日々是滋賀日和 “湖國浪漫風土記”にようこそ

~近江の國は歴史の縮図である~

【湖國風土記寫眞】比良山系とナノハナ

滋賀の知られざる歴史、忘れ去られゆく民話、先人たちの偉大なる足跡を後世に伝える渾身の激白(?)徒然紀行。

生まれ育った近江國の風土をこよなく愛する土着民が、“滋賀の郷土史”を皆様に知って戴ければとの想いで書き綴っております。時折・・・しばしば(?)「彷徨」もございますが、ご高覧・ご笑覧賜れば幸いです<(_ _)>

※相互リンク大歓迎です。ご意見・情報承ります(^^)よりご連絡戴ければ幸甚です。

管理人:後藤 奇壹


【世界の何だコレ!?ミステリー緊急企画】きぬがさやま夜話外伝“シガイの森”の伝説

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

以前完結しました「きぬがさやま夜話」シリーズですが、最終章の桑實寺(くわのみでら)の記事に関する取材の延長線上で奇妙な情報を入手しました。

またこの話題に関連した内容がフジテレビ『世界の何だコレ!?ミステリー』(2020年2月12日放送)で紹介されました。ただ余り詳しくは紹介されませんでしたので、今回はそのお話を致したいと存じます。

桑實寺(山門)

ここで桑實寺に関する織田信長にまつわるエピソードを、もう一度おさらい致します。

1582(天正9)年4月10日。信長は少数の小姓衆を従えて、琵琶湖の竹生島(ちくぶしま)に参詣します。

安土城に詰める女房衆(にょうぼうしゅう/主君の身の回りの世話をする女性)は、遠路であるから途中の羽柴秀吉の長浜城に宿泊し、今日は帰城しないと考え自由に過ごしておりました。

ある者は城の二の丸に出掛け、ある者は桑實寺の薬師参りに出掛けていました。しかし大方の予想に反し、信長は異例の速さで安土城に戻ります。城内は大騒ぎとなり、この状況に激怒した信長は、怠けていた者を残らず縛り上げさせました。

桑實寺に出掛けていた者たちは信長の罰を恐れて、寺の長老に助けを請いました。長老は「慈悲をもってお助けを」と懇願しますが、かえって信長の逆鱗に触れ、女房衆とそれを擁護した高僧たちを処刑したのです。

以上が『信長公記(しんちょうこうき)』に所載されている桑實寺事件(竹生島事件とも)の概要です。以前の記事でこのお話は桑實寺の当時の寺伝にその出来事の記載がないことから、昨今は“いささか歪曲された内容”ではないかとの意見もあると申し上げました。

その後色々と調べを進めていると、女房衆と高僧たちを処刑したと伝えられる場所が存在するとの情報を得たのです。

近江八幡市安土町常楽寺(じょうらくじ)。県道2号西側に拡がる広大な田園地帯に、極めて不自然な存在感を示す森がポツンと存在します。

新開の森

桑實寺から西に約3km、安土城から南西に約2kmの場所に位置する周囲約240m(敷地面積約3,200㎡)のこの小さな森は、新開の森(しんがいのもり)と地元では呼ばれています。

何故ここだけ残されたかと申しますと、この森の樹木を伐採すると“祟り”があるとの噂があるからなのだと言われています。

一見ただの雑木林ですが、ここから南に約700m先にある今宮天満宮神社(近江八幡市浅小井町)の御旅所(おたびしょ/神社の祭礼において祭神が巡幸の途中で休憩または宿泊地或いは目的地)に指定されています

今宮天満宮神社御旅所

森の南側に参道らしきものは存在しますが、昼間でも薄暗く、お世辞にも整備されているようには見受けられません。

実は先の桑實寺事件での女房衆と高僧たちの処刑がここで断行され、遺骸を埋められたという説があるのです。神域の聖地で俄かに信じ難いことなのですが、それにはこのような裏付けがあるのです。

この森の西側に小さな祠がひっそりと佇んでいます。その祠の傍らには建部紹智(たけべしょうち)・大脇傳助(おおわきでんすけ)殉教碑と書かれた碑があります。

建部紹智・大脇傳助殉教碑

安土城築城から2年後の天正7(1579)年の5月中旬のこと。安土城下で法華宗と浄土宗との間である騒動が勃発しました。当時城下で浄土宗の長老が説法をしていたところ、法華宗の信徒である建部紹智と大脇傳介が議論を吹っ掛け、これが引き金となり両宗派の僧侶が問答合戦を執り行うことになってしまいます。

城下がこの噂で騒然となり、当初信長は事態の収拾を両宗派に命じますが法華宗側が承知せず、遂に全面対決の騒動にまで発展してしまうのです。

町外れにある浄土宗・浄厳院(じょうごんいん)を論議の場とし、信長は審判者と警護の兵を派遣しました。両宗派より各々4名の僧侶が臨席して進められましたが、法華宗側が返答に詰まった時点で浄土宗側の勝利が言い渡されます。

