日々是滋賀日和 “湖國浪漫風土記”にようこそ

~近江の國は歴史の縮図である~

本日天気晴朗ナレドモ浪高シ~コロナに負けるな~

【取材活動に於ける新型コロナウイルス感染拡大抑止に係る行動指針宣言】
令和2年4月15日 追補
令和2年11月1日 改訂

国内のみならず、世界的パンデミックの様相著しい新型コロナウイルス感染症。小生はこの拡大抑止に日本人としての良心と誇りに掛け、積極的に協力することをここに宣言致します。日本政府、厚生労働省並びに滋賀県が発出する最新の行動指針に則り、この感染症の動静を勘案したうえ、感染対策を徹底し、取材活動を行います。なお当面の間は原則取材活動を制限致しますので、令和1年12月までに取材したストックを中心に記事をお届けして参ります。これに伴い、更新の遅滞や時勢・時期との適時適切さに欠如する内容となる可能性がございますことをご容赦ください。ご心配をお掛け致しますが、何卒ご理解賜りますようお願い申し上げます。

滋賀の知られざる歴史、忘れ去られゆく民話、先人たちの偉大なる足跡を後世に伝える渾身の激白(?)徒然紀行。

生まれ育った近江國の風土をこよなく愛する土着民が、“滋賀の郷土史”を皆様に知って戴ければとの想いで書き綴っております。時折・・・しばしば(?)「彷徨」もございますが、ご高覧・ご笑覧賜れば幸いです<(_ _)>

※相互リンク大歓迎です。ご意見・情報承ります(^^)よりご連絡戴ければ幸甚です。

管理人:企画室 江州新田藩 藩主 後藤 奇壹


『鎌倉殿の13人』時代のワンフォアオール“比夜叉御前”の伝説

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

今冬の滋賀、特に北部・西部は本当に近年稀に見る大雪に悩まされています。自宅周辺では最高積雪が1mを越え、それらが大地に還る前に次の寒気が次々と訪れるため、生活全般疲弊の嵐です。ですが小生は仕事で南部に出向くため、その労苦が職場の人間になかなか理解されないのが頭痛のタネ。いい加減リモートで仕事をさせてもらえたらとつくづく思う今日此頃です。

さて今回は米原市は旧山東町エリアを訪れています。

下の写真の如何にもワカサギ釣りが出来そうに水面の凍った池をご存知でしょうか。そう、 旧山東町にある池と言えば・・・

さて今回のお話の舞台となるこの池の名前は・・・?

正解は三島池(みしまいけ)です(因みに薄氷ですので、くれぐれも池には足を踏み入れられませんように!)。

ここで本題に入る前に、お話の舞台となりますこの池に関する豆知識を少々。三島池は米原市池下にあり、別名“比夜叉池(ひやしゃいけ)”とも呼ばれます。

周囲は約910m。 面積37,603㎡、水深は80cm(雨季は120cm)で、南北に長い楕円形をしています。

また農林水産省が全国に存在する約21万ヶ所のため池から、平成22(2010)年3月11日に選定したため池百選の1つに選ばれました。

さらに文化庁が認定した日本遺産にも、 平成27(2015)年4月24日に『琵琶湖とその水辺景観-祈りと暮らしの水遺産』の一部(伊吹山西麓地域)として登録されています。

今から約880年前の平安時代末期。時の領主であった佐々木秀義(ささきひでよし/源頼朝挙兵に尽力した近江源氏の祖)によって、姉川の伏流水を利用して灌漑用貯水池、つまり農業用水確保のために人工的に造成された池と言われています。

池の周囲には桜・柳・紅葉などが植樹され、霊峰・伊吹山を背景とする景勝地として(特に写真愛好家の中では)全国的にも有名なスポットです。

三島池の水鳥

また水質は清冷で多くの生物が生息し、マガモ・カイツブリ・バン・オシドリ・オナガガモ・ホシハジロ・キンクロハジロ・ミコアイサ・サギといった多くの水鳥や野鳥が飛来します。

特に地元中学校の科学クラブによる2年間の観察の結果、「マガモ自然繁殖の南限地」であることが判明し、昭和34(1959)年には滋賀県の天然記念物に指定され、この地の存在は学術的にも高く評価されています。

ではここからが本題です。

その年は例年になく日照りが続き、農業に欠かせない池の水が涸れてしまいました。領主の佐々木秀義は、池に水の無いことを心配して祈祷師に占ってもらいました。すると「1人の女を池の中に沈めて水神に祈れば、水が絶えることは無くなるであろう」とのお告げが出ます。

早速秀義は人柱となる女を領内から募りますが、喜んで申し出る者など誰一人としてありはしません。沢山恩賞を出すとも触れましたが、反応は皆無でした。

むしろ領民に中では「誰が人柱になるのか?」という疑心暗鬼と不安が蔓延するばかり・・・。

三島神社から望む夏の三島池【滋賀県提供】

ある日のこと。

秀義の乳母である比夜叉御前(ひやしゃごぜん)が機(はた)織りをしている時、偶然外で村人がこの人柱の話をしているのを聞いてしまいます。

そして、その日の夜。比夜叉御前は織った機を抱えたまま池の畔に向かい、人知れず僅かに水の残る池に身を投じました。

翌朝、池は溢れんばかりの水を湛えていました。歓喜に沸く村人たちとは対照的に、事の真相を知った秀義はとても嘆き悲しみ、比夜叉御前をこの池の水神として祀りました。

それ以来、この池の水は如何に酷い干ばつに襲われても、水が涸れることは無いそうです。また雨の降る夜には池の底から機織りの音が聞こえてくると言います。

三島神社

池の西岸に鎮座する三島神社の鳥居横に、ひっそりと石塔が建立されています。

因みにこの神社は、寿永3(1184)年に先述の秀義が伊豆國(現在の静岡県)の三嶋大社の主祭神・ 三嶋大明神をこの地に勧請したことが創祀とされています。

秀義が源頼朝に仕えていた頃、常日頃から三嶋大明神を信仰し、源氏の繁栄を願って100日間三嶋神社に籠りました。結願(けちがん)は成就し、秀義は自身の領するこの地に三嶋大明神を勧請。佐々木氏の氏神としたと伝えられています。

比夜叉女墓

これが比夜叉女墓(ひやしゃひめはか)であると伝えられています。

なお現在の姿は地元有志によって整備されたもので、昭和61(1986)年には供養塔が建立されています。

比夜叉御前の墓には松が植えられ、それが機織松(“はたおりまつ”または比夜叉松)と呼ばれ現在でも大切に守られています。

機織松

比夜叉御前にまつわるこんな古い歌が今でも残っています。

名にも似ず 心やさしき たをやめの
誓も深く みつる池水

夜叉(鬼神)という名前に似ても似つかぬ心やさしい女のお陰で、お告げの通りこれまで池の水は涸れずに満ちている。

比夜叉御前が護った池は、現在水鳥たちの楽園と人々の憩いの場になっています。

加えて、ナゼだか野良猫たちの穴場にもなっていますが・・・

ノラの日向ぼっこ

水鳥さんたちとケンカにならないことを願います(^^)

今回の記事編集に写真をご提供いただきました滋賀県庁広報課様。この場を借りまして厚く御礼申し上げます。

#比夜叉御前 #比夜叉姫 #鎌倉殿の13人 #ワンフォアオール #三島池  #三島神社 #機織松 #三嶋大明神  #ため池百選  #日本遺産

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謹賀新年 天上天下唯我独尊 2022

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

新年、明けましておめでとうございます。

【湖國風土記寫眞】雪の近江富士(三上山)

お陰様を持ちまして「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」は、本日で節目の開設10周年を迎えました<(_ _)>

昨年は 微速前進の1年 でございました。今年は虚心坦懐の1年として邁進いたす所存でございます。本年も相変わりませぬご贔屓、並びにご指導ご鞭撻を賜りますようお願い申し上げます<(_ _)>

今頃極寒の中、地元氏神様の元旦祭に参賀している・・・ハズです。無論、今年も感染対策と“physical distance”を万全に整えて・・・デス(^^)v

#謹賀新年 #天上天下唯我独尊 #令和4年 #虚心坦懐  #開設10周年 #元旦祭

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令和參年 感恩戴徳

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

令和の世となり3度目の1年が、まもなく終わりを迎えようとしています。

往く年来る年

本年最後の日は、昨年同様寒波に見舞われました。この12月は18・19日、26~28日と強力な寒波に見舞われ、図らずも彦根はその豪雪振りと耐雪行政の脆弱振りに、不本意にも全国的に有名になりました。兼ねてよりラニーニャ現象の影響と異常発生したカメムシから、『今季の寒さはなお一層の厳しさが見込まれる』とは言われていましたが、まさかスタートダッシュの段階からこの有様とは予想だにしませんでした。

