまけに人でごった返すのはちょっと・・・と二の足を踏まれる方も多いのではないでしょうか。

そこで今回は小生が取材で(たまたま)知り得た場所で、観光客も比較的少なく、紅葉をゆっくりじっくり堪能できる湖東エリアの隠れスポットを特別に4箇所、2日連続でご紹介致します(^^)

今からでも辛うじて間に合いますし、来年への参考として頂くのも結構かと存じます。

◆延寿禅寺
 (彦根市稲里町)

荒神山

まず最初に彦根エリアから1箇所。彦根市の中西部、琵琶湖岸沿いに一際大きな山容を誇るのが、標高284mの独立峰・荒神山(こうじんやま)。

その南麓に臨済宗永源寺派の古刹・延寿禅寺(えんじゅぜんじ)が あります。少し奥まった場所に位置し、幹線道路からも離れているので、『隠れ里』感たっぷりの名刹です。

延寿禅寺の竹林と紅葉

『竹林と紅葉の山寺』と銘打つ寺院だけあって、 さすが 二者のコントラストは絶景です。おまけに山に囲まれていることもあって喧騒は全くなく、木々の枝葉を抜ける風の音しか聞こえません。

延寿禅寺の紅葉

おまけに参道の階段は苔生して、とても趣があります。少し贔屓目かも知れませんが、京都の古刹の特徴(※枯山水を除く)を全て凝縮したような雰囲気を醸し出しているように思います。

延寿禅寺の竹林と紅葉ライトアップ

なお、こちらでは地域の町おこしの一環として紅葉のライトアップを実施されています。12月1日(日)まで夜の竹林と紅葉のコントラストを楽しめます。

荒神山神社里宮参道の紅葉
荒神山神社里宮参道の紅葉

ちなみに延寿禅寺から麓沿いに東へ車で約5分の場所に、荒神山神社里宮があります。こちらの参道の紅葉もおススメです。近くはドングリの木がたくさん自生していますので、お子さんの『ドングリ狩り』にも如何でしょうか(^^)

◆猪子山公園/北向岩屋十一面観音
(東近江市猪子町)

猪子山公園の紅葉
猪子山公園の紅葉

旧能登川エリアから1箇所、こここそ地元の方のみぞ知る裏スポット。JR琵琶湖線・能登川駅から南方へ約1km、標高268mの猪子山(いのこやま)にあります。

猪子山公園は麓に、北向岩屋十一面観音(きたむきいわやじゅういちめんかんのん)は山頂に、その他山中には100基を超える古墳と巨石祭祀の遺構が点在します。

北向岩屋十一面観音

クルマで登れる林道もありますが、狭くて傾斜がキツく、おまけにヘアピンカーブの連続となっておりますので、ドライビングテクニックに自信のない方には余りおススメ致しません。

北向岩屋十一面観音からの眺望
北向岩屋十一面観音からの眺望

北向岩屋十一面観音から望む琵琶湖の眺望は圧巻です。加えて周辺の山々の紅葉も一望できます。 手前に見える湖は“伊庭内湖(いばないこ)”です。

ちなみに地元のアベック・・・いやいやカップルが夜景を楽しむスポットになっている・・・らしいです(*^_^*)

小生が出向いた際は、紳士1人☓2回&淑女2人組☓1回とすれ違っただけでした(^^)

◆ご注意◆
何れのスポットも訪問に際し何かしらの“難点”がございます。決してご無理をなさいませんよう、くれぐれもお気を付けあそばせ<(_ _)>

それでは、続きは明日。乞うご期待(^^)v

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知られざる滋賀近現代史“彦根自衛隊機墜落事故”



「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」
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今から50年前のこと。1970(昭和45)年9月2日午後2時10分頃。彦根市金剛寺町の市道に、突如として上空から4トン足らずの鉄塊が落下。轟音とともに猛炎が襲い、周囲は炎熱地獄と化す未曽有の大事故がありました。

彦根自衛隊機墜落事故。皆さん、この出来事をご存知でしょうか?

