“後藤奇壹の湖國浪漫風土記”にようこそ

~近江の國は歴史の縮図である~

【湖國風土記寫眞】彦根城滋賀の知られざる歴史、忘れ去られゆく民話、先人たちの偉大なる足跡を後世に伝える渾身の激白(?)徒然紀行。

生まれ育った近江國の風土をこよなく愛する土着民が、“滋賀の郷土史”を皆様に知って戴ければとの想いで書き綴っております。時折・・・しばしば(?)「彷徨」もございますが、ご高覧・ご笑覧賜れば幸いです<(_ _)>

 

※相互リンク大歓迎です。ご意見・情報承ります(^^)よりご連絡戴ければ幸甚です。

管理人:後藤 奇壹


源平合戦の隠れた猛将“平景清”が辿りし執念の道(後篇)

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

 

今回も源平合戦悲運の猛将、平景清が辿った足跡についてお話をいたしたいと存じます。

 

袈裟切地蔵

 

近江八幡市安土町上豊浦のJR琵琶湖線の東側にある集落の一角に、首のないお地蔵様が祀られています。

 

景清が桑實寺に参拝の折、そのお地蔵様は景清の真意を探るため容姿端麗な女に化けて誘惑を試みました。

 

しかし景清は動じないどころか「さては妖怪の化身め!」と腰の太刀でその女を一刀両断、袈裟切りにしてしまいました。

 

以来、お地蔵様は「私の首を見付けた者は幸福になる」と言いつつ、未だにその首を探しているのだそうです。

 

景清身丈石(景清の背比べ石)

 

桑實寺の庭園の一角にあります。

 

武具を付けた景清が、身をもたせて休んだ石と伝えられています。

 

ちなみにこの身丈石、実は2代目なのだとか。

 

本来の身丈石は現在庭園内の池の石橋になっているそうです。

 

 

景清目洗い井戸

 

こちらも桑實寺の庭園の一角にあります。

 

景清が百日参りを行った際、眼病を患っていた目を清めたとされる井戸です。

 

今はすっかり枯れてしまったようです。

 

 

 

景清眼洗い井戸

 

こちらは所変わって彦根市芹川町、雨壺山(あまつぼやま/通称:平田山)の麓の公営団地の裏手にあります。

 

戦がもとで負傷した目が悪化し、旅の途中で目を清めるための名水を求めます。そして雨壺山の麓までやって来た時、小魚が群れ遊ぶ美しい水の小川がありました。

 

その小川を辿っていくと、五尺(約150cm)程の大きさの井戸から水がコンコンと湧き出ています。景清がその井戸の水で目を洗うと、体中の疲れが取れ爽快な気分になりました。さらに何度も目を洗うと、次第に痛みも治まってきました。

 

景清は近くに小屋を建て、しばらくこの地に逗留することにしました。その後毎日目を洗ったお陰ですっかりと回復し、また旅を続けたと伝えられています。昭和の高度成長期頃までは原形を留めていたそうですが、現在はコンクリートで整備されこのような姿となってしましました。

 

景清の晩年はかなり不遇であったと伝えられていますが、それ故に贔屓する人々も多かったようで、後の時代には「浄瑠璃」や「歌舞伎」、はたまた「古典落語」の世界でしばしば彼の波乱に満ちた人生が題材として採り上げられています。

 

それにしましても、源平合戦(屋島の戦い)では源氏方の無粋な行為に対して勇猛果敢に攻め立て、また壇ノ浦の戦いから敗走を続けるも平家の再興を願い、何と源頼朝の暗殺の機会を37回も狙ったという 忠臣中の忠臣なのですが、いくら資料に乏しい人物とはいえ現代人の彼に対する評価が余りにも低いと感じるのは私だけでしょうか。

 

さて最後に話題は180度回頭いたしまして・・・

 

まさかナムコが源平討魔伝というアーケードゲーム(後に様々な家庭用ゲーム機へコンシュマー化)の題材に、景清を抜擢していたとは知りませんでした。

 

これがそのゲームに登場する景清なのだそうです。う~ん、これじゃまるでカブキロックスですよねぇ(苦笑)。

 

 

今回は取材範囲がかなり広域に渡り、またとてもマイナーな題材であるため、情報収集に大変苦労しました。しかし多くの方々のお力添えにより、こうして纏め上げることが出来、感無量でございます。

 

情報提供いただきました彦根市芹川町の北川さん、近江八幡市安土町上豊浦の糠さん。情報収集にご協力いただきました彦根市・伊藤仏壇のスタッフの皆さん、安土観光案内所のスタッフの皆さん。また取材に全面協力いただきました旅庵寺の小嶋安寿様、桑實寺の北川住職様。この場を借りまして厚く御礼申し上げます。本当に有難うございました。

 

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源平合戦の隠れた猛将“平景清”が辿りし執念の道(前篇)

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

 

TBSのNスタさんに資料を提供しましたことを契機に、今回は平安末期に源平合戦で平家側の勇猛な武将として名を馳せた平景清(たいらのかげきよ)についてお話をいたしたいと存じます。

 

“名を馳せた”と前述しましたが、教科書に登場することはほとんどありません。

 