先の寒波で最大約1mの積雪が融けやらぬ今また、今日からもたらされた年末年始寒波の影響で着実に街が雪に埋もれようとしています。

さて皆さんにとって今年はどのような1年でしたでしょうか。今年も昨年に引き続き『新型コロナウイルス感染症』パンデミックに翻弄された1年だったのではないでしょうか。

滋賀でもこの夏、蔓延防止等重点措置そして非常事態宣言が発令。その後秋に入り、確信的な原因は不明のまま全国的に収束。しかし年末になって15番目の変異株、オミクロンが徐々に日本の市中に迫りつつあり、再び先の見えない混沌とした状況を呈しています。

昨年末は『新型コロナウイルス感染症』パンデミックに対する恨みつらみをタラタラと書き殴りましたが、もう翻弄され過ぎていい加減疲れましたし、何かに期待したところで裏切られる結果が目に見えていますので今回は敢えて致しません。

今年の12月8日は、大東亜戦争の契機ともなった真珠湾奇襲攻撃から丁度80年。この事件を基軸として、あらゆるメディアで様々な証言や再検証、日米の同盟や友好に関するコンテンツが世に溢れました。

大変興味深く拝見していたのですが、結論として自身から導き出されたものは、相変わらず人類は『唯一倫理観を持つ動物』とされながら『歴史に学ばない、或いは学べない動物』であることを再認識させられたことでした。

これまで人類は未知の脅威や未曽有の危機に何度も苛まれてきました。しかしその度に英知を結集して事に対処してきました。しかしここ100~150年間は、同じような過ちを繰り返し、同じような危機をもたらし、同じように喉元過ぎれば熱さを忘れているように感じます。

結局一番迷惑を被るのは一般庶民ばかり。もういい加減にして欲しいというのが本音です。

暗くて小難しい話はその位にして、話題を変えましょう。小生の今年の三大事件(?)は・・・


①10年越しに想いを募らせてきたアメノミナカヌシノカミ(天之御中主尊神社)への奉拝が叶いました。
②お払い箱同然だった部門に責任者として飛ばされて、「あぁ私の社会人人生もここいらが潮時だな」と半ば諦めていましたが、着任早々急転直下業績回復を成し遂げて、今やとても居心地の良い空間に進化しつつあります。
➂家族全員が人生初の『流しそうめん』を体験しました。


・・・といったところです。この3つの出来事は全て夏の1ヶ月に集中していることから、小生にとっての、まさに『緊急事態宣言』であったことは否めません(笑)。

まぁその他にも子供が無事に進学したとか、知らずに超大物芸能人と仕事で接触していたとか、相変わらず何処をひっくり返しても金が無いとか色々ございましたが、家族全員が愉しく健やかに、この世の片隅でひっそり大過なく暮らせたことが最大の慶事です。『全てに真摯、全てに奉仕、全てに感謝』の姿勢が今年も生かされました。

この激動の一年、大変お世話になり誠に有難うございました。来年も何卒ご指導ご鞭撻、そしてご愛顧を賜りますようお願い申し上げます。

#感恩戴徳 #新型コロナウイルス  #真珠湾奇襲攻撃  #緊急事態宣言   #全てに真摯全てに奉仕全てに感謝

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近江源氏と大蛇の因縁“渡合淵”の伝説(後篇)

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引き続き、近江源氏と大蛇の因縁“渡合淵”の伝説をお届け致します。

敦実親王によって渡合橋に棲まう大蛇が征討され、平和がもたらされた奥津島地区。しかし物語はこれで終わりではなかったのです・・・。

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渡合淵(長命寺川)

あれから約350年後の鎌倉時代中期。亀山天皇(第90代天皇・1249~1305)の御代の頃のこと。

文永7(1271)年7月。再びこの渡合淵(わたらいふち)に大蛇が出現し、夜毎人畜に甚大な被害を与えているという知らせが寄せられました。

当時鎌倉幕府の御家人にして近江國守護であった佐々木頼綱(ささきよりつな・1242~1311/近江源氏庶流佐々木氏本家六角氏2代当主・六角頼綱とも呼ばれる)は、この報を受け早速征討に向かいますが、神出鬼没にして変幻自在に姿形を変え、討伐は困難を窮めました。

沙沙貴神社

そこで頼綱は佐々木氏の氏神にして近江源氏の始祖を祀る沙沙貴神社(近江八幡市)に参詣し、この大蛇についてお伺いを立てました。

するとこの大蛇は、かつて日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が退治した伊吹山の荒神・白猪の怨念の化身であるとのお告げを賜ったのです。

早速頼綱は家伝の征矢(そや/戦場で使う矢)を用い、再び征討に赴きます。そして見事大蛇を討ち果たしました。

退治された大蛇の魂も祀られることになったのですが、今回は渡合橋の袂にある百々神社ではありませんでした。では、いったい何処に???

日吉神社(井口大明神)

渡合橋から北北東へ移動すること約50km。長浜市は旧高月町エリアに参りました。こちらの井口(いのくち)集落に日吉神社が鎮座御座します。

こちらの創祀に纏わる伝承に依れば、『文永七年七月近江国蒲生郡渡江淵に大蛇現れ夜毎人蓄を害する事甚だしく、国主佐佐木頼綱これを聞き、その害を除かんとしたが、大蛇変幻出没常にその姿を変じて計り難く、東条経方と共にその大蛇を家伝の征矢にて射殺し、其の霊を国中の井がしらに祀らせた伝承あり、これを当社井口大明神と号せしむ』とあります。

つまりこの地を始めとして、全国の井頭・井口の名で大蛇は祀られたというのです。またこちらはかつて井口大明神の総本社として、水神信仰の崇敬を集めたとも言われています。

でも何故ここに祀られたのでしょうか?ポイントは前述の伝承内にある東条経方(とうじょうつねかた) という人物の記述にあります。

この人物は近江源氏佐々木氏の流れを汲む武将で、この辺りの領主でした。今回の頼綱の討伐軍に従軍し、手柄を上げています。後に頼綱の命により近江國の旱魃(かんばつ/長期間の水不足のこと)対策に貢献し、これを契機として井口姓を名乗ります。子孫は高時川水系の井堰(いせき/川の水をせき止める場所)を統括管理し、戦国時代に湖北地方を領した浅井氏に於いて、湖北四家と呼ばれた重臣団の1つに列しました。つまり水利にノウハウの高い家柄であったことが窺えます。

飽くまでも推論ではありますが、経方は自身の領地にも程近い伊吹山に所縁を持つこの大蛇の魂を、水利を司る神として引き受けたのではないかと思われます。

因みにここを日吉神社と称するのは、中世ここが比叡山延暦寺の所領である荘園(冨永荘)で、延暦寺の守護神である坂本の日吉大社後分霊を奉祀していたことに由来するとされています。

さて井口大明神は何処に?

井ノ神社

日吉神社境内、本殿の東隣に井ノ神社が鎮座御座します。 現在井口大明神は、日吉神社の境内社として祀られています。

かつて高時川流域の村々には「餅の井の懸越し(かけごし)」という水利の取り決めがありました。通常上流に位置する集落ほど川上に井堰を設けるのが厳然たる慣行でした。しかし浅井氏2代の久政が自身の権力基盤強化のために、下流の集落に川上の井堰の権利を認めるという前代未聞の取り決めを、井口氏に突き付けました。

この難題に井口氏は「餅の井落とし」という旱魃時にはこの条件取り決めをフリーとし、下流に無条件で水を流すという交換条件でもって承諾。加えて浅井氏との関係をさらに強固にすることでこの難局を乗り越えました。

以降この井落としを決行する際は、下流の各井堰の役員が井頭である井口集落において会合し、井落としの決行を決
議。そして作業を執り行う農民達は各井堰役員の統率のもと井ノ神社に参拝。その後服装を整え隊伍を組んで井落としに臨みました。

滋賀県が井口付近の全6井堰を統合する合同井堰建設事業の第一弾として、コンクリート構造の合同井堰が1942(昭和 17)年に完成したことにより、永年受け継がれてきた旧6井堰中4井堰が撤去。水利権をめぐる慣習の大部分が改革されるとともに、井堰間の水利紛争も飛躍的に改善されました。

これによりこの井落としの慣習はも、実質的に終止符を打つこととなりました。

渡合淵で猛威を振るった伊吹の荒ぶる神の怨念は、湖北の水利の護り神となって、約700年に渡りこの地に君臨しました。

同じ場所で同じような災厄が何度も繰り返されるのは実に珍しく、何故渡合淵がそのような地縁であったのか。今となっては知る由もありませんが、それでも共に鎮護の礎となったのは幸いです。

【参考文献】 江姫の故郷・高時川に学ぶ先人達の水利用~水への感謝と自然への畏れ~(独立行政法人水資源機構 丹生ダム建設所 編)

