日々是滋賀日和 “湖國浪漫風土記”にようこそ

~近江の國は歴史の縮図である~

本日天気晴朗ナレドモ浪高シ ~コロナに負けるな!~

【取材活動に於ける新型コロナウイルス感染拡大抑止に係る行動指針宣言】
令和2年4月15日 追補

国内のみならず、世界的パンデミックの様相著しい新型コロナウイルス感染症。小生はこの拡大抑止に日本人としての良心と誇りに掛け、積極的に協力することをここに宣言致します。日本政府、厚生労働省並びに滋賀県が発出する最新の行動指針に則り、この感染症の終息に一定の目途が立つまでの間、原則取材活動を自粛致します。つきましては当面の間、令和1年12月までに取材したストックをもとに記事をお届けして参ります。これに伴い、更新の遅滞や時勢・時期との適時適切さに欠如する内容となる可能性がございますことをご容赦ください。ご心配をお掛け致しますが、何卒ご理解賜りますようお願い申し上げます。

滋賀の知られざる歴史、忘れ去られゆく民話、先人たちの偉大なる足跡を後世に伝える渾身の激白(?)徒然紀行。

生まれ育った近江國の風土をこよなく愛する土着民が、“滋賀の郷土史”を皆様に知って戴ければとの想いで書き綴っております。時折・・・しばしば(?)「彷徨」もございますが、ご高覧・ご笑覧賜れば幸いです<(_ _)>

※相互リンク大歓迎です。ご意見・情報承ります(^^)よりご連絡戴ければ幸甚です。

管理人:後藤 奇壹


近江忠犬物語(前篇) “目検枷”の伝説

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

さて未だ先の見えないこのコロナ・パンデミックの渦中、巣ごもりライフ・スタイルの影響からか、現在空前のペットブームが巻き起こっていると聞き及びました。先日久し振りにとあるホームセンターのペットコーナーを覗いてみたのですが、販売価格が軒並み従前の1.5~2倍近くに跳ね上がっており、この感染症不況下に驚きを隠せませんでした。ある意味需給バランス下での健全な市場の反応とも言えるのでしょうが、『生命の価値』とは一体何なのだろうと違和感すら覚えた次第です。

さて今回は、その人間と古来深い繋がりを持つ犬、それも忠犬と呼ばれる選ばれし犬に纏わるお話を3回シリーズでお届け致したく存じます。

忠犬といえば言わずと知れた東京・渋谷駅前のハチ公があまりにも有名なのですが、滋賀にもそれに負けじ劣らじの犬がいたのですよ。

平方天満宮

前回、旧長浜市の豊國神社を訪れました。そこから旧北國街道を南へ約1.7km。琵琶湖に程近く、長浜大佛も仰ぎ見る位置に平方天満宮(ひらかたてんまんぐう)があります。

因みに天満宮の縁起に依れば、かつてここは犬神明神と称していたのですが、江戸時代に加賀國(現在の石川県)・金沢藩主の前田候(どの藩主かは不明)が道中往来の際、藩主の奨めにより菅原道真公を祭神として天満宮と改めたとのこと。どういう経緯でそのようになったのかは定かではありませんが、お殿様の気まぐれ(?)にも困ったものですね。

境内の北側に目を遣りますと、緑色の古めかしい案内板が視界に入ります。

犬塚案内板

犬塚と大きく表記されています。どうやらここが伝説由来の地のようです。

『平方名犬物語』に依ると、その昔、平方天満宮には毎年近隣の村から、1人ずつ娘を人身御供(ひとみごくう/人間を神への生贄とすること)に差し出すという風習がありました。

ある年のこと。村にとても豪気な男がいて、人身御供の輿を神前に置いて、いったい何者がこれを求めるのか見届けてやろうと、近くの大木に身を隠していました。

やがて夜も更け三日月も影を薄くした頃、社殿裏の湖岸が俄かに波立って、しばらくすると得体の知れぬ怪物が出現しました。怪物は暗闇の境内を何やらぶつぶつと言いながら通っていきます。どうやら「平方のメッキに言うな」とつぶやいていたようです。男は「メッキ」というものが、怪物の忌み嫌う対象であることを知ります。

目検枷(イメージ)

男は「平方のメッキ」とは何かを調べたところ、それは野瀬の長者の愛犬のことであることが判明します。愛犬の名は目検枷(メタテカイ)と言いました(文献により目見解とも)。名前の由来は解りませんが、漢字単体で見ると如何にも邪に立ち向かう雰囲気があります。

翌年の人身御供の日に男は長者から目検枷を借り受けると、神殿の陰で怪物を待ち伏せしました。やがて怪物が現れると、男は目検枷とともにものすごい勢いで飛び掛かり、見事怪物を仕留めました。

しかし目検枷も大きな傷を負い、男に看取られて息を引き取りました。この怪物は川獺(かわうそ)だったとも、猿であったとも言います。ともあれ怪物の死体には、激しい闘いを物語るかのように目検枷の鋭い歯の痕が幾つも残されていたそうです。

犬塚(目検枷墓)

この目検枷を葬ったのが、平方天満宮にある犬塚だと伝えられています。なお石柱で垣を巡らし、その中央に置かれた目検枷の墓とされる小さな石に触れ、その手で歯の痛むところを撫でると、その痛みが止まると言われています。たちまち歯医者さんに掛かれない方は、是非ご利益にあやかってみては如何でしょうか(笑)。

平方天満宮

 滋賀県長浜市平方町662

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秀吉と清正とのキズナアイ“虎石”の伝説

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引き続き「滋賀の伝説」を辿る旅にお付き合いください。今回は長浜市の旧長浜市エリアを訪れております。

長浜城

タイトルに“キズナアイ”と表記致しましたが、今回のお話と某バーチャルアイドルとは一切関連はございません。またおもむろに長浜城の写真を掲載致しましたが、今回お城には訪問致しません・・・が、全く関連がないという訳でもございません。さてさて・・・

