日々是滋賀日和 “湖國浪漫風土記”にようこそ

~近江の國は歴史の縮図である~

本日天気晴朗ナレドモ浪高シ ~コロナに負けるな!~

【取材活動に於ける新型コロナウイルス感染拡大抑止に係る行動指針宣言】
令和2年4月15日 追補
令和2年11月1日 改訂

国内のみならず、世界的パンデミックの様相著しい新型コロナウイルス感染症。小生はこの拡大抑止に日本人としての良心と誇りに掛け、積極的に協力することをここに宣言致します。日本政府、厚生労働省並びに滋賀県が発出する最新の行動指針に則り、この感染症の動静を勘案したうえ、感染対策を徹底し、取材活動を行います。なお当面の間は原則取材活動を制限致しますので、令和1年12月までに取材したストックを中心に記事をお届けして参ります。これに伴い、更新の遅滞や時勢・時期との適時適切さに欠如する内容となる可能性がございますことをご容赦ください。ご心配をお掛け致しますが、何卒ご理解賜りますようお願い申し上げます。

滋賀の知られざる歴史、忘れ去られゆく民話、先人たちの偉大なる足跡を後世に伝える渾身の激白(?)徒然紀行。

生まれ育った近江國の風土をこよなく愛する土着民が、“滋賀の郷土史”を皆様に知って戴ければとの想いで書き綴っております。時折・・・しばしば(?)「彷徨」もございますが、ご高覧・ご笑覧賜れば幸いです<(_ _)>

※相互リンク大歓迎です。ご意見・情報承ります(^^)よりご連絡戴ければ幸甚です。

管理人:後藤 奇壹


甦れ!“アミンチュ”ボンネットバス顚末記~回帰篇

後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

“アミンチュ”ボンネットバスが令和に辿った数奇な運命、第3話“回帰篇”(5回シリーズ)をお届け致します。

このボンネットバスの誕生から2017年までの詳細な生い立ちは、以下のリンクの記事をご覧ください。

>>>さらば!愛しのボンネットバス

車体塗装作業①

2020(令和2)年3月30日。約40年間親しまれた赤・白・黒のトリコロールカラー。長年の風雨に堪え、随分と色褪せています。事故での損傷とも相まって、焦燥感が強く漂っています。

ふと村田さんは「もうこの塗色はいいんじゃないかな・・・」と思い、あることを企図されます。それは“原点回帰”。

ガラスや方向幕、灯火類をマスキングし、塗装作業の準備完了。工房には塗装専用のブースを併設していないため、露天もしくはピット内での作業となります。

車体塗装作業②

先程の原点回帰の企図とは、ペールグリーン地にミッドナイトブルーの帯を配した江若交通時代のカラーリングを再現すること。

村田さんは湖南圏育ちのため、馴染みのバスといえば近江鉄道(それも昭和カラー)。湖西エリアをフランチャイズとする江若交通とは縁も所縁もありません。当然のことながら、当初は登場時への回帰は全く念頭に無かったそうです。

しかし或る時。とあるボンネットバス愛好家のご重鎮より「そら~元の色、江若色にせな意味ないやろ~」との一言を掛けられ、すんなり得心されたとか。

とはいえ、昨今は何かと権利関連が厳しい時代。まずは筋を通さねばと、大津市真野にある江若交通本社を電撃訪問。丁度当年は江若交通創立100周年という節目の年でもあったため、この格好の機会に一縷の望みを託しました。

車体塗装作業➂

実は塗装変更を決意された理由がもう1つありました。

それはかつての彦根ご城下巡回バス時代のラッピングの痕。ガラス部分のラッピングの剥離は比較的容易なのですが、車体のラッピングはフィルムの粘着や塗装の日焼けで完全な除去は物理的に限界がありました。

加えてラッピング痕をそのままにしておくのは、前所有者との間でトラブルの原因ともなり兼ねませんでした。

ブルーメの丘ではこれに対処するため、別のラッピングを上から重ね張りしていた位ですから、ラッピングというのが何かとクセモノであることが伺い知れます。

車体塗装作業④

江若交通への電撃嘆願から約1ヶ月。残念ながら、現在同社の親会社である京阪ホールディングスからの許可が下りなかったとの回答がありました。

親会社から色よい返事が戴けないことを、村田さんはある程度想定されておられたとか。ですがその結果が却って、これまで全く馴染みが無かったにも関わらず、何故か余計に「100年続く江若さんをもっと応援したい」との気持ちを強くされたそうです。そして、このことを通じて江若交通との人的パイプが出来たことが大きな収穫だったと振り返られています。

「これは県民である私に、このバスの行く末を託された宿命に違いない」と。まさに孔子曰く、『五十而知天命、六十而耳順(五十にして天命を知る、六十にして耳順う)の境地ですね(笑)。

それはさておき、「さてどうしたものか・・・」

思案に思案を重ね、ある結論に至ります。それは・・・

車体塗装作業⑤

「忠実再現が不可能なら、オマージュ(原型に尊敬を込めた)スタイルにすれば良い!」

早速近似色の選定とカラーパターンの検討に入ります。そして5月のゴールデンウイークから、側面デザインに着手。その結果・・・

車体塗装作業⑥

アイボリー地にインディブルーの帯を配した、新しくも江若交通時代当時をも彷彿とさせるカラーリングに落ち着きました。

まさに“温故知新、ここに窮まれり”です(笑)。

車体塗装作業⑦

修繕中のフロント部分が隠れた後方からの1枚。1966(昭和41)年にいすゞの工場でロールアウトした当時は、こんな姿をしていたのかも知れません。

この塗装作業が行われていた時は、まさに世は新型コロナウイルス感染で全国的に非常事態宣言による自粛ムードの真っ只中。引き籠りを余儀なくされたのが、幸か不幸か却って作業に専念出来たとのことです。