#渡合橋 #渡合淵 #佐々木頼綱 #沙沙貴神社 #近江源氏 #日本武尊 #日吉神社 #井ノ神社 #井口大明神 #大蛇 #餅の井の懸越し #餅の井落とし

沙沙貴神社

・滋賀県近江八幡市安土町常楽寺1
【TEL】0748-46-3564

日吉神社井ノ神社

・滋賀県長浜市高月町井口122
【TEL】0749-85-4351

【おしまい】

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近江源氏と大蛇の因縁“渡合淵”の伝説(前篇)

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性懲りもなく、また近江八幡市に舞い戻って参りました。以降当面訪れる予定はございませんので、何卒ご容赦を(笑)。

極端な解釈ですが・・・恐らく滋賀の大半のドライバーなら、或いはビワイチした人なら一度は通ったことがあるであろう場所に纏わるお話です。

近江八幡市の八幡(鶴翼)山系の北端、島町と北津田町の境界辺り。ここに琵琶湖と西の湖を結ぶ長命寺川が流れています。

渡合淵(長命寺川)

以前は今より半分の川幅で、かつて八幡山北麓に拡がっていた津田内湖の東部に注いでいましたが、周辺内湖の干拓事業のために放水路として活用するため、現在の姿となりました。

川と申しましても流れは緩慢で、時折航行する観光船やバスボート、または滋賀県立八幡商業高等学校ボート部の競技用ボートがさざ波を立てるのみで、至って静かな水面を呈しています。

しかしこの場所。一昔前は渡合淵(わたらいふち)と呼ばれ、それはそれは周辺の人々から大変怖れられていた難所だったのです。

渡合橋(渡合堰)

湖岸道路と県道26号(大津守山近江八幡線/通称:浜街道)が交差する地点に、長命寺川の水門(渡合堰)と一体となった渡合橋(わたらいばし)があります。

もともとの橋は約50m西側に架橋されていましたが、昭和38(1963)年に大中之湖地区国営琵琶湖干拓建設事業により、西の湖の水位を保持して周辺の広大な農地に供給する用水の確保を行う目的で水門が設置され、その管理橋も兼ねて現在の場所に架け替えられました。

平成6(1994)年には水門橋がリニューアルされ、今に至ります。

平安時代中期、宇多天皇(第15代天皇・867~931)の御代の頃のこと。当時長命寺山に連なる姨綺耶山系(いきやさんけい)周辺は奥津島と呼ばれる島で、渡合橋は舟を使わずに内地と連絡する唯一の手段でした。

しかしこの橋の下には一匹の大蛇が棲み、悪事を働いては往来する人々を悩まし、周辺の村人も大変困っていました。

ある日のこと。この橋の近くに住む一人暮らしの老人のあばら家に、一人の高貴な人物が立ち寄りました。その者の名は敦実親王(あつみしんのう・893~967 )。敦実親王は宇多天皇の第8皇子で、近江源氏の祖。早世の多かった宇多天皇の皇子の中で唯一長命を保ち、常に坂家宝剣(ばんけのほうけん/天皇家に相伝される朝廷守護の宝剣)を帯剣し、また和歌・管弦・音曲・蹴鞠にも通じ、内外から重んじられた才人でした。

皇子はこの老人から大蛇の退治を懇願されました。これを聞き入れ、当時小脇郷(おわきごう/現・東近江市旧八日市エリア)で勢力を誇っていた渡来人・狛の長者(こまのちょうじゃ)とともに佐佐木大明神(沙沙貴神社)に願を掛け、渡合の大蛇退治に挑み見事討ち果たします。

百々神社

その後、村人たちは大蛇の魂を橋の袂に祀り、百々神社(ももじんじゃ/通称:道祖さん)と命名しました。以来百々神社は風邪や喘息の全快などにご利益があるとされています。またこの神社の名を紙に書いて貼っておくと蛇除けになるとも言われ、今でも大切に祀られています。但し、百々神社の前を死人が通ると祟りが起きるとも言われています。

因みに当初は百々を『どど』と呼んでいました。しかし戦国時代に織田信長が安土城を築城した際、家臣たちの通用口として、また山中に建立された摠見寺の参道として設けられた城門(百々橋口)の前に百々橋(どどばし)が架橋されることを知るや否や、時の権力者に忖度して『もも』に改称。以降織豊政権崩壊後も、元に戻されることは無かったそうです。

現在は対岸にある大嶋神社奥津嶋神社(おおしまじんじゃ・おきつしまじんじゃ)の境内社となり、奥津島地区の守護神として人々を見守っています。

めでたしめでたし・・・と言いたいところですが、この物語はこれで終わりではなかったのです・・・

【参考文献】 水辺の記憶-近江八幡市・島学区の民俗誌-(近江八幡市市史編纂室 編)

#渡合橋 #渡合淵 #敦実親王 #宇多天皇  #近江源氏 #狛の長者 #大蛇 #百々神社 #長命寺川

百々神社

・滋賀県近江八幡市北津田町2

【後篇へ続く】

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風来・・・坊さんとの不思議な御縁“まめ大師尊”の伝説

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

ようやく(笑)近江八幡市を離れ、今回は彦根市をぶらぶら訪れております。

さて皆さん、大師(だいし)という言葉をご存知ですか?大師とは中国や日本に於いて高徳な僧に朝廷から勅賜の形式で贈られる尊称の一種です。

これまで日本では10宗派の高僧25人に大師の称号が朝廷より与えられました。でも一般的に「お大師さん」と言えば弘法大師、即ち真言宗の開祖・空海が圧倒的な知名度を誇っています。何せ『大師は弘法に奪われ、太閤は秀吉に奪わる』などという格言が残っている位ですからね(笑)。

弘法大師は庶民からの信奉が厚かったこともあり、全国各地にミラクルなエピソードが伝えられています。滋賀も勿論例に漏れず、拙ブログでもご紹介致しております。

中山道屈指の霊験と絶景“磨針峠”の伝説 

天空の里山紀行(5) “河内下村集落”

今回そんなお大師さんの新たなエピソードを発掘して参りました。

高野山真言宗 弘法大師堂

彦根城の城下町西方。現在は住宅街ですが、かつて足軽屋敷が軒を並べていた場所に高野山真言宗 弘法大師堂があります。

県道2号(大津能登川長浜線)沿いには「まめ大師」と大きく書かれた矢印看板が設置されており、以前から気にはなっておりました。今回秘仏御開帳の情報を得ましたので、これを機会に奉拝することと致しました。

県道から繋がる参道は周辺の生活道路も兼ねており、道幅も駐車場も決して広くはないので、可能ならば軽自動車や小型車で訪れることをお勧め致します。弘法大師堂は庫裏と一体となった、こじんまりとした寺院というのが印象です。

近江新四国八十八第十番札所となっていますが、詳細は不明。江戸時代から明治時代に掛けて、四国八十八箇所霊場に代表されるように、庶民の間で巡礼ブーム巻き起こりましたので、その一種かと推察致します。

弘法大師堂 水掛不動明王

山門を潜り抜けて直ぐ左手に、水掛不動明王が祀られています。

水掛不動さんと言えば大阪の法善寺横丁に御座す、苔でモッフモフの水掛不動尊(西向不動明王)が有名ですね。因みに本来は「水を掛ける」ではなく「水を手向ける」、即ち“お供えする”という意味ですので、くれぐれもお間違いのございませんように。

弘法大師堂 地蔵菩薩

関西在住の私たちにとって「お地蔵さん」のある光景は、至極日常的なこと。でも子供たちのイベントとして地蔵盆が行われたり、生活に密着して「お地蔵さん」が祀られていたりするのは、関西以外の方々にとっては奇異に映るのだそうですね。

関東甲信越の方々ならばむしろ、「道祖神さん」が私たちにとっての「お地蔵さん」に近い存在なのかも知れません。但しいくらお地蔵さんが子供たちに寄り添った存在とは言え、決して地蔵盆を「日本版ハロウィン」などと誤った解釈や説明をなされぬようお願い致します。

さて、いよいよ本堂にお邪魔致します。

弘法大師堂 本尊・弘法大師坐像

弘法大師堂と銘打つに、正面に「お大師さん」が堂々と鎮座御座します。

これまで幾つかの真言宗の寺院を訪ねて参りましたが、宗派の開祖が御本尊として祀られているのは初めて遭遇しました。それだけ民衆に慕われていた証拠なのやも知れません。

それではようやく、今回御開帳となる秘仏・まめ大師尊のご縁起をお話し致します。

その昔、この寺院に少し風変わりな風体の僧侶が「宿を貸して欲しい」と言って突然訪れました。住職も「何とも変わったお方がお見えになられたものだな」と思いつつも、お迎えすることとします。程なくして何とも言えぬ有難いお声で読経され、その後「私は土佐國(現・高知県)からやってきた来ました。大阪に帰依してくれる方が居るので、正月の二日にはそこに行かねばならなりません」と仰るのです。