この結果に接し、たちまち法華宗の僧侶や信徒達は逃げ散りましたが、織田信澄らによってことごとく捕えられ、宗論の記録は信長の下へ届けられました。

早速信長は浄厳院へ出向き、両当事者を召し出します。そして浄土宗側に恩賞を与え、騒動の張本人である大脇傳介と、その師であり宗論にも臨席していた妙国寺普伝(みょうこくじふでん)を即刻斬首。またもう1人の騒動の張本人である建部紹智を大坂・堺で捕縛。連行の上これも斬首。法華宗側には今後他宗を誹謗しないとの誓約書を提出させて騒動は終結しました。

これが世にいう安土宗論(あづちしゅうろん/安土問答とも)です。その騒動の起因となった者たちの処刑が、この地で執行されたといいます。このお話も桑實寺事件同様、『信長公記』に所載されている一篇ですので、どこまでが真実でどこまでが虚飾なのかは定かではありません。

いつしかこの森はシガイの森と呼ばれるようになり、現在県内でも有数の心霊スポットと知られています。確かに霊感の全くない小生ですら、周囲の空気に禍々しさを感じました(決して興味本位で訪問しないでください)。

信じるか信じないかは、アナタ次第です!

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御存知ですか?“明智光秀近江出身説”

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NHK大河ドラマ 麒麟がくる

スタート前に何かと受難の降りかかった大河ドラマ、『麒麟がくる』。一抹の不安を他所に、好調な滑り出しのようで何よりです。ネタ切れという理由もあるのでしょうが、昨今“敗者”側を描いた作品が市民権を得つつあるのは、勝者が捏造した史実ではなく、真の歴史を紐解くうえでとても意義深いことであると感じます。

明智光秀は単なる“敗者”ではなく、主君を討った所謂『逆臣』。これまで天下の裏切り者というイメージの強い人物を、今後どのようにドラマで描いていくのか。とても興味深く視続けたいと思います。

話は変わりますが、実は小生。幼少の頃より明智光秀の魂をこの世に受け継ぐ1人と信じて疑わない変わり者でして・・・『戦国武将で一番好きな人物は?』と問われた時、歴史好きの知人連中の大半が三傑(信長・秀吉・家康)の何れかを挙げる中で、一貫して明智光秀を口外して憚らない、少し浮いた存在でした(>o<)

でもね・・・“逆臣”“裏切り者”と後ろ指指された人間には、勝者には決して理解し難い純粋で聡明、そして他者には理解不能な苦悩と苦渋があるのです。きっと・・・

去る令和2年2月1日(少々タイムリーさに欠けることは何卒ご容赦くださいませ)。あけぼのパーク多賀(多賀町立博物館)にて、開館20周年記念企画 『 明智光秀と戦国の多賀 』事例報告・特別講演が開催されました。

あけぼのパーク多賀(多賀町立博物館)

事前申込制で定員80名。会場は満員御礼で、立席が出る程の盛況ぶり。冒頭、館長の小早川隆 氏からご挨拶。参加申込受付初日の開始時間に、何と電話が殺到して回線がパンク。開設以来前代未聞の出来事であったとのエピソードを披露されました。それだけ県内でも、明智光秀に関心を寄せる方々が多いということの現れなのでしょうね。

多賀町立博物館学芸員 本田洋 氏

まず最初に多賀町立博物館学芸員の本田洋 氏による事例発表が行われました。テーマは『光秀に味方した犬上郡の武将』。本能寺の変後から敗北を期した山崎合戦までの“三日天下”と呼ばれた間に、明智光秀のもとに参陣した犬上郡の武将の動向と末路について、文献や古文書の記述をもとに紐解かれました。

かいつまんで申しますと、犬上郡の武将たちはどちらかと言えば「渋々、お付き合いで、致し方なく」感が強く、あの智将で人望と情に厚く、信長家臣団の中で新参の外様にも関わらず一番の出世頭だった光秀に対する心証にしては、些か冷ややかではなかったかと感じました。

それだけ信長を討つ謀は短時間で決せられ、根回しもほぼ全く出来ていなかったということの裏打ちでしょう。

公益財団法人滋賀県文化財保護協会普及専門員・NPO法人歴史資源開発機構キュレーター
大沼芳幸 氏

次に公益財団法人滋賀県文化財保護協会普及専門員・NPO法人歴史資源開発機構キュレーターの大沼芳幸 氏より、『諸説あり「奇々麒麟」本能寺の変を近江的に分析する』をテーマとした特別公演が行われました。

大沼氏は逆に余りにも不足した文献や古文書を頼りとせず、時代背景・人物相関・地勢を不足する情報に補ってアプローチする独自の切り口で、信長・光秀の近江國(滋賀県)を重要視した理由を軽妙な語り口で解説戴きました。

明智光秀近江出身説

その中でも、最も興味惹かれたのはやはり『明智光秀近江出身説』。皆様ご承知の通り、光秀には生誕から青年期に関しての決定的な資料が皆無に近く、まさにミステリー。これが発見されれば(少し大袈裟ですが)『国宝級の一級資料』とまで言われています。そのような状況ですから、出身地と伝えられているのは実に6箇所もあるのです。