また一般には平氏に仕え戦ったため俗に“平姓”で呼ばれてはいますが、本来は藤原秀郷(ふじわらのひでさと/滋賀では三上山のムカデ退治に登場する“俵藤太”で知られる)の子孫の伊勢藤原氏であるので、正確には“藤原景清”なのです。

 

源平合戦で勇猛に戦った実在する武将であった割には彼に関する資料がほとんど残っていないため、とても謎多き人物とされています。肖像画も一般的に知られているのは景清を主題とした浄瑠璃に関連する挿絵(歌川國芳・画)くらいしかありま。

 

しかし今回景清に縁の深い旅庵寺(りょあんじ/近江八幡市)の特別なお計らいにより、寺宝の肖像画を公開いただきました。

 

そんな謎多き景清にまつわる伝説は全国各地に残っており(今回Nスタで取り上げられた山口県の秋芳洞もその1つ)、この滋賀にもあります。それが今回ご紹介いたします景清道(かげきよみち)のお話です。

 

 

近江八幡市内を、桑實寺(くわのみでら)から、旧安土町上豊浦/小中/慈恩寺を経て中村町の旅庵寺(一説には愛知県から京都・清水寺)に至る道を、地元では“景清道”と呼んでいます。

 

源平合戦に敗れた後も景清は逃亡し、源頼朝暗殺の機会を虎視眈々と狙っていました。無念にも捕縛されてしまいますが、かつての勇猛振りを惜しまれ頼朝により助命されます。

 

最終的には九州へ配流され波乱の生涯を終えますが、一時期尾張國(現在の愛知県)熱田に居住していました。

 

この道は、その時景清が平家再興を祈念するために、京都の清水寺の薬師如来へ参詣する際に通った道。

 

または一時的に身を寄せていた旅庵寺から桑實寺の薬師如来へ自らの眼病平癒のために百日参りを行った道だとも言われています。

 

では順を追って景清の足跡を辿ってみましょう。

 

旅庵寺

 

近江八幡市中村町にあります天台宗の寺院です。景清は一時的にここへ身を寄せていたと伝えられています。

 

景清が安置したと伝えられる薬師如来を本尊とし、また景清の肖像画も寺宝として残されておりますが、共に非公開です。

 

景清腰掛石

 

同じく旅庵寺の境内にあります。

 

特に案内板がある訳でもなく、一見何の変哲もない大きな石にしか見えません。

 

以前は境内の片隅にありましたが、現在は門前に保存されています。

 

あ、手前のま~るいコンクリートの塊じゃあないですよ~(^^)

 

景清橋

 

近江八幡市安土町慈恩寺の山本川に架かる、景清の名が伝えられる唯一の橋です。

 

橋本体は平成6年に竣工したものですが、近くにその名を刻む石標が残っており、ここが古くから「景清橋」であったことが窺えます。

 

この続きは後半で。次回の更新をお楽しみに!

 

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本日のNスタに当ブログより資料提供致します!

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

 

平(藤原)景清

平(藤原)景清

突然ですが、本日放送のTBSテレビ報道番組・Nスタでのニュースに、急遽当ブログより資料提供を実施することが決定致しました。

 

 

記事内容は「鍾乳洞に悪質いたずら」に関するもので、滋賀に直接関連性は無いようにも思えますが、その中で滋賀にゆかりの深いコチラの人物の肖像写真を提供致します。

 

 

ご興味がございましたら是非ご覧ください<(_ _)>

 

提供情報の告知(悪質・荘厳な鍾乳洞で迷惑行為)はコチラ!

◆TBSテレビ Nスタ 関東エリア:15時49分より(一部地域は17時50分より)

※地域によりましては放送されない場合がございます。

 

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男の子限定⁉懐妊成就 “手原”の伝説

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

 

今回は栗東(りっとう)市の中心部にあります、手原(てはら)の地名の由来についてのお話をいたしたいと存じます。

 

JR草津線・手原駅を中心とした一帯は、昔から手原と呼ばれています。古くは東海道が通り、現在は名神高速道路・栗東インターチェンジを始め、国道1号や国道8号、そしてJR草津線が通る交通インフラの集中エリアとなっています。

 

また東海道線に栗東駅(平成3年開業)が新設された後も、栗東市の官庁街・中心街への玄関口としての役割を担い続けています。

 

さらに近隣で東海道新幹線新駅誘致の話も急浮上しましたが水泡に帰しました。現在誘致予定地だった場所にはリチウムバッテリー工場が建設され、違った形で進化を遂げています。

 

さてこの“手原”の地名の由来ですが、“手の形をした原っぱ”があった訳でもなく、“手のひら→手の原”に変わった訳でもありません。実はこんなお話があったのです。

 

時は飛鳥時代中期(655年頃)、斉明天皇の御代のこと。

 

この地の村造(むらみやっこ/現在の村長)に、布佐(ふさ)という人がおりました。布佐には8人の子がおりましたが、何れも女の子でした。

 

布佐は1人でも良いので、跡継ぎとなる男の子を欲しがっていました。「どうか男の子をお授けください」と念じたところ妻が懐妊します。「今度こそ男の子に違いない」と布佐は確信しますが、何故か今度も女の子が生まれました。

