“後藤奇壹の湖國浪漫風土記”にようこそ

~近江の國は歴史の縮図である~

【湖國風土記寫眞】醒井川の梅花藻とサルスベリ滋賀の知られざる歴史、忘れ去られゆく民話、先人たちの偉大なる足跡を後世に伝える渾身の激白(?)徒然紀行。

生まれ育った近江國の風土をこよなく愛する土着民が、“滋賀の郷土史”を皆様に知って戴ければとの想いで書き綴っております。時折・・・しばしば(?)「彷徨」もございますが、ご高覧・ご笑覧賜れば幸いです<(_ _)>

 

※相互リンク大歓迎です。ご意見・情報承ります(^^)よりご連絡戴ければ幸甚です。

管理人:後藤 奇壹


園城寺夜話番外篇“懐かしさ溢れる菓舗 親玉商店”

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

 

今回園城寺界隈を歩いてみて、どうしてもあと1つご紹介したい場所がありまして、最後の最後まで取っておきました(^^)

 

親玉商店園城寺から琵琶湖疏水を抜け馬場町遊廓跡へと進む途中に、何やら懐かしさで溢れた佇まいを醸し出している和菓子店を発見!

 

お店の名前は親玉商店京阪電鉄・石山坂本線の三井寺駅より、南へ徒歩10分(約200m)の場所にそのお店はあります。

 

店構えが昭和30年代の雰囲気を醸し出していてexcellent!最近の小洒落た(笑)イマ風の店舗に馴染めない時代遅れの小生推薦の、絶対に立ち寄るべきお店です(^^)

 

人気のない店頭にソロリソロリと近づくと、店の奥は大量の蒸気で溢れています。どうやらお祝い事用の赤飯の炊き込みを仕込んでおられたようでした。

 

親玉商店の和菓子たち(1)こちらのお店は年配のご夫婦が切り盛りされているのですが、驚くのはショーケースに掲示されたプライスタグ。

 

度重なる光熱費や原材料費の高騰。おまけに消費税の増税と取り巻く環境は決して良いとは言えないにも関わらず、商品の大半が100円台前半という経営努力振りなのです。

 

だからといって、何かケチ臭いワケがあるのかと言えばそうではありません。

 

親玉商店の和菓子たち(2)どのお菓子も魅力的な色形をしており、広い世代に受け入れられるようとても素朴な味わいを提供されています。奥さん曰く、「周囲のお店は代替りや改装をきっかけに値段を大幅に上げはった。うちは昔からのお客さんを大事にしたいし、子供が気軽に買える値段が売り。決して楽や無いけど、元気なうちは頑張りたい」とのこと。

 

こういうお店が次々と消えていく寂しい世となった昨今。願わくは1日も長く頑張って戴いて、和菓子との素敵な出逢いを提供し続けて貰えれば思う今日此頃です。

 

親玉商店

・滋賀県大津市長等3丁目6-14
【TEL】 077-522-6807

 

(園城寺夜話、おしまい)

 

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園城寺夜話(12)“残照・馬場町遊廓”

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今回の園城寺夜話は、馬場町遊廓(ばんばちょうゆうかく)についてご紹介したいと存じます。

 

馬場町遊郭(1)西日本最大級の歓楽街としてその名を欲しいままにした雄琴(おごと)が大津に位置することは今でも多くの人が知り得るところ。

 

しかし、かつて大津に国内屈指の規模を誇る遊廓(ゆうかく/公許の遊女屋を集め周囲を塀や堀などで囲った区画)が戦後間もない頃まで存在したことは以外と知られていません。

 

この地に遊廓が設けられた確たる時期は判然と致しませんが、大津宿に隣接して、江戸時代初期に現在の長等3丁目辺りに整備されたものと思われます。

 

延宝6(1678)年に藤本箕山によって著された『色道大鑑』によれば、遊廓は全国で25箇所存在し、ここはそのうちの1つとされています。

 