彦根自衛隊機墜落事故(当時の新聞記事)

先日偶然新聞でこの事故について触れた記事を目にしたのですが、当時小生は未だ乳児で。当然記憶などあろうはずがありません。母に確認してみますと「確かにそのような事故があったが詳しくは知らない」とのことでした。

近現代の滋賀に於いてこれほどの規模の航空事故は、現時点で他に記憶がありません。にもかかわらずその事実は忘却の彼方に押しやられている。小生のスタンスは『教科書に載らない歴史の継承』。早速当事者の方に当時のお話を伺って参りました。

航空自衛隊 三菱 MU-2S 救難捜索機(事故機と同型)

1970(昭和45)年9月2日午前10時08分 。航空自衛隊 新田原(にゅうたばる)救難隊所属の三菱MU-2S救難捜索機(機体番号03-3207)は、有視界による航法訓練のため、石川県にある小松基地へ向かうべく新田原基地(宮崎県)を離陸。

途中、機体の燃料補給と乗員の休息のため大阪の八尾空港に午前11時56分着陸。午後1時40分に八尾空港を発ち、一路小松を目指します。

離陸から間もない午後2時頃。米原付近の上空約3,500フィート(約1,070m)を飛行中、突然左側エンジンにトラブル発生。その後不安定な飛行を続け南下。何度も再始動を試みますが成功せず、徐々に高度が下がります。

現在の墜落事故現場付近

午後2時10分頃 、彦根市金剛寺町付近の上空で遂に高度が保てず降下。前方の家屋を避けるべく進路を変更するものの失速、回転状態となり、背面姿勢で民家の屋根に接触。機首下げ状態で市道に墜落、炎上。近隣の民家や倉庫3戸が全半焼。乗員4名(操縦士2名・機上無線員1名・整備員1名)が殉職するという大惨事となったのです。

大東亜戦争終結から25年しか経過しておらず、 未だ旧日本軍へのアレルギー感情も少なからず残ることから、今と異なりメディアも市民も『軍隊』としての自衛隊に対する風当たりは実に強いものでした。加えてMU-2Sが航空自衛隊に正式採用、配備されてから僅か3年で墜落事故を起こしたことで、関係者の苦悩も如何ばかりであったかと拝察します。

自衛隊員4名が殉職されたことは誠に残念至極ではありますが、民間人に犠牲者が出なかったことが唯一の救いです。

今回流石に取材で宮崎を訪れる訳にもいきませんので、当時中学生で自宅が全焼してしまった川村宏さんに色々とお話を伺うことが出来ました。

「当日は全員留守をしていたので助かった。学校から帰宅したら自宅は黒い骨組みだけ。周囲は流出した油(航空燃料)の臭いで凄かった。国からの補償の折衝はシビアで、記録として残していない家宝や家財に関してはほぼ認められなかった。また再発防止のため航路の変更も求めたが検討の余地もなかった。今と違って、当時は被害者といえども国に楯突くような雰囲気ではなかった。両親は同じ場所に自宅を再建したが、周囲から『補償金で棚から牡丹餅』的に好奇の目で見られ、とても嫌な思いをした」と語ってくださいました。

墜落事故慰霊地蔵尊

川村さんの父・清さんは、自宅再建時に殉職した隊員の慰霊のために地蔵尊を安置され、20年前に宏さんに代替わりされた後も、盆や正月の供物や日々の献花を続けておられます 。

清泰山誓念寺

また残念ながら遺族の高齢化で事故関係者との交流は約30年前に途絶してしまいましたが、現在でも事故の9月2日には集落の寺院・ 誓念寺と合同で慰霊の法要を行っておられます。

去る5月26日。新田原救難隊は隊長の河野敬人二佐以下3名が川村さんと誓念寺のもとを訪れ、長年に亘る慰霊を労い感謝状を贈呈されました。過去の事故に関する慰霊状況の調査を進めておられた救難隊総括班長の山口達也三佐は 、「機体の運用に教訓を遺した事故だった。長年の慰霊に感謝するとともに、今後はこの繋がりを大切に守っていく」と語っておられたそうです。

■ 航空救難団  新田原救難隊活動報告

新田原航空救難隊による事故検証報告書

事故の検証結果で搭乗員は最悪のコンディションの中、市街地を避けるべく墜落の瞬間まで必死の努力を続けていたそうです。米原付近を北上していた機体が片肺飛行でいきなり南下し始めた原因は判然としません。ですが両翼に装備された77ガロン(約285リットル) 増槽が満載状態であったことからも、片発では最大装備重量下でバランスを大きく崩し、正常飛行に耐えられなかったこと。もしかすると操縦系統にも異常を来していた可能性も推察されます。

この事故を教訓に、悪天候下での飛行時には燃料積載量の低減等の安全策が講じられたそうです。因みにこの事故以降、 MU-2Sが退役する2008(平成20)年10月22日までの間、航空自衛隊でこの機種は3度も墜落事故を発生させました。彦根の事故を含め、16名の尊い犠牲を払っています。

航空自衛隊 ブリティッシュ・エアロスペース U-125A 救難捜索機

現在MU-2Sの後継として、1994(平成6)年からブリティッシュ・エアロスペースU-125Aが運用されています。特に悪天候下では抜群の飛行性能を誇ることから、これまでの事故の教訓を十分に活かしての選択なのでしょう。