さて、いよいよBXD30の再生プロジェクトも最終盤。この後、まさかの大きな障害が待ち受けていようとは、この時知る由もありません。

 【次回、“暗礁篇”へ続く】

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甦れ!“アミンチュ”ボンネットバス顚末記~躍動篇

後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

“アミンチュ”ボンネットバスが令和に辿った数奇な運命、第2話“躍動篇”(5回シリーズ)をお届け致します。

このボンネットバスの誕生から2017年までの詳細な生い立ちは、以下のリンクの記事をご覧ください。

>>>さらば!愛しのボンネットバス

エンジン換装②

2020(令和2)年1月19日。昨年末に部品取車から降ろしたエンジン。BXD30と同形式のDA640型・直列6気筒ディーゼルエンジンですが、こちらは後期型で5速ミッションに対応しています。

まずは手直し修正、清掃を行い、新車時に塗装されていた近似色で再塗装。まるで新造(!)のような輝きです。

部品取車解体

BXD30に多くの恵みを与えてくれた部品取車・TXD60は、再生支援の役割を終え、1月2日より解体作業を開始。

左ハンドル車であることがよく解る1枚。台車状態となり1900年代初期当時の自動車のような姿ですが、昔の車は武骨なまでにフレームがしっかりしています。

さぎっちょ(左義長)

ついにこの時を迎えました・・・解体作業最終日。翌日に点火を迎えるさぎっちょ(左義長のこと。地域によりどんど・鬼火とも。門松や注連飾りによって出迎えた歳神を、焼くことによって炎とともに見送るという小正月に行われる行事)の準備が、工房裏の田圃に設けられていました。

これも何かの思召し?・・・かと(笑)。歳神様とともにTXD60への感謝の気持ちも捧げることに。

有難うTXD60よ、永遠(とわ)に!

エンジン換装➂

1月31日。BXD30に新たな心臓を移植。換装作業は何時もの提携大型整備工場にて実施。

因みに5速ミッションへアップグレードという選択肢もありましたが、ここはオリジナルを踏襲して4速のままとしました。

ホイール修正①

2月22日。エンジン換装も無事に完了し、次はホイールの修正、清掃、塗装に着手。美しく塗装されたホイールには新品タイヤを奢りました。

ホイール修正②

『何時の日か私の想いを継ぐ“湖國人”の誰かが、このバスを引き継ぎ、何かしらの時に・・・』との思いから、日付と名前を記載。通常見えない箇所にそこはかとなく書いたとのこと。

神社仏閣の『開創〇〇〇年大修理』に携わる職人が、建物の大梁に掲げる祈祷札に込める想い・・・といったところでしょうか(笑)。

全部品仮組

2月27日。損傷部分の大まかな修繕を終え、各部品を仮組。往時の姿を取り戻しつつあります。あともう一息です!

 【次回、“回帰篇”へ続く】

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甦れ!“アミンチュ”ボンネットバス顚末記~邂逅篇

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彦根ご城下巡回バス

さて皆さん、この昭和レトロの魅力を凝縮したボンネットバスを覚えていらっしゃいますでしょうか?

2017(平成29)年10月29日の運行をもって彦根ご城下巡回バスを引退したいすゞ自動車BXD30型。このバスは1966(昭和41)年に江若(こうじゃく)交通の路線バスとして導入されて以降、半世紀以上唯一無二で滋賀を離れることなく活躍した、滋賀生まれ・滋賀育ち、生粋の“アミンチュボンネットバスなのです。

このボンネットバスの誕生から2017年までの詳細な生い立ちは、以下のリンクの記事をご覧ください。

>>>さらば!愛しのボンネットバス

さて引退後はその去就が注目されていました。ですが幸いにも滋賀農業公園ブルーメの丘で引き取られることとなり、最寄駅である近江鉄道・日野駅との無料シャトルバスとして再就職が決定。2018(平成30)年3月17日より、土・日曜日/祝日限定で1日3.5便の運行を開始しました。

ファミリー層に人気のアミューズメントスポットということもあってたちまち人気者となり、従前と比較して稼働率や運行距離も低減されたことから、ゆっくり余生を過ごしているものと思っていたのです。ところが・・・

今回は、その後“アミンチュボンネットバスが辿った数奇な運命のお話を5回シリーズでお届け致したく存じます。なお今回の記事執筆に際し、取材並びに資料提供に全面的にご協力戴きました二輪工房(守山市)代表・村田一洋様に、この場を借りまして厚く御礼申し上げます。

ブルーメの丘による運行開始から約1年3ヶ月後の2019(令和1)年6月29日。このBXD30にとって人(車?)生最大の危機が突如として訪れます・・・交通事故です。

事故車両現状

10月15日。これまでブルーメの丘と懇意にされてきた村田さんが、事故後のBXD30に初対面。見るも無残、満身創痍・・・他に言葉が見つかりません。この時何処からか『連れて帰って・・・』と声が聞こえたような気がしたそうです。

ブルーメの丘サイドとしては、復活運行のために様々な可能性を模索されたそうです。しかし修繕に要する費用と期間、その後の維持も含め総合的に判断した結果、手放さざるを得ないという結論に至ったとか。またこのバスには代々の所有者に課せられた約束事項として、『決して“滋賀から外に嫁がせてはならない”』という不文律の条件がありました。よって多方面から問合せが殺到したものの、既にBXD20というボンネットバスを所有・維持され、実績・信用・条件共に合致する村田さんにお声掛けされたそうです。

バス1台、個人で維持するだけでもかなりの負担です。それをもう1台、然も今回は再生作業という高い壁が重くのしかかります。でもこのBXD30には特別な思い入れもあります。大破したとはいえ、昨今のFRPや軽量鋼板を多用した車輛にあって、昔ながらのスチール製の頑丈な車体であったからこそ、この程度の損傷で済んだとも考えられます。村田さんは相当悩まれたそうです。