 

そこで布佐は村に伊邪那岐命(いざなぎのみこと)・伊邪那美命(いざなみのみこと)を祀り、土地の守り神でもあった天ツ神(あまつかみ/天津神とも)にお願いすることにします。

 

布佐は毎日妻を連れて、手を腹の上に当て男の子が授かるよう祈りました。

 

すると今度はその一念が通じたのか、男の子が誕生しました。周囲はこの子どもを手孕児(てはらみこ)と呼び、神の不思議な力を称えました。

 

つまり、手孕児・・・「」を当てたら、「」んで(懐妊して)生まれた、「」(子供)という訳です。

 

当初この故事にちなみこの地を「手孕」と称しましたが、いつしか「手原」と表記するようになりました。

 

 

このようなお話は俗に『手孕説話(てばらせつわ)』と呼ばれ、他にも兵庫県や茨城県にも似たようなお話が残っています。

 

ちなみに布佐が祈願した“天ツ神”は、これ以降「安産の守護神」として信仰を集めていきました。後にここは菅原道真(すがわらのみちざね)を祭神とするようになったため“天満宮”となり、現在は“西向き天神さん”として崇敬されています。

 

さてその天満宮ですが、手原8丁目・JR手原駅から東へ約250mの線路沿いに鎮座しています。

 

大手企業の倉庫に囲まれ、参道を名神高速道路の栗東インターチェンジ誘導路が横断しているため、すっかり人目に付かなくなってしまいました。

 

ですが境内はとても美しく保たれており、地元の方々からの厚い信仰心を感じます。

 

少子化に歯止めが利かないこのご時世。こちらの神様に熱心にお願いすれば、(学業に強い)子どもを授けてくださるかも知れませんよ。

 

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戦国三覇者に愛された書家武将“建部傳内”の伝説

「後藤奇壹の湖國土記」浪漫風に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

 

今回は戦国三覇者(信長・秀吉・家康)に愛された書家武将、建部傳内(たてべでんない)についてのお話をいたしたいと存じます。本名は建部賢文(たてべかたぶみ)と称しましたが、残念ながら傳内に関する資料は余り残されていないのです。

 

青蓮院(青不動)傳内は日本三不動の1つである国宝・青不動で知られる京都・東山の青蓮院(しょうれんいん)の第46代門跡、尊鎮法親王(そんちんほうしんのう)の流れを汲む書家で、親王から“傳内流”を名乗ることを特別に許された実力の持ち主でもありました。青蓮院では当時、室町時代初期の第35代門跡・尊円法親王(そんえんほうしんのう)によって“青蓮院流”という書法が編み出され、書の世界での流儀の1つを形成していたのです。

 

建部傳内また傳内は現在の東近江市建部地区に住んでいたため、建部姓を名乗ったとも言われています。

 

当初は南近江の守護大名にして観音寺城城主の六角義賢(ろっかくよしかた)の家臣として仕えていました。

 

しかし六角氏が織田信長との戦いで没落すると、自ら蟄居してしまいます。

 

それを知った羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)は彼を説得してヘッドハンティングし、織田信長に仕えることとなります。

 

摠見寺扁額安土城内に建立された摠見寺(そうけんじ)の扁額(へんがく/門戸や室内などに掲げる横に長い額)にある

 

遠景山

下漫々

摠見寺

 

という書は、傳内の揮毫であると言われています。

 

秀吉が天下を掌握すると傳内は祐筆(ゆうひつ/公文書や記録の作成を取り仕切る文官、右筆とも)となります。

 

聚楽第そして京都の聚楽第(じゅらくだい/秀吉の政庁兼邸宅)の揮毫や、豊臣秀次に献上するための「源氏物語」の書写などを手掛けます。

 

なお徳川家康も傳内の才能を認めていたと思われ、徳川実紀(とくがわじっき/江戸時代後期に編纂された江戸幕府の公式記録)には、慶長元(1596)年に傳内を祐筆に抜擢したと記録されています。

 

ただ傳内の没年と整合しないため、恐らく傳内の三男で傳内流を継承し、家康・秀忠二代に渡り仕えた昌興(まさおき)のことであることが推察されます。

 

東光寺建部傳内の墓は近江八幡市安土町西老蘇(にしおいそ)の中山道沿いにある東光寺(とうこうじ)にあるとされているのですが、今となってはどれなのか判然としないそうです。

 

ただこちらには傳内を祀る傳内堂があり、そこには建部傳内の木造が安置されています。

 

同じく西老蘇には、傳内の妹が嫁いだ井上家に傳内書の「百人一首」が残されているとも伝えられています。

 

建部傳内屋敷跡また東近江市五個荘木流町(ごかしょうきながせちょう)の法蓮寺(ほうれんじ)門前には、建部傳内屋敷跡があります。現在は遺徳を偲ぶ記念碑のみが残ります。

 

滋賀県庁文化財保護課城郭調査担当(旧滋賀県安土城郭調査研究所)の資料によりますと、ここは傳内の居城であった建部城が存在したのではないかとされています。

 

この後建部家は、4代100年に渡って江戸幕府の祐筆を務め、名実ともに書家としての地位を確立していったのです。

 

絵画の狩野家、茶道・建築の小堀家、そして書の建部家。“芸は身を助く”とはまさしくこのことですね。決して教科書には載ることのない、「筆で生き抜いた戦国武将」の物語でございました。

 

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文豪・島崎藤村が愛した幻の銘酒“桑酒”とは?