事故は加害者も被害者も、そして周囲にも『不幸』しかもたらしません。この件に限らず、小生も先人の尊い犠牲によって培われた教訓を真摯に受け止め、学び実践せねばならないと改めて痛感した次第です。

今回の取材に全面的にご協力戴きました川村宏氏に、この場を借りまして厚く御礼申し上げます。

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【即位礼正殿の儀特別企画】帝を魅了した禁断の果実“むべ”の伝説

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今回は即位礼正殿の儀を目前にした特別企画と致しまして、帝を魅了した禁断の果実むべについてのお話を致したいと存じます。

決して “ベム”ではございません。今回は小ネタの類(妖怪人間モノ)ではありませんのでご安心を(^^)

さて、近江八幡界隈の湖岸道路、長命寺川に並走する辺りで、このような看板を見かけたことはありませんか?『むべ狩り』・・・“むべ”を狩る??そもそも “むべ” とは何ぞや???

むべ狩り

“むべ”とは植物の名前です。

別名「トキワアケビ(常盤通草)」とも呼ばれ、その他「ウベアケビ」「ムベアケビ」「本アケビ」「カラスアケビ」などとも呼ばれます。 「エビカヅラ」との異名もありますが、これは全く異なる植物になります。

むべ

かいつまんで申しますと「アケビ」の仲間です。“アケビ”と言われましても現代っ子には馴染みがほとんど無いと思いますが、ご年配の方々にはその名を聞いて懐かしさが込み上げてくるのではないでしょうか。

植生は蔦(つた)のように他の木に絡まって上に伸びます。5月頃に白色または淡紅色の花が咲き、10月後半から11月初旬頃に果実が実ります。実は長さ8cm程度の楕円形で、熟すると紫色になり、内部には乳白色の粘りのある甘い果肉と黒い種子があります。

さて、その果実に何故むべという名が付いたのか。その理由は今から約1340年前に遡ります。

都が大津に遷された頃のこと。ある日、時の帝・天智天皇(てんじてんのう)は蒲生野で遊猟していた際、奥島(現在の近江八幡市島町・北津田町付近)に立ち寄ります。

天智天皇

そこで珍しく長寿で男の子を8人も育てた老夫婦に出逢います。天皇がその老夫婦に「おまえたちの長生きの秘訣は何か?」と尋ねますと、老夫婦は「此処にはこのような珍しい果物があるのです」と天皇にその実を差し出したのです。

すると天皇はその実を見て、「むべなるかな(如何にももっともなことであるな)。このような霊力のある果物は毎年朝廷へ献上するように」と命じたそうです。

以後この果実は“むべ”と呼ばれ、この地域では毎年11月に朝廷へ献上するようになり、その代りに朝廷や幕府からの賦役(ふえき/農民が領主から課せられた労働と地代)を免除されたり、献上道中帯刀の恩典(ムベを献上する道中に限り貴族や武士でなくとも一行は刀を携帯してもよい特権)を受けたりしたそうです。

しかしこの特権に危機が訪れたこともありました。室町時代末期、幕府や地頭が財政に困り新税を課そうとしたのです。

これに対し奥島では、むべの供御人(くごにん/朝廷に属し天皇や皇族に山海の特産物といった飲食物や各種手工芸品などを貢納した人々のこと)が免除の前例を願い出たので許されたそうです。

大嶋奥津嶋神社

その後“応仁の乱”で世情が混乱し、一旦献上が中絶されてしまいますが、江戸時代に入り前例に倣って再開されました。献上行列の「むべ御用」には、十六八重表菊(菊の御紋)の役符、御紋入り提灯まで下付され、特別待遇されたそうです。

1878(明治11)年に明治天皇が北陸に巡幸された折、当時の滋賀縣令(けんれい/現在の知事)・籠手田安定(こてだやすさだ)がむべを献上し、

籠手田安定歌碑

大君に ささけしむべは 古き代のためしをしたふ

のまこころ

という歌を詠んでおり、現在大嶋奥津嶋神社の境内にその歌碑が建立されています。

むべの献上は1982(昭和57)年まで続けられましたが、伝説の老夫婦の縁戚と呼ばれ代々供御人を務めた家が転居してしまったため途絶してしまいます。

しかし大嶋奥津嶋神社の宮司・深井武臣氏を中心とした有志の方々の尽力により、2002(平成16)年より再開されました。

因みにむべ献上のルーツともなった天智天皇を祭神として祀る近江神宮(大津市)にも、1940(昭和15)年の創祀以来、毎年献上されています。

琵琶湖より奥島地区を望む

以前はこの地域一帯に沢山のむべが生い茂っていたそうです。一時期天然記念物にも指定され、近江八幡国民休暇村を通る旧湖周道路沿いに「むべの碑」が設置されていましたが、現在は撤去され存在しません。