その6箇所のうち5箇所が美濃國(岐阜県)。現時点で最も有力な説は現在の岐阜県可児(かに)市に存在した明智荘とされています。そのような圧倒的に不利な中で、唯一岐阜県外の出身地として名乗りを上げているのが、滋賀県犬上郡多賀町佐目(さめ)なのです

その根拠となっているのが、地元に残る口伝や『淡海温故録』の中の記述。その中でも『淡海温故録』は17世紀後半(江戸時代初期)に書かれた滋賀の歴史書で、特に言い伝えや伝説の原典となっていることが多く、滋賀の郷土史に触れる者にとっては比較的ポピュラーな文献です。

それ故に若干“脚色”感は否めないのですが、『火の無いところに煙は立たぬ』のもまた一理ですので、これはこれで注目しています。初夏辺りには小生も周囲が落ち着きそうですので、この一件に迫ってみようと考えております。まずは佐目。そして時間が許せば、大津・坂本界隈を巡りたいですね。

明智光秀企画関連資料

因みに・・・余りにも大沼先生のアプローチが興味深かったので、会場で思わず著書を購入してしまいました(^o^)

タイトルは『明智光秀と琵琶湖』(海青社 刊/税別1,600円)。ボリュームに比して少々お高いですが、読みやすくオールカラーでビジュアル満載です。是非書店等でお買い求めください。

あと多賀町立博物館の企画展『明智光秀と戦国の多賀』は2月15日(土)までです。企画展の入場料は無料ですし、図録は何と100円(税込)です。どうぞお気軽にご来訪ください。

最後に・・・明智光秀は山崎合戦後、坂本城を目指し落ち延びる途中、落武者狩りの百姓に竹槍で刺され深手を負ったため自害。家臣・溝尾茂朝に介錯させ、その首を近くの竹薮の溝に隠した・・・とされているのですが・・・

実は生き延びて、家康の庇護のもと潜伏し出家。関ケ原合戦で南光坊天海(なんこうぼうてんかい)として再び世に出で、 その後『黒衣の宰相』と呼ばれて徳川三代(家康・秀忠・家光)を影で支えたという異説があります。

専門家の間では“近江出身説”同等に注目度の極めて低い説ですが・・・小生は心から信じています ・・・ そう“光秀の魂”が語り掛けているのです(^o^)

あけぼのパーク多賀
滋賀県犬上郡多賀町大字四手976−2
【TEL】 0749-48-2077(多賀町立博物館)

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湖國浪漫文庫“滋賀県方言語彙・用例辞典”

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繁忙でなかなか取材に出向くことが出来ない今日此頃ですが、そのような中にあっても、資料と情報の収集だけは何とか継続しております。

そんな資料と情報の収集活動で出逢ったとても興味深い書籍が、沢山ございます。今後折に触れ、『湖國浪漫文庫』という新たなカテゴリーで、新刊・既刊・絶版を問わずご紹介して参りたいと存じます。

第1回は『滋賀県方言語彙・用例辞典』(サンライズ出版)をご紹介致します。

これまで“滋賀の方言”を題材とした図書はちらほらと刊行されてはいるのですが・・・こんなお堅い(笑)本は、図書館関係者や研究者でもない全くの個人で買っているのは、“私”くらいのもんじゃないでしょうか(^^)

滋賀県方言語彙・用例辞典

この本に初めて出逢ったのが、今から20年前の2000(平成12)年。滋賀県方言語彙・用例辞典という何とも仰々しいというか、誠にお堅いタイトルに興味を持ち、人気(ひとけ)の少ないとある老舗の書店でちょいと立ち読み。

挨拶文も無ければ挿絵も無い、まさかの辞書形式。しかし読み進めていくと実に面白い

「何なんだこの本は・・・」といぶかしげに感じつつも、無性に気になる。「よし買ってやろう!」と価格を見るべく本をひっくり返せば、お値段なんと3,990円也。財布には(いつものように)僅かばかりの小銭のみ・・・ あえなく断念 <(ToT)>

あれから20年(綾小路きみまろ調に)・・・この本のことはすっかり忘れておりました。

先日何がキッカケであったかは忘れてしまいましたが、知人と「滋賀の方言」について色々と話をしておりました。その時、偶然思い出したのがこの本のこと。

早速版元(出版社)のサイトを覗いてみましたところ、既に絶版 <(ToT)>

そりゃそうでしょうねぇ、こんなマニアックな本。恐らく主要な図書館や研究者等に一通り行き渡る程度にしか生産されなかったでしょうねぇ。近隣の書店でも見掛けた記憶はありませんし、Web通販各社でも品切れでした。

ところがどっこい、事態は急転します。

たまたまふらりと立ち寄ったとある書店にそれはあったのです。在庫としてです。しかも新刊としてです。奇跡です ! 極めてミラクルです! ! !

