“後藤奇壹の湖國浪漫風土記”にようこそ

~近江の國は歴史の縮図である~

【湖國風土記寫眞】彦根城滋賀の知られざる歴史、忘れ去られゆく民話、先人たちの偉大なる足跡を後世に伝える渾身の激白(?)徒然紀行。

生まれ育った近江國の風土をこよなく愛する土着民が、“滋賀の郷土史”を皆様に知って戴ければとの想いで書き綴っております。時折・・・しばしば(?)「彷徨」もございますが、ご高覧・ご笑覧賜れば幸いです<(_ _)>

 

※相互リンク大歓迎です。ご意見・情報承ります(^^)よりご連絡戴ければ幸甚です。

管理人:後藤 奇壹


文豪・島崎藤村が愛した幻の銘酒“桑酒”とは?

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

 

今回は久し振りに隠れ家ネタをお届け致したいと存じます(^^)

 

この桑酒の存在を知ったのは約8年半前の某東京キー局のバラエティ番組。それまでその販売店の前をクルマで何十回も通りながら、全くその存在に気付きませんでした。

 

今回8年半越しの想いを秘めて訪れることと致しました。

 

場所はもうほとんど福井県に程近い長浜市木之本町。この木之本はかつて近江國と北陸地方を結んでいた北國街道(ほっこくかいどう)の宿場町でした。

 

また日本三大地蔵の1つとされ、眼病平癒の地蔵として信仰を集めている木之本地蔵院(浄信寺)の門前町としても栄えていました。

 

私は幼少の頃より、祖父母の影響で常に“お地蔵さん”と寄り添って暮らしてきました。当然この木之本のお地蔵さんも数え切れない程お参りしています。だからでしょうか、敬虔に「お参り」していたが故に、他のことには全く興味を示さなかったのかも知れません。

 

旧北國街道沿いにある木之本地蔵院から更に街道を北上すること約200m。

 

そこに今回のお目当てである山路酒造(やまじしゅぞう)があります。

 

この山路酒造は、創業天文元(1532)年。

 

何と室町時代後期から480年も続く、日本でも5番目に古い老舗中の老舗の造り酒屋なのです。

 

お店によれば、酒米は有機質肥料を主体に、減農薬によって栽培された滋賀の環境こだわり農産物に認定された特別栽培米「玉栄」や、地元・長浜で無農薬栽培された「山田錦」を用いて、、安全・安心な日本酒づくりをモットーにされています。

 

店構えは昔ながらの造り酒屋の呈を色濃く残しています。

 

やはり軒先に杉玉は欠かせませんね(^^)

 

山路酒造の代表的な銘柄は辛口系の清酒『北國街道』なのですが、今回のお目当てはさにあらず!

 

「造り酒屋の代表的銘柄を素通りするとは何事!」と仰る向きはごもっともですが、まぁそこはご容赦を。

 

そうそうこれです、コレ!

 

こちらのもう1つの代表的なお酒、桑酒(くわざけ)です。

 

「桑酒とは何ぞや?」

 

ではご説明いたしましょう。

 

桑酒の起源は創業期に遡ります。

 

時の当主が「後園の桑を用いて酒をつくれ」との夢のお告げに従ったところ、甘く香ばしい酒が出来て皆に大変喜ばれたとの言い伝えが残っています。

 

そして安土桃山時代には、木之本の宿で京へ上る旅人が疲れて旅が続けられなくなった時、宿の人に勧められ桑酒を呑み、その後木之本地蔵に参拝したのだとか。

 

するとたちどころにして旅を続けられる程に元気を取り戻したのだそうです。その評判が評判を呼び、旅の安全を願ってわざわざここへ立ち寄り買い求める人が多くなったのだそうです。

 

左の写真は、明治・大正期の文豪で『破戒』『夜明け前』の作品で名高い島崎藤村が、桑酒購入のため東京麻布の自宅から寄せた直筆の注文書。

 

2通あり、差出人は何れも藤村の本名である“島崎春樹”。

 

日付は大正14年8月と同10月となっています。

 

定形封筒に藤村専用の透かし入りの便箋を使い、ペン筆で「桑酒一升をお送り下さい」という内容が書かれています。

 

当時の藤村は心臓に疾患を持っていたそうで、桑酒が滋養に良いとの話を聞きつけ、当時としては画期的(!?)な「通信販売」でもって購入していました。

 

ちなみに、江戸時代中期の儒学者で現在の長浜市高月町出身の雨森芳州も愛飲したとの話も伝わっています。

 

昔も今もこの辺りの名物として、お土産や贈答品としても喜ばれています。

 

桑酒は米どころ近江の糯米(もちごめ)と麹(こうじ)と桑の葉を独自の方法で焼酎に漬け込み、伝統みりんの製法に則って作られています。

 

ほのかな香りと口ざわりの良さが特徴で、アルコール度数は清酒よりやや低めの14.5度。リキュール類に分類され、琥珀色に輝く桑酒を冷やし氷を入れてオンザロックにするのが一番。また炭酸水を入れてカクテル調に楽しむのも“アリ”なのだそうです。

 

ちなみに訪問当日私は運転のため、妻に利き酒を依頼。

 

インプレッションとしては、梅酒に似た風味で甘くとても呑みやすいとのことでした。この甘味は梅酒のような砂糖によるものでなく麹由来の自然のものなので、カロリーも然程高くないのだとか。酒がやや苦手な妻が呑みやすいというのですから、女性には断然おススメでしょう(^^)

 

さて最後に、この方のご紹介なくして桑酒は語れません。

 

前述のバラエティ番組で一躍全国に「造り酒屋の美人若女将」として名を馳せられた山路祐子さんです(^^)

 

女将さんの軽妙な語り口に、訪れた誰しもがファンになること請け合いです。

 

なお例の某局バラエティ番組でのエピソードをちょっぴり語っていただきました。

 

そのバラエティ番組では、お店の名前が不倫騒動で一躍有名となった某国際ジャーナリストと同じ“苗字”というオチに使われていました。このことについてTV局からは事前事後共に一切説明はなく、とてもガッカリしたのだとか。

 

おまけにご親戚に同名の方がおられ、この扱いにとても立腹され、火消しに苦労されたのだそうです。TVには気を許しちゃいけませんね(>_<)

 

えっ!?紹介しただけならアンタも某TV局と変わらないだろって?