近江八幡運動公園近くの津田内湖干拓地には町おこしの一環として「むべ棚農園」が造成されています。

毎年この時期になると“むべ狩り”が行われます。小生も皆さんに“露地栽培物のむべ”をご覧いただこうと現地に赴いたのですが、今年は酷暑の影響か11月初旬から開始とのことでした。

その後近隣の北津田町内を通っていましたら「むべに親しむ郷づくり」運動で、1995(平成7)年より始められた露地栽培のむべ棚を見つけましたので写真(記事前半部掲載)に収めてきました。地元ではムベを使ったお酒やお菓子も作られていますので、興味のある方は是非訪れてみてください。

なお、むべ狩りは事前予約制になっておりますので、詳しくは下記リンクの情報でご確認ください。

津田内湖畑作営農組合“むべ狩り”

さて来る10月22日には令和の天皇陛下が 正式に即位したことを日本国の内外に宣明する儀式『即位礼正殿の儀 』 が執り行われます。陛下にはこの霊験あらたかなむべを召し上がっていただき、末永くご活躍頂きたいものです。早速皇室に献上してもらいたいですね (^^)

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歴史に翻弄された歌枕“水茎の岡”の伝説(番外篇)


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本来ならば、歴史に翻弄された歌枕“水茎の岡”の伝説シリーズは前後篇で完結する予定だったのですが、色々と調査をしている過程で奇妙なネタを発見しました。よって今回はその“ 奇妙なネタ ”を番外篇としてお届け致したいと存じます。

さて皆さん、神代文字(じんだいもじ/かみよもじ)というものをご存知でしょうか?

『広辞苑』等の文献によりますと・・・詳しく引用しますと頭がクラクラしますので、簡単に要約致します。つまり日本に漢字が渡来する以前の古代に使用されていたとされる文字、もしくは文字のようなものの総称です。どのようなものかと申しますと、以下の写真をご参照ください。

水茎文字

象形文字のような、ハングル文字のような、奇妙奇天烈な文字です。神代の文字の可能性として初めて言及したのは、鎌倉時代の神道家・卜部兼方(うらべかねかた)の『釈日本紀』 で、以降江戸時代にブームとなった尚古思想(価値ある生活は古代にあるとして、古代の文献・制度を模範とする中国の支配的な思想)の風潮もあり、当時多くの国学者により様々な神代文字が提唱・議論されました。

現代に於いてその真贋は定かではない・・・というよりは寧ろ、残念ながら『非存在説が有力』『オカルト信奉者の興味対象』とされています。

そのオカルトチックなものに、何と“水茎の岡”が関係するものがあるというから驚きです(それが先程の写真のモノ)。

大石凝真素美

それは水茎文字と 呼ばれる文字です。 以下はNPO法人地球ことば村様の記述を引用致します。

国学者・中村孝道(1818~1844)が音声の配列のために作り出し、後に大石凝真素美(おおいしごり ますみ/1832 ~1913)が天津金木学(あまつ かなぎがく)という独自の行法によって感得したという文字。天津金木は積木状の木片の 6 面を白・黒・青・緑・赤・黄に塗り分けたもの。この配列・運用によって森羅万象が表現できるばかりか、未来の予測まで可能になるという。「水茎」というのは木を組み合わせるという意味の「瑞組木」に、古語で筆・筆跡・書簡を意味する「みずくさ」をかけての命名である。 水茎文字には不思議な伝説がある。滋賀県近江八幡水茎町にある岡山の山頂から見下ろす琵琶湖は景勝地として知られ、「水茎の岡」として万葉にも登場する歌枕の地である。大石凝によると、天気のよい日にこの岡に登り、湖面をみるとそこに刻々現われては消える水茎文字(波紋)が観測されるという。

以上サイトの文面そのままを掲載致しましたが、「滋賀県近江八幡水茎町にある岡山の山頂 」という記述につきましては、「滋賀県近江八幡市牧町にある岡山の山頂」であることを指摘しておきます。

水茎の岡からの琵琶湖眺望

早速、水茎の岡に登って湖面を見渡してみたのですが・・・

山は結構な荒れようで、なかなか琵琶湖を望める場所もなく、ようやく見つけた箇所もこの有様。 文字が見えなかったのは、天候がいまひとつだったのか、或いは小生の研究者(?)としての精進の足りなさの為せる業なのでしょうか(苦笑)。

そんな様々なエピソードに彩られた、ここ“ 水茎の岡 ”。周辺で活発なウインドサーフィンも季節的にそろそろ一段落でしょうから、一度散策されてみては如何でしょうか。

■参考サイト NPO法人 地球ことば村

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歴史に翻弄された歌枕“水茎の岡”の伝説(後篇)