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

 

今回は久し振りに隠れ家ネタをお届け致したいと存じます(^^)

 

この桑酒の存在を知ったのは約8年半前の某東京キー局のバラエティ番組。それまでその販売店の前をクルマで何十回も通りながら、全くその存在に気付きませんでした。

 

今回8年半越しの想いを秘めて訪れることと致しました。

 

場所はもうほとんど福井県に程近い長浜市木之本町。この木之本はかつて近江國と北陸地方を結んでいた北國街道(ほっこくかいどう)の宿場町でした。

 

また日本三大地蔵の1つとされ、眼病平癒の地蔵として信仰を集めている木之本地蔵院(浄信寺)の門前町としても栄えていました。

 

私は幼少の頃より、祖父母の影響で常に“お地蔵さん”と寄り添って暮らしてきました。当然この木之本のお地蔵さんも数え切れない程お参りしています。だからでしょうか、敬虔に「お参り」していたが故に、他のことには全く興味を示さなかったのかも知れません。

 

旧北國街道沿いにある木之本地蔵院から更に街道を北上すること約200m。

 

そこに今回のお目当てである山路酒造(やまじしゅぞう)があります。

 

この山路酒造は、創業天文元(1532)年。

 

何と室町時代後期から480年も続く、日本でも5番目に古い老舗中の老舗の造り酒屋なのです。

 

お店によれば、酒米は有機質肥料を主体に、減農薬によって栽培された滋賀の環境こだわり農産物に認定された特別栽培米「玉栄」や、地元・長浜で無農薬栽培された「山田錦」を用いて、、安全・安心な日本酒づくりをモットーにされています。

 

店構えは昔ながらの造り酒屋の呈を色濃く残しています。

 

やはり軒先に杉玉は欠かせませんね(^^)

 

山路酒造の代表的な銘柄は辛口系の清酒『北國街道』なのですが、今回のお目当てはさにあらず!

 

「造り酒屋の代表的銘柄を素通りするとは何事!」と仰る向きはごもっともですが、まぁそこはご容赦を。

 

そうそうこれです、コレ!

 

こちらのもう1つの代表的なお酒、桑酒(くわざけ)です。

 

「桑酒とは何ぞや?」

 

ではご説明いたしましょう。

 

桑酒の起源は創業期に遡ります。

 

時の当主が「後園の桑を用いて酒をつくれ」との夢のお告げに従ったところ、甘く香ばしい酒が出来て皆に大変喜ばれたとの言い伝えが残っています。

 

そして安土桃山時代には、木之本の宿で京へ上る旅人が疲れて旅が続けられなくなった時、宿の人に勧められ桑酒を呑み、その後木之本地蔵に参拝したのだとか。

 

するとたちどころにして旅を続けられる程に元気を取り戻したのだそうです。その評判が評判を呼び、旅の安全を願ってわざわざここへ立ち寄り買い求める人が多くなったのだそうです。

 

左の写真は、明治・大正期の文豪で『破戒』『夜明け前』の作品で名高い島崎藤村が、桑酒購入のため東京麻布の自宅から寄せた直筆の注文書。

 

2通あり、差出人は何れも藤村の本名である“島崎春樹”。

 

日付は大正14年8月と同10月となっています。

 

定形封筒に藤村専用の透かし入りの便箋を使い、ペン筆で「桑酒一升をお送り下さい」という内容が書かれています。

 

当時の藤村は心臓に疾患を持っていたそうで、桑酒が滋養に良いとの話を聞きつけ、当時としては画期的(!?)な「通信販売」でもって購入していました。

 

ちなみに、江戸時代中期の儒学者で現在の長浜市高月町出身の雨森芳州も愛飲したとの話も伝わっています。

 

昔も今もこの辺りの名物として、お土産や贈答品としても喜ばれています。

 

桑酒は米どころ近江の糯米(もちごめ)と麹(こうじ)と桑の葉を独自の方法で焼酎に漬け込み、伝統みりんの製法に則って作られています。

 

ほのかな香りと口ざわりの良さが特徴で、アルコール度数は清酒よりやや低めの14.5度。リキュール類に分類され、琥珀色に輝く桑酒を冷やし氷を入れてオンザロックにするのが一番。また炭酸水を入れてカクテル調に楽しむのも“アリ”なのだそうです。

 

ちなみに訪問当日私は運転のため、妻に利き酒を依頼。

 

インプレッションとしては、梅酒に似た風味で甘くとても呑みやすいとのことでした。この甘味は梅酒のような砂糖によるものでなく麹由来の自然のものなので、カロリーも然程高くないのだとか。酒がやや苦手な妻が呑みやすいというのですから、女性には断然おススメでしょう(^^)

 

さて最後に、この方のご紹介なくして桑酒は語れません。

 

前述のバラエティ番組で一躍全国に「造り酒屋の美人若女将」として名を馳せられた山路祐子さんです(^^)

 

女将さんの軽妙な語り口に、訪れた誰しもがファンになること請け合いです。

 

なお例の某局バラエティ番組でのエピソードをちょっぴり語っていただきました。

 

そのバラエティ番組では、お店の名前が不倫騒動で一躍有名となった某国際ジャーナリストと同じ“苗字”というオチに使われていました。このことについてTV局からは事前事後共に一切説明はなく、とてもガッカリしたのだとか。

 

おまけにご親戚に同名の方がおられ、この扱いにとても立腹され、火消しに苦労されたのだそうです。TVには気を許しちゃいけませんね(>_<)

 

えっ!?紹介しただけならアンタも某TV局と変わらないだろって?