とはいえ「東海道の宿場町・大津に隣接しているとはいえ、何故園城寺の門前町に?」という下衆な勘繰りをせずにはいられません。

 

馬場町遊郭(2)またこの界隈は柴屋町(しばやまち)とも呼ばれ、柴屋町遊廓とも称しました。

 

その他にも大津宿周辺には、真野(長等1丁目)・四の宮(京町3丁目)・稲荷新地(松本2丁目)にも遊里は存在しました。

 

ですが、井原西鶴の『好色一代男』にも登場するこの遊廓は、当時“東の吉原、西の柴屋町”とも言われる程の格式と隆盛を誇っていたようです。

 

街の東西南北の入口に大門を設け、最盛期には廓内に約30軒の遊女屋が存在しました。

 

馬場町遊郭(3)明治以降、芸娼妓解放令の発令、内務省令娼妓取締規則の制定、そして大東亜戦争後のGHQの公娼制度廃止と様々な規制が発せられるものの、バーやスナック、料亭などと看板を変え、遊廓はほぼそのまま赤線の通称で呼ばれて存続しました。

 

 

しかし、昭和33(1958)年4月1日に施行された売春防止法。昭和46(1971)年に開業したトルコ風呂(現在のソープランド)“花影”を皮切りとする雄琴温泉の風俗街化が、この花街の衰退を決定的なものとしてしまいました。

 

流石に江戸時代の建物は残っていませんが、近世から近代へと移行した時期の花街の情景を今でも色濃く残しています。

 

かつて大津スチームバスセンターというソープランドが存在し、花街の残り香的存在として君臨していましたが、近年廃業し、現在は料理屋が建っています。

 

馬場町遊郭(4)格式高い花街として隆盛を誇った馬場町遊廓も、都市開発の波に押され、そのよすがは今や風前の灯です。

 

遊廓・遊里・花街の話題はとかく忌むべきものとして排除されがちですが、かつての日本の文化の一端としてその足跡だけでも残して欲しいと思うのは小生だけではないと思います。

 

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園城寺夜話(11)“三井の晩鐘の伝説”

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今回の園城寺夜話は、三井の晩鐘(みいのばんしょう)の伝説についてご紹介したいと存じます。

 

園城寺鐘楼金堂の南東側に一際目を引く檜皮葺の立派な鐘楼があり、ここに巨大な梵鐘が吊られています。

 

この鐘は三井の晩鐘と呼ばれ、“天下の三鐘(日本三名鐘)”の1つに数えられています。ちなみに天下の三鐘とは“姿の平等院(京都府)”“銘の神護寺(京都府)”、そして“声の三井寺”の3つ。

 

特に園城寺のこの鐘は音色の美しさに大変定評があります。昨年12月25日に放送された、テレビ東京『世界!ニッポン行きたい人応援団』でも紹介された通り、海外にも熱狂的なファンが存在し、その評価や価値観は今やワールド・ワイドなものになりつつあります。

 

またこのことは古くは近江八景の1つとして、また平成8(1996)年に環境庁(当時)が制定した日本の音風景100選にも選定されていることからも実証されています。

 

三井の晩鐘天下分け目の戦い、関ヶ原の合戦後の混迷覚めやらぬ中の慶長7(1602)年4月21日。

 

三井寺第137代長吏・道澄の発願により、弁慶の引摺鐘の後継としてこれを模して鋳造されました。

 

重量は六百貫(約2,250kg)。除夜の鐘の百八煩悩に因み、上部には乳(ち)と呼ばれる108個の突起が施されています。

 

この三井の晩鐘にはとても哀しいお話が伝わっています(文献により多少内容が異なります)。

 

昔々滋賀の里に、1人暮らしの若い漁師が住んでおりました。とある春の夕べのこと。どこからともなくやってきた美しい娘が若者と一緒に住むようになります。炊事・洗濯・掃除と本当に甲斐甲斐しく働くので、二人は祝言を上げ夫婦となりました。周囲も羨むほど夫婦仲が良く、やがて二人の間には子供が産まれます。