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前回に引き続き、歴史に翻弄された歌枕“水茎の岡”の伝説の後篇をお届け致します。

さて古(いにしえ)の御代より、一級の景勝地として名を馳せてきた水茎の岡でしたが、中世に入るとその立地条件からキナ臭い様相を呈してきます。

琵琶湖岸に迫り出した立地が天然の要害として適地であったことから、南北朝時代に入ると南近江の守護大名・六角氏の湖上警備の拠点として城砦が築かれました。

室町時代後期の永正5(1508)年8月。現在の近江八幡にあたる地域を治めていた土豪であり六角氏の被官(ひかん/守護大名に従属する独立した領主)でもあった九里信隆(くのりのぶたか)によって、本格的な城郭が整備されます。

水茎岡山城跡

これが水茎岡山城(すいけいおかやまじょう)です。また尾山を中心に縄張り(なわばり/城郭の配置・構成)が敷かれたことから、別名・尾山城とも呼ばれました。

時を同じくして、室町幕府第11代将軍・足利義澄(あしかがよしずみ)は、クーデターによって将軍職(10代)を追われた従兄弟の義尹(よしただ)が、周防國(現在の山口県)の戦国大名・大内義興の後ろ盾を得て勢力を再び拡大。上洛を企図していることを知り、保身のため逃亡を企てます。

義澄は自身の計らいで守護職に復帰した義父の六角高頼を頼りますが、後に信隆のもとへと逃れます。信隆は城内に御所を用意して義澄を迎え入れ、家臣・領民ぐるみで奉迎し、生涯不変の忠誠を尽しました。

義澄逃亡の後、将軍職に復した義尹改め義稙(よしたね)を何とか排すべく、京へ義澄派の軍勢を送り込んだり、義稙の暗殺を謀ったりしましたが、ことごとく失敗。

水茎岡山城合戦【NHK時代劇『塚原卜伝』より】

永正7(1510)年3月には義稙より義澄追討の命を受けた7千(一説には2万)の軍勢が水茎岡山城を包囲しました。城を守る手勢は僅か5百。多勢に無勢と思われましたが、地の利を活かした戦いが功を奏し、3千の敵を殲滅。大勝利を収めます。 これが世にいう水茎岡山城合戦 です。

翌年3月には待望の嫡男・亀王丸が生誕。そして再起を図るべく京への反攻の狼煙を上げた8月14日の朝、義澄は突然の病を得て亡くなります。享年30歳。余りにも早すぎる死でした(暗殺との説もあり、また亀王丸生誕並びに義澄逝去は現在の高島市朽木町との説もあります)。

義澄逝去の後、六角氏と九里氏は険悪な状態となり、永正11(1514)年に信隆は高頼により謀殺。六角氏はかつて敵対していた義稙への帰順を意志を表明するのです。信隆亡き後は嫡男の浄椿(じょうちん)が継ぎ、六角氏との抗争を繰り広げます。浄椿も父に違わぬ名将で、永正12(1515)年9月の六角氏による大攻勢を見事に撃退しています。

しかし長きに渡る六角氏との戦いにも、遂に終止符が打たれます。

名勝水茎岡碑

永正17(1520)年7月。浄椿は高頼より家督を継いだ次男の定頼(さだより/嫡男の氏綱は早逝)率いる軍勢による奇襲を受け、40日間籠城戦を展開しますが、数百人の餓死者を出し落城。浄椿は辛くも落ち延びます。

そして大永元(1521)年12月。義澄の遺児、亀王丸が12代将軍(義晴/よしはる)に就任したという知らせを聞いた浄椿は、己が使命を全うしたと悟り自害。実質的に九里氏は滅亡しました。13年に渡る水茎の岡を巡る激動の歴史は、静かに幕を閉じたのです。

ちなみにこの尾山の麓にある「水茎の岡」の碑から登山道がありますが、途中からかなり険しい道程となっており、また如何せん「中世の城」跡ですから土塁と堅堀中心の遺構となります。「ちょっと寄り道」といった探訪にはおススメ出来ませんのでご注意を!

なお頭山に存在した本丸の遺構は独立行政法人水資源機構による造成工事で、義澄の御所跡と想定される遺構は湖周道路の整備で残念ながら失われてしまいました。好景気の時代の開発は、実に節操がないものです(ー_ー)!!