悩みました。ひたすら悩みました。ここ最近出費が嵩んでおります。決して“安い本”ではありません。家計は相も変わらず火の車です。つい先日ボロボロのビジネススーツを12年振りに新調したばかりです。でも資料としての価値は一級品ですし、再販される見込みは恐らく“0%”でしょう。

20年前と同じです。ひたすら悩みました。悩むこと・・・(10分)・・・買ってしまいました(“たいして悩んでないじゃん”というご指摘はご容赦を)。

その後、仕事休みの度に家族打ち揃って食い入るように読んでいます。やっぱり“面白い”です。この面白さは滋賀の土着民でなければ味わえません。我が家はしばらく、この本1冊でレクリエーションできそうです(^^)

因みに小生がこの本を気に入った一節をご紹介致します。もう彼是30年・・・いや40年以上前のことになりましょうか。小生の亡き母方の祖母が時折話していた言葉で、何となくニュアンスは伝わってくるものの、よく意味が理解出来なかったコトバがあるのです。これが掲載されていれば大したモンだと思い探してみたのです。

おっ!早速見つかりました、このコトバです。

エゾクロシイ

エゾクロシイ・・・不快で汚くうるさい
【用例】デパートのホールに、ダンボールを敷いて、エゾクロシイ人が寝てるわ。

お祖母ちゃん、あの人のことがそんなに嫌いだったのね(>_<)

是非図書館で読んでみてください。

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謹賀新年 天上天下唯我独尊 2020

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新年、明けましておめでとうございます。 今年は“令和”が初めて迎える元旦となります。

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日出る國 ~ 琵琶湖と近江富士

本日で「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」はお陰様を持ちまして開設8周年を迎えました(^^)

昨年は 飛躍の1年 でございました。今年は忘己利他の1年として邁進いたす所存でございます。本年も相変わりませぬご贔屓を賜りますようお願い申し上げます<(_ _)>

今頃・・・極寒の中、地元の氏神様の元旦祭に参賀している・・・ハズです(^^)v

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平成31年/令和元年 感恩戴徳

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元号が変わり、旧き時代と新たな時代の分水嶺となった1年が、まもなく終わりを迎えようとしています。

往く年 来る年

皆さんにとって今年はどのような1年でしたでしょうか。新たな元号『令和』は、平和で穏やかな時代を願って命名されたにも関わらず、その初年は自然災害と社会的な衝撃を与える事件、事故の連続であったような印象を強く持ちます。

小生も4月に地元自治会長、地元地域連合自治会副会長兼会計、 地元学区連合自治会文化体育委員、地元学区人権教育推進員、地元県立教育機関運営協議会常任委員、地域のグループホーム並びにデイサービスの運営委員会常任委員を拝命。同時に統一地方選挙での某候補選挙対策本部総務部長も務めました。また人事異動で新たな職務に就任したこともあり、多忙に多忙を窮め、ブログの取材や記事更新はおろか、まともに家族サービスも叶いませんでした。

ですがこの自由の利かない休みもろくに取れない自己犠牲の典型のような日々の中で、様々な経験、知識や情報の習得、多くの方々との貴重な出逢い、自身のスキルの更なる向上という代え難い財産も得ることが出来ました。

色々な意味で来年3月に一区切りし、4月からまた新たな道を進むことが既定となっております。この更なる進化を遂げるにあたり、貴重な機会を与えてくださった全ての方々に、心より深く感謝申し上げる次第です。

この激動の一年、大変お世話になり誠に有難うございました。来年も何卒ご指導ご鞭撻を賜りますようお願い申し上げます。

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“惜秋”湖東寂静紅葉選・後篇

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紅葉
紅葉

昨日に引き続きまして、“惜秋”湖東寂静紅葉選をお届け致します。

◆太郎坊宮
 (東近江市小脇町)

太郎坊宮(阿賀神社)
太郎坊宮(阿賀神社)

後篇では旧八日市エリアから2箇所ご紹介致します。まずは太郎坊宮(たろうぼうぐう)。標高350mの赤神山(あかがみやま)の中腹にある神社です。

地元の方には“太郎坊さん”の名で親しまれています。

近江鉄道からも、国道421号からでも、山に剥き出しの巨岩・怪石が一際目立ちますので直ぐ確認出来ます。

太郎坊宮の紅葉
太郎坊宮の紅葉

麓から740段の階段を登って本殿へ向かうことも可能ですが、クルマで自動車道を利用して中腹にある駐車場から入山されることをおススメします。

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太郎坊宮から布引丘陵を眺む

参道の紅葉も去ることながら、本殿から望む旧八日市エリアの眺望は絶景です。

ちなみに勝運厄除開運商売繁盛に御利益があるそうですよ。

◆瓦屋禅寺
 (東近江市建部瓦屋寺町)

瓦屋禅寺の紅葉(1)
瓦屋禅寺の紅葉(1)

最後にご紹介するのは瓦屋禅寺(かわらやぜんじ)。標高372mの箕作山(みつくりやま)の山腹にある臨済宗妙心寺派の寺院です。

東側にある旧表参道からハイキングすることも可能ですが、林道延命線をクルマで利用されることをおススメします(太郎坊宮の自動車道からも来訪可能です)。

まさにここは寂静の世界。鳥のさえずりと風の音のみで、不思議と下界の雑音は一切聞こえません。

瓦屋禅寺の紅葉(2)
瓦屋禅寺の紅葉(2)