事故車両回送

10月19日。BXD30の譲受を決意された村田さんは、事故車輌を引取り回送。早速守山市の提携大型整備工場へ入場させました。日の下に晒されると、損傷箇所の痛々しさが際立ちます。

部品取車回送

11月4日。全国のバス愛好家の皆さんからの熱意溢れる協力・支援・情報提供により、四国(徳島県)で露天保管されていたいすゞTXD60トラックを部品取車として譲受。

日帰りで滋賀へ回送。BXD30のサスペンション(リーフスプリング/板バネ)のコンディションが予想外に悪く、急遽部品取車より足回り等を流用することとし、脱着・換装を提携大型整備工場で実施。その後、二輪工房へ自走により回送。後日部品取車も回送されました。

外装修正①

12月1日~12月22日。今回の再生作業の最大の肝である左側フロントフェンダーの仮組、修正等の作業を開始。部品取車より取り外した左側フロントフェンダー部を修正・仮組します。

この左側フロントフェンダー、ご覧の通り何時修繕されたものかは定かではありませんが、既に上部に一枚鉄板が貼られていました。それを剥離すると何と腐食だらけに大穴も開いており、まずはこの部分の修正に着手。車体との接続部の形状が全く合致せず、大苦戦を強いられます。

外装修正②

BXD30の修正不能となったフェンダーの一部分(黒色部)を切り取り、接合させてみることに。真横から見ると、それなりに見えます。大穴には鉄板を切り継いで修正。

外装修正➂

部品取車は特装車(散水車)という性質上左ハンドル仕様であったため、インナーフェンダー(フェンダーの内側を傷から守り、車内に泥が入り込まないようにするための内張り)の形状が通常と全く異なりました。

よって流用が効かないため、グニャグニャに曲がってしまっていた元のインナーを引っ張り出し修正しました。

外装修正④

その後、仮付けしたフェンダーとボンネットのチリ(隙間)を合わせるため、グラインダーで削ります。

この気の遠くなるような外装修正作業自体が、最後の最後で思わぬ大誤算を生む結果をもたらすとは、この時点で知る由もありません。

エンジン換装①

12月29日。大晦日迫るこの日、世間は令和初の正月を迎えんとするムードの中、村田さんは何とこのような重整備に着手。

この部品取車、露天保管で古いにも関わらず何と実走行7,000kmの超が付く程の掘り出し物。サスペンション同様コンディションの良くなかったエンジンも、BXD30に換装することを(年の瀬の押し迫ったこの時期に(笑))突如として決意&断行されることに。

ミッション(変速機)と合わせて約900kgの鉄塊と大格闘。取り外したところで2019年の作業は終了となりました。

ここで村田さんの名言。『大型車修理は体力と気力が勝負です!』

 【次回、“躍動篇”へ続く】

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湖國忠犬物語(後篇) “小石丸”の伝説

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

さて今回は、人間と古来深い繋がりを持つ犬、それも忠犬と呼ばれる選ばれし犬に纏わるお話の3回シリーズ最終幕をお届け致したく存じます。

先日お届け致しました小白丸のお話ですが、何と実は似て非なるお話・・・すなわち異説が存在するのです。

犬上神社(大瀧神社境内社)

ここは中篇でご紹介致しました小白丸勇戦の地に鎮座まします大瀧神社。その境内社に犬上(いぬかみ)神社があります。御祭神は稲依別王(イナヨリワケノミコ)。滋賀では伊吹山の白猪征伐で有名な、彼の日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の第一皇子にあたります。

大瀧神社の縁起によると、その昔稲依別王という若くて強い人物がこの辺りを治めていました。稲依別王は小石丸(こいしまる)という、これまた強くて賢い犬を大事にしていました。狩猟の度に必ず獲物を捕らえることから、小石丸の評判は近隣に知れ渡っていました。

ある時、稲依別王は村人が「川の上流に大蛇が棲みつき、また一人淵の近くで姿を消した」と訴えて、毎日恐怖に慄いていることを耳にしました。そこで早速小石丸を連れて、大蛇退治に出掛けました。

小石丸絵馬

ところが七日七晩も山中を探し回ったが、大蛇はおろか虫けら一匹出てきません。疲れ果てた稲依別王は、川沿いにある松の大木の根もとで眠りこけてしまいました。

するとその夜に限って、小石丸が激しく吠えたてました。稲依別王は何とか小石丸をなだめようとしますが、一向に泣き止もうとしません。立腹した稲依別王は腰の刀を抜くや否や、小石丸の首を刎ねてしまいました。

大蛇ヶ淵(犬上川)

すると小石丸の首は凄まじい勢いで宙を飛び、松の梢に消えました。しばらくして、ヒヒの頭とも思しきお化け大蛇が、淵へと落ちていきました。その喉元には小石丸の首が、しっかりと喰らいついていました。

何と小石丸は大蛇が松の梢から稲依別王を狙っていたことを察知し、主人に窮地を知らせるために吠えたてていたのです。

稲依別王は自身の短慮を恥じ、小石丸に心から詫びました。そして小さな祠を作って、小石丸を祀りました。それが大瀧神社境内社の犬上神社と伝えられています。

犬胴松(犬胴塚)

松の大木の近くには小石丸の胴体を埋め、ねんごろに葬りました。それが現在の犬胴塚と伝えられています。

犬上神社元社(小石丸祠)

そして小石丸の首を埋めたのが、犬胴塚より川の対岸にある現在の犬上神社元社(小石丸祠)と伝えられています。

この悲しくも凄惨な事件の舞台となった地は現在大蛇ヶ淵と呼ばれ、晩秋には紅葉の大変美しい景勝地となっています。かつてはその名に恥じぬ大瀑布でしたが、日本で最初の本格的農業用コンクリートダム・犬上ダムが上流に昭和21(1946)年12月に竣工したため、残念ながら放流時を除き、その激流ぶりを垣間見ることは出来なくなってしまいました。