最後に全く異なるエピソードを1つご紹介致しましょう。

水茎の岡全域は、近江八幡市牧町(まきちょう)に属します。

このという地名ですが、その昔、天智天皇がここに牧場を整備したのでその名が付いたと伝えられています。湖に島が浮かび、草原に馬たちが戯れている・・・そんな光景を想像してみると、やはりこの地は一級の景勝地であったに違いない・・・そう感じます。

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閑話徘徊“滋賀にもこんなシャレの効いた酒があったなら・・・”

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2月13日の記事で『滋賀の地酒を勉強中』と綴っておりましたが、その後色々な蔵元さんの日本酒をチョビチョビではありますが試させていただいております。

ただ残念ながら、どうも小生の嗜好に合う地酒に出逢えない現状です。米どころでもあり、水にも恵まれ、地勢的には絶好の酒どころ。そして小生は根っからの土着民。出逢えないのが不思議です。

最近地酒が世間で話題になったり、メディアに取り上げられたりする機会も増えて参りました。蔵元さんが新しい試みに挑戦されたり、観光客やファンを取り込むために様々なイベントや施設の整備に注力されていることも増えました・・・でもなぁ・・・ というのが正直な気持ちです。

これは飽くまでも私見ではありますが、 ひょっとするとそういう傾向を目の当たりにすると、途端に自身の嗜好のモチベーションが低下してしまっているのではないかなどと勝手に分析しております。

それはさておき、今回久し振りにまとまったお休みが取れたので、可能ならば手に入れたいと思っていた日本酒がありました。通販で入手することも出来なくはないのですが、何せ流通量が少ないので、蔵元さんのある地元でと考えておりました。銘柄はズバリ『 死神 』です。

予想通り、地元でも特約店でしか流通していませんでした。喜び勇んで会計に向かおうとしたその時、奥の商品棚の一角に何やら怪しげなラベルの一升瓶が・・・。

特約店の方に伺ったところ通称『裏死神』と呼ばれる正統派の純米大吟醸(責め酒)で、本家・死神とは全く異なるアイテムとか。流通量は本家よりも僅少で、その中でも全国的にメジャーな酒米・山田錦バージョンと、地元の蔵元さんだけで使われている酒米・佐香錦 バージョン があるとのこと。加えて後者はさらに流通量が極少で、今年はもう在庫限りだと言われました(※因みに蔵元さんのホームページにも紹介されていませんでした)。

ウラシニガミ

そう言われれば入手するしかないっ!と、死神を断念していきなり裏世界に入り込んでしまいました(笑)。

「要冷蔵で保管には注意してください」とのアドバイスをいただいて、慎重に持って帰って参りました。まだ開栓しておりませんが、とても愉しみです。本家・死神が「 枯葉色でサエも良くない 、でもハマれば“病み憑き、憑りつかれそうな旨さ”」とのことですので、ひょっとするとその反対ですから『幸福感に包まれた御仏のような旨さ(?)』なのかも知れません(※特約店さんも余りに流通量が希少なため試飲したことがないとのことでした)。

日本酒初心者の小生ですが、不躾ながら『こういうシャレの効いた、でも中身は全く破綻、妥協のない酒が滋賀にもあったなら』としみじみ思うのです。他県の居酒屋さんに滋賀の地酒がラインナップされていることが少ない一因も、こういうところにあるのやも知れません。

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歴史に翻弄された歌枕“水茎の岡”の伝説(前篇)

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今回は水茎の岡(みずくきのおか)の伝説について、前後篇に渡ってご紹介したいと存じます。

近江八幡市西部の琵琶湖畔に岡山と呼ばれる小高い山があります。湖畔沿いにある山は、原則隧道(トンネル)貫通・開削・迂回で整備されている湖周道路にあって唯一「山越え」を強いられる箇所ですので、何となくご記憶があるかと存じます。

岡山

この岡山はパッと見た目は1つの山なのですが、琵琶湖畔に隣接する西端の頭山(左側)、最も高い中心部の尾山(標高187.7m)、東端の小山の3つの峰で構成されています。

かつては水茎内湖(すいけいないこ)の中にあり、四方を湖水で囲まれた小島でしたが、大東亜戦争後の干拓事業により現在の姿になったようです。

岡山はかつて水茎の岡と呼ばれていました。古くは飛鳥~奈良時代に編纂された萬葉集から、平安時代に編纂された古今並びに新古今和歌集に、この地を題材とした歌が四十有余残されています。ではその一部をご紹介しましょう。

水茎の岡 万葉歌碑

“秋風の 日にけに吹けば 水茎の 岡の木の葉も 色づきにけり” (萬葉集)

“雁がねの 寒く鳴きしゆ 水茎の 岡の葛葉は 色づきにけり” (萬葉集)

“水茎の 岡の葛葉も 色づきて 今朝うら悲し 秋の初風” (新古今和歌集)

この地は天皇・公卿・法師・文人・墨客達がこぞって歌の題材としており、当時は文芸史上随一の名勝であったことが窺われます。ちなみに2番目の歌は、岡山を山越えする湖周道路沿いに歌碑が建立されています。