 

三井の晩鐘物語(1)(『三井の晩鐘』所載)ところがある日のこと。妻が「実は私は琵琶湖の龍神の化身で、神様にお願いして人間にしてもらいましたが、もう湖へ帰らねばなりません」と言って泣き出し、止める夫の言葉も振り捨てて湖に帰ってしまいました。

 

残された子どもは母親を恋しがり、毎日激しく泣き叫びます。夫は昼に近隣でもらい乳をし、夜は浜に出て妻を呼び、三日に一晩の約束で乳を飲ませていました。]

 

しかしそれも束の間、妻は龍の世界の掟が厳しくなり乳を与えることが出来なくなったと言い、これをしゃぶらせるようにと自身の右目を差し出して姿を見せなくなってしまいました。

 

母親に貰った目玉をしゃぶると子供は不思議と泣き止むのですが、舐め尽してしまうのにそう何日も掛かりません。

 

三井の晩鐘物語(2)(『三井の晩鐘』所載)そこで夫は再び浜に出て妻を呼びます。

 

すると妻は左目も差し出します。盲目となってしまった妻は方角も解らなくなってしまい、悲しい上に家族の無事な姿さえ見ることが出来なくなってしまいました。

 

そこで妻は夫に三井寺(園城寺)の鐘を撞いて、 二人が達者でいることを知らせてくれるように頼みます。 夫は毎日鐘を撞き、湖に音色を響かせて妻を安堵させたといいます。

 

このお話は園城寺に、また滋賀に纏わる民話としても非常にポピュラーな一篇として語り継がれています。

 

似たようなお話は全国に存在しますが、夫婦愛、親子愛、そして家族愛を改めて考える契機となるよいお話です。

 

『三井の晩鐘』(小学館刊)また哲学者としてそして独自の視点から日本史を紐解く『梅原日本学』の権威として高名な梅原猛(うめはらたけし)先生も、昭和56(1981)年に絵本『三井の晩鐘』(小学館)を監修されています。

 

既に絶版となって久しいですが、滋賀を始め全国の図書館の蔵書として未だ閲覧の機会はありますので、是非読んで戴きたいですね。

 

 

 

 

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園城寺夜話(10)“新羅三郎の伝説”

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今回の園城寺夜話は新羅三郎(しんらさぶろう)の伝説についてご紹介したいと存じます。

 

新羅善神堂参道大津市役所・大津消防局の西手裏山に新羅善神堂(しんらぜんしんどう)と呼ばれるお堂があります。

 

・・・といつものフレーズで始めましたが、この写真をご覧ください。

 

今回のテーマである新羅三郎に纏わるメモリアルを取材するために遊歩道を分け入ったのですが、このように荒れた山道が複雑に入り組んでおり、また現在の園城寺の境内に当たらないため正確な地図もなく、接近には困難を極めました。

 

2回目にして悲願の到達成功!

 

再度すんなり訪問出来る自信が、正直ございませぬ(T_T)

 

新羅善神堂こちらが新羅善神堂。この辺りはかつて新羅の森と呼ばれていたようです(迷って当然!)。

 

前回ご紹介致しました護法善神(鬼子母神)と同様、園城寺の守護神の1つ、新羅明神(しんらみょうじん)が祀られています。

 

そもそもはこの地域の地主神であったと言われてる新羅明神。

 

園城寺との所縁は、円珍が唐から帰国の際、その船の船首に出現した老人が自身を新羅国明神と名乗り、「仏法で日本の民衆を救うための先鋒となるように」と告げられたことによると伝えられています。

 

源義光(新羅三郎)さて今回のお話の主役、新羅三郎とは?