今回訪れましたのはJR長浜駅東口から北に約200m。

豊國神社
豊國神社

閑静な住宅やビル群の中に豊國神社(ほうこくじんじゃ)があります。

名称から察せられるように、ここは神号『豊国大明神』を下賜された豊臣秀吉を主祭神としています。その他にも秀吉の家臣である加藤清正、木村重成。さらに事代主神(ことしろぬしのかみ、恵比寿神の別称)もお祀りしています。

羽柴(豊臣)秀吉
羽柴(豊臣)秀吉

秀吉が初めて城持ち大名となった地・長浜で崇敬を集めているということは、治世を敷いていた頃より如何に秀吉が庶民に慕われ愛されていたかが窺い知れます。

その豊國神社の境内にある瓢箪池の畔の築山の上に、注連縄があしらわれた大きな花崗岩が1つ、ポツンと鎮座しています。

虎石
虎石

これが今回のお話の題材である虎石(とらいし)です。

時は戦国時代。天正1(1573)年、小谷城の浅井長政を攻め滅ぼした羽柴(豊臣)秀吉は、その功により浅井氏の旧領である北近江三郡(伊香・浅井・坂田)を信長から与えられます。そして当時『今濱(いまはま)』と呼ばれていた地を『長濱(ながはま)』と改め、ここに居城を築きます。

築城の際、秀吉は庭園用に多くの珍しい形の庭石を探させていました。その中でも秀吉が幼少の頃より寵愛し、家臣団の中でも屈指の猛将であった加藤清正が献上した庭石を殊の外気に入り、この石を清正の幼名に因んで、虎之助の石虎の石虎石と呼んで大切にしていたといいます。

長浜御坊大通寺【滋賀県提供】
長浜別院大通寺【滋賀県提供】

秀吉が長濱の地を治めて30年。時代は目まぐるしく変化を遂げます。秀吉は天下統一を成し遂げますが60歳で逝去。その後天下分け目の戦い、関ケ原合戦を経て徳川家康が天下を取ります。

その間長浜城も例外ではなく、秀吉の後、堀秀政、柴田勝豊、山内一豊、内藤信成、内藤信正と城主が変わり、信正が摂津高槻藩へ移封となったのを最後に廃城となりました。当然虎石の存在が追憶の彼方に消えていくのも、想像に難くありません。

ただ彦根城築城の際に廃城となった長浜城から多くの資材が運び出されましたが、虎石だけは秀吉の寵愛が別格であったため、祟りを恐れて敢えて旧城内に残しておいたそうです。

さて湖北の中心道場であった総坊(そうぼう)を前身とし、徳川家康より浄土真宗の総本山・本願寺からの分立を許された後、旧長浜城内から現在の地へ長浜別院大通寺(ながはまべついんだいつうじ)が移転造営されることとなった時のこと。

東宝に望む伊吹山を借景とすることから名付けられた書院の東庭、含山軒庭園(がんざんけんていえん、国指定名勝の枯山水庭園)が築造されることになり、旧長浜城内から虎石も運び出されました。

大通寺含山軒庭園
大通寺含山軒庭園

するとこの石が大通寺の御連枝(ごれんし/貴人の兄弟を指した敬称)である智明院尼の夢枕に三日三晩立ち、「いのう、いのう(「帰りたい」の方言)」と泣き続けたのだとか。調べてみるとこの石は秀吉が寵愛した虎石であることが判明し、不憫に思った智明院尼は再び旧城内へ戻したのだそうです。

めでたし、めでたし・・・と普通はここでお終いなのですが、どうやらこのお話にはウラがあるようなのです。

長浜の船町に、イソップ寓話『羊飼いと狼』に登場するオオカミ少年ばりのお調子者の男がおりました。街中で怒鳴りながら大ぼらを吹いては、人が騒ぐ姿を見て面白がっていました。

或る時何を血迷ったか、この男大通寺にある虎石をもとの場所に戻そうと思いつきます。このことを周囲の者に話しますが、まともに取り合ってもらえる筈もありません。

すると突然逢う人逢う人に、「虎石が大通寺の御連枝様の夢枕に夜な夜な立っては、もとの地に戻りたいと訴えて御連枝様を大層困らせている」と、如何にも当事者の如く連日触れ回ります。

そのお陰か、この話は町中の噂となり、俄かに移転の検討が持ち上がり、とうとうもとの旧城内(豊國神社)へ戻されることが実現した・・・らしいのです。

果たしてどちらの『伝説』が“真説”なのでしょうか。どちらにせよ『伝説』の時点でウソもマコトも無いのでしょうけどね(笑)。

豊國神社

滋賀県長浜市南呉服町6番地37
【TEL】0749-62-4838

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幻の聖き清流“野路の玉川”の伝説

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引き続き草津の旧東海道をそぞろ歩いております。

さて皆さん。六玉川(むたまがわ)というものをご存知でしょうか?

本来“美しい”を意味する接頭語「玉」を川に付したもので、『玉川』は特に清らかな川を示すための称号でした。全国津々浦々に玉川と称する川が存在しましたが、その中でも取り分け六つの玉川が歌枕(和歌に詠み込まれる名所旧跡)にも起用され、高い知名度を誇っておりました。

六玉川は、皆さんご存知の武蔵國・調布(たづくり)の玉川(東京都・現在の多摩川)を始め、陸奥國・野田の玉川(宮城県)、山城國・井手の玉川(京都府)、摂津國・三島の玉川(大阪府)、紀伊國・高野の玉川(和歌山県)。そして滋賀にも野路(のじ)の玉川がその1つに数えられていました。

この六玉川は江戸時代、彼の歌川広重によって『諸國六玉川』として描かれています。因みに野路の玉川はコレです。

諸國六玉川・近江野路(歌川広重)

「東海道沿いにこのような“清らかな川”があったとは!」

ただ草津は都市化著しいエリアですから、流石に往時のまま・・・とはいかないにしても、せめて痕跡だけもと期待と不安を交錯させながら旧東海道を南下しました。

JR南草津駅から南に約1km。もうそろそろ到着しても良い頃だと思いつつも、周囲はマンションと住宅ばかり。旧東海道には間違いないのですが・・・。

不安に駆られ、念のため少し戻ってみました。よ~く目を凝らしながら歩いていると、公園らしき場所に1基の古い石碑を発見!