住職が「留守中、土佐のお寺はどうなさっているのですか」と尋ねると、「私の留守中は村の青年たちが番をしてくれているので少しも心配ない。私の寺には裏に細い滝があり、しばしば屋根の上に五色の雲がたなびいているので、お遍路さんが『あそこには何かご利益が有りそうだ』と言って、時折立ち寄っては拝んでいかれるのです」と申され、それから何と1週間も逗留されました。

その逗留中のこと。僧侶は信徒さんからの供物であった豆と米を「ちょっとおくれ」と言って奥の座敷に持っていかれました。住職が「何をなさるのだろう」と不思議に思っていると、旅立たれる前日、「この豆粒と米粒には、ここにお参りに来られる信心の方が、まめで達者で幸せに暮らせるようにとの秘法祈願を込めて書かせてもらったから」と、大豆に弘法大師様、観音菩薩様、地蔵菩薩様、不動明王様、稲荷神様の御影、いろは四十七文字。また米粒には弘法大師様、大黒様の御影、阿弥陀如来様の御名号(南無阿弥陀佛)が描かれた9つの大豆と米を渡されました。

他にも、この僧侶が雨の日に外出しても全く濡れずに帰って来たり、お見送りをすると何時の間にか御姿が見えなくなることがあったりと、実に不可思議なことが多々起きたそうです。そして約束の正月の二日になると、すうっと消えるように旅立たれてしまったのです。

知らぬ間に姿を消されたことを大層残念に思った住職は、後日四国遍路の巡礼に赴く方に、「土佐まで行ったら、裏に細い滝のあるお寺を探して、代りに御礼を述べて欲しい」と依頼しました。程なくしてお寺は捜し当てられましたが、誰もいる様子がありません。近在の住人に尋ねると、村の青年たちが持ち回りで番、掃除などをして世話をしているだけだとのこと。ただあるのは、 弘法様が祀られているだけ。「あの僧侶はここの弘法様だったに違いない」・・・住職はそう確信したそうです。 

以後授かった豆粒と米粒はまめ大師尊と称し、秘仏として五年に一度の御開帳を厳修して大切に祀られています。そして、また無病息災・福徳長寿にご利益があるとして、信徒はもとより、近隣在郷の人々からも親しまれています。

『お大師さん』と豆のエピソードは、広島・厳島神社にも民話として伝えられていますが、趣は全く異なります。弘法大師の風変りと申しましょうか風来坊振りは往々にして一致しているのですが、全国に伝わるお話はその大半がウィットなテイストに満ちています。それ故、こちらに伝えられているお話は珍しい系統のように思えます。

弘法大師堂 (左)御朱印・(右)散華

令和3年はまさしくその5年に一度の御開帳の時期にあたり、去る10月21日から24日までの4日間、法要並びに秘仏公開。そしてワークショップや各種イベントが催されました。

小生も秘仏を奉拝致しましたが、経年劣化で風化が認められるとは言うものの、顕微鏡や拡大鏡な等といった文明の利器が存在しない時代に、このような極小のカンバスに如何様にしてかくも鮮やかな絵や文字が描けるものか・・・ご利益を願うことも忘れて見入ってしまいました(笑)。

なお御開帳という性質上、写真では秘仏をフレームアウトさせています。当日御朱印と散華を授与戴きましたので、そちらで雰囲気を味わって戴ければと存じます。実物は次回令和8(2026)年の機会に是非その眼で直接ご参拝ください。

住職の藤田さんは「真言宗は滋賀では圧倒的に規模の小さな宗派。それだけに少ない門徒さんや県外から転入されてきた信徒さんに寄り添った活動を心掛けています。今後も『お大師さん』のご加護でもって、世代を問わず地域に根差した温かみのある拠り所を目指していきたい」とお話しされてました。

後日まめ大師尊参拝の話を母に致しましたところ、母が小学生まで両親に連れられて御祈祷を受けていたと教えてくれました。世代から世代へ脈々と地域に根差してこられたのを改めて知り、また不思議な御縁を感じました。

今回の記事作成にあたり、 高野山真言宗 弘法大師堂 住職の藤田さんには多大なるご協力を賜りました。この場を借り厚く御礼申し上げます。

【取材協力】 高野山真言宗 弘法大師堂

#まめ大師尊 #弘法大師 #高野山 #真言宗 #御開帳 #水掛不動明王 #近江新四国八十八

高野山真言宗 弘法大師堂

・滋賀県彦根市栄町2丁目5-29
【TEL】  0749-22-5765
【駐車場】  あり(本堂前8台程度)

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湖國寂静紀行“琵琶湖畔屈指のBeautiful beach・宮ヶ浜”

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

さて未だにしつこく近江八幡市の旧近江八幡市エリアをぶらぶら訪れております。

夏のレジャーといえば、大雑把にカテゴライズすると「海」か「山」ですよね。小生は夏という季節が余り好きではありませんので、基本レジャーにも無縁です。

滋賀も夏休み中は新型コロナウイルス感染症感染拡大抑止のための緊急事態宣言が発令され、レジャー関連施設の大半が休業や規制の措置を採っていました。でも関係者の努力や配慮も空しく、特に県外からの観光客の流入が著しかったように感じます。

結果このような悠長な文章が記述出来るのも、原因や要因が未だ判然としないにも関わらず感染者が激減し、緊急事態宣言が解除されてしまったおかげ。感染抑止のための措置に翻弄された方々の気持ちを思うと、手放しで喜ぶなどとても出来ません。

宮ヶ浜より沖島を望む

今回は滋賀でも屈指のBeautiful beachをご紹介するのですが、敢えて夏を外したのはそんな辛い想いをされた皆様へのせめてもの配慮とご拝察ください。

夏になりますと、琵琶湖畔では多くの水泳場(湖水浴場)が開設されます。淡水のため肌にベトつかないということから、特に大阪や京都から多くの利用客が訪れます。特に地形的な利便性から湖西エリアに多く点在し、知名度が高い所では近江舞子水泳場・マキノサニービーチ・松ノ浦水泳場・近江白浜水泳場・青柳浜水泳場・真野浜水泳場などがあります。

でも大半の水泳場は「眼前に琵琶湖と対岸の風景」「白砂青松」「ストレートな横長の砂浜」とシチュエーションはほぼ同じ。でも近江八幡には他の水泳場とは少し趣向の異なるBeautiful beachが存在します。それが宮ヶ浜(みやがはま)です。

宮ヶ浜 東景

宮ヶ浜は内湾の奥地に位置し、また日本で唯一淡水湖に浮かぶ有人島・沖島を正面に眺めることが出来る、琵琶湖の水泳場の中で唯一無二の情景を誇ります

砂浜の総延長は約500mと決して水泳場の規模としては大きくありませんが、内湾の湾曲で何処にいてもビーチ全体が見渡せるというこじんまり感も魅力の1つ

場所的に幹線道路(湖岸道路)からも大きく外れており、ちょっとした隠れ家感があります。

そして何よりも砂浜よりも芝生の部分がとても大きいことから、水浴目的でなくとも寛げるのが最大のメリット。ただ風景を眺めるだけに訪れても損はありません。事実、小生はこの地を夏に訪れたことは殆どありません(笑)。

さらに近辺のエリアはプレジャーボートの航行が禁止されています。近隣には漁港も多く、漁業協同組合所属の船舶の厳しい監視体制もありますから、湖上から雑音は殆ど聞こえてきません。寧ろ時折横切る漁船のエンジンのポンポン音が、却って懐かしさを誘います。

宮ヶ浜 西景

小生の主観だけではなく、このビーチの素晴らしさに関する客観的データもあります。

平成10(1998)年3月12日に環境庁(現・環境省)により発表された日本の水浴場55選。全国38都道府県から推薦された186の水浴場の中で、滋賀の水浴場としては唯一入選しています。

また平成13(2001)年3月23日に 同じく環境庁により発表された日本の水浴場88選。全国40都道府県から推薦された146の水浴場の中でも見事入選しています(同時に滋賀の水浴場としては真野浜も入選)。

つまり「水質・自然環境・景観」「コミュニティ・クリーン」「安全性」「利便性」に於いても公的にお墨付きを頂戴しているビーチなのです。

また余談ですが、昭和52(1977)年7月2日からスタートした鳥人間コンテスト選手権大会も、 昭和54(1979)年7月20日の第3回大会まではこの宮ヶ浜(第4回から現在に至っては彦根市・松原水泳場)で開催されました。

休暇村 近江八幡(東館)

宮ヶ浜単体を堪能するのも悪くはないのですが、ここを訪れたら休暇村 近江八幡も是非愉しんで頂きたいですね。

かつての国民休暇村という名称の方が馴染み深いかも知れません。

国民休暇村は国立公園及び国定公園の集団施設地区に設置された総合的休養施設。旧厚生省により、低廉で健全な宿泊施設を中心として、スキーやキャンプ等といった地域の特性に応じた各種レジャー施設を集団的に整備することが目的でした。自然公園法の公園計画に基き制度化され、昭和36(1961)年度から整備が開始されています。