 

いえいえ、私はちゃ~んと買ってきましたよ。

 

こちら陶器入りの900mlです。他にもガラス瓶に入ったタイプもあります。

 

私は上の写真にある昔ながらの大きな徳利(とっくり)のものが欲しかったのですが、容器を製造されている窯元さんの都合により、現在は廃版となっておりました。

 

残念!(T_T)

 

そんな伝統に捉われない、気さくな雰囲気の造り酒屋さんに是非足をお運びください。

 

なお、お子さんも安心して召し上がれる米100%・甘味料不使用!正真正銘の「甘酒」も少量製造されているのですが・・・残念ながら販売されておられませんでした。

 

兎角木之本の日本酒と言えば『七本槍』がもてはやされていますが、歴史に彩られた伝統の銘品を次代に伝えるためにも、山路酒造さんを応援したいですね。

 

山路酒造

滋賀県長浜市木之本町木之本990
TEL.0749-82-3037
★Web/http://www.hokkokukaidou.com/

 

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『番町皿屋敷』は本当に“怪談噺”だったのか⁉

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

 

今回は酷暑に於ける一服の清涼剤と致しまして、『怪談・番町皿屋敷』定説に一石を投じる真説(!?)についてお話を致したいと存じます。

 

毎度のことながらこの時期ともなりますと、やれ「怪談」だの「ホラー」だの「ミステリー」だの「心霊」だのをネタにしたTV番組や関連本が世間を賑わしますが・・・最近はそうでもないようで。

 

この種のネタの需要にも“時代の変遷”というものがあるのでしょうか(?_?)

 

それはさておき、皆さん『怪談・番町皿屋敷』はよくご存知ですよね?知らない良い子のために、話の概要をお“さら”いしてみましょう!

 

私たちがよく耳にする「お菊の亡霊が夜な夜な1ま~い、2ま~い・・・最終的になぜか18枚も皿を数えてしまう」というお話ですが、これはこの怪談噺をベースにした『お菊の皿(または皿屋敷)』という古典落語の演目なのです。

 

『皿屋敷』という怪談は日本各地で伝えられており、どこが“本家本元”の話であるのかは不明ですが、概ね「番町皿屋敷 (東京説)」と「播州皿屋敷(兵庫説)」の何れかの話の流れを汲むとされています。

 

お話の概要としましては、

●屋敷の主人が秘蔵する皿のセットのうち一枚を奉公人の娘が割ってしまう。
  またはその娘に恨みを持つ何者かによって皿が隠されてしまう。
●娘はその責任を問われ責め殺される、または娘が自殺する。
●夜な夜な娘の亡霊が現れて、恨めしげに皿を数える。
●娘の祟りによって屋敷の一家に様々な災厄が振りかかり、
  やがて没落してゆく。

というものです。思い出されましたでしょうか。

 

しかしこの皿屋敷の黄金律を覆す説が滋賀には伝えられているのです。それが彦根・長久寺(ちょうきゅうじ)のお菊伝説なのです。

 

今回は長久寺の檀家の方々のご協力を得て取材を敢行。以下は長久寺からご提供頂いた資料をもとに記述致します。

 

時は寛文4(1664)年、彦根藩3代当主・井伊直澄(いいなおずみ)の御代。井伊家で旗奉行を務める重臣・孕石(はらみいし)家には政之進という世継ぎがおり、孕石家に侍女“お菊”とは相思相愛の仲であった。

 

しかし政之進には亡き両親が取り決めた許嫁がおり、また後見人である叔母が結婚をせき立てるため、足軽の出で身分の異なるお菊は心中穏やかではなかった。

 

お菊は思案余って政之進の本心を確かめようと、孕石家に代々伝わる家宝の「白磁浜紋様皿10枚」のうちの1枚を故意に割ってしまった。

 

最初は単なる過失であると思い強く咎めなかった政之進であったが、お菊を糾問するうちにその真相を知り、自分の心を疑われたことを大層口惜しがった。政之進はお菊の面前で、残りの皿9枚を刀の柄頭(つかがしら)で打ち割り、お菊に対する自分の誠の心をかかる仕打ちで試そうとした心根に憤激し、武士の意地が立たぬとその場でお菊を手討ちにした。

 

その後、政之進はお菊を殺害してしまったことを後悔して出家し供養の旅を生涯続けるが、駿河で寂しく亡くなり孕石家(本家)は断絶した。

 

如何ですか、これまでの定説とは全く異なる内容であることがご理解頂けるかと存じます。

 

この伝説は1916(大正5)年、岡本綺堂によって戯曲(演劇上演のために執筆された脚本)化され、1963(昭和38)年には市川雷蔵主演により『手討』というタイトルで映画化されました。

 

実はこのお話には“後日談” があります。

 