 

いえいえ、私はちゃ~んと買ってきましたよ。

 

こちら陶器入りの900mlです。他にもガラス瓶に入ったタイプもあります。

 

私は上の写真にある昔ながらの大きな徳利(とっくり)のものが欲しかったのですが、容器を製造されている窯元さんの都合により、現在は廃版となっておりました。

 

残念!(T_T)

 

そんな伝統に捉われない、気さくな雰囲気の造り酒屋さんに是非足をお運びください。

 

なお、お子さんも安心して召し上がれる米100%・甘味料不使用!正真正銘の「甘酒」も少量製造されているのですが・・・残念ながら販売されておられませんでした。

 

兎角木之本の日本酒と言えば『七本槍』がもてはやされていますが、歴史に彩られた伝統の銘品を次代に伝えるためにも、山路酒造さんを応援したいですね。

 

山路酒造

滋賀県長浜市木之本町木之本990
TEL.0749-82-3037
★Web/http://www.hokkokukaidou.com/

 

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『番町皿屋敷』は本当に“怪談噺”だったのか⁉

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

 

今回は酷暑に於ける一服の清涼剤と致しまして、『怪談・番町皿屋敷』定説に一石を投じる真説(!?)についてお話を致したいと存じます。

 

毎度のことながらこの時期ともなりますと、やれ「怪談」だの「ホラー」だの「ミステリー」だの「心霊」だのをネタにしたTV番組や関連本が世間を賑わしますが・・・最近はそうでもないようで。

 

この種のネタの需要にも“時代の変遷”というものがあるのでしょうか(?_?)

 

それはさておき、皆さん『怪談・番町皿屋敷』はよくご存知ですよね?知らない良い子のために、話の概要をお“さら”いしてみましょう!

 

私たちがよく耳にする「お菊の亡霊が夜な夜な1ま~い、2ま~い・・・最終的になぜか18枚も皿を数えてしまう」というお話ですが、これはこの怪談噺をベースにした『お菊の皿(または皿屋敷)』という古典落語の演目なのです。

 

『皿屋敷』という怪談は日本各地で伝えられており、どこが“本家本元”の話であるのかは不明ですが、概ね「番町皿屋敷 (東京説)」と「播州皿屋敷(兵庫説)」の何れかの話の流れを汲むとされています。

 

お話の概要としましては、

●屋敷の主人が秘蔵する皿のセットのうち一枚を奉公人の娘が割ってしまう。
  またはその娘に恨みを持つ何者かによって皿が隠されてしまう。
●娘はその責任を問われ責め殺される、または娘が自殺する。
●夜な夜な娘の亡霊が現れて、恨めしげに皿を数える。
●娘の祟りによって屋敷の一家に様々な災厄が振りかかり、
  やがて没落してゆく。

というものです。思い出されましたでしょうか。

 

しかしこの皿屋敷の黄金律を覆す説が滋賀には伝えられているのです。それが彦根・長久寺(ちょうきゅうじ)のお菊伝説なのです。

 

今回は長久寺の檀家の方々のご協力を得て取材を敢行。以下は長久寺からご提供頂いた資料をもとに記述致します。

 

時は寛文4(1664)年、彦根藩3代当主・井伊直澄(いいなおずみ)の御代。井伊家で旗奉行を務める重臣・孕石(はらみいし)家には政之進という世継ぎがおり、孕石家に侍女“お菊”とは相思相愛の仲であった。

 

しかし政之進には亡き両親が取り決めた許嫁がおり、また後見人である叔母が結婚をせき立てるため、足軽の出で身分の異なるお菊は心中穏やかではなかった。

 

お菊は思案余って政之進の本心を確かめようと、孕石家に代々伝わる家宝の「白磁浜紋様皿10枚」のうちの1枚を故意に割ってしまった。

 

最初は単なる過失であると思い強く咎めなかった政之進であったが、お菊を糾問するうちにその真相を知り、自分の心を疑われたことを大層口惜しがった。政之進はお菊の面前で、残りの皿9枚を刀の柄頭(つかがしら)で打ち割り、お菊に対する自分の誠の心をかかる仕打ちで試そうとした心根に憤激し、武士の意地が立たぬとその場でお菊を手討ちにした。

 

その後、政之進はお菊を殺害してしまったことを後悔して出家し供養の旅を生涯続けるが、駿河で寂しく亡くなり孕石家(本家)は断絶した。

 

如何ですか、これまでの定説とは全く異なる内容であることがご理解頂けるかと存じます。

 