国民休暇村には国費により国または地方公共団体が整備した基本的公共施設と、年金福祉事業団の直接融資等により財団法人国民休暇村協会が整備した有料施設から構成されていました。

平成24(2012)年4月1日に全ての施設の運営が一般財団法人休暇村協会に移行され、現在は完全な民間レジャー施設として全国35箇所に展開しています。

因みにかつての近江八幡国民休暇村は、後者( 財団法人休暇村協会 )が運営する第1号の休暇村として、昭和37(1962)年7月21日に現在の西館の場所に開業したものです。

昨今は近江八幡初の温泉『宮ヶ浜の湯』や、近江牛をメインとした懐石料理にバイキングが大変好評を博しているとのこと。小生もコロナ禍がもう二段三段落したら、家族と共にゆっくり温泉に浸かり、近江牛に舌鼓を打ちに訪れたいと思っています。

近江鉄道バス(長命寺線 休暇村停留所)

休暇村 近江八幡を訪れていた際、偶然にもリバイバルカラーの近江鉄道バスに遭遇。早速運転手さんに許可を頂いて撮影させて戴きました。

実は去る8月30日の臨時ダイヤ改正で長命寺線・休暇村行きの定期便が平日2便のみとなり、土曜・日曜・祝日の運行が休止となってしまいました。たまたまその最後の休日運行便に遭遇したのです。昔は週末や夏休みには臨時便を運行する程のリゾート路線だったのですが・・・これも時代の流れというものでしょうか。

休暇村 近江八幡では『沖島クルーズ』や宮ヶ浜の『早朝お散歩会』等の体験イベントを通年開催されていますので、詳しくはお問い合わせください。夏には夏の、また夏では味わえない宮ヶ浜を是非訪れてみてください。

なおこれは蛇足なお話ですが、今回情報の正確性を期すべく、正式な取材協力を近江鉄道株式会社へ何度も依頼しましたが、対応の可否すら回答を戴けませんでした。これまであらゆる公共機関・行政・企業・団体・個人に取材協力のお願いを誠意をもって行って参りましたが、全く無視されるのは初めてのケース。子供の頃から個人的にも地元企業として親しみを込めて応援してきただけに、その不誠実な姿勢を大変残念に思いました。昔はそんな会社じゃ無かったのになぁ・・・(泣)。

【取材協力】 休暇村 近江八幡

#宮ヶ浜 #沖島 #近江八幡 #休暇村 #琵琶湖 #水泳場 #鳥人間コンテスト

休暇村 近江八幡

・滋賀県近江八幡市沖島町宮ヶ浜
【TEL】  0748-32-3138
【休業日】  年中無休
【営業時間】 日帰り入浴受付11:00~14:00(入浴利用は15:00まで)
       ※メンテナンスのため、水曜日のみ12:00~14:00(入浴利用は15:00まで)

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湖國寂静紀行“天地開闢の力・天之御中主尊神社”

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

8月2日から滋賀県に発令された新型コロナウイルス感染拡大抑止のためのまん延防止等重点措置。8月27日から9月12日、後に30日まで延長して発令された緊急事態宣言。

現状が急激に(数値上)悪化方向へ転じなければ明日でもって規制解除となるのでしょうが、果たしてこのままで良いのでしょうか。実際規制期間中にも関わらず、県外者の流入は相当認められましたし、人流も確実に増加していました。昨年の今頃と比しても、自身の周囲にもコロナが迫りつつあるという危機感を強く感じました。

メディアでの論調でも散見されるように、『感染抑止のための行動が明らかに緩みを生じていたのに何故(数値上の)感染者が減じたのか』について、今こそ徹底的に検証を行うべきと考えます。アフターコロナを1日も早く迎えるためにも必要不可欠なことではないでしょうか。

さて今回も引き続き近江八幡市の旧近江八幡市エリアを訪れております。

突然ですが、皆さんは『有名な日本の神様』といえば、どなたの御名が浮かびますか?

高天原を統べる主宰神で伊勢神宮に祀られる天照大神(アマテラスオオミカミ)。高天原と黄泉の国の間にあるとされる世界(地)の主宰神で出雲大社に祀られる大国主命(オオクニヌシノミコト)。日本列島を構成する島々を創成した国生みの神で多賀大社に祀られる伊邪那岐命(イザナギノミコト)と伊邪那美命(イザナミノミコト)でしょうか。

でもその前に、『古事記』や『日本書紀』には“天地創造を成した神様”の記述が存在することをご存知ですか?

天之御中主尊神社 参道

先日訪れた鶴翼山(八幡山)の北西。長命寺山の南麓に天之御中主尊神社(あめのみなかぬしのみことじんじゃ)が鎮座御座します。

こちらの神社の存在を知ったのは今から10年前のこと。『むべ』の取材で近くを訪れた際、この神社のことが妙に気になって仕方がない衝動にかられました。後日調査を開始するものの、神社の名前が難解で当時は結局何も解らず仕舞い。仕事の忙しさも手伝って、そのまま忘却の彼方に。

昨年になってふとこの忘却事案を思い出し、再調査を開始。概要は掴み出せつつも、今度は参拝の機会に恵まれないという事態に。なかなか御縁の糸を手繰り寄せられずにいました。

そして今夏。ようやく参拝の機会を得ることが出来ました。

天之御中主尊神社 境内

市道から参道に入り、50m程進むと6台程度パーキング可能な駐車スペースがあります。但し、参道前にある鳥居の幅は非常に狭いので、運転に自信の無い方は近くに駐車された方が良いかも。ある種、ここの神様に拝謁するための最初の関門なのかも知れません。

そして一段高い場所に境内があり、ここから手水舎、拝殿、境内社、本殿と進みます。境内は水がせせらぐ音で溢れています。これにより喧騒が打ち消され、非常に清らかな雰囲気を醸し出しています。

これは飽くまでも私事ですが、小生ととても相性の良い神様に出逢うと、必ず起きる現象があります。別に霊感が強い訳でもありませんし、スピリチュアルカウンセラーでもございません。でも神様と向き合った瞬間、それまで無風だった周囲にそよ風が吹き、鎮守の森がさざめくのです。そう言えば伊勢神宮でも似たような出来事に遭遇したような・・・。

今回も本殿にて奉拝した瞬間、風が吹きました。『ようやく出逢えたな』と歓迎して頂けたようで嬉しかったですね。

なお境内社には伊邪那岐命と伊邪那美命を祀る多賀神社。天照大神を祀る皇大神宮。大国主命を祀る大嶋神社が鎮座御居しまし、まさに日本神話の大御所揃い踏みといった様相です。

天之御中主尊神社 本殿

お話を本題に戻します。

タイトルにある天地開闢(てんちかいびゃく)とは、天地に代表される世界の初めの時のこと。即ち天地創造、宇宙の起源、万物の根源のことを表します。

『古事記』『日本書紀』によると、この大業(但し如何に創造されたかの具体的な記述は存在しない)を成し遂げたのは、三柱の神(造化の三神)と呼ばれる天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)・高御産巣日神(タカミムスヒノカミ)・神産巣日神(カミムスヒノカミ)であるとされています。

特に天之御中主神は近世に於いて北極星・妙見信仰(北極星・北斗七星を神格化した妙見菩薩を中心とする仏教信仰)とも習合して、至高・根源の神として中心的役割を果たしました。

もうお解りですよね。こちらの神社の御祭神は、その名が示す通り天之御中主神なのです。

また御由緒書には、『天台宗の隆盛の頃、長命寺の鎮守として下八王子を勧請し、虚空蔵大菩薩神社として祀られた。慶長四年造立の棟礼が存するが、創立年代は未詳である。日吉社の七社中の下八王子虚空蔵とあるのを下八王子天御中主命に習って、虚空蔵即ち天御中主尊とし社名を決定したと伝える。明治九年村社に加列。』とあります。

特に神仏習合・本地垂迹の色が濃く、比叡山と天台宗の守護神でもあった日吉大社(大津市)の山王二十一社の1つ、下八王子社(現在は八柱社)から神様をお招きして、長命寺の守護神としたのが現社殿の前身。但し 下八王子社の本地仏が虚空蔵菩薩であるため 、当初はその名を社名に反映させた。しかし明治元(1868)年3月に発布された神仏分離令により、公然と“菩薩”を祀ることが不可能となり、現在の社名に変更。また長命寺との関連も断ち切り、地元の氏神として信仰を護ったと解釈するのが妥当でしょう。

ただ下八王子社の本地仏は虚空蔵菩薩ですが、御祭神は五男三女神(須佐之男命と天照大神の誓約によって誕生した五柱の男神と三柱の女神の総称)であるため、ここから天之御中主神が導き出されたというのは些か疑問が残ります。天之御中主神の本地仏が虚空蔵菩薩であったという事実も見当たりません。ただ熊本県に鎮座御居します四山(よつやま)神社では、同様に虚空蔵菩薩をお祀りしていたものの、神仏分離令により虚空蔵菩薩の徳に相当する三柱の神(造化の三神) 、即ち天之御中主神・高御産巣日神・神産巣日神を祀ることで信仰を護ったという事実が存在することから、どうやら真相はここにあるように思われます。