玉川歌碑

あすも来む 野路の玉川 萩こえて
いろなる波に 月やどりけり
 (千載和歌集)

平安時代後期の貴族・源俊頼が野路の玉川を題材に詠った歌が、玉川の名と共に確かに石碑に刻まれています。

野路は平安から鎌倉期に掛けて東海道の宿駅として栄え、特に源平争乱の折には源頼朝を始め、数多くの武将がここに宿陣しました。

近くを流れる十禅寺川からの伏流水が湧き出で、前出の歌にもあるように辺り一面に萩の花が咲き匂い、別称・萩の玉川とも呼ばれていました。その優美な風情は旅人の格好の憩いの場となり大層賑わったそうです。

この野路の玉川にはこのような伝説が言い伝えられています。

随分と昔のこと。京の御所では例年5月15日には伊勢の五十鈴川の水で小豆粥を作ることが習わしとなっていました。伊勢の神域の水は誠に尊く、不思議と小豆が程よく煮えたそうです。

ところがある年のこと。五十鈴川の水を汲むために使わされた者が京を出立し、勢多の唐橋を渡って野路に差し掛かったところ、玉川の余りにも清らかな水に目を奪われます。

野路玉川古跡(東海道名所図會)

その使者はあろうことか「伊勢まで赴かなくとも、この清らかな水を持ち帰れば事足りるではないか」と考え、玉川の水を五十鈴川の水と偽って御所に献上してしまいます。

案の定小豆は上手く煮えず、使者は厳しい詮議を受けた後、遠流の刑に処せられてしまいます。その使者は「あの玉川の水さえあのように清らかでなければ、このような憂き目に遭わずに済んだものを・・・玉川の水を汚れたものにしてやる」と逆恨みし、以後川の水は濁ってしまったといいます。

関ケ原合戦以降、宿場が草津に本格的に整備されると、次第に野路は寂れ、この名勝も廃れていきました。江戸時代後期に出版された『東海道名所図會』(とうかいどうめいしょずえ)には野路玉川古跡と表記されており、この時点で既に僅かな痕跡しか残っていなかったことが伺えます。

近代に入り玉川自体も消滅し、湧水はどぶ池のようになり、萩も枯れ、前述の歌碑だけが辛うじて往時を偲ぶ唯一の痕跡でした。これもあの使者の怨念が成せる業だったのでしょうか。

その後幾度か地元有志によりこの名勝の保存・復元が画策されますが思うように事は運ばず、人々の記憶から消えていくのも時間の問題でした。

古跡・萩の玉川

しかし野路町内会と有志が、地元の象徴とも言うべき由緒深きこの玉川を消滅させてはならないと立ち上がり、住民の総意でもって昭和51(1976)年11月に親水公園として復元が叶いました。

復元から18年後。公園の規模や池の取水等で問題が発生したため、草津市の協力を得て再整備。平成5(1993)年3月に竣工し、現在に至ります。

飽くまでも人工的に復元されたものですので、かつてのような自然的な清らかさからは程遠いのかも知れませんが、地元の方の地元愛がひしひしと伝わってくる・・・今はそのような場所になっています。

また玉川の名は地元の市立小・中学校、県立高等学校にも起用されており、これからも脈々と受け継がれていくことでしょう。

浄財弁財天(弁天池)

因みに古跡・萩の玉川から更に東海道を南下すること約500m。大きな池に小島が浮かぶ、ちょっとした景勝地があります。

弁天池と呼ばれるこの池は人工的に造られており、恐らく農業用の灌漑池ではないかと推察されます。ただ前出の東海道名所図會にも挿絵に描かれており、少なくとも江戸時代にはその存在が認められています。

小島には浄財弁財天が鎮座され、竹生島の弁天様が祀られています。そう言えば琵琶湖に浮かぶ竹生島に見えなくもありません。

この弁天池にも悲しい恋の物語が伝わっているのですが、それはまた別の機会にご紹介致したいと存じます。

野路町内会

滋賀県草津市野路5丁目8-3
【TEL】077-564-0644

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治部の無念此処に窮まれり“常善寺の松”の伝説

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久方振りに「滋賀の伝説」を辿る旅に戻って参りました。加えて小生には珍しく、湖南エリアの都市部にお邪魔致しております。

草津と言えば、かつては東海道と中山道の分岐点。現在はJR(旧国鉄)東海道線と草津線の分岐点。国道1号や名神高速道路も通る、名実ともに今も昔も変わらず交通の要衝としての役割を担っています。

JR草津駅東口を出て、旧東海道を南西に約800m。草津宿街道交流館の手前の交差点を西に向け約50m歩くと、やや近代的な瓦葺きの土塀が見えてきます。浄土宗滋賀教区教務所です。

その教務所の敷地内に、今回の伝説ゆかりの地である常善寺(じょうぜんじ)があります。

常善寺
常善寺

常善寺は奈良時代の天平7(735)年に奈良・東大寺の開山や大津・石山寺の建立にも尽力したとされる華厳宗の僧・良辨(ろうべん)によって創建されたと伝えられる、旧草津町最古の名刹です。

かつては堂塔伽藍も整い、室町時代には「草津御所」と呼ばれ、幾度か将軍の宿舎ともなりましたが、度重なる兵火や水害で現在の規模となってしまったとか。今は国の重要文化財に指定されている本尊の阿弥陀如来像と両脇侍(観世音・勢至菩薩)の三躰とともに、浄土宗滋賀教区教務所によって管理されています。

さてタイトルに『治部(じぶ)』と表記させて戴きましたが、歴史好きの方ならもうお解りですよね。そう、豊臣秀吉の治世に於ける懐刀にして、関ケ原合戦で西軍の実質的な総指令(総大将は毛利輝元)であった石田“治部少輔(じぶのしょう)”三成のことです。