この伝説は1916(大正5)年、岡本綺堂によって戯曲(演劇上演のために執筆された脚本)化され、1963(昭和38)年には市川雷蔵主演により『手討』というタイトルで映画化されました。

 

実はこのお話には“後日談” があります。

 

手討ちにされたお菊の遺体と割られた皿は実家に引き渡されます。悲運の死を遂げた娘を哀れに思い、お菊の母親が割れた皿を継ぎ合わせて、橋向町(彦根市)にあった長久寺の末寺“養春院”に奉納しました。

 

その後明治の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく/仏教寺院・仏像・経巻を破毀し僧尼など出家者や寺院が受けていた特権を廃する運動)により養春院が廃寺となったため、止む無く長久寺に移されることとなったのです。

 

現在でもそのお菊の皿は長久寺(彦根市後三条町)に安置されており、毎年8月9日の「千日法会」と8月10日の「地蔵会」の2日に限り、一般に公開されています。

 

なお当初は9枚あったのですが、大正期に行われた市内での展示で3枚を紛失し、現存するのは6枚だけとのことです。また国内各地の「お菊伝説」の中でも、“皿”が現存するのはここが唯一なのだそうです。

 

ちなみにこのお菊の皿こと、孕石家の家宝であった白磁浜紋様皿

 

これには確固たる由来がありまして、もともとは彦根藩の初代藩主である井伊直政が、関ヶ原合戦での戦功により徳川家康から拝領したものなのだとか。

 

その後、大坂夏の陣で戦死した政之進の祖父である“孕石源右衛門泰時”の武功を称え、2代藩主・井伊直孝から孕石家に与えられた由緒正しき歴史の証言者なのです。

 

またお菊の墓も長久寺に安置されています。荒廃していた養春院跡から長久寺の無縁塔へ移され、同じく毎年「千日法会」の際に供養が行われています。かれこれもう350年程前に造られた墓石ですが、お菊の法名である「江月妙心」が今でもハッキリと読み取れます。

 

さらにこの事件に接し、彦根藩の彦根屋敷並びに江戸の三屋敷に務める292人の奥方女中が法要を営んだという記録である「奥方供養寄進帳」も長久寺に安置されています(こちらは非公開)。

 

これらの話をまとめますと、冒頭私はお菊“伝説”と申し上げましたが、どうやら「史実」の可能性が非常に高いと感じます。

 

この“悲恋物語”は事件当時、特に江戸の街で支持されたとも伝えられていますので、これを元ネタとして“怪談・番町皿屋敷”が生まれたのかも知れません。

 

2009年3月に放送されたテレビ東京系番組『新説!?日本ミステリー』の中で紹介された際には一躍注目を集めましたが、現在はお菊の心根に共感した女性がちらほら参拝に訪れる程度と聞きます。かつて大河ドラマ『龍馬伝』で一躍世の女性達の共感を呼んだ清運寺(山梨県甲府市)にある千葉佐那(ちばさな)の墓は、番組終了と共にまるで水を打ったかの如く静まり返ってしまいました。“流行り廃れ”に乗っかった参拝は、願わくはご遠慮いただきたいものです。

 

今回の取材にとても親切にご協力頂きました長久寺の檀家の方々に、この場を借り改めて厚く御礼申し上げる次第です。

 

普門山 常心院 長久寺

・滋賀県彦根市後三条町59
【TEL】0749-22-0914

 

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琵琶湖に世界最大級の佛教遺蹟⁉ “沖の白石”の伝説

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

 

今回は日本屈指の世界最大級佛教遺蹟‼・・・かも知れない、沖の白石(おきのしらいし)についてのお話を致したいと存じます。

 

さてここで皆さん、琵琶湖にはいくつの“島”があるのかご存知ですか?
(※人工島を除く)

 

人が住む淡水湖の島としては日本唯一の沖島(おきしま/近江八幡市)。島全体が一大パワースポットの竹生島(ちくぶしま/長浜市)。眺める方向によって全く異なる景色となる多景島(たけしま/彦根市)。大半の方がこの3つの島しかご存知ないのではないでしょうか。

 

それも無理はありません。沖の白石には船舶の定期航路がありませんし、上陸が難しい岩礁状の小さな島ですので、恐らく県民ですら間近に見た人は少ないと思います。

 

沖の白石は高島市・安曇川河口(船木崎)から東方約5.5km、多景島から西方約5kmにあり、大小3つの岩礁から形成されています。

 

周回すると岩の数や色が変わることから化石(ばけいし)、琵琶湖西岸のどこからも3つの岩が見えることから船木三ッ石(ふなきみついし)とも呼ばれています。

 

一番大きな岩の高さは湖面から20m程度ですが、水深は約80mあるので、最低でも最深部から100m前後はあるのではと推定されています。

 

白石の名前の由来は二説あります。1つは日没時の太陽光に照らされて白く見えるからという説。もう1つは、(お食事中の方には大変恐縮ですが)飛来してくる水鳥の糞が長年に渡り付着・堆積して白く見えるからという説です。

 

後者の説には全く“浪漫”を感じませんねぇ(>_<)

 