その後、稲依別王は穀物神として信奉され、近江の地が穀倉地帯として発展していくうえでの拠り所となりました。

・・・と何時もならここでお話は“メデタシメデタシ”となるのですが、実はこのお話にも異説・・・即ち異説の異説が存在するのです。

お話のスジはほぼ同じですのでここでは省略致しますが、小石丸の飼い主が異なります。

『近江與地志略』に因りますと、飼い主の名は犬上君(いぬかみのきみ)。この人物、前述の稲依別王の末裔とされています。

犬上君は古代、現在の彦根市や犬上郡を中心に勢力を誇っていた豪族で、滋賀県下で墳丘の規模第2位を誇り、平成23(2011)年に国の史跡に指定された荒神山古墳(彦根市)の被葬者では?とも言われています。

子孫の犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)は小野妹子に次ぐ副使として遣隋使に参加し、後に遣唐使最初の大使も務めています。また御田鍬の子・犬上白麻呂(いぬかみのしろまろ)も遣高句麗使に任ぜられるなど、犬上氏が如何に古代日本に於いて重責を担っていたかが伺い知れます、

犬上君御館址傳説地

さて犬上君は現在の犬上郡豊郷町八目(はちめ)に居を構えていたと伝えられています。

犬上君は根っからの犬好きで、沢山の猟犬を飼っていたそうです。自身の短慮ゆえの結果とはいえ、小石丸を失った悲しみは深く、首を持ち帰り居館近くにねんごろに葬りました。

犬上神社(豊郷町八目)

それが。八目に鎮座まします犬上神社であると伝えられています。犬上神社の御祭神は、こちらも稲依別王。犬上君は特に農政に尽力し、実り豊かで肥沃な土地へと発展していきました。このことからこの地は「稲王(いなきみ)」と呼ばれ、後に「いねかみ」「いぬかみ」と訛って現在の地名になったと言われています(諸説あり)。

3回シリーズでお届けした湖國の忠犬物語ですが、蓋を開けてみれば「全ては繋がっている」という妙な結論となりました。どのお話が本筋なのかは定かではありませんが、ヒトとワンコの絆は古(いにしえ)より愛おしい程に強く結ばれていることだけは事実なようです。

大瀧神社(瀧之宮)/犬上神社・元宮犬胴塚大蛇ヶ淵

 滋賀県犬上郡多賀町大字富之尾1585
【TEL】0749-49-0004

犬上神社

 滋賀県犬上郡豊郷町大字八目41
【TEL】0749-35-8114(豊郷町観光協会)

犬上君御館址傳説地(犬上の君屋敷跡公園)

 滋賀県犬上郡豊郷町大字八目138
【TEL】0749-35-8114(豊郷町観光協会)

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湖國忠犬物語(中篇) “小白丸”の伝説

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さて今回は、人間と古来深い繋がりを持つ犬、それも忠犬と呼ばれる選ばれし犬に纏わるお話の3回シリーズ第2幕をお届け致したく存じます。

舞台は長浜から大きく南下致しまして、湖東エリアは犬上郡多賀町を訪れております。

その昔、この地に小白丸というとても利口な犬を連れた猟師がおりました。

瀧之宮(大瀧神社)

或る時、猟のため山に分け入り、瀧之宮(現在の大瀧神社)の辺りに差し掛かりました。

そして川沿いの岩陰(一説には木陰)で昼食を摂ると、そのままウトウトと寝てしまいました。

しばらくすると突然小白丸が狂気の如く吠え出しました。

小白丸(イメージ)

猟師は驚いて目を覚まし、身を起こして周囲を見回しました。しかし日差しは暖かく川音はのどかで、何ら変わったところはありません。

再び横になろうとしますが、小白丸は途端にけたたましく吠え立てます。

余りのしつこさに憤慨した猟師は、思わず山刀を抜き、何と小白丸の首を刎ねてしまいます。

すると小白丸の首は血煙を曳きながら宙に跳び上がり、猟師の頭上にある木の茂みへ と消えていきました。

大蛇の淵(犬上川)

すぐさま茂みから凄まじい音とともに、1匹の大蛇が現れました。何と小白丸の首は大蛇の喉元にしっかりと喰らいついていました。大蛇は苦しみのた打ち回り、やがて眼下の淵へと落ちていきました。

小白丸は自らの生命を賭して、猟師の危機を救ったのです。

犬胴塚

深い後悔と自責の念に駆られながら、猟師は小白丸の胴体を瀧之社の傍に葬り、目印に松の木を植えました。 やがて目印の松は大木となり犬胴松と呼ばれていましたが、今は枯れてしまい、幹の根元だけが残っています。

因みにこの小白丸。実は前回の記事で紹介した忠犬・目検枷(めたてかい)の子なのだそうです。血は争えないと申しましょうか、忠犬の子は忠犬と申しましょうか・・・最期も同じく壮絶であったというのは、何とも悲しいお話ですね。

大瀧神社(瀧之宮)

 滋賀県犬上郡多賀町大字富之尾1585
【TEL】0749-49-0004

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湖國忠犬物語(前篇) “目検枷”の伝説

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さて未だ先の見えないこのコロナ・パンデミックの渦中、巣ごもりライフ・スタイルの影響からか、現在空前のペットブームが巻き起こっていると聞き及びました。先日久し振りにとあるホームセンターのペットコーナーを覗いてみたのですが、販売価格が軒並み従前の1.5~2倍近くに跳ね上がっており、この感染症不況下に驚きを隠せませんでした。ある意味需給バランス下での健全な市場の反応とも言えるのでしょうが、『生命の価値』とは一体何なのだろうと違和感すら覚えた次第です。