石田三成
石田三成

徳川家康が治める前の江戸の領主であった太田道灌(おおたどうかん)の子孫である太田家に伝わる絵巻に因ると、次のように記されています。

慶長5(1600)年9月15日に勃発した関ケ原合戦で大勝利を収めた家康は、9月17日に石田三成の居城である佐和山城を総攻撃し、翌日陥落。その後大津城を目指して中山道を南進。9月19日にこの常善寺に宿陣します。

9月21日。敗走していた石田三成捕縛の報を受けた家康は大いに悦び、常善寺の住僧・一秀(いっしゅう)を召し、田畑50石を与えました。一秀の傍らに控えていた太田家の当主にも、草津の地の発展に尽力するよう直々に言い渡されたといいます。

太田家絵巻
太田家絵巻

その後江戸幕府が開かれ、3代将軍・徳川家光の命により太田家は草津宿の関守を代々務めます。そして幕末に酒造業を創業。湖國の代表的な清酒の銘柄の1つ、『道灌』の蔵元である現在の太田酒造へと至ります。

お話しを元に戻しまして・・・伊香郡古橋村(現在の長浜市木之本町古橋)で田中吉政の追捕隊に捕縛された三成は、すぐさま家康の居る大津城へと移送されます。途中一行は休憩のため、常善寺に立ち寄ります。移送任務の兵たちは寺のもてなしを受け寛いでいましたが、三成は境内の松に縛られ、寺僧が与える僅かばかりの水を飲んだだけでした。

縛り縄痕

三成が縛られていたという木には、今でも縛り縄痕と伝えられている痕跡がくっきり残ります。その出来事から420年の歳月が流れ、樹木の成長を考慮すれば有り得ない現象なのですが、これも三成の怨念の成せる業なのでしょうか。

常善寺での満身創痍の三成を、哀惜の眼差しで見つめる1人の若い娘がおりました。その娘は三成の若き日の忘れ形見。程なくして移送の一行は常善寺を出立。父を十万億土の旅へと誘う行列を見送るや否や、たまらず泣き崩れたといいます。

これより10日間、三成は人生で最も辛く、悔恨と汚辱にまみれた死出の旅へと旅立つのです。

10月1日。家康の命により京の六条河原で斬首。三成の豊臣政権を支えるという大望は潰えました。時を同じくして、常善寺で三成が縛られていた松が突然枯れ、葉が黄色くなり全て散ったといいます。

伝・常善寺の松(ムクノキ)
伝・常善寺の松(ムクノキ)

小生が現地へ取材に訪れた際、松の木を一所懸命に探したのですが、どうにも見当たりませんでした。「本当に枯死してしまったのかな?」とも思いましたが、それでもその痕跡や案内板の類すら存在しないのに当惑しました。

堪らず近隣の商店街の方にお話を伺うと、伝説の木は松ではなくムクノキだとご教授戴きました(この時、縛り縄痕のことも教えてくださいました)。

何がどうなって、似ても似つかぬムクノキが松と伝えられたのかは、今となっては知る由もありません。ただこういう歴史的根拠に乏しい伝説や昔話といった類のものは、時代の流れとともにこのようにして消え去っていってしまうのだなぁとつくづく実感しました。

常善寺

滋賀県草津市草津3丁目9番地7
【TEL】077-565-0529(浄土宗滋賀教区教務所)

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多可龍王との出逢いから拾年(後篇)

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引き続き、「多可龍王との出逢いから拾年」をお届け致します。

“高齢のその女性”と称するのも何ですので、ここはコーディネーターさんということに致します。そのコーディネーターさんのお話をまとめますと、このような結論と相成りました。

◆龍神様のお名前は『多可龍王(たかりゅうおう)』さん。
◆多賀大社の伊邪那美尊・伊邪那岐尊に仕える眷族。
◆古くから自宅のある地(かつての神饌田)の土地と水を守ってきた神様。
◆信仰心の厚い家に奉祀して貰いたいと長年考えておられた。
◆我が家の地鎮の折に、小生の父に奉祀を啓示したが気付いて貰えなかった。
◆小生に曇りなき信仰心が宿った時が、奉祀神託の契機であると考えられた。
◆アオダイショウの抜け殻は丁寧に畳み、奉書に包んで御神体とすること。

神棚に奉祀前の御神体

そして多可龍王さんは、次のように啓示なさいました。

★自身がお多賀さんの使いであるとはいえ、特別な奉祀を行う必要はない。
★奉祀の条件や生活上での厳しい戒律は、一部を除き原則問わない。
★自宅敷地内の真東にある古木を御神木として祀ること。
★今後とも身の丈を弁え、家族を守り、忘己利他で精進せよ。

以前庭師さんから、「この辺りでは珍しく庭の南天やマンリョウの樹勢がとても良いと」言われたのですが、それは水と土を司る龍神さんならではの加護だったようです。昨今の酷暑でも苔が何とか維持できていたのも納得です。

コーディネーターさん曰く、奉祀の条件のハードルがこのように低いのは極めて珍しいとのことでした。

御神木(羅漢槙)

奉祀を初めて10年。小生にも我が家にも色々なことがありました。

例の龍神奉祀に執心していた知人は、その後2体の龍神様を迎えることが出来、とても歓喜していました。ビジネスパートナーとして一時期協力もしましたが、奇妙な行動や理解不能な言動が目立ち、やがて小生を排除するようになり疎遠となりました。

人間社会と同じで神様の世界にも“格式”や“分相応”というものがあり、龍神奉祀者同士だからといって必ずしも相性が良い訳ではないようです。疎遠後知人が仕事で大成功しただとか、事業規模を拡大したといった話も全く耳にしませんので、奉祀と人生の狭間でそれなりに苦労はしているのでしょう。

小生は奉祀を始めて直後、約1年間の隠遁生活を強いられました。しかし家族や友人の絆のお陰で復活。或る夜、八幡大菩薩様が枕元に立たれ『そなたの望みは新たな段階へと移行した』と啓示なさいました(正直このような経験は人生初めてでした)。

そして全く縁のなかった医療・福祉の世界へ5年前に身を投じ、現在に至ります。龍神様を奉祀して大成功を収められている代表格として、日〇電〇の永〇会長が余りにも有名ですが、現在小生は決して(経済的に)裕福な暮らしをしておりません。