 

新羅三郎とは平安時代後期の武将、源義光(みなもとのよしみつ)のことです。

 

むしろこの方の兄が歴史的にとても有名で、八幡太郎とも称し、源氏の祖先として英雄視され様々な逸話に彩られた人物、源義家です。

 

当時は守護神と定めた神の御前で元服した際に別名を与えられるのが流行りであったようです。

 

義光は三男で、新羅明神の御前で元服したことから、新羅三郎とも呼ばれました。

 

義光は弓馬の名手として知られ、後三年の役の際、長兄の義家が清原武衡・家衡に苦戦しているのを聞きつけ、朝廷に自ら援軍に出向くことを申し出ますが認められず、何と官位を辞してこれに参戦。兄と共に見事な勝利を収めたという情に厚い猛将でした。

 

源義光(新羅三郎)墓しかし義家の死後、源氏の実権を握ろうと野心を起こし、暗殺に冤罪と様々な策謀を画策。遂にはこれが世に明るみにされ失脚。鎌倉幕府開府までの間、源氏の凋落を招いた張本人となってしまうのです。

 

義光の墓は新羅善神堂近くの山間にひっそりと佇んでいます。いまや訪れる人も殆ど居ません。

 

しかし義光が新羅明神の御前で元服したことは、その後の園城寺と源氏との関係を強固なものにしました。

 

以降、幾多の兵火で数多くの堂塔を失う園城寺でしたが、その度に源氏所縁の人々に復興を後押しされたのがその証拠です。

 

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園城寺夜話(9)“千団子の伝説”

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今回の園城寺夜話は千団子(せんだんご)の伝説についてご紹介したいと存じます。

 

護法善神堂園城寺境内の東側中央付近に護法善神堂(ごほうぜんしんどう)と呼ばれる小さなお堂があります。ここには園城寺の守護神である鬼子母神(きしもじん)が祀られています。

 

メインの観光ルートから外れているためか、普段はとてもひっそりとしており、人気もありません。

 

何故鬼子母神がここに祀られているのかと申しますと、開祖・円珍(智証大師)が8歳の頃、突如として目前に鬼子母神が姿を現し、「仏法とあなたを護ってあげましょう」と告げられます。

 

その後、唐に修業へ赴いた際にも遭遇したため、園城寺創建の際一堂を建て祀ったことに由来します。護法善神、つまり法(仏法)を護る善き神、すなわち守護神なのであります。

 

護法善神立像(鬼子母神)鬼子母神は一般に女性の安産を叶え、また子供の健やかな成長を見守る女神として信仰されています。しかしその名の一部にある「鬼」の文字が表すように、本来の姿は信仰のイメージとは真逆の存在であったのです。

 

昔々、今から約2600前のこと。北インドの建陀羅国(けんだらこく/ガンダーラのこと)に半支迦薬叉(はんしかやしゃ/バーンチカとも)という武将がおりました。

 

その妻は大夜叉女で、自らは千人(一説には五百人または1万人とも)の子の母親でありながら、常に人間の子を捕えては食べてしまうため、多くの人々から恐怖と憎悪の念を一身に浴びていました。

 

この狂気の沙汰を見かねた釈迦は、人々とこの女を共に救済するため、彼女が最も溺愛していた末子・ピンガーラを隠します。女は半狂乱となり、世界中を七日七晩探し回りますが、見つけることは出来ません。憔悴し切った女は、助けを求め釈迦に縋ります。

 

すると釈迦は「お前は我が子が千人も居ながら、たった1人姿を消しただけで狂ったように探し回っている。ましてや人間は2人や3人しか子を持たぬのに、これを奪われれば親の悲しみは如何ばかりであろう」と女に説きました。女は深く懺悔して、これまでの罪亡ぼしに仏法を守護し、子供のない人には子供を授け、病気を癒し、一切の障碍から子供を守ることを誓いました。釈迦はピンガーラを女のもとに返し、柘榴(ざくろ)を食物とすることを教えたと伝えられています。

 

千団子祭【HN.風来さん 提供】毎年5月中旬(16~17日)、護法善神堂では千団子祭が執り行われます。千の団子は千人の子の供養のため、そして鬼子母神への供養として柘榴が供えられます。

 

祭礼当日は子供の無事成長にちなみ、植木市・苗市が開かれます。

 