さて今回は、その人間と古来深い繋がりを持つ犬、それも忠犬と呼ばれる選ばれし犬に纏わるお話を3回シリーズでお届け致したく存じます。

忠犬といえば言わずと知れた東京・渋谷駅前のハチ公があまりにも有名なのですが、滋賀にもそれに負けじ劣らじの犬がいたのですよ。

平方天満宮

前回、旧長浜市の豊國神社を訪れました。そこから旧北國街道を南へ約1.7km。琵琶湖に程近く、長浜大佛も仰ぎ見る位置に平方天満宮(ひらかたてんまんぐう)があります。

因みに天満宮の縁起に依れば、かつてここは犬神明神と称していたのですが、江戸時代に加賀國(現在の石川県)・金沢藩主の前田候(どの藩主かは不明)が道中往来の際、藩主の奨めにより菅原道真公を祭神として天満宮と改めたとのこと。どういう経緯でそのようになったのかは定かではありませんが、お殿様の気まぐれ(?)にも困ったものですね。

境内の北側に目を遣りますと、緑色の古めかしい案内板が視界に入ります。

犬塚案内板

犬塚と大きく表記されています。どうやらここが伝説由来の地のようです。

『平方名犬物語』に依ると、その昔、平方天満宮には毎年近隣の村から、1人ずつ娘を人身御供(ひとみごくう/人間を神への生贄とすること)に差し出すという風習がありました。

ある年のこと。村にとても豪気な男がいて、人身御供の輿を神前に置いて、いったい何者がこれを求めるのか見届けてやろうと、近くの大木に身を隠していました。

やがて夜も更け三日月も影を薄くした頃、社殿裏の湖岸が俄かに波立って、しばらくすると得体の知れぬ怪物が出現しました。怪物は暗闇の境内を何やらぶつぶつと言いながら通っていきます。どうやら「平方のメッキに言うな」とつぶやいていたようです。男は「メッキ」というものが、怪物の忌み嫌う対象であることを知ります。

目検枷(イメージ)

男は「平方のメッキ」とは何かを調べたところ、それは野瀬の長者の愛犬のことであることが判明します。愛犬の名は目検枷(メタテカイ)と言いました(文献により目見解とも)。名前の由来は解りませんが、漢字単体で見ると如何にも邪に立ち向かう雰囲気があります。

翌年の人身御供の日に男は長者から目検枷を借り受けると、神殿の陰で怪物を待ち伏せしました。やがて怪物が現れると、男は目検枷とともにものすごい勢いで飛び掛かり、見事怪物を仕留めました。

しかし目検枷も大きな傷を負い、男に看取られて息を引き取りました。この怪物は川獺(かわうそ)だったとも、猿であったとも言います。ともあれ怪物の死体には、激しい闘いを物語るかのように目検枷の鋭い歯の痕が幾つも残されていたそうです。

犬塚(目検枷墓)

この目検枷を葬ったのが、平方天満宮にある犬塚だと伝えられています。なお石柱で垣を巡らし、その中央に置かれた目検枷の墓とされる小さな石に触れ、その手で歯の痛むところを撫でると、その痛みが止まると言われています。たちまち歯医者さんに掛かれない方は、是非ご利益にあやかってみては如何でしょうか(笑)。

平方天満宮

 滋賀県長浜市平方町662

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秀吉と清正とのキズナアイ“虎石”の伝説

「後藤奇壹の湖國浪漫風土記」に、ようこそおいでくださいました<(_ _)>

引き続き「滋賀の伝説」を辿る旅にお付き合いください。今回は長浜市の旧長浜市エリアを訪れております。

長浜城

タイトルに“キズナアイ”と表記致しましたが、今回のお話と某バーチャルアイドルとは一切関連はございません。またおもむろに長浜城の写真を掲載致しましたが、今回お城には訪問致しません・・・が、全く関連がないという訳でもございません。さてさて・・・

今回訪れましたのはJR長浜駅東口から北に約200m。

豊國神社
豊國神社

閑静な住宅やビル群の中に豊國神社(ほうこくじんじゃ)があります。

名称から察せられるように、ここは神号『豊国大明神』を下賜された豊臣秀吉を主祭神としています。その他にも秀吉の家臣である加藤清正、木村重成。さらに事代主神(ことしろぬしのかみ、恵比寿神の別称)もお祀りしています。

羽柴(豊臣)秀吉
羽柴(豊臣)秀吉

秀吉が初めて城持ち大名となった地・長浜で崇敬を集めているということは、治世を敷いていた頃より如何に秀吉が庶民に慕われ愛されていたかが窺い知れます。

その豊國神社の境内にある瓢箪池の畔の築山の上に、注連縄があしらわれた大きな花崗岩が1つ、ポツンと鎮座しています。

虎石
虎石

これが今回のお話の題材である虎石(とらいし)です。

時は戦国時代。天正1(1573)年、小谷城の浅井長政を攻め滅ぼした羽柴(豊臣)秀吉は、その功により浅井氏の旧領である北近江三郡(伊香・浅井・坂田)を信長から与えられます。そして当時『今濱(いまはま)』と呼ばれていた地を『長濱(ながはま)』と改め、ここに居城を築きます。

築城の際、秀吉は庭園用に多くの珍しい形の庭石を探させていました。その中でも秀吉が幼少の頃より寵愛し、家臣団の中でも屈指の猛将であった加藤清正が献上した庭石を殊の外気に入り、この石を清正の幼名に因んで、虎之助の石虎の石虎石と呼んで大切にしていたといいます。

長浜御坊大通寺【滋賀県提供】
長浜別院大通寺【滋賀県提供】

秀吉が長濱の地を治めて30年。時代は目まぐるしく変化を遂げます。秀吉は天下統一を成し遂げますが60歳で逝去。その後天下分け目の戦い、関ケ原合戦を経て徳川家康が天下を取ります。