また創立年代は未詳であることと、神社裏手の山系で津田山の山頂付近に天之御中主神の磐座(天之御中主尊神社奥宮 )が存在することから、古くから天之御中主神はこの地で祀られており、下八王子社勧請の際習合されたとも考えられます。

天之御中主尊神社 奉拝色紙

難解なお話はこれくらいにしておきまして・・・。

色々「謎」に包まれた天之御中主尊神社でありますが、ご利益だけは抜群の高さを誇るようです(但し普段からの正しい行状と崇敬の念が前提ですが・・・)。

実際、日露戦争で当時世界最強と謳われた彼のロシア帝国・バルチック艦隊を日本海海戦で撃滅した名指揮官・東郷平八郎海軍元帥や、読売ジャイアンツ終身名誉監督の長嶋茂雄氏も監督現役時に参拝したと伝えられています。また全国各地から事業主さんを中心に参拝者が訪れているようで、一地方の氏神さんとは思えない崇敬振りです。

奉拝後、写真の色紙を下賜戴きました。然も宮司さんの完全御手製。御守や絵馬は何処の神社でも見受けられますが、このような神職さんの温かみを肌で感じられる授与品は初めて。帰宅後ちゃんと神棚にお祀りしております。

因みに・・・参拝後、仕事でいきなりとある部署を任されました。一時は不採算部門として閉鎖も止む無しと呼ばれたセクションで、「遂に自分もこの部署同様お払い箱か・・・」とも思いました。ところが担当直後から月次平均10%に迫るV字回復。スタッフの皆さんには率先して職場環境改善に協力して戴き、そのお陰で雰囲気がガラリと好転。他部署が業績不振にあえぐ中、今や事業部門内で唯一の回復を果たしています。

これも偏に天之御中主神様の御神徳の賜物と、心より感謝奉る次第です。

沖島・姨綺耶山系 遠景

近江八幡市で琵琶湖に突き出て東西に連なる山々を姨綺耶山系(いきやさんけい)、または奥津島(おくつしま)と呼ばれ、古くは島であったとされています。

近江高天原説では、この山こそが神話の中で伊邪那岐命と伊邪那美命 が世界で最初に創造したという陸地、“おのころ島”で、ここから野洲川に至る湖東平野が高天原ではないかと言われています。

何れにしましてもミステリアスでロマン溢れる、静かなるパワースポットであることには間違いないようです。

まだまだミステリーなスポットを秘めていそうですので、改めてじっくりと下調べを行い、再度訪れてみたいと思っております。

#天之御中主尊神社 #天之御中主神 #近江八幡市 #天地開闢 #古事記 #日本書紀 #天照大神 #大国主命 #伊邪那岐命 #伊邪那美命 #長命寺 #姨綺耶山 #東郷平八郎  #長嶋茂雄

天之御中主尊神社

・滋賀県近江八幡市中之庄町612番地

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湖國寂静紀行“歴史に翻弄された聖地・鶴翼山”(後篇)

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引き続き、歴史に翻弄された聖地・鶴翼山をお届け致します。

かつては「八幡山ロープウェーで山頂を訪れたら村雲御所瑞龍寺門跡の拝観」くらいしか登頂目的がありませんでした。昨今は八幡山城跡がある程度修復され、遊歩道も散策しやすく整備されたので、手軽にハイキングが愉しめるようになっています。

瑞龍寺門跡を出たら、山頂部を反時計回りに散策します。所要時間は約30分です。

鶴翼山西方夕景

その前に、琵琶湖側の麓より望む鶴翼山の姿を御覧ください。実は観光ガイドやパンフレット等で紹介されている姿は、八幡山ロープウェーのある東方から撮影した 寫眞ばかりなのです。

その理由は、それ以外の角度からでは山頂部にある瑞龍寺門跡の屋根が辛うじて見えるだけで、これといった特徴がないからなのです。

平成17(2005)年4月から活動を開始された八幡山の景観を良くする会によって、鶴翼山の森林の保全や縦走路の整備が進められますそして 平成29(2017)年から着手された「石垣見える化プロジェクト」によって、鬱蒼とした雑木や竹林で覆われていた八幡山城の西の丸跡と出丸跡の石垣が露わとなりました。

兵庫の竹田城や岐阜の岩村城には遠く及びませんが、その情景から自身で勝手に『滋賀のマチュピチュ』などと称しております(笑)。最近小生はこの角度からの鶴翼山を大層気に入っております。

八幡山城 本丸跡石垣

八幡山城は放射状連郭式山城と山麓居館の複合体。戦国期に代表される籠城戦を意識した山城と、主に江戸期以降に見られるような城下町に近接して政務の拠点を置くものの、2つの性質を持つ時代の過渡的な城郭でした

もともと八幡山城は、紀州攻略並びに四国征伐で武功を立て近江国の蒲生・甲賀・野洲・坂田・浅井の5郡を与えられ43万石の大名となった豊臣秀次のために豊臣秀吉が指揮して造営した城で、安土城と類似した立地に整備されました。

秀次は天正13(1585)年に入城しますが、天正18(1590)年に領地替えにより居城を尾張國・清洲城に移します。その後京極高次が2万8千石で入城しますが、文禄4(1595)年に秀次が謀反の嫌疑で切腹を命ぜられると、京極高次は大津城へ移封。関白時代に秀次が政務の拠点としていた聚楽第と共に、秀吉の命で居館を中心に徹底的に破壊されました。八幡山城は僅か10年で廃城となったのです。

その後八幡山城は荒廃を窮め、更に昭和28(1953)年の台風13号による天守台を含む本丸石垣の崩壊。昭和37(1962)年の本丸跡への瑞龍寺門跡移築。昭和42(1967)年の集中豪雨による本丸跡から居館跡に掛けての大規模な土砂崩落と様々な厄災に苛まれ、関白まで上り詰めた武将の居城跡とは思えぬ様相を呈しています。

まさしく『兵どもが夢のあと』・・・ですね。

正一位 金生稲荷大明神

さて本題の散策に戻ることに致しましょう。

瑞龍寺門跡本堂から東へ約20m。境内に正一位 金生稲荷大明神(しょういちいきんしょういなりだいみょうじん)が鎮座御座します。

瑞龍寺門跡移築と同時に遷座した神社で、少なくとも10年前までは他の多くの稲荷社同様朱塗りの鳥居と本殿だったのですが、何時の頃からかキンキラキンに衣替えしています。

因みにこの装いが示す通り金運上昇にご利益が戴けることを思惟しているようなのですが、本来主祭神である宇迦乃御魂命(ウカノミタマノミコト)は五穀豊穣を司る農業紳ですのでお間違えなく。

八幡山城 北の丸跡眺望

瑞龍寺門跡移築の山門を出て本丸跡石垣に沿って歩くと北の丸跡に出ます。

この城の北辺の守りであり、沖島・奥津島山(長命寺山~津田山~伊崎山)方面を監視する役割を担っていたと思われます。

寫眞に映る田園は築城当時内湖であったため、合戦時先述の対岸の山間に敵が布陣した場合、これらを牽制することとなっていたでしょう。

龍神堂

北の丸跡を後にし、西の丸跡に向かう散策路の中間点。瑞龍寺門跡本堂の丁度真裏に小さな祠があります。

水とのかかわりの深い滋賀は、県内各地で水を司る神・龍神にまつわる伝説や信仰の足跡が多数存在します。鶴翼山も例に漏れず、大杉龍神が古くから山の守護神として祀られていました。

しかし長年の信仰の中で痕跡を残すのみとなったことを憂い、第12世貫主・日英尼の発起によって“大杉秀雲龍神”の御神体を新たに彫像。日蓮宗大荒行堂での百箇日に渡る勧請(かんじょう:神仏の来臨や神託を祈願すること)成満の後、昭和62(1987)年4月、ここに龍神堂が建立されました。

築城に際し強行された日牟礼八幡宮の合祀や急迫された曲輪の整備。その後鶴翼山及びそれにかかわる者にもたらされた様々な厄災。この400年に渡る怨嗟の歴史に終止符を打つには龍神の怒りを鎮める他ない。 日英尼だけはそのことに気付いておられていたのかも知れません。