また堂前の放生池では、生きとし生きるもの全ての生命を慈しむ放生会(ほうしょうえ)が執り行われ、子供の無事成長の願いを込めて、その子の名前と年齢を亀の甲羅に書いて池に放します。

 

この時ばかりは普段閑散とした境内も、多くの参詣者で賑わいます。

 

今回の記事作成に際し、資料をご提供頂きましたHN.風来さん、この場を借りまして厚く御礼申し上げます。

 

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園城寺夜話(8)“弁慶の引摺鐘の伝説”

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今回の園城寺夜話は弁慶の引摺鐘(べんけいのひきずりがね)の伝説についてご紹介したいと存じます。

 霊鐘堂金堂の西山手に霊鐘堂(れいしょうどう)と呼ばれるお堂があります。

 

ここには弁慶の引摺鐘と呼ばれる銅鐘が奉安されています。

 

無銘ですが奈良時代の作と言われ、国の重要文化財に指定されています。

 

弁慶とは皆さんご存知、源義経の忠臣・武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい)のことです。

 

武蔵坊弁慶その昔、同じ天台宗の寺院であった延暦寺と園城寺はとても仲が悪く、何かにつけ争いが絶えませんでした。

 

当時延暦寺で乱暴者として名の知れていた弁慶は、園城寺で散々暴れまわった後、あろうことかこの銅鐘を奪い取り、引き摺りながら延暦寺の大講堂まで運び上げてしまいます。

 

弁慶が早速この鐘を撞きますが、何と「イノー、イノー(関西弁で“帰りたい、帰りたい”)」と響くのです。

 

「そんなに園城寺に帰りたいのか!」と怒った弁慶は、園城寺目掛けて鐘を谷底へ投げ捨ててしまいます。

 

弁慶の引摺鐘この銅鐘の乳(ち/梵鐘特有のイボ状の突起)の擦り切れや傷痕・破目(はめ/割れ)は、その際の痕跡であると伝えられています。

 

またこの鐘は寺に変事がある際、その前兆として不可思議な現象が生じるのだとか。

 

良くないことが起こる時には鐘が汗を掻いて撞いても鳴らず、また良いことが起こる時には自然に鳴るのだそうです。

 

京都の将軍塚と似たエピソードですね(^^)

 

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園城寺夜話(7)“くじ山の伝説”

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今回の園城寺夜話はくじ山の伝説についてご紹介したいと存じます。

 

如意ヶ嶽(くじ山)子山カントリークラブの裏手、皇子山総合運動公園より西方に望む位置に標高472mの如意ヶ嶽(にょいがたけ)があります。

 

この山はもともと園城寺の寺領で、昔から山笹(クマザサ)が沢山自生していました。

 

 

同じく園城寺の寺領で隣接する南滋賀村と藤尾村ではこの山笹を水田の肥料に活用していましたが、いつも互いの取り分が原因で争いが絶えませんでした。

 

この状況に困り果てた園城寺は仲裁に入り、6月は藤尾村、後の11ヶ月は南滋賀村に伐採の権利を与えることに決めます。

 

山笹(クマザサ)しかし南滋賀村は繁茂期である6月を藤尾村に譲らねばならないことに猛反発。事態は一向に収拾する気配を見せません。

 

この状況にとうとう堪忍袋の緒が切れた園城寺は、伐採権を2村とも剥奪すると言い出します。

 

流石に伐採権を取り上げられてはかなわないと、互いに解決策を協議。

 

結果、くじによって伐採の権利を決め、それ以来この山のことをくじ山と呼ぶそうになったそうです。

 

さて、滋賀側から見たこの山は、これといった特徴のないどこにでもある容姿の山。

 

大文字山の送り火でも京都側ではその様相を一変させます。

 

そうこの山は五山の送り火で有名な大文字山なのです。

 

正確には如意ヶ嶽の西側支峰にあたりますが、同じ山でこうも趣が変わる山も珍しいと思います。

 