その間長浜城も例外ではなく、秀吉の後、堀秀政、柴田勝豊、山内一豊、内藤信成、内藤信正と城主が変わり、信正が摂津高槻藩へ移封となったのを最後に廃城となりました。当然虎石の存在が追憶の彼方に消えていくのも、想像に難くありません。

ただ彦根城築城の際に廃城となった長浜城から多くの資材が運び出されましたが、虎石だけは秀吉の寵愛が別格であったため、祟りを恐れて敢えて旧城内に残しておいたそうです。

さて湖北の中心道場であった総坊(そうぼう)を前身とし、徳川家康より浄土真宗の総本山・本願寺からの分立を許された後、旧長浜城内から現在の地へ長浜別院大通寺(ながはまべついんだいつうじ)が移転造営されることとなった時のこと。

東宝に望む伊吹山を借景とすることから名付けられた書院の東庭、含山軒庭園(がんざんけんていえん、国指定名勝の枯山水庭園)が築造されることになり、旧長浜城内から虎石も運び出されました。

大通寺含山軒庭園
大通寺含山軒庭園

するとこの石が大通寺の御連枝(ごれんし/貴人の兄弟を指した敬称)である智明院尼の夢枕に三日三晩立ち、「いのう、いのう(「帰りたい」の方言)」と泣き続けたのだとか。調べてみるとこの石は秀吉が寵愛した虎石であることが判明し、不憫に思った智明院尼は再び旧城内へ戻したのだそうです。

めでたし、めでたし・・・と普通はここでお終いなのですが、どうやらこのお話にはウラがあるようなのです。

長浜の船町に、イソップ寓話『羊飼いと狼』に登場するオオカミ少年ばりのお調子者の男がおりました。街中で怒鳴りながら大ぼらを吹いては、人が騒ぐ姿を見て面白がっていました。

或る時何を血迷ったか、この男大通寺にある虎石をもとの場所に戻そうと思いつきます。このことを周囲の者に話しますが、まともに取り合ってもらえる筈もありません。

すると突然逢う人逢う人に、「虎石が大通寺の御連枝様の夢枕に夜な夜な立っては、もとの地に戻りたいと訴えて御連枝様を大層困らせている」と、如何にも当事者の如く連日触れ回ります。

そのお陰か、この話は町中の噂となり、俄かに移転の検討が持ち上がり、とうとうもとの旧城内(豊國神社)へ戻されることが実現した・・・らしいのです。

果たしてどちらの『伝説』が“真説”なのでしょうか。どちらにせよ『伝説』の時点でウソもマコトも無いのでしょうけどね(笑)。

豊國神社

滋賀県長浜市南呉服町6番地37
【TEL】0749-62-4838

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幻の聖き清流“野路の玉川”の伝説

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引き続き草津の旧東海道をそぞろ歩いております。

さて皆さん。六玉川(むたまがわ)というものをご存知でしょうか?

本来“美しい”を意味する接頭語「玉」を川に付したもので、『玉川』は特に清らかな川を示すための称号でした。全国津々浦々に玉川と称する川が存在しましたが、その中でも取り分け六つの玉川が歌枕(和歌に詠み込まれる名所旧跡)にも起用され、高い知名度を誇っておりました。

六玉川は、皆さんご存知の武蔵國・調布(たづくり)の玉川(東京都・現在の多摩川)を始め、陸奥國・野田の玉川(宮城県)、山城國・井手の玉川(京都府)、摂津國・三島の玉川(大阪府)、紀伊國・高野の玉川(和歌山県)。そして滋賀にも野路(のじ)の玉川がその1つに数えられていました。

この六玉川は江戸時代、彼の歌川広重によって『諸國六玉川』として描かれています。因みに野路の玉川はコレです。

諸國六玉川・近江野路(歌川広重)

「東海道沿いにこのような“清らかな川”があったとは!」

ただ草津は都市化著しいエリアですから、流石に往時のまま・・・とはいかないにしても、せめて痕跡だけもと期待と不安を交錯させながら旧東海道を南下しました。

JR南草津駅から南に約1km。もうそろそろ到着しても良い頃だと思いつつも、周囲はマンションと住宅ばかり。旧東海道には間違いないのですが・・・。

不安に駆られ、念のため少し戻ってみました。よ~く目を凝らしながら歩いていると、公園らしき場所に1基の古い石碑を発見!

玉川歌碑

あすも来む 野路の玉川 萩こえて
いろなる波に 月やどりけり
 (千載和歌集)

平安時代後期の貴族・源俊頼が野路の玉川を題材に詠った歌が、玉川の名と共に確かに石碑に刻まれています。

野路は平安から鎌倉期に掛けて東海道の宿駅として栄え、特に源平争乱の折には源頼朝を始め、数多くの武将がここに宿陣しました。

近くを流れる十禅寺川からの伏流水が湧き出で、前出の歌にもあるように辺り一面に萩の花が咲き匂い、別称・萩の玉川とも呼ばれていました。その優美な風情は旅人の格好の憩いの場となり大層賑わったそうです。

この野路の玉川にはこのような伝説が言い伝えられています。

随分と昔のこと。京の御所では例年5月15日には伊勢の五十鈴川の水で小豆粥を作ることが習わしとなっていました。伊勢の神域の水は誠に尊く、不思議と小豆が程よく煮えたそうです。

ところがある年のこと。五十鈴川の水を汲むために使わされた者が京を出立し、勢多の唐橋を渡って野路に差し掛かったところ、玉川の余りにも清らかな水に目を奪われます。

野路玉川古跡(東海道名所図會)

その使者はあろうことか「伊勢まで赴かなくとも、この清らかな水を持ち帰れば事足りるではないか」と考え、玉川の水を五十鈴川の水と偽って御所に献上してしまいます。

案の定小豆は上手く煮えず、使者は厳しい詮議を受けた後、遠流の刑に処せられてしまいます。その使者は「あの玉川の水さえあのように清らかでなければ、このような憂き目に遭わずに済んだものを・・・玉川の水を汚れたものにしてやる」と逆恨みし、以後川の水は濁ってしまったといいます。