ただ悪いことは最小限に、良いことはささやかに、家族はアットホームに、仕事は相応に遣り甲斐をもって、日々平穏に感謝して暮らしております。それこそが私たちの奉祀に対する龍神様の“加護のカタチ”と信じています。

水の豊富な滋賀は、とりわけ龍神信仰の厚い土地柄。皆さんにもひょっとしたら龍神様との出逢いに恵まれるかも知れませんよ。

・・・因みに、『龍神様を奉じる者を貶める行為に及んだものは末代まで祟られる』というのも言わずと知れたお話。事実かく言う小生も、“守られている”とはいえ、その凄まじい制裁振りにただただ驚愕しております。人を貶めること、恩を仇で返すこと、悪事を働くことは当然人道上許されるべきことではありませんが、何も知らずに人を傷つけることで取り返しのつかない不幸に見舞われることもありますので、どうかお気を付けくださいませ。

3回に渡り、小生の身の上話にお付き合い賜りまして、誠に有難うございました。次回より“フツー”の記事に戻る予定でございますので、引き続き御贔屓の程宜しくお願い申し上げます<(_ _)>

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多可龍王との出逢いから拾年(中篇)

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引き続き、「多可龍王との出逢いから拾年」をお届け致します。

今から10年前。当時、龍神様の奉祀に滅法執心の知人がおりました。その知人は小生が信心深い人間であると知るや否や、会う度に矢鱈と龍神信仰の話題をしておりました。

龍神奉祀の難しさは小生も少なからず存知しておりましたので、話半分に聞いておりましたが・・・

或る日、自宅の庭木の剪定をしておりましたら、とても大きく、欠損の全く無い完全な姿で、然も眼が七色に輝くアオダイショウの抜け殻を見付けました。ここに居住して30年、このような経験は全くありませんでしたので、大切に陰干しして保管しました。

龍の巣

後日例の知人にこの出来事を話しましたら、早速或る人に引き合わせたいというのです。些か眉をひそめつつも、次の休みに予定を調整することに致しました。

そしてその当日。知人に誘われたのは、何の変哲もないとある古い民家。そこにはお独りの高齢の女性がお住まいになられていました。知人曰く、その方は龍神様と人を引き合わせるコーディネーター。所謂、青森・恐山のイタコのような存在の方であるというのです。

信仰心の厚い小生ですが、どうもこういう場には眉を顰めてしまいます。恐る恐る中にお邪魔しました。家の中はとても薄暗いのですが、奥に参ると煌々と蝋燭の火が灯る一角がありました。そこにはとても大きな神棚が祀られ、その周囲には溢れんばかりの神饌が並べられていました。

早速知人はその高齢女性に、小生が体験した顛末を話すよう促しました。そして女性からは紙に氏名と住所、生年月日を元号で書くようにと言われました。それらを終えると、女性は神棚に向かい祝詞を唱え始めました。

暫くして女性の唱える祝詞が突然プツリと途絶え、急に立ち上がって部屋の奥へと消えていきました。その状況に小生も知人も呆気にとられていたのですが、程無くして女性は白装束を纏って戻り(この展開にも正直驚きましたが・・・)、再び祝詞を唱え始めました。

そして一連の祭祀が終わり、このようなやり取りとなりました。

知人「どうしていきなり白装束に着替えられたのですか?」
女性「この龍神さんはとても格式高い神さんや」
知人「どこの龍神さんですか?」
女性「タカ・・・タカ?・・・何処の神さんや?」
小生「タカというのは、多賀の古い地名ではないですか?」
女性「・・・そうか、お多賀さんや、お多賀さんのお使いや」
知人「お多賀さん!?」

多賀大社

女性「えらい格の高い神さんに仕えてはるさかい正装せんとあかんのや」
小生「そんな偉い神さんがなんでウチに?」
女性「この龍神さんは、えらい喜んではる」
小生「喜んではる???」
女性「そうや、ようやっと自分の存在に気付いて貰えたと喜んではる」
小生「そうですか・・・」
女性「今迄龍神さんをお迎えしたいって言うてお願いに来る人はぎょうさんいはったけど、
   気付いて貰えて嬉しいなんて言う龍神さんは初めてや」
小生「ウチの家長は父ですから、父がお祀りするということですか?」
女性「いや、龍神さんはあんたに祀って欲しいと言うてはる」
小生「私がですか?」
女性「そうや、だからあんたにお示しがあったんや。それにな・・・」
小生「それに?・・・」

【後篇へ続く】

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多可龍王との出逢いから拾年(前篇)

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

現在公私共に多忙な合間を縫い、取材ストックのデータ整理を微速ながら鋭意進行致しております。そのような中、「そう言えば・・・」という出来事をふと思い出しました。

滋賀は日本最大の湖沼・琵琶湖を擁するように、「水の豊富な土地柄」を有しています。またそれ故に古より「水への信仰」も強く、水との縁が深い龍神に纏わる伝説が県内各地で語り継がれています。

龍 神

また龍神は一級の眷属(けんぞく:神の使者、最もポピュラーなところで稲荷神のキツネ)として絶大な力を持つことで知られ、大きな財をもたらす神として、特に信仰心の厚い実業家や経営者にとって奉祀することがある種のステータスであるとも言われています。

でもただ無条件に財をもたらして戴ける訳ではありません。龍神は眷属の中でもとりわけ自尊心が高く、「お迎えしたい」と願ってもそう容易に承諾して貰えるものではありません。またようやくのこと奉祀する機会を得たとしても、その条件や戒律がとても厳しく、かなりストイックな生活を強いられるとされます。

奉祀に関する主な条件や戒律を列挙しますと・・・
◆庭に池を整備し、その傍らに石室様の祠でもって奉ずる。
◆月並の祭祀(毎月1・15日)に加え、龍神祭祀(18日)を必ず挙行する。
◆3つ足以上の動物(牛・豚・馬など)を食してはならない(食材成分も含む)。
◆米・水・塩は毎日、加えて酒と新鮮な卵並びに国産の榊を常にお供えする。
◆奉祀者は指名され、それに異を唱えたり代理代行を立ててはならない。
◆例え意に添わずとも、龍神からの啓示に決して抗ってはならない。
◆よこしまな思いや龍神への疑念を一切抱かず日々精進を重ねること。