この島には湖上交通の安全を祈願するために設けられたであろう祠の跡があり、今も昔も湖上船舶航行の方角の指標になっています。

 

但し灯台も何も設置されていませんので、現状夜間の航行ではとても危険な障害物です。

 

さて前置きはこの位に致しまして、本題であるこの島の伝説に移りましょう。

 

話は遥か昔に飛んでしまうの(内容もブッ飛び!!)ですが、今から約2200年前の紀元前200年代。まだ日本が弥生時代のど真ん中だった頃、インドにマウリア朝の第3代王でアショーカ王(阿育王とも)という人物がおりました。

 

生い立ちから、お釈迦さまが生前に予言した「自分が死んで100年後に現れる救世主」その人であるとも呼ばれておりました。

 

しかし実際は大変な暴君で、99人の兄弟を殺害したり、自身の意向に反する大臣を500人殺害したりするなど、その傍若無人ぶりは凄惨を窮めたそうです。

 

しかしカリンガという国を制圧した際、10万人もの捕虜とそれを上回る市民を死に追いやったことに後悔し、その後は仏教に帰依して善政を行ったそうです。

 

その「良い為政者」に生まれ変わったアショーカ王は、後にインドの8箇所に奉納されていた仏舎利(ぶっしゃり/お釈迦さまの遺骨)のうち7箇所を掘り当て、それを細かく粉砕して一粒一粒に分け、さらに微量ずつに小分けする作業を行い、最終的に8万4千の仏塔に納めてインド及び周辺国に再配布したのです。

 

勘の良い方はもうお解りですよね?

 

そうなんです、沖の白石の伝説というのはこの岩が仏塔の1つと伝えられているのです。

 

ちなみに伝承ではアショーカ王が鬼神に命じて空へ投げさせ、各地に落ちたうちの1つであるとされています。

 

つまりこれは、仏塔が“逆さま”に突き刺さっているらしいのです。

 

前文で触れました通り船舶の定期航路がありません。クルーザーかモーターボートでも駆使しない限り接舷することは困難です。

 

ジェットスキーでも航続距離が長駆でないと湖岸からの往復航行は困難ですし、況してカヤックや足漕ぎポートでは余程熟達且つ琵琶湖の環境に精通した方でないと遭難は必至です。

 

でも・・・実はたま~に地元の観光船会社主催で「琵琶湖の島巡り」ツアーが実施されているんです。滅多に行われませんので、告知を見つけたら是非参加してみてください。おまけにほとんど水の上の旅ですから、“暑気払い”にも最適です!

 

ご参考までに⇒⇒⇒ ぐるっとびわ湖島めぐり

 

因みに・・・暑い最中、島に近付いても然程「鳥のウ〇チ」臭くありませんのでご安心を(^^)

 

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“織姫・彦星”天の川伝説は史実だった!? 後篇

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

 

引き続き、七夕の織姫(おりひめ)彦星(ひこぼし)天の川伝説は史実だった(かも知れない)というお話について、今回はその真相に迫りたいと存じます。

 

天野川を隔てて朝妻筑摩の対岸、世継にある蛭子(ひるこ)神社ここには世継神社縁起之叟(よつぎじんじゃえんぎのこと)という文献が伝えられています。

 

それによりますと、彦星は雄略天皇(ゆうりゃくてんのう/第21代天皇)の第四皇子、星河稚宮皇子(ほしのかわのわかみやおうじ)。

 

織姫は仁賢天皇(にんけんてんのう/第24代天皇)の第二皇女の朝嬬皇女(あさづまのひめみこ)のことであるとしています。

 

叔父と姪の間柄にあった二人は天野川を隔てて仏道の修行を積んでいたが、いつしか恋に落ちた、しかし逢うこともままならず、悲しい恋に終わった・・・とのこと。

 

ちなみにこのお話が残る蛭子神社は、延暦年間(奈良時代末期~平安時代初期)に奈良・興福寺の仁秀僧正(にんしゅうそうじょう)が、この地に興福寺南都別院として法勝寺(ほうしょうじ)を造営する際に共に建てられました。

 

法勝寺は現在の米原市高溝(たかみぞ)付近に建立され、明治時代まではこの辺りに法性寺という地名が残っていました(JR坂田駅の前身は“法性寺駅”でした)。

 

なお近江国坂田郡誌によると星河稚宮皇子と朝嬬皇女の悲恋物語を“七夕伝説”になぞらえて広めたのはどうもこの仁秀のようで、かねてよりこの二人のことを信奉しており、法勝寺建立の際この地に守護神として祀ったようです。

 

史実!とは申しましたがなにやら胡散臭さも・・・まぁ古墳時代の(実在の真偽も不明瞭な)人物のお話ですし、昔のエロい・・・いやいや偉いお坊さんは、意外にもロマンチストだった・・・ということでしょうか^^)

 

さて蛭子神社の境内には朝嬬皇女の墓と称する自然石があり、別名七夕塚(七夕石)とも吾佐嬬石(あさづまいし)とも呼ばれています。

 

かつては境内にひっそりと鎮座していたこの石も、1996(平成8)年に世継神社縁起之叟が発見されてマスコミの注目を浴びたことでキレイに整備され、これを契機に旧暦7月に朝妻神社と合同で七夕祭も再開させたそうです。