手討ちにされたお菊の遺体と割られた皿は実家に引き渡されます。悲運の死を遂げた娘を哀れに思い、お菊の母親が割れた皿を継ぎ合わせて、橋向町(彦根市)にあった長久寺の末寺“養春院”に奉納しました。

 

その後明治の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく/仏教寺院・仏像・経巻を破毀し僧尼など出家者や寺院が受けていた特権を廃する運動)により養春院が廃寺となったため、止む無く長久寺に移されることとなったのです。

 

現在でもそのお菊の皿は長久寺(彦根市後三条町)に安置されており、毎年8月9日の「千日法会」と8月10日の「地蔵会」の2日に限り、一般に公開されています。

 

なお当初は9枚あったのですが、大正期に行われた市内での展示で3枚を紛失し、現存するのは6枚だけとのことです。また国内各地の「お菊伝説」の中でも、“皿”が現存するのはここが唯一なのだそうです。

 

ちなみにこのお菊の皿こと、孕石家の家宝であった白磁浜紋様皿

 

これには確固たる由来がありまして、もともとは彦根藩の初代藩主である井伊直政が、関ヶ原合戦での戦功により徳川家康から拝領したものなのだとか。

 

その後、大坂夏の陣で戦死した政之進の祖父である“孕石源右衛門泰時”の武功を称え、2代藩主・井伊直孝から孕石家に与えられた由緒正しき歴史の証言者なのです。

 

またお菊の墓も長久寺に安置されています。荒廃していた養春院跡から長久寺の無縁塔へ移され、同じく毎年「千日法会」の際に供養が行われています。かれこれもう350年程前に造られた墓石ですが、お菊の法名である「江月妙心」が今でもハッキリと読み取れます。

 

さらにこの事件に接し、彦根藩の彦根屋敷並びに江戸の三屋敷に務める292人の奥方女中が法要を営んだという記録である「奥方供養寄進帳」も長久寺に安置されています(こちらは非公開)。

 

これらの話をまとめますと、冒頭私はお菊“伝説”と申し上げましたが、どうやら「史実」の可能性が非常に高いと感じます。

 

この“悲恋物語”は事件当時、特に江戸の街で支持されたとも伝えられていますので、これを元ネタとして“怪談・番町皿屋敷”が生まれたのかも知れません。

 

2009年3月に放送されたテレビ東京系番組『新説!?日本ミステリー』の中で紹介された際には一躍注目を集めましたが、現在はお菊の心根に共感した女性がちらほら参拝に訪れる程度と聞きます。かつて大河ドラマ『龍馬伝』で一躍世の女性達の共感を呼んだ清運寺(山梨県甲府市)にある千葉佐那(ちばさな)の墓は、番組終了と共にまるで水を打ったかの如く静まり返ってしまいました。“流行り廃れ”に乗っかった参拝は、願わくはご遠慮いただきたいものです。

 

今回の取材にとても親切にご協力頂きました長久寺の檀家の方々に、この場を借り改めて厚く御礼申し上げる次第です。

 

普門山 常心院 長久寺

・滋賀県彦根市後三条町59
【TEL】0749-22-0914

 

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琵琶湖に世界最大級の佛教遺蹟⁉ “沖の白石”の伝説

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

 

今回は日本屈指の世界最大級佛教遺蹟‼・・・かも知れない、沖の白石(おきのしらいし)についてのお話を致したいと存じます。

 

さてここで皆さん、琵琶湖にはいくつの“島”があるのかご存知ですか?
(※人工島を除く)

 

人が住む淡水湖の島としては日本唯一の沖島(おきしま/近江八幡市)。島全体が一大パワースポットの竹生島(ちくぶしま/長浜市)。眺める方向によって全く異なる景色となる多景島(たけしま/彦根市)。大半の方がこの3つの島しかご存知ないのではないでしょうか。

 

それも無理はありません。沖の白石には船舶の定期航路がありませんし、上陸が難しい岩礁状の小さな島ですので、恐らく県民ですら間近に見た人は少ないと思います。

 

沖の白石は高島市・安曇川河口(船木崎)から東方約5.5km、多景島から西方約5kmにあり、大小3つの岩礁から形成されています。

 

周回すると岩の数や色が変わることから化石(ばけいし)、琵琶湖西岸のどこからも3つの岩が見えることから船木三ッ石(ふなきみついし)とも呼ばれています。

 

一番大きな岩の高さは湖面から20m程度ですが、水深は約80mあるので、最低でも最深部から100m前後はあるのではと推定されています。

 

白石の名前の由来は二説あります。1つは日没時の太陽光に照らされて白く見えるからという説。もう1つは、(お食事中の方には大変恐縮ですが)飛来してくる水鳥の糞が長年に渡り付着・堆積して白く見えるからという説です。

 

後者の説には全く“浪漫”を感じませんねぇ(>_<)

 

この島には湖上交通の安全を祈願するために設けられたであろう祠の跡があり、今も昔も湖上船舶航行の方角の指標になっています。

 

但し灯台も何も設置されていませんので、現状夜間の航行ではとても危険な障害物です。

 

さて前置きはこの位に致しまして、本題であるこの島の伝説に移りましょう。

 

話は遥か昔に飛んでしまうの(内容もブッ飛び!!)ですが、今から約2200年前の紀元前200年代。まだ日本が弥生時代のど真ん中だった頃、インドにマウリア朝の第3代王でアショーカ王(阿育王とも)という人物がおりました。

 

生い立ちから、お釈迦さまが生前に予言した「自分が死んで100年後に現れる救世主」その人であるとも呼ばれておりました。

 

しかし実際は大変な暴君で、99人の兄弟を殺害したり、自身の意向に反する大臣を500人殺害したりするなど、その傍若無人ぶりは凄惨を窮めたそうです。

 

しかしカリンガという国を制圧した際、10万人もの捕虜とそれを上回る市民を死に追いやったことに後悔し、その後は仏教に帰依して善政を行ったそうです。

 

その「良い為政者」に生まれ変わったアショーカ王は、後にインドの8箇所に奉納されていた仏舎利(ぶっしゃり/お釈迦さまの遺骨)のうち7箇所を掘り当て、それを細かく粉砕して一粒一粒に分け、さらに微量ずつに小分けする作業を行い、最終的に8万4千の仏塔に納めてインド及び周辺国に再配布したのです。

 

勘の良い方はもうお解りですよね?