またここが名勝であったことを裏付ける、そして水茎の岡の名のルーツとなった有名なエピソードがあります。

巨勢金岡

平安時代前期。日本画独自の様式を追求・深化させ、大和絵の様式を確立させた功労者とされる宮廷画家で巨勢金岡(こせのかなおか)という人物がおりました。時の権力者の恩寵を受け活躍し、また歌人としても才を発揮し、菅原道真などの知識人とも親交を結ぶ、所謂「世渡り上手さん」でした。

寛平年間(890年代)のこと。金岡は風景画を描くために、この地を訪れました。

いざ絵を描こうとしますが、余りの絶景雄大さに圧倒されてしまいます。そして遂には絵を描くことを諦めてしまい、水茎、即ち筆を折ってしまいました。このことからこの地を水茎の岡筆ヶ崎と呼ぶようになったと伝えられています(ただこの出来事以前に編纂された萬葉集には既に「水茎の岡」の名があることから、年代的に少し疑問が残ります)。

ちなみにこの金岡。これだけの功績の持ち主でありながら、現在本人の作品は何1つ残っていないとのこと。摩訶不思議なことです。

藤ヶ崎龍神

頭山の突端には藤ヶ崎神社があり、龍神様が祀られています。藤ヶ崎の名は恐らく、筆ヶ崎が転じたものと推察されます。滋賀は龍神信仰やアミニズム(自然崇拝)の対象としての磐座(いわくら)が県内各所に点在しています。

藤ヶ崎神社の由緒は定かではありませんが、その昔日野町にある綿向山に住まう龍神様が、竹生島の龍神様のもとへ足繁く通ったなどというお話もあることから、そのルート上に関連する信仰の一環であったのかも知れません(なお最近鳥居が重厚な石造りから朱塗りの鳥居へと変わりました)。

岡山からの琵琶湖の眺望

秋から冬にかけての夕景が特に美しく、頭山と尾山の2つの峰が湖面に影を落とす情景が、他に例を見ぬ美しさだったという水茎の岡。

現在の風景を眺めても、小生にはこれといって感動が沸き起こってきません。干拓の影響でその美しさが失われてしまったのか、それとも小生の感性の問題なのか・・・。

ただ古の人々にとって「特別な場所」であったことは、今でも仄かに感じ取ることが出来ます。

(歴史に翻弄された歌枕“水茎の岡”の伝説・後篇もお楽しみに・・・)

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知られざるお多賀さんパワースポット! “飯盛木”の伝説

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今回はお多賀さん(多賀大社)にゆかりの深い、知られざる隠れパワースポット!飯盛木についてのお話をいたしたいと存じます。

さて、 6月26日更新記事の“オタマジャクシ”の語源は“お多賀さん”にあった!で、“お多賀杓子”の謂われは「元正天皇の病気平癒を祈念して多賀社の神官たちが強飯とシデの木で作った杓子を献上した」ことによるとお話し致しました。

多賀大社本殿

その元祖“お多賀杓子”の末裔が現在でも残っている!(と伝えられている)のですがご存知でしょうか?

そもそも伝説の核心に迫る(?)前に、シデという植物とは何ぞや? という点から紐解いて参りましょう。

“シデ”はカバノキ科クマシデ属の落葉樹の総称で、日本ではクマシデを始め5種の植生が認められています。木は比較的小さく、アイアン・ウッド(鉄の木)と形容される程材質はかなり硬いとされています。そのため木材としてはほとんど利用されていませんが、切断台や工具の柄、また車軸やフローリングにも使われることがあるそうです。

紙垂

シデの名称の由来は、紙垂(しで/四手とも書き、しめ縄や玉串などにつけて垂らす特殊な断ち方をして折った紙のこと)にこの木の花の付き方が似ているからとされています。

さて肝心要の元祖“お多賀杓子”の末裔ですが、多賀大社から西へ約1kmの地点、キリンビール滋賀工場近くの田園のド真ん中にポツンとあります。名前を飯盛木(いもろぎ/いいもりぎ)と申します。「“”を“”るための“”」・・・そのまんまですね(^^)

この飯盛木ですが、半径100m以内に2本存在し、東は“(おとこ)飯盛木”、西は“(おんな)飯盛木”と称します。樹高約15m、幹周約6~10mの大樹で、見るからに長い年月を感じさせます。共に滋賀県指定自然記念物と多賀町指定天然記念物となっております。

男飯盛木

この木の伝説の原点は「杓子を作った際の残り木」とも「献上した杓子が払い下げられたもの」とも言い、はっきりしません。兎も角それを地に差したところ、根付いてここまで成長したとのことなのです。ちなみに“男飯盛木”が最初の木で、その枝を分けて差したのが“女飯盛木”とのこと。