かつては京と大津を繋ぐ経路の1つとして重要な拠点として機能していましたが、現在はハイキングコースとして活用されています。

 

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園城寺夜話(6)“ねずみの宮の伝説”

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今回の園城寺夜話はねずみの宮の伝説についてご紹介したいと存じます。

 

十八明神社(ねずみの宮)四季を通じて園城寺きっての観光スポットである観音堂。そこへと通じる石段に差し掛かる参道から少し外れた場所に十八明神(じゅうはちみょうじん)と呼ばれる小さな祠が祀られています。

 

本来は伽藍(がらん/僧侶が集まり修行する清浄な場所)を守護する神様なのですが、 一般には「ねずみの宮さん」と呼ばれ親しまれています。

 

平安時代中期、白河天皇(第72代天皇/1053~1129)の御代のこと。

 

『新形三十六怪撰』三井寺頼豪阿闍利悪念鼠と変ずる図(月岡芳年)園城寺に頼豪(らいごう/1002~1084)という阿闍梨(あじゃり/弟子たちの規範となり法を教授する学徳に秀でた高僧)がおりました。

 

承保元(1074)年。当時修法の効験で知られていた頼豪に、白河天皇の皇子降誕を祈誓するよう朝廷より勅命が下りました。

 

まもなく祈祷の験あって、待望の長男・敦文(あつふみ)親王が誕生。

 

その報奨として念願の戒壇(かいだん/仏教において守るべき道徳規範や規則を授ける場所)道場建立の勅許を得ました。

 

ところが比叡山の横暴な強訴により勅許が取り消されてしまい、頼豪はこれに激怒。百日の行に入り、髭も剃らず、爪も切らず、断食して護摩を焚き続け、遂には護摩壇の炎に骨を焼いてしまい、とうとう二十一日(三十七日との説もあり)目にして命果ててしまいました。

 

ネズミの大群(イメージ)するとその怨念が鉄の牙・石の身体を持つ八万四千のネズミとなって比叡山へ押し寄せ、堂塔や仏像経巻を喰い荒らしました。

 

比叡山では一山の大徳が神通力をもって大猫となり、ネズミを喰い殺してようやく収まったといいます。以来、大きなネズミを「頼豪鼠」と呼ぶようになったそうです。

 

このお話は『平家物語』『太平記』にも所載されており、それぞれにストーリーが微妙に異なります。

 

またこの社はこの時のネズミの霊を祀っているため、北の比叡山の方向を睨んで建っているのだとも伝えられています。

 

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園城寺夜話(5)“天狗杉の伝説”

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今回の園城寺夜話は天狗杉(てんぐすぎ)の伝説についてご紹介したいと存じます。


太郎坊の天狗天狗と言えば京都の鞍馬寺を連想される方が多いかと思いますが、滋賀でも天狗にまつわるお話は各地に残っています。
また「天狗杉」と呼ばれる木も県内に点在しており、小生が確認出来たものだけでも、大津にはここ園城寺、そして比叡山に3箇所、石山寺、さらに長浜は木之本町田部の観音堂にもあります。

 

それだけ京都に負けじ劣らじ天狗との縁は深いのです。

 

さてお話を園城寺に戻しましょう。

 

金堂の南正面東側。そこに園城寺の天狗杉があります。

 

園城寺天狗杉根回り約7.5m、目通り周囲約4.0m、全高約20mのこの巨大な杉は地上間もないところで二股に分かれ、主幹先端部分は数度の落雷によって枯れた状態になっています。

 

しかし他の部分は健在で良く枝葉が茂り、全体的に端正な樹勢を現在でも保っております。昭和51(1976)年3月には大津市より、指定文化財と天然記念物に選定されています。

 

室町時代初期、相模坊道了(さがみぼうどうりょう)という僧が勧学院の書院で密教の修行をしていました。

 