八幡山城 西の丸跡眺望

西の丸跡。八幡山城で最も眺望の開けた場所です。

配置的には城主の縁者(妻子など)たちが詰める場所であったと考えられます。

写真のサイズが他と異なるのは、眺望が通常のワンショットで収まらず、止む無くパノラマ撮影に切り替えたためです。

空と平野と山と湖がほぼ同比率で、鶴翼山随一の眺望が堪能出来るのはここ。訪問時は是非とも晴天に恵まれたいものです。

八幡山城 出丸跡眺望

西の丸跡から少し南側に突出した地に出丸跡があります。ここは観光ルートとして整備が未だ十分に進んでいませんので、積極的な散策はお勧めしません。ただそれだけに 『兵どもが夢のあと』感は、他の何処よりも堪能出来るとも言えます。

出丸は山頂部の曲輪の中では小規模の城の如く、完全に独立した配置となっているという特徴を備えています。また麓の城主や家臣団の居館と直結していたことから、有事の際は先ずここへ退避して、戦闘態勢を整えたのではと推察します。

ここからは眼下に見える日杉山の山容が、手に取るように確認できます。写真では確認し辛いのですが、この山の麓には、国内でも現存例の少ないホフマン窯の1つ、旧中川煉瓦製造所ホフマン窯(登録有形文化財)があります。

村雲お願い地蔵尊

本来は最初にご紹介すべきでしたが、ここは八幡山ロープウェー・八幡城址駅下車後直ぐの瑞龍寺門跡参道沿いに祀られている村雲お願い地蔵尊です 。

周囲にも実に多くの地蔵菩薩が安置されているのですが、その多くが瑞龍寺門跡移築後に水子供養のため祀られたとされています 。

通常は自由拝観なのですが、現在はコロナ禍に於ける感染予防対策のため、屋外からの参拝に制限されています。

八幡山城 二の丸跡眺望

山頂部散策もいよいよ終盤。最後に二の丸跡を訪れました。

曲輪としては本丸に次ぐ敷地面積を誇ります。八幡山城の正面にもあたるため、合戦となればここが主戦場となったやも知れません。ただこれまで見てきた限りでは、山城の縄張りとしては些か構造が単純で、果たして城攻めを受けて実際に何処まで持ち堪えられたのだろうかとの疑念も残ります。

これまでの発掘調査に於いては、廃城となった安土城の資材も活用して急ピッチで築城された可能性があるともされています。当時秀吉が秀次をどのように評価していたのかとも繋がっていくような気もします。

ここからの眺望は他とは異なる趣があります。左手に琵琶湖最大の内湖・西の湖。中央の小高い山は安土城跡。そしてその右手の山には、信長が天下布武を実現するまで永きに渡り南近江の守護大名として君臨してきた佐々木(六角)氏の居城・観音寺城跡があります。

こう見てみますと、中世の時の権力者たちが如何にこの周辺を重要視していたかが窺えます。滋賀中央部の素晴らしい眺望を愉しむだけでも十分ですが、時の権力者の気分でもって戦略的見地で眺めてみるのもまた一興ではないでしょうか。

恋人の聖地

最後の最後に1つ、前回訪問時に見掛けなかったあるオブジェについてご紹介します。

これらのオブジェが歴史に翻弄された地に相応しいか否かはさておき、地域振興の一環でしょうか、鶴翼山(八幡山ロープウェー)は『恋人の聖地』サテライトに認定されています。

恋人の聖地は、特定非営利活動法人地域活性化支援センターが主催する「恋人の聖地プロジェクト」により選定された観光スポットで、「全国の観光地域からプロポーズにふさわしいロマンティックなスポット」に相応しい、自然に囲まれた場所や夜景の綺麗な場所、記念品がリリースされる場所などが選定されています。因みにサテライトとは、 プロジェクトの主旨に賛同する企業・団体が管理する場所のうち、「恋人の聖地」として相応しいと判断されたスポットを指すとのこと。

滋賀では他にも、びわ湖バレイ/奥琵琶湖 / 名神高速道路大津サービスエリア。サテライトに草津市立水生植物公園みずの森 / 琵琶湖汽船の外輪船ミシガン・客船ビアンカが認定されています。特に後者の2箇所は「恋人の聖地 地域活性化大賞」を受賞しています。

ここは平成26(2014)年に認定を受けたのですが、八幡山ロープウェーの上り最終便がイベント時を除いて16時30分ですし、市街の夜景を見るために暗闇の登山道を走破するリスクも冒せません。散策当日出くわした観光客の何人かがこのオブジェに接し、「何だコレ?」と呟いていたのも耳にしたことから、知名度の観点からもなかなか厳しいものがあります。

ですので「新たな鶴翼山の歴史」を見出すためにも、インスタ映え(?)するこれらオブジェを探してみるというのも、更に一興ではないでしょうか。何卒ご検討くださいませ。

#鶴翼山 #八幡山 #近江八幡市 #琵琶湖 #八幡山城 #安土城 #観音寺城 #恋人の聖地

【おしまい】

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湖國寂静紀行“歴史に翻弄された聖地・鶴翼山”(前篇)

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日本がコロナパンデミックに陥り早1年半。政治は決定的且つ抜本的な対策を打ち出せず、小生の予想通り感染は鎮静化どころか爆発的拡大の一途。おまけに次々と出現する変異株というに進化を遂げて、制圧の目途も立たぬ始末です。市民は氾濫する情報と頻発される“要請という名の自主規制”に翻弄されて、疲労困憊且つ疑心暗鬼に苛まれています。

感染拡大の要因はイベントでも飲食店でも酒でもありません。私たち1人1人が他者を思い遣り、自己の満足に奢らず如何に倫理的に行動出来るか。いま誠の日本人の心を持つ者か否かを試されています。

さて今回は近江八幡市の旧近江八幡市エリアを訪れております。

皆さんは鶴翼山(かくよくざん)と呼ばれる山をご存知ですか?どちらかと言えば、通称の八幡山(はちまんやま)の方が馴染み深いかも知れません。では何故、鶴翼山と呼ばれるのでしょうか。

鶴翼山(八幡山)全景【Google Earth】

今はこんなに便利なツールがあるんですよね。上写真は東側から見た鶴翼山(八幡山)の全景です。

かつては法華峯、比牟禮山(東麓にある日牟禮八幡宮に由来する)とも呼ばれていました。「鶴が翼を拡げている姿に山容が似ている」から命名されたとのことですが、これは決して上空からのものではありません。現在は高層階の建物が増えてきたため確認し辛いのですが、鶴翼山から東方に約3~4km離れた辺り(JR琵琶湖線・近江八幡駅~安土駅中間点辺り)から眺める山容がそれ。山頂を基点として両方の翼。南方にある日杉山を頭に見立てると、まさに飛翔する鶴の姿に見えたのです。

国土地理院の地形図にも記載されている正式名称なのに余り定着していないこの鶴翼山の名称。明治時代の書物や資料には鶴翼山の記載が散見されますが、本来の命名の経緯は判然としません。ここからは飽くまでも小生の仮説ですが、恐らく地域振興や神仏分離など何らかの理由で明治以降に鶴翼山の名称が与えられたのではと推察致します。

日牟禮八幡宮

さてまずはこの短い旅の安全を祈願して、鶴翼山東麓に鎮座御座す日牟禮八幡宮(ひむれはちまんぐう)に参拝。

日牟禮八幡宮は第13代天皇・成務(せいむ)天皇が高穴穂宮(たかあなほのみや:古代に滋賀県大津市穴太地区に存在したと伝承される皇居)にて即位した131年に、武内宿禰に命じてこの地に大国主神を祀ったのが草創とされています。

平安時代中期の正暦2(991)年。第66代天皇・一条天皇の勅願により宇佐八幡宮を勧請し、山頂に上の八幡宮を造営。この時に現在の御祭神である第15代天皇・応神天皇が神格化された八幡神、所謂誉田別尊(ほんたわけのみこと)が祀られています。また平安時代後期の寛弘2(1005)年には遥拝社として現在の地に下の社が建立されました。

しかし、天正13(1585)年に豊臣秀次が八幡山城を築城するため上の八幡宮を下の社に合祀。さらに日杉山へ遷座することになっていましたが、天正18(1590)年に秀次が領地替えにより居城を尾張國・清洲城に移したため、現在の地に落ち着きました。よって日牟禮八幡宮は鶴翼山とは因縁浅からぬ関係にあるのです。

でも色々とお話致しましたが、男衆が異粧華美な姿で神輿同士を取っ組み合いさせる祭事、左義長まつりが最も有名ですよね。

八幡山ロープウェー

いよいよ山頂を目指します。 日牟禮八幡宮から登山道が整備されていますが、所要時間は約30~40分。自然を堪能しつつ山歩きをしたいという方にはおススメですが、今年の夏は特に暑いうえにマスク着用で呼吸も苦しい・・・ここはひとつ、八幡山ロープウェーを利用したいと思います。

日牟禮八幡宮楼門から徒歩1分にも満たない場所に山麓側の公園前駅があります。昭和37(1962)年11月23日に開業した 八幡山ロープウェーは、全長543m、高低差157m。現役の県内索道(ロープウェイ)線としては最も古い歴史を誇ります。

近江八幡市街遠景

運行は15分間隔、山頂側の八幡城址駅までの所要時間約10分。搬器から眺める近江八幡市街は、八幡山城の城主として秀次が君臨した僅か5年の間に整備された城下町が基礎となったもの。

京都のように碁盤の目の街並みは、戦乱の世が終わりを迎えようとしていたことが窺い知れます。また街並みと共に東方に拡がる湖東平野の情景も愉しめます。

ここで小生が以前から抱いていた疑問を1つ。県内でも他に景勝地が多く存在し、特にこれといったアミューズメントも存在しないこの山に、何故親会社の近江鉄道が高度成長期の真っ只中とはいえロープウェイを建設したのか?