ただ1つ、解せぬことがあるのです。

この木の案内板には「多賀大社のケヤキ(飯盛木)」「樹齢300年以上」と書かれているのです。 ん?・・・ケヤキ?・・・確か言い伝えではシデだったような・・・。 ん?・・・樹齢300年以上?・・・以上は以上だけど、伝説の通りであれば1000年は越えているハズなのですが・・・。

まぁ縁起モノのことですから、これ以上の詮索は止めておきましょう(^^)

女飯盛木

兎にも角にも貴重な自然遺産であることには間違いありません。ただ何となく“男飯盛木”の方が“女飯盛木”よりも元気がないように感じます。ご神木とはいえ、これも“世の流れ”ってヤツなのでしょうか(>_<)

この木の近隣には工場や民家が迫ってきていますが、辛うじて周囲だけは田園風景を保っています。飯盛木の近くに居ると、何やらとても落ち着く気がします。多賀大社にご参拝の折には、是非こちらにもお立ち寄りいただいて、神様のご加護&自然のパワーを感じ取ってください。

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“オタマジャクシ”の語源は“お多賀さん”にあった!?

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今年の西日本の梅雨入りはとても遅かったですね。このままだと梅雨明けは秋になってしまうのでは???と思ってしまう今日此頃です。

昨日カエルの大合唱も未だ聴かないのに、何とクマゼミの鳴き声を耳にしました。四季の順序を経ない天候、寒暖差の激しさ・・・どうか皆様『気象病』にはくれぐれもお気を付けください。

さてカエルといえば・・・今回はオタマジャクシの語源にスポットを当てたいと思います。オタマジャクシ・・・そう、カエルさんの子どもです。

オタマジャクシ

「何でオタマジャクシを“オタマジャクシ”と呼ぶのか?」なんて、考えたことはございますか? そんなニッチなネタに拘るのが、“偏屈者”の小生の真骨頂であります(^^)

オタマジャクシを見ていて「何かに似ているなぁ」と思ったことはございませんでしょうか?そう、調理器具のおたまにそっくりです。いえいえ、形状と言葉の“こじつけ”をしようというのではないのです。

多賀大社

“お伊勢参らばお多賀へ参れ お伊勢お多賀の子でござる

地元多賀町では有名な俗謡(ぞくよう/民衆の間で歌われる歌謡)で崇敬を集める、通称“お多賀さん”こと多賀大社。日本国土の創造主である伊邪那岐命(イザナギノミコト)と伊邪那美命(イザナミノミコト)の二神が祀られています。

その多賀大社には、古くから縁起物として名高いお多賀杓子(おたがしゃくし)というものがあります。

遡ること今から約1290年前(奈良時代)。時の帝、元正天皇(げんしょうてんのう/奈良の大仏建立を推進した聖武天皇の伯母)」が病に伏せっておりました。

多賀杓子

多賀社の神官たちは平癒を祈念して、強飯(こわめし/もち米で炊いた御飯)を炊き、更にシデの木で作った杓子を添えて献上しました。すると帝はたちどころに病床から回復されたとか。そのことから、霊験あらたかな無病長寿の縁起物として信仰を集めるようになったと伝えられています。

この“お多賀杓子”こそが、私たちが炊飯器から御飯を装(よそ)う際に使用するしゃもじ(杓文字)の原型であるとされています。

ここで驚きの事実を1つ。実はお多賀杓子が語源となったものは、オタマジャクシのみならず、“しゃもじ”や“おたま”もそうなのです(諸説あります)。

おたま

もともと柄の先に皿形の部分が付いた調理道具のことを、全て杓子(しゃくし)と呼んでおりました。それが縁起物の“お多賀杓子”が全国へ広まり、時代を経て御飯を装う道具をしゃもじ(杓文字)、汁物を装う道具をお玉杓子と呼称するようになったと考えられています。

その後、お玉杓子だけは「玉杓子」や「お玉」と略されるようになります。

オタマジャクシの語源は、この湾曲した柄と食べ物を装うことが可能な窪みを持った円形の先端部から構成される独特の形状を持つお多賀杓子から飛躍的な連想の働きが発生し、形状的相似からカエルの幼生の呼称につながったとされています。

“たま”“玉”“タマ”と書いている小生自身が混乱してしまいそうです。まぁ簡単に申しますと、“オタマジャクシ”も“しゃもじ”も“おたま”も、み~んな似た形の“お多賀杓子”から名前を貰った・・・ということのようであります。

さぁ~て今晩はこの“おたま”で、“カニ玉”でも作りますか!(^^)

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