ちなみに聖徳太子が大阪の四天王寺を建立するため、この地で10万8,000枚の瓦を焼いたとされています。 この寺院はその瓦を管理するために建立したと伝えられています。

瓦屋禅寺の紅葉(3)

なお「“瓦”を冠する寺の本堂が“茅葺(かやぶき)”とはこれ如何に」というツッコミは無しということでお願い致します(^^)

◆ご注意◆
何れのスポットも訪問に際し何かしらの“難点”がございます。決してご無理をなさいませんよう、くれぐれもお気を付けあそばせ<(_ _)>

それでは皆様、ゆったりほっこりの紅葉狩りをお愉しみください(^^)v

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“惜秋”湖東寂静紅葉選・前篇

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滋賀の紅葉は例年よりも早く、そして見頃が短くなりそうな様相です。伊吹山や比良山も初冠雪を記録しました。冬支度もそろそろ始める時期ともなりつつありますね。“おでん”が恋しい季節でもあります

紅葉
紅葉

さて皆さん、紅葉狩りにはもうお出掛けになられましたか?今年も異常な猛暑だったせいか、色付きがとても鮮やかに感じます。

滋賀の紅葉スポットと言えば、湖東三山(西明寺・金剛輪寺・百済寺)”“永源寺”“日吉大社”“比叡山延暦寺といったところが有名どころではないでしょうか。でも一番のネックは、そう異常なまでの“人出”です。晩秋の季節感を楽しみたいけれども、クルマが大渋滞。おまけに人でごった返すのはちょっと・・・と二の足を踏まれる方も多いのではないでしょうか。

そこで今回は小生が取材で(たまたま)知り得た場所で、観光客も比較的少なく、紅葉をゆっくりじっくり堪能できる湖東エリアの隠れスポットを特別に4箇所、2日連続でご紹介致します(^^)

今からでも辛うじて間に合いますし、来年への参考として頂くのも結構かと存じます。

◆延寿禅寺
 (彦根市稲里町)

荒神山

まず最初に彦根エリアから1箇所。彦根市の中西部、琵琶湖岸沿いに一際大きな山容を誇るのが、標高284mの独立峰・荒神山(こうじんやま)。

その南麓に臨済宗永源寺派の古刹・延寿禅寺(えんじゅぜんじ)が あります。少し奥まった場所に位置し、幹線道路からも離れているので、『隠れ里』感たっぷりの名刹です。

延寿禅寺の竹林と紅葉

『竹林と紅葉の山寺』と銘打つ寺院だけあって、 さすが 二者のコントラストは絶景です。おまけに山に囲まれていることもあって喧騒は全くなく、木々の枝葉を抜ける風の音しか聞こえません。

延寿禅寺の紅葉

おまけに参道の階段は苔生して、とても趣があります。少し贔屓目かも知れませんが、京都の古刹の特徴(※枯山水を除く)を全て凝縮したような雰囲気を醸し出しているように思います。

延寿禅寺の竹林と紅葉ライトアップ

なお、こちらでは地域の町おこしの一環として紅葉のライトアップを実施されています。12月1日(日)まで夜の竹林と紅葉のコントラストを楽しめます。

荒神山神社里宮参道の紅葉
荒神山神社里宮参道の紅葉

ちなみに延寿禅寺から麓沿いに東へ車で約5分の場所に、荒神山神社里宮があります。こちらの参道の紅葉もおススメです。近くはドングリの木がたくさん自生していますので、お子さんの『ドングリ狩り』にも如何でしょうか(^^)

◆猪子山公園/北向岩屋十一面観音
(東近江市猪子町)

猪子山公園の紅葉
猪子山公園の紅葉

旧能登川エリアから1箇所、こここそ地元の方のみぞ知る裏スポット。JR琵琶湖線・能登川駅から南方へ約1km、標高268mの猪子山(いのこやま)にあります。

猪子山公園は麓に、北向岩屋十一面観音(きたむきいわやじゅういちめんかんのん)は山頂に、その他山中には100基を超える古墳と巨石祭祀の遺構が点在します。

北向岩屋十一面観音

クルマで登れる林道もありますが、狭くて傾斜がキツく、おまけにヘアピンカーブの連続となっておりますので、ドライビングテクニックに自信のない方には余りおススメ致しません。

北向岩屋十一面観音からの眺望
北向岩屋十一面観音からの眺望

北向岩屋十一面観音から望む琵琶湖の眺望は圧巻です。加えて周辺の山々の紅葉も一望できます。 手前に見える湖は“伊庭内湖(いばないこ)”です。

ちなみに地元のアベック・・・いやいやカップルが夜景を楽しむスポットになっている・・・らしいです(*^_^*)

小生が出向いた際は、紳士1人☓2回&淑女2人組☓1回とすれ違っただけでした(^^)

◆ご注意◆
何れのスポットも訪問に際し何かしらの“難点”がございます。決してご無理をなさいませんよう、くれぐれもお気を付けあそばせ<(_ _)>

それでは、続きは明日。乞うご期待(^^)v

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知られざる滋賀近現代史“彦根自衛隊機墜落事故”



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今から50年前のこと。1970(昭和45)年9月2日午後2時10分頃。彦根市金剛寺町の市道に、突如として上空から4トン足らずの鉄塊が落下。轟音とともに猛炎が襲い、周囲は炎熱地獄と化す未曽有の大事故がありました。

彦根自衛隊機墜落事故。皆さん、この出来事をご存知でしょうか?