 

伝説継承をミッションとする小生としては、こういう「流行り」に乗っかった動きは些か複雑な心境ではありますが・・・(>_<)

 

そしてこちらは対岸の朝妻神社境内にある星河稚宮皇子の墓と伝えられる彦星塚・・・と言いたいところですが、実はよく解らないのです。

 

境内には塚が2つあり、一般的には写真右の宝篋印塔(ほうきょういんとう/墓塔・供養塔等に使われる仏塔の一種)の方だと言われています。おまけに両方とも鎌倉時代後期に造立されたと推定されているため、ますます塚としての信憑性も怪しく・・・。

 

それにしましても、メモリアルのその後の整備の扱いが男女でこんなにも格差があるとは・・・今の時代をも象徴しているのでしょうか、一抹の悲哀を禁じ得ません(>_<)

 

この七夕伝説の他にも、奈良時代にこの地を朝妻王(あさづまのおおきみ/天武天皇の曾孫)が支配し、彦星塚は朝妻王の王廟、七夕塚は王女の墓であるとの説もあります。

 

さて最後に世継神社縁起之叟の一説をご紹介いたします。

 

七月一日から七日間、男性は姫宮に、女性は彦星宮にお祈りし、七日の夜半に男女二人の名前を記した短冊を結び合わせて川に流すと、二人は結ばれる・・・云々

 

 

恋に悩む女子は彦星塚に、男子は七夕塚に。

いにしえの習いに従い祈念すべし!

さぁ、恋に悩む草食男子・肉食女子(フレーズ古っ!)の方々よ、ご検討をお祈り申し上げておりまする<(_ _)>

 

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“織姫・彦星”天の川伝説は史実だった!? 前篇

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今回は七夕の織姫(おりひめ)彦星(ひこぼし)天の川伝説は史実だった(かも知れない)というお話をいたしたいと存じます。

 

ではまず、ストーリーのおさらいから・・・

 

むか~し昔、天の川の近くに天の神様が住んでおりました。

 

天の神様には一人娘がいて、名を織姫といいました。織姫は機(はた)を織って、神様たちの着物を仕立てていました。

 

織姫はやがて年頃となり、天の神様は娘に婿を迎えようと考えます。色々検討した結果、天の川の岸で天の牛を飼っている彦星という若者に白羽の矢を当てました。

 

彦星は素晴らしい男でしたし、織姫もとても美しい娘でした。二人は互いを一目見ただけで好意を抱き、すぐに結婚しました。

 

それはそれは毎日が楽しい日々でした。でも次第に二人は仕事を忘れて、遊んでばかりいるようになります。すると天の神様のもとへ、皆が不満の声を上げるようになりました。

 

「織姫が仕事をしないので、皆の着物がボロボロです」「彦星が世話をしないので、牛が皆病気になってしまいます」と。

 

天の神様は激怒して、「二人は天の川の東西に別れて暮らすがよい」と織姫と彦星を別れ別れにしたのです。

 

織姫があまりにも悲嘆にくれているのを見兼ねて、天の神様は「年に一度、7月7日の夜だけ彦星と会ってもよろしい」と言いました。

 

それから年に一度逢える日だけを楽しみにして、織姫は一所懸命機を織りました。天の川の向こうの彦星も、天の牛を飼う仕事に精を出すようになりました。そして7月7日の夜にだけ、織姫は天の川を渡って彦星のもとへ逢いにいくようになったのです。 

 

こんなお話でしたよね、思い出されました?

このおとぎ話、一般的には中国の民話が日本に伝わったものだといわれています。でもこと滋賀では、史実から生まれた民話ということになっているのです!(ちょっと言い過ぎかな・・・)

 

米原市を東西に横断し琵琶湖に注ぐ天野川(あまのがわ)。かつては朝妻川とも呼ばれていました。

 

この川の名前だけでも、十分“七夕伝説”に相応しいですよね(^^)

 

その河口の南岸に朝妻筑摩(あさづまちくま)、北岸に世継(よつぎ)という集落があります。

 

さて朝妻筑摩にはかつて、朝妻湊という湖北地方屈指の湖上交通の要衝がありました。

 

その歴史は古く、奈良時代にはこの付近に大善府御厨(たいぜんふみくりや/朝廷の台所)が設置されていました。

 

北近江・美濃/飛騨國(現在の岐阜県)・信濃國(現在の長野県)から、朝廷に献上するための租税や物産・木材等を都に搬出するための拠点として、江戸時代初期に廃止となるまで大変賑わいました。

 

木曽義仲や織田信長も、都に向かうためここから船に乗ったと伝えられています。

 

また「朝妻千軒」とも言われ、当時は千軒以上の家屋が軒を連ねていたと伝えられています。今は往時の賑わいのよすがを知る術はなく、周囲はひっそりと静まり返っています。

 

なお平家の落人の女が春を売って生計を立て、船上で一晩だけ妻になったからこの地が“朝妻”と名付けられたとも伝えられていますが、真偽の程は定かではありません。

 

織姫・彦星天の川伝説は史実であったか否か・・・後篇にてその真相に迫ります!

 

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