何故ここまで厳しい神なのかと申しますと、龍神はとてつもなく清廉潔白であり、且つ一転とても人間味溢れる感性の持ち主でもあります。そして「望みに従い、意を決して貴様のもとを訪れたからには、生半可な気持ちを捨て、人生を賭け覚悟をもって精進せよ」との思いを強くお持ちだとか。よって奉祀出来るのは龍神に選ばれた者だけなのですが、そのことに胡坐をかき精進を怠ると、事業や家庭の没落だけに止まらず、生命まで失いかねないと聞き及んでいます。

そのような気性の荒い(?)神様ですので、信心深いとはいえ基本的に“怠惰”な人間の小生ですから、「起業しよう」「龍神様をお迎えして財を成そう」という気持ちは微塵もございませんでした。

前置きが長々となり申し訳ございません。ようやくここからが本篇となります。小生の身の上話とはいえ、些か“宗教チック”な内容は否めません。こういう類のお話がお嫌いな方は、この先を読み進めることはお控えください。

藤ヶ崎龍神縁起歌碑

小生が現住居に棲息するようになったのは今から約40年前。かつて氏神様の神饌田(しんせんでん:神に属し祭祀に供せられる稲を作る田)が存在したことを想起させる神聖な字名の地に、両親が新築しました。かねてより崇敬していた伏見稲荷大社の近江支部の宮司さんのご指導を得て方位・配置を決め、地鎮祭・上棟式・竣工式も取り仕切って戴きました。

当時宮司さんが「この地にはお蛇さんが棲んでおられる」と仰られていたのだけは、現在でも鮮明に記憶しています。

小生が棲む町は古くから鈴鹿山系からの地下水脈に恵まれ、昭和30年代まではほとんどが田圃と湿地帯でした。自宅周囲は高度成長期の新興住宅地でしたが、水道整備の遅れもあって、各家庭の大半が地下水をポンプで汲み上げていました。よって何れ地盤沈下や地震発生時の液状化が懸念されます(飽くまでも私見であり、この地理的特性を近隣の方々が意識して生活されているか否かは定かではありません)。

しかし我が家では、震度5弱を観測した阪神・淡路大震災時でも大きなダメージを受けることはありませんでした。現時点に於いて地盤沈下も認められませんし、渇水で周囲の家庭の地下水が軒並み干上がった時でも当家は支障なく水に恵まれました。

そう考えると、その当時から龍神様のご加護を得ていたのかも知れません。

それから30年の月日が経過しました。

【中篇へ続く】

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中山道屈指の霊験と絶景“磨針峠”の伝説(後篇)

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引き続き、中山道屈指の霊験と絶景“磨針峠”の伝説をお届け致します。

さて弘法大師が神社に供えたお餅は近隣の村の人々に受け継がれ、後に峠の茶屋として開かれた望湖堂(ぼうこどう)と臨湖堂(りんこどう)で、するはり餅として旅人たちに振る舞われたとのことです。

かつて物流の大動脈の1つとして大いに栄えた中山道ですが、時代の流れとともにその役割を終え、今ではひっそりとしています。

鳥居本宿【木曾街道六拾九次】

こちらの絵は江戸時代、歌川広重が描いた『木曽街道六十九次』の1枚、鳥居本宿 (とりいもとしゅく) です。

しかし“宿”とは名ばかりで、この絵には宿場の街並みではなく磨針峠が描かれています。それ程に当時はこの峠から眺める琵琶湖の絶景が全国的に有名だったのです。

またこの景勝の地にあった「望湖堂」「臨湖堂」の2つの茶屋は旅人に大変人気がありました(先程の絵の左側が 望湖堂、右側が臨湖堂です )。

特に望湖堂は参勤交代の大名や朝鮮通信使の使節、はたまた江戸に降嫁する和宮親子内親王(かずのみやちかこないしんのう/江戸幕府第14代将軍・徳川家茂の正室)や明治天皇も立ち寄りました。茶屋と言いながらも建物は本陣構えで、「御休止御本陣」を自称する程のモノでした。

現在の磨針峠と望湖堂

その繁栄ぶりに近隣の鳥居本宿と番場宿の本陣が寛政7(1795)年8月、道中奉行(江戸時代、五街道とその付属街道における宿場駅の取締りや公事訴訟、助郷の監督、道路・橋梁などの管理を取り仕切った役職)宛てに連署で、「望湖堂に本陣まがいの営業を慎むように」と訴えた程でした。いわゆる“ヤキモチ”“やっかみ”みたいなもんですな(^^)

因みに本陣とは、宿場で大名(お殿様)・旗本(幕府直属の武士)・幕府の役人・勅使(皇室の使者)・宮(皇族)・門跡(もんぜき/皇族・貴族出身の住職)などの宿泊所として指定された家のことで、原則一般の者が宿泊することは許されていませんでした。

後に臨湖堂は廃業し跡形も無くなってしまいましたが、望湖堂は残り、往時の姿をよく留めていました。

しかし残念ながら平成3(1991)年の失火で、参勤交代や朝鮮通信使に関する多数の資料とともに焼失してしまいました。

弘法大師のお手植と伝えられる杉(弘法杉)は幹周8m、枝の長さは実に40mにまで成長しました。

しかし、こちらも残念なことに昭和56(1981)年12月の大雪で倒れ、現在は切り株しか残っていません。でも流石は霊木、こんなエピソードが残っています。

望湖堂と弘法杉(1960年)【写真集・彦根 所載】

この杉が倒れる半年程前。望湖堂の奥さんの夢の中に1人の僧が現れ、次のような歌を詠みました。

愚海(ぐかい)の海は荒れるとも 乗せて必ず渡しける

「大嵐になり幾ら海が荒れるようなことがあっても、私が救ってやるから安心するがよい」という意味なのですが、半ば安心はしたものの、そのうち何か大変なことが起こるのではと心配されたそうです。