 

そうなんです、沖の白石の伝説というのはこの岩が仏塔の1つと伝えられているのです。

 

ちなみに伝承ではアショーカ王が鬼神に命じて空へ投げさせ、各地に落ちたうちの1つであるとされています。

 

つまりこれは、仏塔が“逆さま”に突き刺さっているらしいのです。

 

前文で触れました通り船舶の定期航路がありません。クルーザーかモーターボートでも駆使しない限り接舷することは困難です。

 

ジェットスキーでも航続距離が長駆でないと湖岸からの往復航行は困難ですし、況してカヤックや足漕ぎポートでは余程熟達且つ琵琶湖の環境に精通した方でないと遭難は必至です。

 

でも・・・実はたま~に地元の観光船会社主催で「琵琶湖の島巡り」ツアーが実施されているんです。滅多に行われませんので、告知を見つけたら是非参加してみてください。おまけにほとんど水の上の旅ですから、“暑気払い”にも最適です!

 

ご参考までに⇒⇒⇒ ぐるっとびわ湖島めぐり

 

因みに・・・暑い最中、島に近付いても然程「鳥のウ〇チ」臭くありませんのでご安心を(^^)

 

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“織姫・彦星”天の川伝説は史実だった!? 後篇

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引き続き、七夕の織姫(おりひめ)彦星(ひこぼし)天の川伝説は史実だった(かも知れない)というお話について、今回はその真相に迫りたいと存じます。

 

天野川を隔てて朝妻筑摩の対岸、世継にある蛭子(ひるこ)神社ここには世継神社縁起之叟(よつぎじんじゃえんぎのこと)という文献が伝えられています。

 

それによりますと、彦星は雄略天皇(ゆうりゃくてんのう/第21代天皇)の第四皇子、星河稚宮皇子(ほしのかわのわかみやおうじ)。

 

織姫は仁賢天皇(にんけんてんのう/第24代天皇)の第二皇女の朝嬬皇女(あさづまのひめみこ)のことであるとしています。

 

叔父と姪の間柄にあった二人は天野川を隔てて仏道の修行を積んでいたが、いつしか恋に落ちた、しかし逢うこともままならず、悲しい恋に終わった・・・とのこと。

 

ちなみにこのお話が残る蛭子神社は、延暦年間(奈良時代末期~平安時代初期)に奈良・興福寺の仁秀僧正(にんしゅうそうじょう)が、この地に興福寺南都別院として法勝寺(ほうしょうじ)を造営する際に共に建てられました。

 

法勝寺は現在の米原市高溝(たかみぞ)付近に建立され、明治時代まではこの辺りに法性寺という地名が残っていました(JR坂田駅の前身は“法性寺駅”でした)。

 

なお近江国坂田郡誌によると星河稚宮皇子と朝嬬皇女の悲恋物語を“七夕伝説”になぞらえて広めたのはどうもこの仁秀のようで、かねてよりこの二人のことを信奉しており、法勝寺建立の際この地に守護神として祀ったようです。

 

史実!とは申しましたがなにやら胡散臭さも・・・まぁ古墳時代の(実在の真偽も不明瞭な)人物のお話ですし、昔のエロい・・・いやいや偉いお坊さんは、意外にもロマンチストだった・・・ということでしょうか^^)

 

さて蛭子神社の境内には朝嬬皇女の墓と称する自然石があり、別名七夕塚(七夕石)とも吾佐嬬石(あさづまいし)とも呼ばれています。

 

かつては境内にひっそりと鎮座していたこの石も、1996(平成8)年に世継神社縁起之叟が発見されてマスコミの注目を浴びたことでキレイに整備され、これを契機に旧暦7月に朝妻神社と合同で七夕祭も再開させたそうです。

 

伝説継承をミッションとする小生としては、こういう「流行り」に乗っかった動きは些か複雑な心境ではありますが・・・(>_<)

 

そしてこちらは対岸の朝妻神社境内にある星河稚宮皇子の墓と伝えられる彦星塚・・・と言いたいところですが、実はよく解らないのです。

 

境内には塚が2つあり、一般的には写真右の宝篋印塔(ほうきょういんとう/墓塔・供養塔等に使われる仏塔の一種)の方だと言われています。おまけに両方とも鎌倉時代後期に造立されたと推定されているため、ますます塚としての信憑性も怪しく・・・。

 

それにしましても、メモリアルのその後の整備の扱いが男女でこんなにも格差があるとは・・・今の時代をも象徴しているのでしょうか、一抹の悲哀を禁じ得ません(>_<)

 

この七夕伝説の他にも、奈良時代にこの地を朝妻王(あさづまのおおきみ/天武天皇の曾孫)が支配し、彦星塚は朝妻王の王廟、七夕塚は王女の墓であるとの説もあります。

 

さて最後に世継神社縁起之叟の一説をご紹介いたします。

 

七月一日から七日間、男性は姫宮に、女性は彦星宮にお祈りし、七日の夜半に男女二人の名前を記した短冊を結び合わせて川に流すと、二人は結ばれる・・・云々

 

 

恋に悩む女子は彦星塚に、男子は七夕塚に。

いにしえの習いに従い祈念すべし!