彦根自衛隊機墜落事故(当時の新聞記事)

先日偶然新聞でこの事故について触れた記事を目にしたのですが、当時小生は未だ乳児で。当然記憶などあろうはずがありません。母に確認してみますと「確かにそのような事故があったが詳しくは知らない」とのことでした。

近現代の滋賀に於いてこれほどの規模の航空事故は、現時点で他に記憶がありません。にもかかわらずその事実は忘却の彼方に押しやられている。小生のスタンスは『教科書に載らない歴史の継承』。早速当事者の方に当時のお話を伺って参りました。

航空自衛隊 三菱 MU-2S 救難捜索機(事故機と同型)

1970(昭和45)年9月2日午前10時08分 。航空自衛隊 新田原(にゅうたばる)救難隊所属の三菱MU-2S救難捜索機(機体番号03-3207)は、有視界による航法訓練のため、石川県にある小松基地へ向かうべく新田原基地(宮崎県)を離陸。

途中、機体の燃料補給と乗員の休息のため大阪の八尾空港に午前11時56分着陸。午後1時40分に八尾空港を発ち、一路小松を目指します。

離陸から間もない午後2時頃。米原付近の上空約3,500フィート(約1,070m)を飛行中、突然左側エンジンにトラブル発生。その後不安定な飛行を続け南下。何度も再始動を試みますが成功せず、徐々に高度が下がります。

現在の墜落事故現場付近

午後2時10分頃 、彦根市金剛寺町付近の上空で遂に高度が保てず降下。前方の家屋を避けるべく進路を変更するものの失速、回転状態となり、背面姿勢で民家の屋根に接触。機首下げ状態で市道に墜落、炎上。近隣の民家や倉庫3戸が全半焼。乗員4名(操縦士2名・機上無線員1名・整備員1名)が殉職するという大惨事となったのです。

大東亜戦争終結から25年しか経過しておらず、 未だ旧日本軍へのアレルギー感情も少なからず残ることから、今と異なりメディアも市民も『軍隊』としての自衛隊に対する風当たりは実に強いものでした。加えてMU-2Sが航空自衛隊に正式採用、配備されてから僅か3年で墜落事故を起こしたことで、関係者の苦悩も如何ばかりであったかと拝察します。

自衛隊員4名が殉職されたことは誠に残念至極ではありますが、民間人に犠牲者が出なかったことが唯一の救いです。

今回流石に取材で宮崎を訪れる訳にもいきませんので、当時中学生で自宅が全焼してしまった川村宏さんに色々とお話を伺うことが出来ました。

「当日は全員留守をしていたので助かった。学校から帰宅したら自宅は黒い骨組みだけ。周囲は流出した油(航空燃料)の臭いで凄かった。国からの補償の折衝はシビアで、記録として残していない家宝や家財に関してはほぼ認められなかった。また再発防止のため航路の変更も求めたが検討の余地もなかった。今と違って、当時は被害者といえども国に楯突くような雰囲気ではなかった。両親は同じ場所に自宅を再建したが、周囲から『補償金で棚から牡丹餅』的に好奇の目で見られ、とても嫌な思いをした」と語ってくださいました。

墜落事故慰霊地蔵尊

川村さんの父・清さんは、自宅再建時に殉職した隊員の慰霊のために地蔵尊を安置され、20年前に宏さんに代替わりされた後も、盆や正月の供物や日々の献花を続けておられます 。

清泰山誓念寺

また残念ながら遺族の高齢化で事故関係者との交流は約30年前に途絶してしまいましたが、現在でも事故の9月2日には集落の寺院・ 誓念寺と合同で慰霊の法要を行っておられます。

去る5月26日。新田原救難隊は隊長の河野敬人二佐以下3名が川村さんと誓念寺のもとを訪れ、長年に亘る慰霊を労い感謝状を贈呈されました。過去の事故に関する慰霊状況の調査を進めておられた救難隊総括班長の山口達也三佐は 、「機体の運用に教訓を遺した事故だった。長年の慰霊に感謝するとともに、今後はこの繋がりを大切に守っていく」と語っておられたそうです。

■ 航空救難団  新田原救難隊活動報告

新田原航空救難隊による事故検証報告書

事故の検証結果で搭乗員は最悪のコンディションの中、市街地を避けるべく墜落の瞬間まで必死の努力を続けていたそうです。米原付近を北上していた機体が片肺飛行でいきなり南下し始めた原因は判然としません。ですが両翼に装備された77ガロン(約285リットル) 増槽が満載状態であったことからも、片発では最大装備重量下でバランスを大きく崩し、正常飛行に耐えられなかったこと。もしかすると操縦系統にも異常を来していた可能性も推察されます。