実は当時、観光都市建設を目指していた近江八幡市。県が計画していた安土城復元が文部省文化財保護委員会からの横槍で実現不可能となったことを受け、鶴翼山に山上遊園地の建設や八幡山城の再興で一大アミューズメントパークを整備しようと計画していたのです。ここに民間として参画したのが、かつて西武鉄道の親会社であった国土計画。後程触れますが、山頂の瑞龍寺門跡を京都より移築したのもその一環でした。

結局実現したのは瑞龍寺門跡の移築のみ。言わば八幡山ロープウェーはその「兵どもが夢のあと」の名残なのです。

村雲御所 瑞龍寺門跡 山門

八幡城址駅を降り、山中の遊歩道をそのまま10分程歩きますと、樹林の中に立派な山門に辿り着きます。

ここが村雲御所瑞龍寺門跡(むらくもごしょずいりゅうじもんぜき)です。

カエデの木々に囲まれているので紅葉シーズンの散策が余りにも有名ですが、夏は夏で爽やかな緑の情景にも大変趣があります。

因みに村雲御所とは、最初に京都嵯峨の村雲の地で天皇家の勅願所として開創したことに由来するもの。門跡とは皇族や公家、及びその流れを汲む人物が代々住職を務める特定の寺院のことを指します。

村雲御所 瑞龍寺門跡 本堂

秀次の実母であり、豊臣秀吉の姉でもあった(とも:後に出家して日秀尼)は、高野山で蟄居の末自害した秀次並びに三条河原で処刑されたその妻子の菩提を弔うため、以前から帰依していた日蓮宗による寺院創建を模索していました。

文禄5(1596)年。この話が時の帝、第107代天皇・後陽成天皇の耳に達し、現在の京都・二尊院の北辺に寺地と「瑞龍寺」の寺号、寺領1,000石を下賜され、そして菊紋の使用と紫衣の着用が認められて、慶長1(1596)年に開創が叶います。

以後瑞龍寺は日蓮宗で唯一の門跡寺院及び勅願所となり、皇女や公家の娘を迎え、代々尼僧が貫主を務めました。

江戸幕府3代将軍・徳川家光により二条城内の殿舎一宇を客殿として寄進され荘厳を窮めますが、天明8(1788)年の大火により全焼。その後、第9世貫主・日尊尼が晋山(しんざん:新たに住職となる者が初めてその寺に入寺すること)し、寺地を嵯峨から西陣(現在の堀川今出川付近)に移転。28年掛けて諸堂宇を再建し、見事に復興を果たします。このことから日尊尼は村雲御所中興の祖と仰がれています。

村雲御所 瑞龍寺門跡 堂内

明治4(1871)年に門跡制度は廃止されますが、明治9(1876)年から下賜金が支給。明治21(1888)年には「御由緒寺院」として門跡寺院同様の待遇となり、皇室からの庇護を受けられるようになりました。しかし大東亜戦争終結後補助制度は廃止。檀家を持たない瑞龍寺は、たちまち経済的窮地に立たされます。

また昭和29(1954)年頃に表面化した日蓮宗側との寺院経営に対する軋轢で寺院は荒れ放題に。昭和35(1960)年には日蓮宗久遠寺派からの恩恵無しとの理由で離脱を表明(後に宗派と和解)。直後に瑞龍寺財産の不当処分が発覚し、貫主罷免問題にまで発展。台所事情は益々逼迫し、負債は膨らむばかり。挙句管財人の管理下に入り、宗教法人による処分広告が出される凋落振り。日秀尼ゆかりの門跡寺院は、まさに風前の灯火でした。

そこで当時、滋賀県選出の衆議院議員で西武鉄道グループの創業者でもあった堤康次郎に、 第11世貫主・日浄尼が斡旋と調整を嘆願。観光都市を目指していた近江八幡市は、観光の起爆剤として秀次の母・ 日秀尼ゆかりの瑞龍寺を受け入れることを企図。鶴翼山市有地の一部(八幡山城本丸跡周辺)を寺地として提供することに。民間として観光都市計画に参画していた西武鉄道グループは、瑞龍寺の負債負担と京都からの移築(本堂・玄関・山門・庫裏)に尽力。

これにより、八幡山ロープウェー開業と同日に、鶴翼山への移築を果たしました(但し日浄尼は完成を見ることなく遷化 )。

村雲御所 瑞龍寺門跡 妙法の庭

復元竣工後も約3年の間、貫主不在の時代が続きました。 昭和40(1965)年9月に襲来した台風22・23号により本堂に甚大な被害を被り、再び荒廃が進みます。同年 に晋山した第12世貫主・日英尼は、家庭の不幸から出家に追い込まれた身上を鑑み、生涯瑞龍寺の再興に尽力することとなります。

上写真の妙法の庭は戦時中に八幡防空監視哨が設置されていた場所で、戦後破却され瓦礫の山と化していました。瑞龍寺移築後もその状況は変わりませんでしたが、日英尼が長い年月を掛けて瓦礫を撤去し整備したものです。拝観当日は再整備が行われていました。

小生の父は生前、昭和43(1968)年6月23日に斎行された日英尼晋山式に動員された時の事を、「近江八幡駅には赤い絨毯が敷かれていた。まるで天皇陛下の行幸か大名行列かのような御行列だった。」と振り返っていたのを記憶しています。

また日英尼晋山の折、養女となって執事長を務め、昭和63(1988)年に晋山した第13世貫主・日凰尼は、 日英尼とともに瑞龍寺の再興に尽くし、かつてのタカラジェンヌ・桜 緋紗子(さくらひさこ)の知名度もあって、来訪者の人生相談に親身に応じ、その名を知られました。

村雲御所 瑞龍寺門跡 あかり展(宮御殿『雲の間』)

開創以来代々尼僧が貫主を務めてきた瑞龍寺でしたが、平成23(2011)年に晋山した第15世・日英上人から、男僧が後継を担うこととなりました。その日英上人も令和1(2019)年に遷化され、再び貫主の座が空白となっておりましたが、此度執事長を務められていた詫間殊光氏が、来春新たな貫主に晋山されることが決定しました。

これまでイベントらしいイベントを行ってこなかった瑞龍寺ですが、昨年から『和』をモチーフとした催事を近江鉄道と共催。去る4月29日から5月30日に本堂の宮御殿『雲の間』にて行われた滋賀初のあかり展は好評を博し、6月27日まで開催延長されました。

村雲御所 瑞龍寺門跡 風&和傘 和の競演

詫間執事長は今春より老朽化する建造物等の再整備に着手されています。本堂の外壁や廊下の床板の磨き直し、長年放置されていた家具や雑貨及び瓦礫等、計5トンの不用品を処分。また京都の絵師・木村英輝氏に回廊の壁画制作を依頼。妙法の庭は枯山水とし、能舞台が設けられました。7月15日にはこの能舞台のこけら落としの雅楽演奏が行われました。

現在、屏風と和傘による「和の競演」が8月31日まで、木村英輝氏の四季屏風展が10月31日まで開催されています。詫間執事長は今後とも整備を継続し、人々の安らぎやエネルギーを得られる場となればと意欲を見せておられます。

今年で開創425年、鶴翼山への移築から来年で60年。歴史に翻弄された門跡寺院は、この節目でどのような進化を遂げるのか見届けたいものですね。

今回の記事作成にあたり、近江八幡市総合政策部文化観光課文化財保護グループの才本さんには多大なるご協力を賜りました。この場を借り厚く御礼申し上げます。

【取材協力・資料提供】 近江八幡市総合政策部文化観光課/八幡山ロープウェー

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村雲御所 瑞龍寺門跡

・滋賀県近江八幡市宮内町19−9
【TEL】  0748-32-3323
【拝観時間】 9:00~16:10
【拝観料】  500円 ※特別展により10月31日まで600円

八幡山ロープウェー

・滋賀県近江八幡市宮内町257
【TEL】  0748-32-0303
【営業時間】 9:00~17:00 ※上り最終16:30
【料 金】  おとな・・・ (片道)500円/(往復)890円 ※12歳以上
       こども・・・ (片道)250円/(往復)450円 ※ 6歳以上12歳未満
 ※2022年1月25日~2月10日は設備更新工事のため運休となります。

【後篇へ続く】

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