さぁ、恋に悩む草食男子・肉食女子(フレーズ古っ!)の方々よ、ご検討をお祈り申し上げておりまする<(_ _)>

 

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“織姫・彦星”天の川伝説は史実だった!? 前篇

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今回は七夕の織姫(おりひめ)彦星(ひこぼし)天の川伝説は史実だった(かも知れない)というお話をいたしたいと存じます。

 

ではまず、ストーリーのおさらいから・・・

 

むか~し昔、天の川の近くに天の神様が住んでおりました。

 

天の神様には一人娘がいて、名を織姫といいました。織姫は機(はた)を織って、神様たちの着物を仕立てていました。

 

織姫はやがて年頃となり、天の神様は娘に婿を迎えようと考えます。色々検討した結果、天の川の岸で天の牛を飼っている彦星という若者に白羽の矢を当てました。

 

彦星は素晴らしい男でしたし、織姫もとても美しい娘でした。二人は互いを一目見ただけで好意を抱き、すぐに結婚しました。

 

それはそれは毎日が楽しい日々でした。でも次第に二人は仕事を忘れて、遊んでばかりいるようになります。すると天の神様のもとへ、皆が不満の声を上げるようになりました。

 

「織姫が仕事をしないので、皆の着物がボロボロです」「彦星が世話をしないので、牛が皆病気になってしまいます」と。

 

天の神様は激怒して、「二人は天の川の東西に別れて暮らすがよい」と織姫と彦星を別れ別れにしたのです。

 

織姫があまりにも悲嘆にくれているのを見兼ねて、天の神様は「年に一度、7月7日の夜だけ彦星と会ってもよろしい」と言いました。

 

それから年に一度逢える日だけを楽しみにして、織姫は一所懸命機を織りました。天の川の向こうの彦星も、天の牛を飼う仕事に精を出すようになりました。そして7月7日の夜にだけ、織姫は天の川を渡って彦星のもとへ逢いにいくようになったのです。 

 

こんなお話でしたよね、思い出されました?

このおとぎ話、一般的には中国の民話が日本に伝わったものだといわれています。でもこと滋賀では、史実から生まれた民話ということになっているのです!(ちょっと言い過ぎかな・・・)

 

米原市を東西に横断し琵琶湖に注ぐ天野川(あまのがわ)。かつては朝妻川とも呼ばれていました。

 

この川の名前だけでも、十分“七夕伝説”に相応しいですよね(^^)

 

その河口の南岸に朝妻筑摩(あさづまちくま)、北岸に世継(よつぎ)という集落があります。

 

さて朝妻筑摩にはかつて、朝妻湊という湖北地方屈指の湖上交通の要衝がありました。

 

その歴史は古く、奈良時代にはこの付近に大善府御厨(たいぜんふみくりや/朝廷の台所)が設置されていました。

 

北近江・美濃/飛騨國(現在の岐阜県)・信濃國(現在の長野県)から、朝廷に献上するための租税や物産・木材等を都に搬出するための拠点として、江戸時代初期に廃止となるまで大変賑わいました。

 

木曽義仲や織田信長も、都に向かうためここから船に乗ったと伝えられています。

 

また「朝妻千軒」とも言われ、当時は千軒以上の家屋が軒を連ねていたと伝えられています。今は往時の賑わいのよすがを知る術はなく、周囲はひっそりと静まり返っています。

 

なお平家の落人の女が春を売って生計を立て、船上で一晩だけ妻になったからこの地が“朝妻”と名付けられたとも伝えられていますが、真偽の程は定かではありません。

 

織姫・彦星天の川伝説は史実であったか否か・・・後篇にてその真相に迫ります!

 

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地方行政崩壊⁉“村ごと消えた村”

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

 

2ヶ月振りの御無沙汰でございます。何分公私共に“激”多忙を窮めておりまして、なかなか記事取材&更新に着手出来ない有様です。週に1日、せめて休日だけは36時間欲しいものです(^^)

 

さて毎週水曜日の午後7時からフジテレビ系列で放送されている『世界の何だコレ⁉ミステリー』という番組をご存知でしょうか?

 

最近はグー〇ルアースで気になったオブジェクトを探索するというコーナーが定番化しており、企画的にもネタ探し的にも些か安易さを禁じ得ないのですが、どうもこれの影響(恩恵?)で水曜日の当ブログのアクセス数が急激に伸びるという怪現象が認められ、幾分複雑な心境にございます。

 

今回はその影響(恩恵?)に便乗しよう!という意図はさらさらございませんが・・・昨今は「過疎地」のことを限界集落などと言うのだそうです。何ともピンと来ないワードです。何が“限界”なのやら・・・世には実に解せぬファジーな言葉が溢れかえっております。

 

山村・農村・漁村の過疎化などは今に始まった訳ではなく、高度成長期の昭和40年代から既に深刻化しているのですが、一頃また何かと話題になっているようです。理由はよく解りませんが・・・。

 

日本のほぼド真ん中にある、比較的インフラには恵まれた滋賀ですが、ご多分に漏れず非常に多くの「限界集落」や「廃村」を抱えています。

 

ただその大半は最小単位の地域(第2次世界大戦後に制定された市町村内の町や字)といった限定的なレベルのものなのです。

 