関ケ原合戦以降、宿場が草津に本格的に整備されると、次第に野路は寂れ、この名勝も廃れていきました。江戸時代後期に出版された『東海道名所図會』(とうかいどうめいしょずえ)には野路玉川古跡と表記されており、この時点で既に僅かな痕跡しか残っていなかったことが伺えます。

近代に入り玉川自体も消滅し、湧水はどぶ池のようになり、萩も枯れ、前述の歌碑だけが辛うじて往時を偲ぶ唯一の痕跡でした。これもあの使者の怨念が成せる業だったのでしょうか。

その後幾度か地元有志によりこの名勝の保存・復元が画策されますが思うように事は運ばず、人々の記憶から消えていくのも時間の問題でした。

古跡・萩の玉川

しかし野路町内会と有志が、地元の象徴とも言うべき由緒深きこの玉川を消滅させてはならないと立ち上がり、住民の総意でもって昭和51(1976)年11月に親水公園として復元が叶いました。

復元から18年後。公園の規模や池の取水等で問題が発生したため、草津市の協力を得て再整備。平成5(1993)年3月に竣工し、現在に至ります。

飽くまでも人工的に復元されたものですので、かつてのような自然的な清らかさからは程遠いのかも知れませんが、地元の方の地元愛がひしひしと伝わってくる・・・今はそのような場所になっています。

また玉川の名は地元の市立小・中学校、県立高等学校にも起用されており、これからも脈々と受け継がれていくことでしょう。

浄財弁財天(弁天池)

因みに古跡・萩の玉川から更に東海道を南下すること約500m。大きな池に小島が浮かぶ、ちょっとした景勝地があります。

弁天池と呼ばれるこの池は人工的に造られており、恐らく農業用の灌漑池ではないかと推察されます。ただ前出の東海道名所図會にも挿絵に描かれており、少なくとも江戸時代にはその存在が認められています。

小島には浄財弁財天が鎮座され、竹生島の弁天様が祀られています。そう言えば琵琶湖に浮かぶ竹生島に見えなくもありません。

この弁天池にも悲しい恋の物語が伝わっているのですが、それはまた別の機会にご紹介致したいと存じます。

野路町内会

滋賀県草津市野路5丁目8-3
【TEL】077-564-0644

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治部の無念此処に窮まれり“常善寺の松”の伝説

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久方振りに「滋賀の伝説」を辿る旅に戻って参りました。加えて小生には珍しく、湖南エリアの都市部にお邪魔致しております。

草津と言えば、かつては東海道と中山道の分岐点。現在はJR(旧国鉄)東海道線と草津線の分岐点。国道1号や名神高速道路も通る、名実ともに今も昔も変わらず交通の要衝としての役割を担っています。

JR草津駅東口を出て、旧東海道を南西に約800m。草津宿街道交流館の手前の交差点を西に向け約50m歩くと、やや近代的な瓦葺きの土塀が見えてきます。浄土宗滋賀教区教務所です。

その教務所の敷地内に、今回の伝説ゆかりの地である常善寺(じょうぜんじ)があります。

常善寺
常善寺

常善寺は奈良時代の天平7(735)年に奈良・東大寺の開山や大津・石山寺の建立にも尽力したとされる華厳宗の僧・良辨(ろうべん)によって創建されたと伝えられる、旧草津町最古の名刹です。

かつては堂塔伽藍も整い、室町時代には「草津御所」と呼ばれ、幾度か将軍の宿舎ともなりましたが、度重なる兵火や水害で現在の規模となってしまったとか。今は国の重要文化財に指定されている本尊の阿弥陀如来像と両脇侍(観世音・勢至菩薩)の三躰とともに、浄土宗滋賀教区教務所によって管理されています。

さてタイトルに『治部(じぶ)』と表記させて戴きましたが、歴史好きの方ならもうお解りですよね。そう、豊臣秀吉の治世に於ける懐刀にして、関ケ原合戦で西軍の実質的な総指令(総大将は毛利輝元)であった石田“治部少輔(じぶのしょう)”三成のことです。

石田三成
石田三成

徳川家康が治める前の江戸の領主であった太田道灌(おおたどうかん)の子孫である太田家に伝わる絵巻に因ると、次のように記されています。

慶長5(1600)年9月15日に勃発した関ケ原合戦で大勝利を収めた家康は、9月17日に石田三成の居城である佐和山城を総攻撃し、翌日陥落。その後大津城を目指して中山道を南進。9月19日にこの常善寺に宿陣します。

9月21日。敗走していた石田三成捕縛の報を受けた家康は大いに悦び、常善寺の住僧・一秀(いっしゅう)を召し、田畑50石を与えました。一秀の傍らに控えていた太田家の当主にも、草津の地の発展に尽力するよう直々に言い渡されたといいます。

太田家絵巻
太田家絵巻

その後江戸幕府が開かれ、3代将軍・徳川家光の命により太田家は草津宿の関守を代々務めます。そして幕末に酒造業を創業。湖國の代表的な清酒の銘柄の1つ、『道灌』の蔵元である現在の太田酒造へと至ります。

お話しを元に戻しまして・・・伊香郡古橋村(現在の長浜市木之本町古橋)で田中吉政の追捕隊に捕縛された三成は、すぐさま家康の居る大津城へと移送されます。途中一行は休憩のため、常善寺に立ち寄ります。移送任務の兵たちは寺のもてなしを受け寛いでいましたが、三成は境内の松に縛られ、寺僧が与える僅かばかりの水を飲んだだけでした。