ある夜のこと。同郷出身の了庵慧明(りょうあんえみょう)が相模國(現在の神奈川県)で最乗寺(さいじょうじ)を開創したことを聞き及ぶと、突如として天狗となり、書院の窓から飛び出しこの杉の上に止まります。 そして早暁に東の空に向かって飛び去りました。

 

最乗寺 御真殿【HN.珍念さん 提供】何とはるか小田原まで飛び、最乗寺に馳せ参じたと伝えられています。 その後了庵のもとで土木事業に従事し、五百人力を発揮しました。験徳著しく村人から慕われ、今も同寺の御真殿に祀られています。

 

また道了が修行していた勧学院には「天狗の間」があり、現在も遺徳を偲び最乗寺より参詣者が訪れています。

 

今回の記事作成に際し、資料をご提供頂きましたHN.珍念さん、この場を借りまして厚く御礼申し上げます。

 

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園城寺夜話(4)“村雲橋の伝説”

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今回の園城寺夜話は天台寺門宗の宗祖・圓珍(智証大師)にまつわる村雲橋(むらくもばし)の伝説についてご紹介したいと存じます。

 

圓珍(智証大師)まずはこれまでもちょこちょこ名前の出てきた宗祖・圓珍(えんちん)について簡単にご紹介致します。

 

最澄(伝教大師)が日本で開いた天台宗の僧で、讃岐國(現在の香川県)の出身。あの真言宗の宗祖・空海(弘法大師)の甥とも言われています。

 

平安時代初期に唐(中国)へ留学僧として海を渡ったことから、入唐八家(にっとうはっけ/最澄・空海を始めとする代表的な唐への留学僧)の1人に列しています。

 

わずか14歳で比叡山に入り、初代天台座主(てんだいざす/延暦寺の住職)・義真(ぎしん)に師事。853年、唐に留学し、天台山(天台宗の聖地)で天台宗の教義を本格的に学びます。その後、かつて空海が留学した長安(ちょうあん/唐の都で現在の西安市)にある青龍寺で密教を学び、およそ5年間の留学生活を終えて帰国します。

 

帰国後再び比叡山に戻りますが、868年、第5代天台座主に就任。859年、朝廷の許可を得て園城寺を再興し、ここを天台密教の道場として整備しました。これが現在の園城寺の始まりです。圓珍の死後、教義の違いから延暦寺と園城寺は一気に宗教的対立を迎え、朝廷の政治的な思惑も複雑に絡み、天台宗は約700年間の長きに渡り混迷の時代を歩むこととなるのです。

 

さて何処にでも存在することなのですが、開祖・宗祖にまつわる伝説というものは定番でございます。ここで圓珍ゆかりの代表的なお話を1つ。

 

村雲橋金堂から観音堂に向かう参道の途中、勧学院の美しい石垣の築地堀の手前に村雲橋(むらくもばし)と呼ばれる小さな石橋があります。

 

橋の下の川はとても小さいのですが、常に美しい水が流れています。

 

ある日のこと。圓珍がこの橋を渡ろうとした時、ふと西の空を見遣り大変驚きました。

 

かつて唐の長安で学んだ青龍寺が火事に遭っていることを察知したのです。 圓珍は早速真言を唱え、橋上から閼伽水を撒くと、橋の下から一条の雲が湧き起り、 西に向かって飛び去りました。その光景をその場にいた弟子たちはあっけにとられて、ただただ見とれていたそうです。

 

青龍寺(中国・西安)【西安觀光 提供】それから幾日か経ち、青龍寺より園城寺へ鎮火の礼状が送られてきました。

 

「当寺が火災に遭った際、大層お助け頂きました。お陰で重要な仏典が全て焼損することを免れました。厚く御礼申し上げます」と。

 

 

弟子たちは改めて圓珍の神変摩訶不思議な力に感動し、以来この橋を“ムラカリタツクモの橋”、村雲橋と称して、その徳をいつまでも忘れぬようにしたと伝えています。

 

今回の記事作成に際し、資料をご提供頂きました西安觀光様、この場を借りまして厚く御礼申し上げます。

 

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