「限界集落」「廃村」の主な理由としては、

 

■高齢化・挙家離村による人口の減少
■林業・農業・漁業の衰退並びに後継者不足
■ダム建設による移住
■鉱山の廃鉱
■大規模災害による移住

 

といった理由が挙げられます。そんな中、滋賀には全国的にも珍しいレアなケースがあるのです。今回はそのレアケースについてのお話をいたしたいと存じます。

 

かつて犬上郡には脇ヶ畑(わきがはた)という村がありました。1889(明治22)年の「明治の大合併」で、保月(ほうづき)・(すぎ)・五僧(ごそう)の3集落が合併して誕生した村です。

 

平均標高550mという県内屈指の高地の山村で、古くは美濃國(現・岐阜県)時山と中山道の高宮を結ぶ五僧越(ごそうごえ)の中継地として、ここを通商路としていた近江商人で賑わっていました。

 

しかし近代に入り、その地理的条件から『陸の孤島』と化し、戦後行政の集落再編成事業による離村勧奨もあり、1955(昭和30)年に町村合併促進法(昭和の大合併)によって多賀町に併合、昭和50年代前半には廃村となりました。

 

村という一つの行政区画ごと廃村となったのは、滋賀ではこの脇ヶ畑村が唯一の存在であり、全国的にも非常に稀なケースなのです。

 

当然当時ここには村役場があり、小学校・中学校(分校)・郵便局・駐在所、昭和初期までは旅館や商店もありました。

 

ただ最盛期でも人口が500人程度の村でしたのでインフラの整備は恐ろしく遅れ、電気が通じたのは県内で最も遅い1950(昭和25)年。

 

村内の中心を通る“県道上石津多賀線”の開通も1950(昭和25)年。舗装に至っては実に廃村後の1992(平成4)年の完成でした。

 

このような寒村ですが、日本の動乱期には必ず歴史の檜舞台に登場しています。

 

安土・桃山時代末期、関ヶ原合戦で西軍に加勢していた薩摩國の大名・島津義久は小早川秀秋らの裏切りにより一転して敗色濃厚とり、窮地に立たされます。

 

そこで義久は戦場に唯一残された自らの軍勢を脱出させるべく、敵陣を強行突破するという大胆な手段に打って出ます。

 

これが世に言う『島津の前退(まえのき)』で、島津軍は船で本国への脱出を果たすべく和泉國・堺(現在の大阪府堺市)へ向かう途中、五僧越を駆け抜けていきました。以来、五僧越を通称『島津越』とも呼ぶようになりました。

 

今年4月11日に放送されたNHK『歴史秘話ヒストリア』の“心そろえて生き抜いてこそ 島津義弘・奇跡の敵中突破”でも、このことが詳しく解説されました。

 

歴史にもしもは禁物ですが、この強行突破に失敗し島津家が滅亡していたら・・・明治維新は無かった!・・・かも知れません。

 

また幕末には、佐幕派であった伊勢國・桑名藩の動向(桑名騒動)を牽制すべく、勤皇派であった彦根藩は大砲を分解して搬出し、五僧峠に設置して警戒態勢を敷いたこともありました。結局桑名藩が官軍に対して無血開城したため、大砲が火を噴くことはありませんでした。

 

ここでも“もしも”は禁物ですが、桑名藩が徹底抗戦の構えを見せ無血開城に応じていなかったら・・・大河ドラマ『西郷どん』は無かった!・・・のかも知れません。

 

現在は冬季を除いた時期に数人程度の居住が認められるだけで、かつての栄華を偲ぶものは何一つありません。一時期「廃墟ブーム」があり、心ない人たちによる不法侵入や窃盗、破壊行為があったと聞いています。日本人として実に情けない限りです。

 

こちらの集落を訪問される際は、最低限の登山装備の準備と入念な事前計画をしたうえで赴かれることをおススメします。それだけ道のりはとても厳しいのです。あと事前準備には多賀町立図書館所蔵の『脇ヶ畑史話』に目を通されることもおススメします。これを読みますと、村のあらゆる背景が鮮やかに蘇ること請け合いです。

 

あっそうそう、この村は多賀大社の御祭神である伊邪那岐大神(いざなぎのおおかみ)と伊邪那美大神(いざなみのおおかみ)が地上に降臨したと伝えられる神聖なエリアで、現在でも厳かな祭礼が行われています(杉坂峠の御神木)。ですので、ナメてかかると有り難くない“ご利益”にあやかるかも・・・です(=_=)

 

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園城寺夜話番外篇“懐かしさ溢れる菓舗 親玉商店”

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今回園城寺界隈を歩いてみて、どうしてもあと1つご紹介したい場所がありまして、最後の最後まで取っておきました(^^)

 

親玉商店園城寺から琵琶湖疏水を抜け馬場町遊廓跡へと進む途中に、何やら懐かしさで溢れた佇まいを醸し出している和菓子店を発見!