この事故を教訓に、悪天候下での飛行時には燃料積載量の低減等の安全策が講じられたそうです。因みにこの事故以降、 MU-2Sが退役する2008(平成20)年10月22日までの間、航空自衛隊でこの機種は3度も墜落事故を発生させました。彦根の事故を含め、16名の尊い犠牲を払っています。

航空自衛隊 ブリティッシュ・エアロスペース U-125A 救難捜索機

現在MU-2Sの後継として、1994(平成6)年からブリティッシュ・エアロスペースU-125Aが運用されています。特に悪天候下では抜群の飛行性能を誇ることから、これまでの事故の教訓を十分に活かしての選択なのでしょう。

事故は加害者も被害者も、そして周囲にも『不幸』しかもたらしません。この件に限らず、小生も先人の尊い犠牲によって培われた教訓を真摯に受け止め、学び実践せねばならないと改めて痛感した次第です。

今回の取材に全面的にご協力戴きました川村宏氏に、この場を借りまして厚く御礼申し上げます。

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【即位礼正殿の儀特別企画】帝を魅了した禁断の果実“むべ”の伝説

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

今回は即位礼正殿の儀を目前にした特別企画と致しまして、帝を魅了した禁断の果実むべについてのお話を致したいと存じます。

決して “ベム”ではございません。今回は小ネタの類(妖怪人間モノ)ではありませんのでご安心を(^^)

さて、近江八幡界隈の湖岸道路、長命寺川に並走する辺りで、このような看板を見かけたことはありませんか?『むべ狩り』・・・“むべ”を狩る??そもそも “むべ” とは何ぞや???

むべ狩り

“むべ”とは植物の名前です。

別名「トキワアケビ(常盤通草)」とも呼ばれ、その他「ウベアケビ」「ムベアケビ」「本アケビ」「カラスアケビ」などとも呼ばれます。 「エビカヅラ」との異名もありますが、これは全く異なる植物になります。

むべ

かいつまんで申しますと「アケビ」の仲間です。“アケビ”と言われましても現代っ子には馴染みがほとんど無いと思いますが、ご年配の方々にはその名を聞いて懐かしさが込み上げてくるのではないでしょうか。

植生は蔦(つた)のように他の木に絡まって上に伸びます。5月頃に白色または淡紅色の花が咲き、10月後半から11月初旬頃に果実が実ります。実は長さ8cm程度の楕円形で、熟すると紫色になり、内部には乳白色の粘りのある甘い果肉と黒い種子があります。

さて、その果実に何故むべという名が付いたのか。その理由は今から約1340年前に遡ります。

都が大津に遷された頃のこと。ある日、時の帝・天智天皇(てんじてんのう)は蒲生野で遊猟していた際、奥島(現在の近江八幡市島町・北津田町付近)に立ち寄ります。

天智天皇

そこで珍しく長寿で男の子を8人も育てた老夫婦に出逢います。天皇がその老夫婦に「おまえたちの長生きの秘訣は何か?」と尋ねますと、老夫婦は「此処にはこのような珍しい果物があるのです」と天皇にその実を差し出したのです。

すると天皇はその実を見て、「むべなるかな(如何にももっともなことであるな)。このような霊力のある果物は毎年朝廷へ献上するように」と命じたそうです。

以後この果実は“むべ”と呼ばれ、この地域では毎年11月に朝廷へ献上するようになり、その代りに朝廷や幕府からの賦役(ふえき/農民が領主から課せられた労働と地代)を免除されたり、献上道中帯刀の恩典(ムベを献上する道中に限り貴族や武士でなくとも一行は刀を携帯してもよい特権)を受けたりしたそうです。

しかしこの特権に危機が訪れたこともありました。室町時代末期、幕府や地頭が財政に困り新税を課そうとしたのです。

これに対し奥島では、むべの供御人(くごにん/朝廷に属し天皇や皇族に山海の特産物といった飲食物や各種手工芸品などを貢納した人々のこと)が免除の前例を願い出たので許されたそうです。

大嶋奥津嶋神社

その後“応仁の乱”で世情が混乱し、一旦献上が中絶されてしまいますが、江戸時代に入り前例に倣って再開されました。献上行列の「むべ御用」には、十六八重表菊(菊の御紋)の役符、御紋入り提灯まで下付され、特別待遇されたそうです。

1878(明治11)年に明治天皇が北陸に巡幸された折、当時の滋賀縣令(けんれい/現在の知事)・籠手田安定(こてだやすさだ)がむべを献上し、

籠手田安定歌碑

大君に ささけしむべは 古き代のためしをしたふ

のまこころ

という歌を詠んでおり、現在大嶋奥津嶋神社の境内にその歌碑が建立されています。

むべの献上は1982(昭和57)年まで続けられましたが、伝説の老夫婦の縁戚と呼ばれ代々供御人を務めた家が転居してしまったため途絶してしまいます。

しかし大嶋奥津嶋神社の宮司・深井武臣氏を中心とした有志の方々の尽力により、2002(平成16)年より再開されました。

因みにむべ献上のルーツともなった天智天皇を祭神として祀る近江神宮(大津市)にも、1940(昭和15)年の創祀以来、毎年献上されています。

琵琶湖より奥島地区を望む

以前はこの地域一帯に沢山のむべが生い茂っていたそうです。一時期天然記念物にも指定され、近江八幡国民休暇村を通る旧湖周道路沿いに「むべの碑」が設置されていましたが、現在は撤去され存在しません。