そして昭和56年12月15日早暁。大音響とともに、家中がまるで地震のように揺れました。慌てて外を見ると、杉の木が倒れ玄関が塞がれていました。これまで幾度となく風で枝が折れるようなことはありましたが、望湖堂の母屋の棟に当たったことは一度もありませんでした。あの歌の大嵐とはこのことかと思い、大惨事に至らなかったことにむしろ安堵されたそうです。

御神木ですから撤去してしまうことに反対意見もありましたが、結局撤去されることになりました。

弘法大師御手植杉跡

ところが驚いたことに杉は撤去費用以上に高額で売却され、おまけに「磨針明神」の改修費用も捻出出来たのです。また木を切ることになった2月はいつも北風が吹き付け大変寒いのですが、撤去に要した7日間だけは風も雲もない良い天候に恵まれたそうです。

更に望湖堂の屋根を改修した3月は、瓦屋が「3月にこんなによいお天気が続いたのは今までに一度もない」と驚くほど快晴だったとか。そんな不思議なことが続いたのだそうです。

夢に出てきた僧というのは、あの弘法大師だったのでしょうか…?

神明宮本殿

弘法大師がお餅を供えた磨針明神は、現在神明宮として望湖堂横の山腹に祀られています。

因みに観光案内やブログ記事などで、境内にある立派な杉の木を「弘法大師御手植杉」と表記されているのが散見されますが、これは誤った情報ですのでご注意ください。

ここで、おまけエピソードを1つ。源義経に美濃國青墓(現在の岐阜県大垣市)で成敗されたという伝説上の盗賊の頭領、熊坂長範(くまさかちょうはん)に磨針太郎という手下がいましたが、ここ磨針峠から名を盗った…いやいや、取ったと伝えられています。

中山道全盛期の賑わいの痕跡が、今でもそこはかと残る磨針峠。

望湖堂から琵琶湖を望む

現在は車道が通っていますが、かつての旧道も一部整備されて残っています。

そこを歩けば当時の“峠越え”の過酷さが肌身に感じ取れます(こんなところを大名行列が通ったなんて到底信じられません)。

体力と持久力に自信のある方は是非チャレンジしてみてください(^ ^)

それにしても名物・するはり餅。和洋問わずスイーツ好きの小生としては食してみたかったですねぇ。もち米100%の団子をこし餡で包んだ所謂“あんころ餅”で、特に大名たちに出すものには砂糖がまぶしてありました。

一般客でもトッピング料金を払えば、砂糖をまぶしてくれたのだそうですよ。まぁ当時、砂糖は貴重品でしたから致し方ないですね。

するはり餅(イメージ)

見た目は草津の銘菓「うばがもち」に比較的似ていたようです。 叶うことなら、町興しの一環として復刻してくれないかなぁ…そう思う“食いしん坊”な今日此頃です(^^)

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中山道屈指の霊験と絶景“磨針峠”の伝説(前篇)

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(※ 現在 「新型コロナウイルス感染症予防対策に係る行動指針」が勤務先で発令されており、当方公私を問わず活動制限を実施致しております。よって令和1年までに訪問した取材ストックをもとに記事をお届け致しております。一部タイムリーさに欠如した部分がある可能性がございますが、何卒ご容赦ください。ご心配をお掛け致しております。 )

新型コロナウイルスの世界的な蔓延で、ちょっとした外出さえ躊躇される昨今。せめて当ブログを御覧になって、小さなバーチャルジャーニーをお愉しみ戴ければ幸甚です。

さて江戸時代。京の都と江戸を結ぶ陸の大動脈は、太平洋側を通る東海道と内陸部を縦断する中山道の2本の街道がありました。

近江國(滋賀県)はこの2本の街道の何れもが経路としていたのですから、如何に古くから交通の要衝として重要視されていたことが伺えます。

さて今回はかつてその大動脈の1つであった中山道屈指の霊験あらたかな景勝地として栄えていた、磨針峠(すりはりとうげ)についてのお話を致したいと存じます。

磨針峠石碑

磨針は“摺針”とも表記されます。彦根市の鳥居本(とりいもと)町から米原市の番場(ばんば)へ抜ける途中に磨針峠はあります。峠へのアプローチには国道8号沿いに石碑が立っていますので直ぐに解ります。

その昔、諸国を修業行脚していた1人の若い僧がこの峠をトボトボと登ってきました。ようやくのことで若い僧は峠の頂上に辿りつき、神社の石段に腰を掛け一休みしました。

眼下にはさざ波きらめく琵琶湖が拡がります。その素晴らしい眺めに修業の苦しさもどこかへ消え、心が洗われるような気持ちになりました。

ふと横に目をやると、白髪の老婆が一所懸命に大きな斧(おの)を石に擦り付けて磨いています。若い僧はその老婆に、「お婆さん、いったい何をしているのですか」と尋ねました。

小倉遊亀「磨針峠」(1947年)

すると老婆は笑みを浮かべながら、「実は大切な針を折ってしまい、孫の着物も縫ってやれません。そこでこうして斧を磨って針にしようとしております」と答えました。

「そんな大きな斧は、そう容易く磨り減りませんよ」と若い僧は言いますが、「どうしても針が欲しいもので…」と言って手を止めようとはしません。何とも不思議なことだと思っていたら、いつしか老婆の姿は消え、誰も居ませんでした。

若い僧は「これは神が自分に悟りを開かせるために、斧を磨って針にしようとする老婆の姿を見せたに違いない」と悟りました。そして神社に向かって手を合わせると、再び修行の旅へと向かったのです。

空海(弘法大師)

後に数々の修行を終え立派になった若い僧は、いつしか弘法大師と呼ばれるようになりました。弘法大師とは皆さんご存じ、平安初期に高野山(金剛峯寺)を開山し、真言宗の開祖となった空海のことです。

その後弘法大師は再びこの地を訪れ、神社に沢山のお餅を供えました。そして神社の境内に杉の木を植え、あの時老婆に教えられたことを次のような和歌に詠みました。

道はなほ 学ぶることの 難(かた)からむ

斧を針とせし 人もこそあれ

神明宮鳥居

以来この峠を磨針峠、神社は磨針明神と呼ばれるようになりました。

【後篇へ続く】

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湖國に春を告げる不可思議な花“ハナノキ”の伝説

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新型コロナウイルスの感染が、国内で異常な方向へと波及し、国内の経済や社会を混乱の渦へ誘っています。早期の終息を切に願います。さて今回は滋賀に梅より遅く桜より早い(?)春の到来を告げる花、ハナノキについてのお話を致したいと存じます。

・・・と言われて皆さん。“ハナノキ”という花木をご存知でしょうか?