 

お店の名前は親玉商店京阪電鉄・石山坂本線の三井寺駅より、南へ徒歩10分(約200m)の場所にそのお店はあります。

 

店構えが昭和30年代の雰囲気を醸し出していてexcellent!最近の小洒落た(笑)イマ風の店舗に馴染めない時代遅れの小生推薦の、絶対に立ち寄るべきお店です(^^)

 

人気のない店頭にソロリソロリと近づくと、店の奥は大量の蒸気で溢れています。どうやらお祝い事用の赤飯の炊き込みを仕込んでおられたようでした。

 

親玉商店の和菓子たち(1)こちらのお店は年配のご夫婦が切り盛りされているのですが、驚くのはショーケースに掲示されたプライスタグ。

 

度重なる光熱費や原材料費の高騰。おまけに消費税の増税と取り巻く環境は決して良いとは言えないにも関わらず、商品の大半が100円台前半という経営努力振りなのです。

 

だからといって、何かケチ臭いワケがあるのかと言えばそうではありません。

 

親玉商店の和菓子たち(2)どのお菓子も魅力的な色形をしており、広い世代に受け入れられるようとても素朴な味わいを提供されています。奥さん曰く、「周囲のお店は代替りや改装をきっかけに値段を大幅に上げはった。うちは昔からのお客さんを大事にしたいし、子供が気軽に買える値段が売り。決して楽や無いけど、元気なうちは頑張りたい」とのこと。

 

こういうお店が次々と消えていく寂しい世となった昨今。願わくは1日も長く頑張って戴いて、和菓子との素敵な出逢いを提供し続けて貰えれば思う今日此頃です。

 

親玉商店

・滋賀県大津市長等3丁目6-14
【TEL】 077-522-6807

 

(園城寺夜話、おしまい)

 

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園城寺夜話(12)“残照・馬場町遊廓”

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今回の園城寺夜話は、馬場町遊廓(ばんばちょうゆうかく)についてご紹介したいと存じます。

 

馬場町遊郭(1)西日本最大級の歓楽街としてその名を欲しいままにした雄琴(おごと)が大津に位置することは今でも多くの人が知り得るところ。

 

しかし、かつて大津に国内屈指の規模を誇る遊廓(ゆうかく/公許の遊女屋を集め周囲を塀や堀などで囲った区画)が戦後間もない頃まで存在したことは以外と知られていません。

 

この地に遊廓が設けられた確たる時期は判然と致しませんが、大津宿に隣接して、江戸時代初期に現在の長等3丁目辺りに整備されたものと思われます。

 

延宝6(1678)年に藤本箕山によって著された『色道大鑑』によれば、遊廓は全国で25箇所存在し、ここはそのうちの1つとされています。

 

とはいえ「東海道の宿場町・大津に隣接しているとはいえ、何故園城寺の門前町に?」という下衆な勘繰りをせずにはいられません。

 

馬場町遊郭(2)またこの界隈は柴屋町(しばやまち)とも呼ばれ、柴屋町遊廓とも称しました。

 

その他にも大津宿周辺には、真野(長等1丁目)・四の宮(京町3丁目)・稲荷新地(松本2丁目)にも遊里は存在しました。

 

ですが、井原西鶴の『好色一代男』にも登場するこの遊廓は、当時“東の吉原、西の柴屋町”とも言われる程の格式と隆盛を誇っていたようです。

 

街の東西南北の入口に大門を設け、最盛期には廓内に約30軒の遊女屋が存在しました。

 

馬場町遊郭(3)明治以降、芸娼妓解放令の発令、内務省令娼妓取締規則の制定、そして大東亜戦争後のGHQの公娼制度廃止と様々な規制が発せられるものの、バーやスナック、料亭などと看板を変え、遊廓はほぼそのまま赤線の通称で呼ばれて存続しました。

 

 

しかし、昭和33(1958)年4月1日に施行された売春防止法。昭和46(1971)年に開業したトルコ風呂(現在のソープランド)“花影”を皮切りとする雄琴温泉の風俗街化が、この花街の衰退を決定的なものとしてしまいました。

 

流石に江戸時代の建物は残っていませんが、近世から近代へと移行した時期の花街の情景を今でも色濃く残しています。

 

かつて大津スチームバスセンターというソープランドが存在し、花街の残り香的存在として君臨していましたが、近年廃業し、現在は料理屋が建っています。

 

馬場町遊郭(4)格式高い花街として隆盛を誇った馬場町遊廓も、都市開発の波に押され、そのよすがは今や風前の灯です。

 

遊廓・遊里・花街の話題はとかく忌むべきものとして排除されがちですが、かつての日本の文化の一端としてその足跡だけでも残して欲しいと思うのは小生だけではないと思います。

 

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園城寺夜話(11)“三井の晩鐘の伝説”

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今回の園城寺夜話は、三井の晩鐘(みいのばんしょう)の伝説についてご紹介したいと存じます。

 

園城寺鐘楼金堂の南東側に一際目を引く檜皮葺の立派な鐘楼があり、ここに巨大な梵鐘が吊られています。

 

この鐘は三井の晩鐘と呼ばれ、“天下の三鐘(日本三名鐘)”の1つに数えられています。ちなみに天下の三鐘とは“姿の平等院(京都府)”“銘の神護寺(京都府)”、そして“声の三井寺”の3つ。

 

特に園城寺のこの鐘は音色の美しさに大変定評があります。昨年12月25日に放送された、テレビ東京『世界!ニッポン行きたい人応援団』でも紹介された通り、海外にも熱狂的なファンが存在し、その評価や価値観は今やワールド・ワイドなものになりつつあります。

 

またこのことは古くは近江八景の1つとして、また平成8(1996)年に環境庁(当時)が制定した日本の音風景100選にも選定されていることからも実証されています。

 

三井の晩鐘天下分け目の戦い、関ヶ原の合戦後の混迷覚めやらぬ中の慶長7(1602)年4月21日。

 

三井寺第137代長吏・道澄の発願により、弁慶の引摺鐘の後継としてこれを模して鋳造されました。

 

重量は六百貫(約2,250kg)。除夜の鐘の百八煩悩に因み、上部には乳(ち)と呼ばれる108個の突起が施されています。

 