近江八幡運動公園近くの津田内湖干拓地には町おこしの一環として「むべ棚農園」が造成されています。

毎年この時期になると“むべ狩り”が行われます。小生も皆さんに“露地栽培物のむべ”をご覧いただこうと現地に赴いたのですが、今年は酷暑の影響か11月初旬から開始とのことでした。

その後近隣の北津田町内を通っていましたら「むべに親しむ郷づくり」運動で、1995(平成7)年より始められた露地栽培のむべ棚を見つけましたので写真(記事前半部掲載)に収めてきました。地元ではムベを使ったお酒やお菓子も作られていますので、興味のある方は是非訪れてみてください。

なお、むべ狩りは事前予約制になっておりますので、詳しくは下記リンクの情報でご確認ください。

津田内湖畑作営農組合“むべ狩り”

さて来る10月22日には令和の天皇陛下が 正式に即位したことを日本国の内外に宣明する儀式『即位礼正殿の儀 』 が執り行われます。陛下にはこの霊験あらたかなむべを召し上がっていただき、末永くご活躍頂きたいものです。早速皇室に献上してもらいたいですね (^^)

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歴史に翻弄された歌枕“水茎の岡”の伝説(番外篇)


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に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

本来ならば、歴史に翻弄された歌枕“水茎の岡”の伝説シリーズは前後篇で完結する予定だったのですが、色々と調査をしている過程で奇妙なネタを発見しました。よって今回はその“ 奇妙なネタ ”を番外篇としてお届け致したいと存じます。

さて皆さん、神代文字(じんだいもじ/かみよもじ)というものをご存知でしょうか?

『広辞苑』等の文献によりますと・・・詳しく引用しますと頭がクラクラしますので、簡単に要約致します。つまり日本に漢字が渡来する以前の古代に使用されていたとされる文字、もしくは文字のようなものの総称です。どのようなものかと申しますと、以下の写真をご参照ください。

水茎文字

象形文字のような、ハングル文字のような、奇妙奇天烈な文字です。神代の文字の可能性として初めて言及したのは、鎌倉時代の神道家・卜部兼方(うらべかねかた)の『釈日本紀』 で、以降江戸時代にブームとなった尚古思想(価値ある生活は古代にあるとして、古代の文献・制度を模範とする中国の支配的な思想)の風潮もあり、当時多くの国学者により様々な神代文字が提唱・議論されました。

現代に於いてその真贋は定かではない・・・というよりは寧ろ、残念ながら『非存在説が有力』『オカルト信奉者の興味対象』とされています。

そのオカルトチックなものに、何と“水茎の岡”が関係するものがあるというから驚きです(それが先程の写真のモノ)。

大石凝真素美

それは水茎文字と 呼ばれる文字です。 以下はNPO法人地球ことば村様の記述を引用致します。

国学者・中村孝道(1818~1844)が音声の配列のために作り出し、後に大石凝真素美(おおいしごり ますみ/1832 ~1913)が天津金木学(あまつ かなぎがく)という独自の行法によって感得したという文字。天津金木は積木状の木片の 6 面を白・黒・青・緑・赤・黄に塗り分けたもの。この配列・運用によって森羅万象が表現できるばかりか、未来の予測まで可能になるという。「水茎」というのは木を組み合わせるという意味の「瑞組木」に、古語で筆・筆跡・書簡を意味する「みずくさ」をかけての命名である。 水茎文字には不思議な伝説がある。滋賀県近江八幡水茎町にある岡山の山頂から見下ろす琵琶湖は景勝地として知られ、「水茎の岡」として万葉にも登場する歌枕の地である。大石凝によると、天気のよい日にこの岡に登り、湖面をみるとそこに刻々現われては消える水茎文字(波紋)が観測されるという。

以上サイトの文面そのままを掲載致しましたが、「滋賀県近江八幡水茎町にある岡山の山頂 」という記述につきましては、「滋賀県近江八幡市牧町にある岡山の山頂」であることを指摘しておきます。

水茎の岡からの琵琶湖眺望

早速、水茎の岡に登って湖面を見渡してみたのですが・・・

山は結構な荒れようで、なかなか琵琶湖を望める場所もなく、ようやく見つけた箇所もこの有様。 文字が見えなかったのは、天候がいまひとつだったのか、或いは小生の研究者(?)としての精進の足りなさの為せる業なのでしょうか(苦笑)。

そんな様々なエピソードに彩られた、ここ“ 水茎の岡 ”。周辺で活発なウインドサーフィンも季節的にそろそろ一段落でしょうから、一度散策されてみては如何でしょうか。

■参考サイト NPO法人 地球ことば村

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