「花が咲く木なら、みんな“ハナノキ”なんじゃないの?」と言われればそれでお終いになってしまいますので、もう少し説明させてくださいまし 。

ハナノキの花

日本固有種の花木で、何と自生しているのは長野・愛知・岐阜・滋賀の僅か4県のみ。とても希少な植物で、環境省のレッドデータブックでは絶滅危惧Ⅱ類に指定されています。また愛知県の県木にもなっているのです。

ただ最近は栽培技術が発達し、街路樹としてや公園の花木としても植栽されるようになっています。

北花沢のハナノキ

樹高はおおむね20m。カエデ科に属する落葉樹で、花期は3~4月。 新芽が出る前に赤い花を付けるという珍しい性質を持っていますが、短命で1週間程で散ってしまうため、見頃を捉えるのは相当難しいようです。また秋は秋で葉が紅葉&黄葉し、とても風情ある光景を見せてくれます。そして滋賀は、このハナノキの巨木の自生最西端に当るのです。

東近江市北花沢町/南花沢町の国道307号沿いに、自生樹の中でも特に有名なハナノキの巨木があります。

南花沢のハナノキ

「北花沢のハナノキ」は樹高17m・樹幹周囲3m。樹齢は約260年と言われています。こちらはまだ比較的若い木です。

対して八幡神社境内にある「南花沢のハナノキ」は大樹としての貫録十分!

樹高21m・樹幹周囲5m、樹齢は約460年と言われ、こちらは平成2(1990)年に大阪・鶴見緑地で開催された「花と緑の博覧会」の事業として企画された『新日本名木100選』にも選ばれています。

…と言いたいところですが、「花と緑の博覧会」から20年後の平成22(2010 )年8月4日。 国内で最も太い主幹を誇っていた南花沢のハナノキでしたが、空洞化による樹勢の衰えにより、残念ながら倒壊してしまいました。

南花沢のハナノキ(保存されている主幹)

幸い若い幹は残り延命措置が施されているほか、主幹の一部も境内で大切に保存されています。

未だ大正天皇が皇太子であらせられた明治43(1910)年。滋賀を訪問された際、このハナノキにいたく興味を抱かれたそうです。そこで翌年10月、地元から苗木2鉢が皇室へ献上されました。これが縁となったかは定かではありませんが、共に大正10(1921)年3月3日に国の天然記念物に指定されています。

さて南花沢のハナノキが自生する八幡神社には、江戸時代中期の享保5(1720)年に奉納された『当社八幡宮竝花木記(とうしゃはちまんぐうへいかもくき)』という文献が残っています。これにはこのようなお話が記されています。

聖徳太子が未だ厩戸皇子(うまやどのみこ)と称していた頃のことです。

厩戸王(聖徳太子)

河内國(現在の大阪府)に四天王寺(してんのうじ)を創建するにあたり、蘇我馬子(そがのうまこ)に命じてこの近江國で瓦の土の選定並びに生産を命じていました。 現在、東近江市にある箕作山(みつくりやま)にある瓦屋禅寺(かわらやぜんじ)がその拠点であったと伝えられています。

皇子はそこから遥か遠くの山を眺めていました。すると東方にある高い山に不思議な光明を見付けました。皇子が近習の者にその山の名を尋ねると、「それは釈迦山です」と教えられます。

早速その光明の源を辿っていくと、何とそれは杉の霊木だったのです。皇子は立木のままの杉に十一面観世音菩薩を彫り、これを中心として東西南北の4つの谷に分けて300の堂塔を建立しました。

百済寺【滋賀県提供】

これが湖東三山の1つ、百済寺(ひゃくさいじ)の創建であると伝えられています。百済寺の造営を終えた皇子は大和國・小墾田宮(おはりだのみや)への帰り道、 2人の家来を連れ近くのとある村を訪れ休憩をとります。

南北に分かれたまだ無名であった村に、「仏法が末長く隆盛するなら、この木も成長するであろう」と皇子は霊木を一株ずつ植えました。そして村を「花沢村」と命名し、2人の家来をそれぞれの村の領主として住まわせたそうです。

また『近江名所案内記』や『淡海木間攫(おうみこのまざらえ)』では、皇子が昼の弁当を食べた際に使用していた2本の箸をそれぞれに差したものであるとしています。

さて2つの村に植えられたこの霊木ですが、誰もその名称を知りません。春になると葉の新芽が出るよりも先に花は咲かせるのですが、実はなりません。そこで村人たちはこれを“ハナノキ”と呼ぶようになったのだそうです。

かつての南花沢のハナノキ【滋賀県提供】

さて、前述しました両方のハナノキの樹齢から考えますと、伝説と現実には約950~1150年のギャップが発生します。しかし事の真偽はともかく、近郷の人々からは葉一枚すらここから持ち出さず、代々尊い存在として崇められているのです。

この記事を公開する頃には、ちらほらと花は咲き始めていることでしょう。ただ近年の気候変動が影響し、開花時期を見定めるのは更に困難を窮めてきました。全国的な自粛ムードで梅や桜の花見どころではありませんから、この不可思議な“ハナノキ”の開花で仄かな春の訪れを感じてみてください(^^)

また秋の紅葉シーズンも違った趣が堪能できます。モミジとはまた異なる“メープルっぽい”紅葉を是非ご堪能ください(この頃なら異常なパンデミック・シンドロームも終息している・・・と思いたいです)。

今回の記事に資料をご提供いただきました滋賀県庁広報課様。この場を借りまして厚く御礼申し上げます。

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