この三井の晩鐘にはとても哀しいお話が伝わっています(文献により多少内容が異なります)。

 

昔々滋賀の里に、1人暮らしの若い漁師が住んでおりました。とある春の夕べのこと。どこからともなくやってきた美しい娘が若者と一緒に住むようになります。炊事・洗濯・掃除と本当に甲斐甲斐しく働くので、二人は祝言を上げ夫婦となりました。周囲も羨むほど夫婦仲が良く、やがて二人の間には子供が産まれます。

 

三井の晩鐘物語(1)(『三井の晩鐘』所載)ところがある日のこと。妻が「実は私は琵琶湖の龍神の化身で、神様にお願いして人間にしてもらいましたが、もう湖へ帰らねばなりません」と言って泣き出し、止める夫の言葉も振り捨てて湖に帰ってしまいました。

 

残された子どもは母親を恋しがり、毎日激しく泣き叫びます。夫は昼に近隣でもらい乳をし、夜は浜に出て妻を呼び、三日に一晩の約束で乳を飲ませていました。]

 

しかしそれも束の間、妻は龍の世界の掟が厳しくなり乳を与えることが出来なくなったと言い、これをしゃぶらせるようにと自身の右目を差し出して姿を見せなくなってしまいました。

 

母親に貰った目玉をしゃぶると子供は不思議と泣き止むのですが、舐め尽してしまうのにそう何日も掛かりません。

 

三井の晩鐘物語(2)(『三井の晩鐘』所載)そこで夫は再び浜に出て妻を呼びます。

 

すると妻は左目も差し出します。盲目となってしまった妻は方角も解らなくなってしまい、悲しい上に家族の無事な姿さえ見ることが出来なくなってしまいました。

 

そこで妻は夫に三井寺(園城寺)の鐘を撞いて、 二人が達者でいることを知らせてくれるように頼みます。 夫は毎日鐘を撞き、湖に音色を響かせて妻を安堵させたといいます。

 

このお話は園城寺に、また滋賀に纏わる民話としても非常にポピュラーな一篇として語り継がれています。

 

似たようなお話は全国に存在しますが、夫婦愛、親子愛、そして家族愛を改めて考える契機となるよいお話です。

 

『三井の晩鐘』(小学館刊)また哲学者としてそして独自の視点から日本史を紐解く『梅原日本学』の権威として高名な梅原猛(うめはらたけし)先生も、昭和56(1981)年に絵本『三井の晩鐘』(小学館)を監修されています。

 

既に絶版となって久しいですが、滋賀を始め全国の図書館の蔵書として未だ閲覧の機会はありますので、是非読んで戴きたいですね。

 

 

 

 

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園城寺夜話(10)“新羅三郎の伝説”

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今回の園城寺夜話は新羅三郎(しんらさぶろう)の伝説についてご紹介したいと存じます。

 

新羅善神堂参道大津市役所・大津消防局の西手裏山に新羅善神堂(しんらぜんしんどう)と呼ばれるお堂があります。

 

・・・といつものフレーズで始めましたが、この写真をご覧ください。

 

今回のテーマである新羅三郎に纏わるメモリアルを取材するために遊歩道を分け入ったのですが、このように荒れた山道が複雑に入り組んでおり、また現在の園城寺の境内に当たらないため正確な地図もなく、接近には困難を極めました。

 

2回目にして悲願の到達成功!

 

再度すんなり訪問出来る自信が、正直ございませぬ(T_T)

 

新羅善神堂こちらが新羅善神堂。この辺りはかつて新羅の森と呼ばれていたようです(迷って当然!)。

 

前回ご紹介致しました護法善神(鬼子母神)と同様、園城寺の守護神の1つ、新羅明神(しんらみょうじん)が祀られています。

 

そもそもはこの地域の地主神であったと言われてる新羅明神。

 

園城寺との所縁は、円珍が唐から帰国の際、その船の船首に出現した老人が自身を新羅国明神と名乗り、「仏法で日本の民衆を救うための先鋒となるように」と告げられたことによると伝えられています。

 

源義光(新羅三郎)さて今回のお話の主役、新羅三郎とは?

 

新羅三郎とは平安時代後期の武将、源義光(みなもとのよしみつ)のことです。

 

むしろこの方の兄が歴史的にとても有名で、八幡太郎とも称し、源氏の祖先として英雄視され様々な逸話に彩られた人物、源義家です。

 

当時は守護神と定めた神の御前で元服した際に別名を与えられるのが流行りであったようです。

 

義光は三男で、新羅明神の御前で元服したことから、新羅三郎とも呼ばれました。

 

義光は弓馬の名手として知られ、後三年の役の際、長兄の義家が清原武衡・家衡に苦戦しているのを聞きつけ、朝廷に自ら援軍に出向くことを申し出ますが認められず、何と官位を辞してこれに参戦。兄と共に見事な勝利を収めたという情に厚い猛将でした。

 

源義光(新羅三郎)墓しかし義家の死後、源氏の実権を握ろうと野心を起こし、暗殺に冤罪と様々な策謀を画策。遂にはこれが世に明るみにされ失脚。鎌倉幕府開府までの間、源氏の凋落を招いた張本人となってしまうのです。

 

義光の墓は新羅善神堂近くの山間にひっそりと佇んでいます。いまや訪れる人も殆ど居ません。

 

しかし義光が新羅明神の御前で元服したことは、その後の園城寺と源氏との関係を強固なものにしました。

 

以降、幾多の兵火で数多くの堂塔を失う園城寺でしたが、その度に源氏所縁の人々に復興を後押しされたのがその証拠です。

 

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