縛り縄痕

三成が縛られていたという木には、今でも縛り縄痕と伝えられている痕跡がくっきり残ります。その出来事から420年の歳月が流れ、樹木の成長を考慮すれば有り得ない現象なのですが、これも三成の怨念の成せる業なのでしょうか。

常善寺での満身創痍の三成を、哀惜の眼差しで見つめる1人の若い娘がおりました。その娘は三成の若き日の忘れ形見。程なくして移送の一行は常善寺を出立。父を十万億土の旅へと誘う行列を見送るや否や、たまらず泣き崩れたといいます。

これより10日間、三成は人生で最も辛く、悔恨と汚辱にまみれた死出の旅へと旅立つのです。

10月1日。家康の命により京の六条河原で斬首。三成の豊臣政権を支えるという大望は潰えました。時を同じくして、常善寺で三成が縛られていた松が突然枯れ、葉が黄色くなり全て散ったといいます。

伝・常善寺の松(ムクノキ)
伝・常善寺の松(ムクノキ)

小生が現地へ取材に訪れた際、松の木を一所懸命に探したのですが、どうにも見当たりませんでした。「本当に枯死してしまったのかな?」とも思いましたが、それでもその痕跡や案内板の類すら存在しないのに当惑しました。

堪らず近隣の商店街の方にお話を伺うと、伝説の木は松ではなくムクノキだとご教授戴きました(この時、縛り縄痕のことも教えてくださいました)。

何がどうなって、似ても似つかぬムクノキが松と伝えられたのかは、今となっては知る由もありません。ただこういう歴史的根拠に乏しい伝説や昔話といった類のものは、時代の流れとともにこのようにして消え去っていってしまうのだなぁとつくづく実感しました。

常善寺

滋賀県草津市草津3丁目9番地7
【TEL】077-565-0529(浄土宗滋賀教区教務所)

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多可龍王との出逢いから拾年(後篇)

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引き続き、「多可龍王との出逢いから拾年」をお届け致します。

“高齢のその女性”と称するのも何ですので、ここはコーディネーターさんということに致します。そのコーディネーターさんのお話をまとめますと、このような結論と相成りました。

◆龍神様のお名前は『多可龍王(たかりゅうおう)』さん。
◆多賀大社の伊邪那美尊・伊邪那岐尊に仕える眷族。
◆古くから自宅のある地(かつての神饌田)の土地と水を守ってきた神様。
◆信仰心の厚い家に奉祀して貰いたいと長年考えておられた。
◆我が家の地鎮の折に、小生の父に奉祀を啓示したが気付いて貰えなかった。
◆小生に曇りなき信仰心が宿った時が、奉祀神託の契機であると考えられた。
◆アオダイショウの抜け殻は丁寧に畳み、奉書に包んで御神体とすること。

神棚に奉祀前の御神体

そして多可龍王さんは、次のように啓示なさいました。

★自身がお多賀さんの使いであるとはいえ、特別な奉祀を行う必要はない。
★奉祀の条件や生活上での厳しい戒律は、一部を除き原則問わない。
★自宅敷地内の真東にある古木を御神木として祀ること。
★今後とも身の丈を弁え、家族を守り、忘己利他で精進せよ。

以前庭師さんから、「この辺りでは珍しく庭の南天やマンリョウの樹勢がとても良いと」言われたのですが、それは水と土を司る龍神さんならではの加護だったようです。昨今の酷暑でも苔が何とか維持できていたのも納得です。

コーディネーターさん曰く、奉祀の条件のハードルがこのように低いのは極めて珍しいとのことでした。

御神木(羅漢槙)

奉祀を初めて10年。小生にも我が家にも色々なことがありました。

例の龍神奉祀に執心していた知人は、その後2体の龍神様を迎えることが出来、とても歓喜していました。ビジネスパートナーとして一時期協力もしましたが、奇妙な行動や理解不能な言動が目立ち、やがて小生を排除するようになり疎遠となりました。

人間社会と同じで神様の世界にも“格式”や“分相応”というものがあり、龍神奉祀者同士だからといって必ずしも相性が良い訳ではないようです。疎遠後知人が仕事で大成功しただとか、事業規模を拡大したといった話も全く耳にしませんので、奉祀と人生の狭間でそれなりに苦労はしているのでしょう。

小生は奉祀を始めて直後、約1年間の隠遁生活を強いられました。しかし家族や友人の絆のお陰で復活。或る夜、八幡大菩薩様が枕元に立たれ『そなたの望みは新たな段階へと移行した』と啓示なさいました(正直このような経験は人生初めてでした)。

そして全く縁のなかった医療・福祉の世界へ5年前に身を投じ、現在に至ります。龍神様を奉祀して大成功を収められている代表格として、日〇電〇の永〇会長が余りにも有名ですが、現在小生は決して(経済的に)裕福な暮らしをしておりません。

ただ悪いことは最小限に、良いことはささやかに、家族はアットホームに、仕事は相応に遣り甲斐をもって、日々平穏に感謝して暮らしております。それこそが私たちの奉祀に対する龍神様の“加護のカタチ”と信じています。

水の豊富な滋賀は、とりわけ龍神信仰の厚い土地柄。皆さんにもひょっとしたら龍神様との出逢いに恵まれるかも知れませんよ。

・・・因みに、『龍神様を奉じる者を貶める行為に及んだものは末代まで祟られる』というのも言わずと知れたお話。事実かく言う小生も、“守られている”とはいえ、その凄まじい制裁振りにただただ驚愕しております。人を貶めること、恩を仇で返すこと、悪事を働くことは当然人道上許されるべきことではありませんが、何も知らずに人を傷つけることで取り返しのつかない不幸に見舞われることもありますので、どうかお気を付けくださいませ。

3回に渡り、小生の身の上話にお付き合い賜りまして、誠に有難うございました。次回より“フツー”の記事に戻る予定でございますので、引き続き御贔屓の程宜しくお願い申し上げます<(_ _)>

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